遺される呪いと、優しき神の願い
暴食の神の切開された腹部から流れ出した強酸の胃液が、塔の最上階の石床をジュージューと嫌な音を立てて溶かしていく。
肉が焼け焦げる悪臭と、空気を震わせる暴食の神の狂乱の叫び声。酸の雨を浴びたカノンの純白の肌も所々焼け爛れていたが、吸血鬼の超常の治癒力ですぐに塞がっていく。だが、そんな肉体的な痛みなど、今のカノンには微塵も感じられなかった。
彼女の意識はすべて、酸の海から引きずり出し、腕の中に抱き抱えた『育ての親』に向けられていた。
怠惰の神の身体は、すでに下半身が魔力の粒子となって溶け落ちており、残された上半身も半透明に透けている。神としての『核』が暴食の神に吸収されかけているのだ。
「……っ、ハァッ……ハァッ……泣くな、カノン。……時間がない。よく、聞きな……」
怠惰の神の紫色の瞳が、カノンの真紅の瞳を真っ直ぐに捉えた。その声はひどく掠れ、一言発するごとに彼女の命が削られていくのが分かる。だが、その眼差しには、神としての確かな威厳と、母としての底知れぬ慈愛が満ちていた。
カノンは奥歯を強く噛み締め、ポロポロとこぼれ落ちる涙を拭おうともせず、ただ小さく頷いた。
背後では、四人の眷属たちが息を呑んで見守っていた。
高潔な天使であるセラフィは、神の命が尽きようとする凄惨な光景に唇を噛み締め、ミアは己の無力さに双剣を握る手を血が滲むほど強く握りしめている。レヴィアは主の悲しみに同調して声を殺して泣き、リンはただ祈るように両手を組んでいた。彼女たちは誰一人として、この神聖で残酷な別れの場に立ち入ろうとはしない。これは、カノンと怠惰の神、二人だけの時間なのだ。
「……この世界を創り出した諸悪の根源。あんたの父親であり、あんたの母親を殺した『傲慢の神』。……あいつはね、文字通り『絶対』なんだよ。神であるあたしたちでさえ、あいつの姿を直視することすら許されない」
怠惰の神の口から語られる真実。
「傲慢の神は、自らが創り出したこの完璧な箱庭で、唯一の『計算外』だった吸血鬼の力……つまり、神の法則に縛られないあんたの母親と、その血を色濃く引くあんたの底知れぬ素質を恐れた。だから、赤子だったあんたを殺そうとしたんだ」
「私を、恐れた……」
カノンは震える唇で反芻した。自分が存在しているだけで、世界を創った絶対神から命を狙われ続けていた。その理不尽な悪意から自分を隠し守るためだけに、母は命を落とし、そして目の前の怠惰の神は、己の命を削って永遠に結界を張り続けてくれていたのだ。
「……あいつを殺さなきゃ、あんたに本当の夜明けは来ない。でもね、カノン。あいつに辿り着き、その首を刎ねるためには……残酷な『条件』がある」
怠惰の神が、痛みに顔を歪めながらも、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「傲慢の神の力は、この世界を支える他の神々……『色欲』『虚飾』『暴食』『強欲』『憂鬱』『憤怒』、そして『怠惰』。あたしたちの存在そのものとリンクしている。……あいつを玉座から引きずり下ろすには、あんたのその手で、他の全神を殺し、世界を支える柱をすべて破壊しなきゃならないんだよ」
「全神を、殺す……」
カノンの息が止まった。
色欲や虚飾、そして目の前で暴れ狂う暴食の神のような、外道に堕ちた神を殺すことに躊躇いはない。だが、その条件の中には、受け入れがたい『例外』が含まれていた。
カノンは、すがるように怠惰の神の冷たい手を両手で包み込んだ。
「……待って。待ってよ。それじゃあ……」
「……そうさ。傲慢の神を殺すためには、育ての親である『あたし』も、あんたの手で完全に殺さなきゃならない」
ドクン、と。カノンの心臓が、恐怖と絶望で大きく跳ねた。
