真紅の休息と、夜闇の甘き対話
地下闘技場で三億ゴールドという破格の富を手に入れた一行は、色欲の国との国境に位置する中立都市で、最も豪奢な最高級宿屋のスイートルームを貸し切っていた。
部屋の中央には、天蓋付きの巨大なベッド。テーブルには極上のワインと果実が並べられ、暖炉の火が部屋を優しく照らしている。
これまで血と泥にまみれた過酷な旅を続けてきた彼女たちにとって、初めて訪れた静かで贅沢な夜だった。
だが、バルコニーの冷たい風に吹かれながら夜空を見上げるカノンの横顔には、微かな憂いの影が落ちていた。
神の国にいた頃からずっと見上げてきた、嘘くさい完璧な空。そして、その遥か高みから常に感じる、理パ不尽で巨大な悪意の気配。
(……あの女は、私の父親である『神の一柱』が、自らの手で母を惨殺したと言ったわ)
カノンの脳裏に、色欲の女神のねっとりとした声が蘇る。
母は、神以外の初めての種族であり、最強の吸血鬼だった。それほどの力がありながら、なぜ無抵抗で殺されたのか。
(もし、あの空から感じる巨大な悪意……『傲慢の神』が、私の存在を恐れ、赤子だった私を殺そうとしていたのだとしたら。……母は、私をあの神の目から隠すために、あえて命を差し出したのではないかしら)
点と点が、カノンの頭の中で不吉な線を描き始めている。
そして、今も神の国で命を削って結界を張り続けている、不器用な育ての親――怠惰の神。彼女もまた、傲慢の神の目からカノンを隠し通すために、あんな真似をしているのではないか。
「……私は、どれだけの犠牲の上に立っているの」
カノンが自嘲気味に呟き、細い腕を抱きしめようとした時だった。
「――カノン。湯冷めしますよ」
背後から、ふわりと温かい毛布が掛けられた。
振り返ると、上質なシルクのネグリジェを纏ったセラフィと、ゆったりとしたルームウェアを着たミアが立っていた。二人とも先ほどまで広い浴室で長旅の汚れを落としており、上気した肌から石鹸と、そして隠しきれない極上の『命の香り』を漂わせている。
「……二人とも。もう休まなくてよかったの?」
「あんたがこんなに寂しそうな顔してんのに、あたしたちだけゆっくり寝られるわけないでしょ」
ミアが呆れたように笑い、カノンの隣に並んでバルコニーの手すりに寄りかかった。湯上がりでほんのり赤らんだミアの肌。無駄のないしなやかな腹筋や腕のラインが、月光に照らされて妖艶な影を作っている。
「カノン。闘技場でのことなら、気に病む必要はありません。私たちはあなたの剣であり、盾。あなたのために戦うことこそが、無上の喜びなのですから」
セラフィもまた、濡れた白銀の髪を揺らしながらカノンの前に跪き、その冷たい白い手を恭しく両手で包み込んだ。
二人の瞳に宿っているのは、カノンに対する狂信的で、どこまでも重い愛情。
その温もりに触れ、カノンの胸の奥で張り詰めていた冷たい氷が、少しずつ溶けていくのが分かった。
「……ふふ。本当に、あなたたちは不器用で、愛おしい私の家族ね」
カノンは艶やかな微笑みを浮かべ、セラフィの手を引いて立たせると、二人をベッドへと誘った。
「今日は、あなたたちのその忠義と頑張りに、ご褒美をあげなくちゃね」
「ご、ご褒美……?」
ミアが首を傾げた瞬間、カノンがミアの細い腰を抱き寄せ、そのまま柔らかいベッドの上に押し倒した。
「ひゃぅっ!?」
「暴れないでちょうだい。……少し、お腹が空いたわ」
カノンの真紅の瞳が、妖しく、そして甘く細められる。
ミアの心臓が早鐘のように鳴り始めた。吸血鬼にとっての吸血は、単なる食事ではない。究極の愛情表現であり、魂を重ね合わせる神聖な儀式だ。
