真紅の蹂躙と、甘美なる血の契約
ドクン、ドクン、ドクン。
カノンの体内で、今まで経験したことのない爆発的な鼓動が鳴り響いていた。
セラフィとミアから与えられた、ほんの数滴の血。それはカノンにとって、十七年の生涯で初めて口にする『真実の血』だった。今まで飢えを凌ぐために飲んできた泥水のような獣の血とは、根本的に何もかもが違う。
二人の少女の「生きたい」「救いたい」という強烈な祈りと、カノンへの不器用で巨大な感情。それが極上の熱となり、カノンの全身の血管を駆け巡り、眠っていた吸血鬼としての本能と魔力を完全に目覚めさせたのだ。
「あ、ああ……力が、溢れてくるわ……」
カノンは恍惚とした吐息を漏らし、自らの手を見つめた。彼女の周囲を取り巻く空気が、あまりの魔力密度に耐えきれず、パキパキと硝子のようにひび割れていく。
「な、なんだその悍ましい魔力は……っ!? 殺せ! その悪魔を今すぐ串刺しにしろ!!」
虚飾の司祭が狂乱して叫び、数千の信者たちが一斉にカノンへと殺到する。広場の上空では、虚飾の神の巨大な幻影が、彼女を押し潰そうと天を覆うほどの巨腕を振り下ろしてきた。
だが、カノンは冷ややかに微笑んだ。
「……遅いわ」
真紅の大鎌が、まるで指揮棒のように優雅に振るわれる。
刹那、世界が赤に染まった。
「――『血狂い(ブラッド・レイジ)』」
カノンの足元から放射状に放たれた深紅の斬撃波が、殺到する信者たちの波を、広場の石畳ごと一瞬にして塵に帰した。悲鳴すら上がる暇はない。圧倒的すぎる暴力。
さらにカノンは、そのまま空を蹴って一足飛びに上空へと跳躍する。
「虚飾の神。あなたは、私の母が殺されるのをただ陰で見ていただけの、惨めでちっぽけな臆病者よ」
「ヒィィッ……!?」
巨大な幻影の奥底に隠れていた、神の『本体』――醜く肥え太った赤子のような異形の存在が、カノンの真紅の瞳に見つかり、恐怖に顔を引き攣らせる。
「他人の威光を借りて、人間を騙すしか能のない偽物の神。……その嘘も、今日で終わりにしてあげるわ」
大鎌が空気を裂き、虚飾の神の本体を一刀両断にした。
断末魔の叫びと共に、街を覆っていたどんよりとした暗雲が晴れ、巨大な幻影も、洗脳されていた司祭たちも、泥のように溶けて消え去っていく。
圧倒的な無双。ほんの数分前までの絶望が嘘のように、広場には静寂が訪れた。
カノンは静かに地上へと舞い降り、大鎌を消散させる。そして、限界を迎えてその場に倒れ伏しているセラフィとミアの元へと、ゆっくり歩み寄った。
「二人とも、無茶をしたわね」
「カノン……お前、無事……だったか……」
「へへ……あたしたちの血、結構美味しかった……でしょ?」
全身傷だらけで、今にも命の灯火が消えそうな二人に、カノンは膝をつき、愛おしそうに彼女たちの頬を撫でた。
「ええ。とても美味しかったわ。……あなたたちは、私に血と命を与えてくれた。だから今度は、私があなたたちに血を与える番よ」
それは、誇り高き吸血鬼が、生涯をかけて愛し抜くと決めた者にだけ行う『眷属化』の儀式。
カノンはまず、虚ろな目をしたセラフィの首筋に、そっと唇を寄せた。
「セラフィ。あなたのその高潔な魂、私が永遠に護ってあげるわ」
「カノ……んっ……!?」
カノンの鋭い牙が、セラフィの白い肌に突き立てられる。痛みはない。代わりに、カノンの唇から、伝説のエリクシルにも勝る極上の魔力を帯びた『吸血鬼の血』が、セラフィの体内へと注ぎ込まれていく。
「あ……ぁあ……っ!」
セラフィの体が大きく跳ねた。高潔な天使の精神が、かつて経験したことのない圧倒的な多幸感と快楽に真っ白に塗り潰されていく。傷ついた片翼が光を帯びて再生し、全身の細胞がカノンの魔力に歓喜して粟立つ。主と魂が溶け合うような、甘く、重く、官能的な繋がり。
「あぁっ、カノン……もっと……私に、あなたを……っ」
涙を流しながらカノンにすがりつくセラフィを優しく抱きしめ、カノンは次にミアへと向き直った。
「ミア。あなたのその折れない強さも、美しい体も……すべて私のものにしてちょうだい」
「ちょ、まっ……あ、んあぁっ!?」
ミアのしなやかな首筋に牙が立てられる。日々の鍛錬で引き締められたミアの美しい腹筋や太ももの筋肉が、流れ込んでくる快感に耐えきれず、ピクピクと妖ましく痙攣した。
「ひぐっ、あ……なにこれ、頭がおかしくなりそう……っ! カノン、カノン……っ!!」
強気だったミアが、熱に浮かされたように甘い声で鳴き、カノンの背中に腕を回して強くしがみつく。ただの人間だった彼女の肉体が、吸血鬼の魔力によって再構築され、超常の力を得ていく。
互いの体温と吐息が混ざり合い、三人の少女は血の繋がりという、どんな運命よりも強固で甘美な契約によって、永遠の『家族』となったのだ。
「……可愛い私の眷属たち。これからは、ずっと一緒よ」
カノンは、恍惚の表情で眠りに落ちた二人を抱き抱え、満足げに微笑んだ。
これで、神の国にいる『怠惰の神』の負担も、少しは減らせるはずだ。
――だが。
虚飾の神が討たれたその瞬間、世界を覆う神々の法則に、微かな亀裂が走っていた。
はるか遠く、黄金に輝く広大な都。
その最奥にある豪奢な玉座で、退屈そうに頬杖をついていた美しい青年――カノンと同じ、真紅の瞳を持つ『強欲の神』が、ニィッと三日月のように唇を歪めた。
「あぁ……素晴らしい。感じたよ、愛しい私の妹」
青年は自らの唇を舐め上げ、恍惚と呟く。
「ついに『人間の血』の味を覚えてしまったんだね。父上が恐れ、母上が命を懸けて隠そうとした、その忌まわしくも美しい牙を……。さぁ、早く私のもとへおいで。君のすべてを、私が奪い尽くしてあげるから――」
最強の吸血姫の覚醒は、残酷な運命の歯車を、ついに回し始めてしまったのだった。




