開かれた胃袋と、手遅れの再会
ゴォォォォォォォォォォンッ……!!!!!
世界を終わらせるような、三度目の、最も巨大な『超消化』の音が塔全体を激しく揺らした。
「……あ……」
カノンの顔から、完全に血の気が引いた。
絶望の静寂が降りた塔の最上階で、大扉が重々しい音を立てて開き始める。
「ブフォォォォ……ッ! 素晴らしい、素晴らしいぞォ! ああ、なんという甘美なる魔力の奔流!!」
扉の奥から響いたのは、複数の声が混ざり合ったような、おぞましく濁った歓喜の声だった。
そこにいたのは、もはや人型すら保っていない、巨大な肉と脂肪と触手の塊――『暴食の神』の成り果てた姿だった。怠惰の神の莫大な魔力を吸収したことで、その巨体は塔の最上階を埋め尽くすほどに膨張し、皮膚の表面には無数の不気味な口が浮かび上がっては消えている。
「おお、暴食の神様! 消化が完了なされたのですね!」
扉の前に立ちはだかっていた最後の美食将軍、『暴将軍』が歓喜の声を上げて平伏した。
「ああ……力が、力が溢れてくる……! だが、足りない! まだ腹が減って仕方がないぞォ!!」
暴食の神の無数の口から、滝のように涎が降り注ぐ。
「さあ、神様! あそこにいる極上の食材どもをお召し上がり――」
暴将軍がカノンたちを指差そうとした、その瞬間だった。
「足りない、足りない、足りないィィィッ!!」
ズチュッ!!!
暴食の神の身体から飛び出した巨大な触手が、平伏していた暴将軍の身体に巻きつき、そのまま己の最も巨大な口へと放り込んだのだ。
「ブベェェェッ!? か、神様!? 私はあなたの忠実な――ギャチャッ、ゴリッ、ムシャァァァッ!!」
骨が砕け、肉がすり潰される悍ましい咀嚼音が響き渡る。自らの側近すらも食欲を満たすための餌としか見ていない、文字通りの『暴食』。
だが、カノンの視線は、そんな醜悪な神の姿には向けられていなかった。
彼女の真紅の瞳が見開かれ、釘付けになっていたのは――暴食の神の、半透明に膨れ上がった『腹部』だった。
ドロドロに濁った強酸の胃液が渦巻くその中に、紫色の長い髪を散らし、力なく漂う人影があった。
「……怠惰、の神……!」
カノンの唇から、悲痛な震える声が漏れた。
三度目の消化音が鳴ったものの、怠惰の神は己の最後の力を振り絞り、核となる魂だけを薄い結界で覆って、完全に溶かされるのをギリギリのところで耐えていたのだ。
だが、その結界はすでにひび割れ、彼女の身体の半分は魔力の粒子となって溶け出している。
『……カ、ノ、ン……逃げ、ろ……』
分厚い肉の壁越しに、口の動きだけでそう紡ぐのが見えた。
その瞬間。カノンの頭の中で、今まで彼女を縛っていた『冷静さ』という名の糸が、完全に、そして無残にぶち切れた。
「あ、あああ……アァァァァァァァッ!!!!!」
カノンの喉から、人間のものではない、獣のような、あるいは慟哭のような絶叫が放たれた。
その凄まじい魔力の爆発に、塔の天井が吹き飛び、分厚い壁に亀裂が走る。
「カ、カノン様!?」
「カノン!!」
あまりの覇気に、眷属である三人の少女たちすら息ができず、その場に膝をついた。
カノンの真紅の瞳は、もはや怒りを超え、絶対的な『死』を体現する虚無へと変わっていた。
「吐き出しなさい。私の、私の大切な人を……今すぐ吐き出せェェェッ!!」
ドンッ!!
カノンが床を蹴った瞬間、彼女の姿は完全に消失した。
「ンォォ? なんだ、ただの吸血鬼の小娘が……ッ!?」
暴食の神がカノンを捉えようと無数の触手を振り回すが、遅すぎる。
「――『血壊・死線』」
冷酷な死神の囁きと共に、暴食の神の巨大な腹部に、十文字の真紅の閃光が走った。
カノンのすべてを懸けた一撃は、怠惰の神の魔力を吸収して無敵の硬度を得ていたはずの暴食の神の分厚い肉壁を、まるで豆腐のようにあっさりと切り裂いた。
「ギ、ギィィィィィィヤァァァァァァァッ!!? 腹が、俺様の胃袋がァァァァッ!!?」
暴食の神が聞いたこともないような絶叫を上げ、切り裂かれた腹部から、大量の胃液と未消化の肉塊が雪崩のように流れ出す。
カノンはその酸の雨を全身に浴びるのも構わず、ドロドロに溶けた胃袋の中へと腕を突っ込んだ。
そして、今にも消え入りそうに漂っていた怠惰の神の身体を、力ずくで抱き寄せ、外へと引きずり出した。
「……怠惰の神! 怠惰の神!!」
カノンは酸で焼け焦げた己の肌の痛みなど無視して、育ての親を冷たい床に寝かせ、必死に呼びかけた。
だが、その姿は、あまりにも残酷だった。
怠惰の神の身体は、下半身から先がすでに完全に溶けて消失しており、残された上半身も半透明になり、光の粒子となって空気中に散り始めていた。
物理的な傷ではない。神としての『存在の核』が、すでに暴食の神に喰い尽くされ、分解されてしまっているのだ。
「……っ、ハァッ……ハァッ……おせーよ、バカ……」
怠惰の神が、微かに目を開け、いつものような気怠げな、けれどひどく弱々しい声で呟いた。
「……ごめんなさい、ごめんなさい……! 今、助けるから……私の血を飲んで!」
カノンはパニックになりながら、自らの手首を鋭い牙で深く噛み切り、溢れ出す極上の血を怠惰の神の口元へ押し当てようとした。
しかし、怠惰の神は、震える冷たい手でカノンの手首をそっと押し返した。
「……よせ。忘れたのかい……あんたの血の治癒力は、神であるあたしたちには『無効』なんだよ。……飲んでも、意味がない」
「そんな……! じゃあ、どうすれば……私の魔力で、無理やりにでも傷を塞いで……!」
「無駄だ。……あたしの魂は、もうとっくに消化されちまってる。……それに」
怠惰の神は、優しく、本当に優しく微笑んだ。
それは、十七年間、一度も見たことのない、母のように慈愛に満ちた表情だった。
「……昔から、そうだ。あんたが月に一度、血の渇きで泣き叫んでた夜も……神であるあたしの血は、吸血鬼のあんたには『猛毒』だから、与えてやれなかった。……ただ夜明けまで背中をさすってやることしかできない……本当に、不器用な親でごめんね……」
「あ……ああ……っ」
カノンの瞳から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちる。
自分の血では恩人を癒せず、恩人の血では自分を満たせなかった。交わることのない残酷な種族の理を呪いながら、最強の吸血姫はただの小さな子供のように、恩人の消えゆく身体にしがみついて声を上げて泣きじゃくった。
「泣くな、カノン。……時間がない。よく、聞きな……」
怠惰の神は、最後の力を振り絞り、残酷な世界の真実をカノンへと告げるために口を開いた。
それが、カノンに最も重い『呪い』と『使命』を背負わせることになると分かっていながら――。




