血の口づけと、真紅の断罪
ブシャァァァッ!!
無慈悲な肉の槍がカノンの華奢な胴体を貫き、大量の鮮血が空宙に舞い散った。
「あ……ぁ……」
カノンの真紅の瞳から光が失われ、その身体が崩れ落ちる。床を覆う肉塊の上に、伝説のエリクシルにも勝る彼女の極上の血が、真っ赤な水たまりを作って広がっていった。
「アハハハハッ!! 呆気ないわねェ! 母親の死の真実を知って、心が完全に折れちゃったのかしら? 最強の吸血鬼も、所詮は親の愛に飢えたただの子供ね!」
色欲の女神が玉座で腹を抱えて嗤う。
だが、その哄笑は長くは続かなかった。
カノンの身体から流れ出た大量の血が、床を伝い、致死量の快楽物質に侵されて倒れ伏していた三人の眷属たち――セラフィ、ミア、レヴィアの肌へと触れた瞬間だった。
「……ッ!?」
三人の身体がビクリと跳ねた。
カノンの血が放つ圧倒的で神聖な魔力が、女神の与えた下劣な快楽毒を一瞬にして浄化し、焼き尽くしたのだ。
「カノンッ!!」
真っ先に跳ね起きたのはミアだった。彼女は自身の双剣を投げ捨て、血だまりの中に倒れる主の元へ決死の覚悟で滑り込む。続いてセラフィとレヴィアも、涙を振り乱しながらカノンにすがりついた。
「カノン、カノン……! 目を開けてください、カノン様ぁっ!!」
レヴィアが号泣しながらカノンの傷口を塞ごうとするが、出血は止まらない。肉体的な損傷もさることながら、精神的な絶望が彼女の生命力を急速に奪っていた。
「このままじゃ死んじゃう……! あたしたちの血を、飲ませないと!」
ミアが自身の腕を短剣で深く切り裂き、その血をカノンの青白い唇に垂らす。セラフィとレヴィアも同様に自らの肌を裂き、血を飲ませようとした。
しかし、カノンは完全に意識を失っており、喉を動かすことすらできない。流れ込んだ血は、ただ無情にも彼女の口の端からこぼれ落ちていくだけだった。
「……飲めないなら、あたしが無理やりにでも流し込むわ」
ミアの瞳に、狂気にも似た決意が宿った。
彼女は自身の腕から溢れる血を、自らの口内に限界まで含んだ。そして、血に濡れたカノンの唇を、自身の唇で強引に塞いだのだ。
「ん……ッ、ちゅ……ぁ……」
ミアのしなやかな舌が、カノンの冷たい唇をこじ開け、口腔内へと侵入する。生温かい血が、ミアの熱い吐息と共にカノンの喉の奥へと直接押し込まれていく。それはただの救命行為ではない。全身全霊の愛と、己の命のすべてを主へと捧ぐ、ひどく官能的で切実な口づけだった。
ミアが離れると、次はセラフィが、そしてレヴィアが続いた。
「カノン……どうか、私を置いていかないで……っ。んん……っ、ちゅ、はぁ……っ」
高潔な天使であるセラフィが、恥じらいを捨て、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながらカノンの舌に自身の舌を深く絡ませ、神聖な魔力を帯びた血を注ぎ込む。
「カノン様……私の、私のすべてを……ッ! ん、ちゅぅ……っ、あっ……」
レヴィアの燃えるような竜の血が、粘膜の接触を通じてカノンの体内へと送り込まれる。
三人の少女による、重く、甘く、狂おしいほどの愛と血の口づけ。
――その圧倒的なまでの『生と愛の熱量』は、漆黒の絶望に沈みかけていたカノンの精神世界を、真紅の業火で照らし出した。
(……ああ。そうだわ)
母は、私を疎む父から隠すために、あえて無抵抗で殺されたのかもしれない。
私の命は、母の犠牲の上に成り立っている。
だとしたら、私はここで絶望して死んでいいはずがない。母が命を懸けて繋いでくれたこの命で、私はこんなにも温かくて、愛おしい『家族』に出会うことができたのだから。
「……ンフフ、無駄な努力ねェ。そんな小手先の回復で……」
女神が嘲笑いながら再び血の鞭を振り上げようとした、その刹那。
ドクンッ!!!!
