終わる快楽の夢と、特級の料理人
色欲の女神が消滅し、狂愛の宮が崩れ去った翌朝。
ピンク色の毒々しい瘴気が晴れた色欲の国は、嘘のように活気を失っていた。
街角に立ち尽くす大人たちの瞳には、救済の喜びなど微塵もない。あるのは、極上の夢から強制的に叩き起こされたことへの激しい喪失感と、それを引き起こした者への憎悪だけだった。
「返せよ……俺の、最高の時間を……ッ」
「どうして女神様を殺したの!? あのままいれば、ずっと気持ちのいい夢を見ていられたのに! あんたなんか悪魔よ!!」
街を歩くカノンたちに対し、正気に戻った大人たちは石や泥を投げつけ、口々に呪詛を吐いた。
女神による支配は彼らにとって地獄ではなく、すべてを忘れて快楽に溺れられる『甘い麻薬』だったのだ。それを奪われた彼らは、カノンを救世主ではなく、幸福を奪った略奪者として睨みつけている。
「この恩知らずどもが……! カノンがどれほどの思いで……ッ!」
セラフィが激昂して剣の柄に手をかけ、ミアも殺気を放って双剣を抜こうとした。
だが、カノンは二人の前にスッと手を出し、静かに首を振った。
「やめなさい。豚は泥の中にいる時が一番幸せなのよ。彼らの安い幸福を奪ったのは事実だわ」
投げつけられた泥がカノンの漆黒のドレスを汚すが、彼女の真紅の瞳は冷徹なほどに澄み切っていた。自分の行いが万人に歓迎されるなどと、最初から思っていない。
だが、その時。
「……お、おねえちゃんたち……」
路地裏の陰から、恐る恐る小さな影がいくつも姿を現した。
それは、大人たちの異常な欲望の捌け口として檻に繋がれ、生贄や慰み者にされかけていた小さな子どもたちだった。女神が死に、大人たちが無気力になったことで、ようやく自由を得られたのだ。
ボロボロの服を着た幼い少女が、震える手で一輪の萎れかけた白い花をカノンへと差し出した。
「あの、ね……たすけてくれて、ありがとう……」
その純粋な瞳を見た瞬間、カノンの冷たかった表情がふっと和らいだ。
「……カノン様」
レヴィアが己と同じように檻に囚われていた子どもたちを見て、痛ましそうに目を伏せる。
カノンは優雅にしゃがみ込み、その白い花を受け取ると、空間収納から数枚の金貨を取り出して少女の小さな手に握らせた。
「……強く生きなさい。自分の命の価値は、自分で決めるのよ」
大人たちの怨嗟の声など歯牙にもかけず、カノンは子どもたちにだけ艶やかな微笑みを向けた。
偽りの快楽に溺れる愚か者に恨まれようとも構わない。この小さな命が明日を生きられるのなら、神を殺した意味は十分にある。
だが、感傷に浸っている暇はなかった。
『暴食の神』の胃袋の中で、育ての親である怠惰の神が今まさに溶かされようとしているのだ。
「行くわよ。……急がなければならないから」
三人の眷属を引き連れ、カノンは次なる目的地へと飛ぶように駆け出した。
――数日後。
カノンたち一行は、世界で最も豊かで、最も狂気に満ちた土地『美食の都(暴食の国)』へと足を踏み入れていた。
街中に漂うのは、極上のスパイスの香りと、それを上回るむせ返るような血と脂の悪臭。
この国の住人たちは、暴食の神の加護と呪いを受け、常に異常な飢餓感に苛まれていた。街角では珍しい魔獣の肉を巡って殺し合いが起き、力のない者は『食材』として強者に狩られるという、地獄のような弱肉強食の世界が広がっている。
「……ひどい臭いね。色欲の国より反吐が出るわ」
カノンが顔をしかめる。底なしの胃袋を持つレヴィアでさえ、この異常で醜悪な食欲の渦には嫌悪感を露わにしていた。
その時、路地裏の奥から激しい金属音と、怒声が響いてきた。
「大人しく捕まれ、タオ・リン! 貴様のような『特級』の魔力を持つ小娘の肉を調理して捧げれば、暴食の神様はさぞお喜びになる!!」
「ふざけるなアル! 私の料理は、人を笑顔にするためのものアル! 下劣な神の餌になんて、死んでもごめんアル!!」
見れば、チャイナドレス風の料理人服を着た小柄な少女――タオ・リンが、巨大な中華包丁と体術を駆使して、豚のように肥え太った暴食の信者たち数十人を相手に立ち回っていた。
彼女の動きは洗練された武術そのもので、ただの料理人ではないことが窺える。だが、相手は暴食の加護で異常な筋力と再生力を持った信者たちだ。多勢に無勢、リンの体力はすでに限界に近づいていた。
「チィッ……ここまでアルか……!」
信者が振り下ろした巨大な肉切り包丁が、リンの頭上へと迫る。彼女が死を覚悟し、目を閉じた瞬間。
ヒュンッ。
風が鳴るよりも早く、真紅の斬撃が空間を滑った。
「……え?」
リンが目を開けると、自分に襲いかかっていた数十人の信者たちの身体が、綺麗に上下真っ二つに分断され、ドサリと崩れ落ちていた。大量の血と脂が地面にぶちまけられる。
その血の海の中心に、黒いドレスを纏い、身の丈ほどの大鎌を片手で持った真紅の瞳の少女が、氷のように冷たい顔で立っていた。
「……邪魔よ。私の視界で、これ以上汚い豚を増やさないでちょうだい」
その圧倒的で美しい死神のような姿に、リンは尻餅をついたまま口をパクパクとさせた。
「あ、あんた……何者アルか……!?」
カノンは大鎌の血を優雅に振り落とし、リンを見下ろした。
「私はカノン。暴食の神を殺しに来たわ。……あなた、この街の人間なら、あいつの居場所を知っているわね?」
「ぼ、暴食の神を殺す!? 正気アルか!? あいつは今、天の頂にある『暴食の塔』に引き篭もって、とんでもない神様を丸呑みにして消化中アル! その余波で、街の連中も異常な食欲に支配されてるアルよ!」
リンの言葉に、カノンの真紅の瞳がスッと細められた。
「……まだ、消化中なのね」
「で、でも無理アル! 塔の最上階に向かうには、三人の『美食将軍』が守る階層を突破しないといけないアル! いくらあんたが強くても……」
「そう。なら、すべて鏖にして進むだけよ」
カノンが踵を返し、塔の方角へと歩き出そうとしたその時。
ゴォォォォォォンッ……!!!
街全体を震わせるような、おぞましく重低音の『腹の鳴る音』が、空を貫く巨大な塔の最上階から響き渡った。
「ひっ……! は、始まったアル……!!」
リンが青ざめて震え上がる。
「暴食の神の『超消化』……! あの音が三回鳴り終わった時、飲み込まれた神様は完全に魔力に変換されて、暴食の神は誰にも止められない無敵の存在になっちゃうアル!!」
「……ッ!」
タイムリミットが、あまりにも無慈悲に宣告された。
カノンは力強く大鎌を握り直し、殺意に満ちた視線で塔の頂を睨みつける。
愛する育ての親が完全に溶かされてしまうまで、あといくばくの時間が残されているのか。
「セラフィ、ミア、レヴィア! 行くわよ!!」
「「「はいっ!!」」」
最強の吸血姫と眷属たちの、時間との絶望的な死闘が今、幕を開けようとしていた――。




