茨の奥の鏡像、吸血鬼と神の戦い
『茨の扉』は、重く、触れるだけでカノンの白い肌を容赦なく切り裂いた。
だが、今のカノンに迷いはない。現実世界で自分を繋ぎ止めてくれている五人の家族の温かい血が、彼女の背中を強く押していた。
ギィィィッ……!
血塗られた手で扉を押し開けた先。
そこは、果てしなく続く鏡のような水面と、上下の概念すら失われた純白の虚無。無機質で完全な空間だった。
「……遅かったな、不完全なる我よ」
静寂の中、鈴を転がすような、けれど一切の感情を含まない冷徹な声が響いた。
水面の向こう側に浮かんでいた、カノンと全く同じ顔、同じ姿をした少女。
だが、その存在感は全く異なっていた。彼女が纏うドレスは漆黒ではなく、穢れを知らない純白と黄金。そして何より、カノンの象徴である『真紅の瞳』ではなく、感情を完全に排した無機質な『黄金の瞳』を持っていた。
「あなたは……私の、神格……」
「肯定する。私はお前の内に眠る『神の力』そのもの。人間としての脆い感情も、吸血鬼としての飢えも持たない、完全なる絶対者だ」
黄金の瞳のカノン(以下、神カノン)は、水面を滑るように浮遊し、冷たく見下ろした。
「母がかけたこの封印を解きたくば、お前が選んだその『不完全な吸血鬼の力』で、完全なる私を捻じ伏せてみせろ。……できるものなら、な」
「ええ。やってみせるわ……私の愛する家族の血にかけて!」
ズンッ!!!!
言葉が終わるか終わらないかの瞬間、二人のカノンの激突が始まった。
だが、それは剣と剣が交わるような、単純なものではなかった。まさに『異次元のバトル』。
二人の激突は、もはや物理的な「破壊」を通り越し、精神世界そのものを再構成する異次元の領域へと達していた。
「消滅せよ。不完全なる事象」
神カノンが虚空をなぞる。
それだけで、カノンが立つ足元の空間が「存在そのもの」を否定され、絶対的な無へと還る。触れれば魂ごと消えてなくなる、神の権能。
吸血鬼カノンは、直感と野生の反射神経でその空間消滅をコンマ一秒で躱す。
「……ッ! ミア、私に風を!!」
カノンは、現世の家族から受け取った「絆の血」を爆発させる。
ミアの神速を借りて、消滅する空間の「縁」を綱渡りのように駆け抜け、手にした真紅の大鎌を振るった。
「レヴィアの破壊、リンの絶技……! 喰らいなさいッ!!」
大鎌の一振りが、神カノンを護る「概念の防壁」を強引に引き裂く。
防壁が砕けるたびに、精神世界にはガラスが割れるような美しい音が響き、多色の魔力がオーロラのように乱舞する。
「無意味だ。お前が絆と呼ぶその執着が、お前を不完全なままに留めている」
神カノンの黄金の瞳が輝く。
無数の黄金の光槍が全方位からカノンを貫こうと迫る。カノンはセラフィの盾を具現化し、ノアの演算で最小限の動きでそれを捌いていく。
「ハァァァッ!!」
大鎌が空気を切り裂き、神カノンの純白の首筋へと迫る。
だが。
「無駄だ」
ガキィィィィィンッ!!!!
大鎌の刃は、神カノンの皮膚に触れる数ミリ手前で、見えない『概念の壁』に弾き返された。
「私の前では、あらゆる物理法則と魔力は意味を成さない。……『裁き』」
神カノンが初めて右手を軽く振るう。
すると、真っ白な空から何万本もの黄金の光剣が具現化し、狂ったような速度で吸血鬼カノンへと降り注いだ。一つ一つが、山を吹き飛ばすほどの超質量。
吸血鬼カノンは己の血を大気に撒き散らし、巨大な真紅の防壁を展開。最小限の動きで大鎌を乱舞させて、降り注ぐ神の剣を次々と弾き落としていく。
血飛沫が舞い、水面が爆発し、精神世界そのものが二人の力の衝突によって悲鳴を上げてヒビ割れていく。
だが、戦いが激化するほどに、カノンは不思議な感覚に包まれていた。
神カノンへ刃を向けるたび、自分の胸が締め付けられるように痛む。
逆に、神カノンが放つ冷徹な権能が自分の身を焼くたび、そこに込められた「孤独」と、自分を守ろうとする「母の愛」の重みを感じ取ってしまう。
「理解したか。お前がどれほど血を巡らせ、必死に汗を流そうと、私は『在る』だけで世界を支配できる。それが神だ」
神カノンは一切の表情を変えず、黄金の瞳で冷酷に告げた。
「その脆い感情が、お前を弱くしている。仲間などという枷を捨て、私と一つになり、純粋な神として覚醒しろ」
「……黙りなさいッ!」
息を乱し、肩で風を切る吸血鬼カノンが、真紅の瞳で神カノンを鋭く睨み抜いた。
「神の権能が『在る』だけで世界を支配するなら……私は、この命を燃やして、理屈ごと世界を喰らい尽くす!」
吸血鬼カノンは、大鎌を自身の胸に突き立てた。
ドクン、ドクンッ!
心臓から直接引きずり出した極大の血の魔力に、五人の家族の力が混ざり合い、巨大な真紅の竜巻が巻き起こる。対する神カノンの背後には、世界を容易く滅ぼせるほどの巨大な黄金の法陣が展開された。
神の静寂と絶対性に対する、吸血鬼の執念と命の爆発。
相反する二つの究極の力が、精神世界を真っ二つに割るように、激しく正面から激突しようとしていた――。