「嫌……」
カノンは首を横に振った。無敵を誇る最強の吸血姫が、まるで駄々をこねる迷子のように。
「嫌よ! そんなの、絶対に嫌!! あなたを殺すくらいなら、私はずっとこのままでもいい! 傲慢の神に怯えて暮らすことになっても、あなたがいなくなるよりはずっといい!!」
十七年間、嘘くさい完璧な空の下で、孤独だった彼女に唯一温もりを与えてくれた存在。その恩人を自らの手で殺すなど、できるはずがない。
「バカを、言うな……っ」
怠惰の神が、初めてカノンを厳しく叱咤した。
「あんたの母親が……命を懸けて繋いだ命だろ。……ここで諦めるなんて、絶対に許さない。……それにね、カノン」
怠惰の神の表情が、ふたたび激しい苦痛に歪んだ。半透明になった彼女の身体から、紫色の魔力がボロボロと剥がれ落ち、背後でうごめく暴食の神の胃液へと強制的に吸収されていく。
「……暴食の神は、まだあたしを完全には消化しきってない。……でも、もう、限界だ。……このままあたしが完全に奴の力に変換されたら、奴は文字通り無敵の化物になって、あんたも、あんたの可愛い眷属たちも……みんな、喰われちまうんだよ」
「……っ!」
「……カノン」
怠惰の神が、震える手を伸ばし、カノンの頬をそっと撫でた。
その手は、昔と同じように不器用で、けれど酷く温かかった。
「……痛いんだよ。……生きたまま溶かされるのは、ひどく……痛い。……面倒くさいことばかりの神生だったけど……最後くらい、あんたの手で、楽にしてもらいたいんだ……」
『最後はお前に、楽にしてもらいたい』
その言葉は、カノンの心に深く、鋭く突き刺さった。
脳裏に浮かぶのは、神の国での日々。
月に一度、吸血衝動の激痛に泣き叫ぶ夜。血を与えられない代わりに、夜明けまで一睡もせずに背中をさすり続けてくれた不器用な手。
『……勝手にしろ。あたしは寝る』
神の国から旅立つ日、背を向けて送り出してくれた、あの不器用な愛情。
私が彼女にできる最後の恩返しは、彼女の命を無理に引き延ばして暴食の神の胃袋で苦痛を与え続けることではない。
彼女の願いを聞き入れ、その魂を、神としての誇りが残っているうちに解放してあげることなのだ。
「……あ……あああ……っ」
カノンは、血の滲むような嗚咽を漏らしながら、ゆっくりと立ち上がった。
その手には、真紅の魔力を帯びた大鎌が顕現している。だが、神殺しの刃を握る両手は、かつてないほどに激しく震えていた。
「……ごめんなさい。……ごめんなさい、怠惰の神……」
大鎌を高く振り上げる。
真紅の瞳からは絶え間なく涙が溢れ落ち、世界がぐしゃぐしゃに歪んでいた。
「……ありがとう、カノン。……立派な、吸血鬼に……なったね……」
怠惰の神は、最愛の娘の涙に濡れた顔を見つめながら、最期に、心からの微笑みを浮かべた。
「ああああああああああああっ!!!!!」
カノンの慟哭が、暴食の塔を揺るがした。
振り下ろされた真紅の刃が、慈愛に満ちた神の残滓を、完全に、そして優しく両断した。
光の粒子が弾け、怠惰の神の魂は、暴食の神に吸収されることなく、カノンの真紅の魔力の中へと溶け込み、世界から完全に消滅した。
「……オォォォォォォォォォッ!!? 力が、俺様の力がァァァァッ!!」
怠惰の神の魔力供給を強制的に断たれた暴食の神が、激しい飢餓感と喪失感に狂乱し、無数の触手をカノンへと向けて振り下ろしてくる。
だが。
恩人を自らの手で殺めたカノンが、ゆっくりと振り返った。
その真紅の瞳は、もはや涙は枯れ果て、地獄の底よりも暗く、冷たい『究極の殺意』に染まっていた。
「……豚が。一秒でも長く生かしておいた私が愚かだったわ」
最強の吸血姫の、暴食の神への凄惨な蹂躙が、今、始まろうとしていた。