狂愛の宮全体が、巨大な心臓のように大きく脈打った。
カノンを抱き抱えていた三人の少女が、その場から凄まじい衝撃波で弾き飛ばされる。
「……な、何よこの魔力は……!?」
女神が驚愕に目を見開く中、血の海の中から、ひとりの少女がゆっくりと立ち上がった。
カノンだった。
貫かれていたはずの致命傷は完全に塞がり、傷跡ひとつ残っていない。それどころか、彼女の真紅の瞳は、かつてないほどに深く、妖艶で、絶対的な零度の光を放っていた。
彼女の背後に、三人の眷属――人間、天使、古竜の強大な魔力が混ざり合い、美しくも禍々しい真紅の後光となって顕現している。
「……私の可愛い眷属たち。極上の口づけだったわ。おかげで、目が覚めた」
カノンは唇についた血を艶やかに舐め取ると、虚空から今までよりも一回り巨大で、ドス黒いオーラを纏った大鎌を引き抜いた。
「な、生意気な……! 再生したくらいで勝てると思わないことね! 『愛の暴走』!! 私の快楽の沼に沈みなさい!!」
女神が絶叫し、数十本に分裂した巨大な血の鞭が、四方八方からカノンへと襲いかかる。
だが、カノンは一歩も動かなかった。ただ、冷ややかにため息をつくだけだ。
「あなたは、何も分かっていないのね」
ヒュンッ。
カノンが大鎌を片手で無造作に振るった。
直後、襲いかかっていた数十本の血の鞭が、まるで空間そのものを消しゴムで削り取られたかのように『無』へと帰した。
「は……?」
女神が間の抜けた声を上げる。切断されたのではない。再生する間すら与えられず、概念ごと消滅させられたのだ。
「快楽や痛みが愛? 笑わせないでちょうだい。……本当の愛というものはね、自らの命を削ってでも、愛する者のために与え尽くす……こういう重くて熱い感情のことを言うのよ」
カノンが一歩踏み出す。
それだけで、女神の足元にあった肉の床が灰となって崩れ去った。
「ヒィィッ……!? バ、バカな……! 私は傲慢の神の最高傑作……! こんな小娘に……ッ!」
恐怖に顔を引き攣らせた女神が、城の壁と同化して逃げようとする。
しかし、カノンはすでにその背後に立っていた。
「……私の母の誇りを汚した罪、その命で償いなさい」
「や、やめ――」
「――『血壊・絶対零度』」
真紅の大鎌が、色欲の女神の首を音もなくすり抜けた。
次の瞬間、女神の身体は血の一滴すら流すことなく、氷の彫像のようにピキピキと凍りつき、そのまま細かい塵となって完全に崩壊した。再生能力など無意味。細胞のひとつひとつまで魔力で完全に死滅させる、圧倒的な蹂躙だった。
崩れ行く狂愛の宮の中で、カノンは静かに大鎌を下ろした。
「カノン……!」
「カノン様ぁっ!!」
涙を流しながら駆け寄ってくる三人の眷属たちを、カノンは広げた両腕でしっかりと抱き止める。
「ありがとう。あなたたちの愛が、私を救ってくれたわ」
もう、迷いはない。母の死の真実がどんなに残酷であろうと、この愛する者たちと共に、すべての偽りの神々を殺し尽くす。
カノンがそう決意を新たにした時だった。
『……あーあ。相変わらず、無茶ばっかりしやがって。世話の焼けるガキだねぇ』
ふと、カノンの脳内に、ひどく懐かしくて気怠げな声が響いた。
「……え?」
カノンが驚いて振り返ると、色欲の女神が消滅した跡地に、小さな通信用の魔法陣が浮かび上がっていた。
そこから響くのは、神の国でカノンを隠すための結界を張り続けているはずの『怠惰の神』の声。だが、その声はひどく掠れ、今にも途切れそうだった。
「……ッ!! 怠惰の神!? あなた、無事なの!?」
カノンは血相を変え、魔法陣に向かって叫んだ。
『……バカ、あたしを誰だと……。でも、もう限界かもね』
自嘲するような笑い声の裏で、何かがドロドロと溶けるような不気味な音が聞こえる。
『……「暴食の神」の野郎が、虚飾と色欲を殺したあんたの異常な力にビビりやがってね……。手っ取り早く力をつけるために、結界の維持で動けないあたしのところにやってきて……あたしを、頭から丸呑みにしやがった』
「……丸呑み……!?」
カノンの全身から、サッと血の気が引いた。
『ああ。あいつは今、自分の「暴食の国」に逃げ帰って、胃袋の中で少しずつあたしを消化してる。……ひどく、面倒くさい気分だ……』
あの不器用で優しい神が、今この瞬間にも生きたまま消化されようとしている。
「待っていて。今すぐそこへ向かうわ。あいつの腹を裂いてでも、絶対にあなたを助け出す……!」
『……バカ言ってんじゃないよ。いいか、あいつは喰えば喰うほど、その相手の力を取り込んで無限に強くなる。あたしの神の魔力も、今どんどんあいつの力に変換されてるんだ。……だから、あたしのことは放っておきな』
「な……何を言っているの!?」
『どうせあたしは助からないが……あたしが完全に消化されたら、あいつは手がつけられない化物になる。……手遅れになる前に、暴食の神を殺しな。……今まで、よく生きてくれたね、カノン。……おやすみ』
プツン、と。
魔法陣の光が完全に消滅し、二度と声が響くことはなかった。
「……待って。待ちなさい、怠惰の神!!」
カノンの悲痛な叫びだけが、崩壊する城跡に木霊する。
どれだけ呼びかけても返事はない。カノンの足元から、抑えきれない絶望と、それを遥かに凌駕するほどのドス黒い『殺意』が、氷の波動となって周囲を凍てつかせていく。
「……行くわよ。暴食の国へ」
カノンの真紅の瞳は、絶対零度の吹雪のように冷酷に澄み切っていた。
「あいつの腹をかっ捌いて、神の臓物をすべて引き摺り出してでも……あの人を、取り戻すわ」
最強の吸血姫と眷属たちの旅は、息つく暇もなく、次なる惨劇の舞台『美食の都』へと続くのだった――。




