暴食の塔と、一の将の肉鎧
ゴォォォォォォンッ……!!!
第一の『超消化』の音が、美食の都の空を震わせた。
そのおぞましい重低音は、カノンの胸を直接鷲掴みにするような焦燥感をもたらす。
「急ぐわよ!」
カノンが大鎌を一閃し、天を衝く『暴食の塔』の分厚い鋼鉄の扉を紙細工のように粉砕した。
「あ、あたしも行くアル!」
突入しようとしたカノンの背中を追って、料理人の少女タオ・リンが巨大な中華包丁を握りしめて飛び込んできた。
「足手まといになるわよ、人間の小娘」
「小娘じゃない、リンアル! この街の食材はみんな暴食の神のせいで呪われてる! 料理人として、あんなゲテモノ神は絶対に許せないアル! あたしの『特級』の技、絶対役に立つアルよ!」
必死に食い下がるリンの真っ直ぐな瞳を見て、カノンは微かに口角を上げた。
「……勝手にしなさい。死んでも拾ってあげないわよ」
言葉とは裏腹に、カノンから漂う甘く気高い血の香りが、リンの恐怖をスッと拭い去っていく。リンは頬を赤らめ、吸い寄せられるように最強の吸血鬼の背中を追った。
塔の一階層は、血の池と巨大な肉の山が連なる、おぞましい解体所のようだった。
「ブヒィィィッ!! よく来たな、極上の前菜ども!!」
肉の山から飛び出してきたのは、全身を分厚い脂肪と筋肉の鎧で覆った巨大な豚の獣人――三人の美食将軍の一角、『肉将軍』だった。
「暴食の神様は今、『あの神』という極上のメインディッシュに夢中だ! お前らの血肉も細切れにして、神様の胃袋に放り込んでやるブヒ!」
「……あの人を、メインディッシュですって?」
カノンの瞳の温度が、絶対零度まで急降下する。豚の分際で、私の大切な人を下劣な餌扱いした。その事実が、彼女の逆鱗に完全に触れた。
「ミア、セラフィ。細切れにしなさい」
「「御意!」」
カノンの号令と共に、二人の眷属が神速で肉将軍へと肉薄した。ミアの双剣が将軍の腹を薙ぎ払い、セラフィの光の剣がその首を狙う。
だが――ガキンッ!!という鈍い音が響き、二人の刃は分厚い脂肪の鎧に深く食い込んだまま、ピタリと止まってしまった。
「なっ……刃が、抜けない!?」
ミアが驚愕する。
「ブハハハ! 無駄ブヒ! 俺様の『呪層肉鎧』は、あらゆる物理攻撃と魔力を吸収して反発する! そして、暴食の神様はすでに怠惰の神を半分消化し、その魔力があふれて俺たちにも供給されているのだブヒ!!」
肉将軍が腹の脂肪を膨張させ、ミアとセラフィを強烈な反発力で弾き飛ばした。
「くっ……!」
「ハッ、怠惰の神も情けないものブヒ! 神々から何かを隠すためか知らんが、自分の命をすり減らして結界なんて張っていたせいで、最後は反撃すらできずに丸呑みだブヒ!」
肉将軍が醜く嘲笑った、その時。
小柄な影が肉将軍の懐へと飛び込んだ。
「豚の解体なら、特級料理人のあたしに任せるアル!!」
リンだった。彼女は巨大な中華包丁を構え、武術の歩法で将軍の死角へと潜り込む。
「ブヒ!? 人間の小娘の包丁など、俺様の鎧には――」
「食材の『繊維』を見極められない三流が、料理を語るなアル!!」
リンの瞳が、特級の魔力で鋭く光る。彼女はただ力任せに斬るのではなく、肉将軍の脂肪の鎧が持つ『魔力の結び目』と『筋肉の繊維』の隙間を完璧に見切り、そこへ中華包丁の峰と柄を使った連撃を叩き込んだ。
ダダダダダダッ!!
「ブベェェッ!?」
「『特級奥義・点穴肉叩き(てんけつにくたたき)』アル!! これでどんなに硬い肉も、ドロドロのミンチと同じアル!!」
リンの放った武術と調理技術の融合技が、呪層肉鎧の魔力結合を完全に崩壊させた。弾力で刃を弾いていた脂肪が、ただの柔らかい肉塊へと変質する。
「……見事な下ごしらえね、リン」
不意に、リンの背後から甘い吐息のような声がした。
見れば、カノンがすでに大鎌を振りかぶって跳躍していた。
「あとは、メインディッシュをゴミ箱に捨てるだけよ」
「ヒィィッ!? ま、待てブヒィィィッ!!」
真紅の軌跡が空間を両断する。
リンによって鎧を無力化された肉将軍は、今度こそ何の抵抗もできず、その巨体を真っ二つに斬り裂かれた。
「ふぅ……なんとか突破したアルね! あんた、すっごく強いアル!」
リンが興奮気味にカノンを振り返る。
カノンは優雅に大鎌を消散させ、リンの頭をそっと撫でた。
「あなたも、人間の身でありながら立派だったわ。その技、気に入ったわ」
「ひゃぅっ!?」
カノンの冷たい指先と、甘く危険な香りに触れられ、リンの心臓が早鐘のように鳴り始める。自分に向けられた高貴な微笑みに、魂ごと魅了されていくのが分かった。
「……カノン様、急ぎましょう。まだ上に二人の将軍が……」
レヴィアが少しだけ嫉妬したようにカノンの袖を引いた、その瞬間だった。
ゴォォォォォォォォンッ……!!!!
「え……?」
カノンの顔から、サッと血の気が引いた。
第二の『超消化』の音。
一回目の音から、まだ数分しか経っていない。あまりにも早すぎる。
「嘘、でしょ……!? 消化の速度が、いきなり跳ね上がったアル!?」
リンが絶望的な声を上げた。
『……アァァ……カ、ノ、ン……逃げ……』
塔の壁伝いに、怠惰の神の苦痛に満ちた叫び声がビリビリと響いてくる。彼女の魂が、今まさに限界を迎え、完全に分解されようとしているのだ。
「……嫌。……嫌よ!! 怠惰の神!!」
カノンは冷静さを失い、螺旋階段を狂ったように駆け上がった。
だが、その焦りが致命的な隙を生んだ。
階段の踊り場に仕掛けられていた、第二の将軍による『空間転移の罠』。カノンの足元がぐにゃりと歪み、見えない刃が彼女の心臓を一直線に狙って下から突き出されたのだ。
「カノン!!」
眷属たちが叫ぶが、間に合わない。
カノン自身も、怠惰の神の声に気を取られ、反応が一瞬遅れた。
だが――。
「危ないアル!!」
カノンをドンッと強く突き飛ばし、その凶刃の前に身を呈したのは、料理人のリンだった。
ズバァァァッ!!
「……あ、ガ……ッ……」
無慈悲な刃が、リンの小さな身体を深々と貫き、空宙に大量の血が舞う。
「……リンッ!!?」
カノンの真紅の瞳が見開かれた。
鮮血に染まりながら崩れ落ちるリンの身体。そして、塔の最上階からは、すべてを終わらせる第三の『超消化』の予兆が、不気味な地響きと共に鳴り始めていた。