「あ、あの、カノン……あたし、まだ心の準備が……んっ、あぁっ!」
カノンの冷たい指先が、ミアの引き締まった太ももから腹筋のラインをなぞり、そのまま首筋へと這い上がる。抵抗しようとするミアの言葉は、首筋に突き立てられた鋭い牙によって、甘い嬌声へと変わった。
「はぁ……っ、あ、んんんっ……!!」
カノンの牙がさらに深く食い込むと、ミアの身体が弓なりに反り返った。牙から流れ込む吸血鬼の魔力と、血を吸い上げられる官能的な喪失感が混ざり合い、彼女の脳を真っ白に焼き切っていく。
「いい子ね、ミア。私の魔力で、あなたの隅々まで満たしてあげるわ」
「あぁッ、だめ、頭がおかしくなる……っ! くるしい、のに、すごく、きもちいい……っ」
酸素を求めるように喘ぎながら、ミアはカノンの背中に腕を回し、すがりつく。日々の鍛錬で培われたしなやかな筋肉が、快感に耐えきれずピクピクと妖しく波打つ。カノンの冷たい舌が傷口を舐め上げるたび、ミアはビクンッ、ビクンッと激しく身体を跳ねさせ、やがて極上の多幸感の波に飲まれるように、瞳からトロンと焦点が外れていった。
「ふぁ……カノ、ん……だいすき、カノン……」
最後はうわ言のように甘く呟き、ミアは完全に快楽に蕩けきって、幸せそうに意識を手放した。
「セラフィ。待たせたわね」
深く息を吐いて眠りに落ちたミアの額にキスを落とし、カノンはシーツの上で熱い吐息を漏らして待機していたセラフィへと向き直った。
「カノン……どうか、私にも……あなたを」
セラフィは自らネグリジェの襟元を大きくはだけさせ、雪のように白い首筋と、豊かな胸元を無防備に晒した。カノンはセラフィの黒い片翼を優しく撫でながら、その急所へと深く牙を沈める。
「あ……ぁあぁぁっ……!!」
高潔な天使の血は、ミアのそれとはまた違う、清廉でどこまでも甘い味がした。
「……素晴らしいわ、セラフィ。あなたの魂は、本当に美しい」
カノンが血を吸い上げ、そして自らの魔力を流し込むという『愛の循環』を行うたび、セラフィの理性が一瞬で溶かされていく。
「ああっ、カノン様……っ、もっと、私を壊して……あなたの、あなたの愛で……ッ」
普段の生真面目な姿からは想像もつかないほど、だらしなく蕩けた声。片翼の羽根がハラハラとベッドに舞い散り、セラフィは歓喜の涙を流しながらカノンの首筋に強く縋り付いた。
「壊したりしないわ。永遠に、私だけのものにしてあげる」
「あ、あぁ……幸せ、です……カノン、さま……っ」
究極の主従の交わりに心身を委ね、セラフィもまた、全身の力を抜いて深い陶酔の底へと沈んでいった。
二人の極上の血をすすり、代わりに自らの魔力を隅々まで分け与えたカノンは、血に濡れた唇を艶やかに舐めとった。
シーツの上で荒い息を吐きながら眠りに落ちた二人は、上気した肌を寄せ合い、これ以上ないほど満たされた表情で柔らかな寝息を立てている。
カノンは愛おしそうに二人の汗ばんだ前髪を避け、その両腕にすっぽりと抱きしめた。
(母様。あなたが命を懸けて繋いでくれたこの命……私は、こんなにも温かい者たちに出会えたわ)
もう、迷いはない。
この愛する家族と共に、どんな残酷な運命が待ち受けていようとも、すべてを蹂躙して真実を暴き出してやる。
カノンは静かに決意を固め、二人のぬくもりに包まれながら、深い眠りについた。
――翌朝。
潤沢な資金と、夜の甘い儀式で心身ともに完璧な状態に仕上がった三人は、高級馬車に揺られ、ついに『色欲の国』の入り口へと辿り着いていた。




