12.鹿児島県①
12.鹿児島県
それから、翌々日の水曜日からも晴斗は彩乃なしでお店の営業を続けていた。
彩乃がいない分、平日はスタッフやシェフたちの人数が少ないので、それぞれの仕事に負担が増えているのは明らかだったのだが、そこに居るシェフたちやフロアのスタッフたちは特段文句も言わずに自分たちの仕事をこなしてくれた。だから、晴斗は彼らに申し訳ないと思いながらも、安心して仕事をすることができた。
そして、土曜日になると、彩乃の言った通り、ランチタイムの時間だけ杉下さんが手伝いにやって来てくれた。
その日、彼女は午前十時の少し前にお店にやって来た。彼女に三十分程の時間でその店の接客の仕方を学んでもらい、開店までの残りの時間で厨房の準備を手伝ってもらった。
そして、開店の午前十一時になった。
「いらっしゃいませ」
杉下さんは、フロアの女性スタッフに交じり、明るい声で接客した。それだけでなく、彼女は厨房に来て、晴斗と一緒にドリンクを作ったり、簡単な調理を手伝ったりしてくれた。
彼女がいると、店全体がいつもより明るくなった感じがした。まるでそのお店に彩乃が戻って来たような感じがした。晴斗は嬉しくなった。
「山崎さん、お疲れ様です」
午後三時を過ぎた頃、杉下さんが事務所で着替えを済ませた後、晴斗にそう言った。
「お疲れ様です。杉下さん、ありがとうございます」
「いえいえ。では、また明日もよろしくお願いします」
「すみません。お願いします」
「はい。では、お先に失礼します」
彼女はそう言って、そのお店を出て行った。
その翌日も彼女は午前十時に来て、準備やお店の仕事を手伝ってくれた。土日に彼女が来てくれることで、晴斗はとても助かるなと思った。
それから、一週間後の日曜日。
その日も、ランチタイムの時間だけ、杉下さんが来ていた。
開店して、四十五分が経った頃、晴斗のお店に電話が鳴った。予約の電話かなと思い、晴斗は受話器を取った。
「はい、こちらプチ・ボヌールの山崎でございます」
『あ、もしもし。あなた?』
電話の相手は、自宅にいる彩乃からだった。
「彩乃? どうしたんだ? お店に連絡くれるなんて……。」
『来たの! 陣痛が』
「陣痛……。マジか!?」
晴斗は驚いた。
『うん、今痛くて。ものすごく痛いの……。』
「病院には連絡したのか?」
それからすぐに晴斗がそう訊くと、『ううん。まだなの……。』と、彼女は答えた。
「お店に連絡する前に、先に連絡しろよ!」
晴斗は捲し立てるように言った。
『そうなんだけど……でも、動けないの……。だから、あなたに来てほしくて……。』
それから、彼女がそう言った。
「そうは言ってもなあ……。」
晴斗はそう呟いた。今はランチタイムの時間であるし、今日は日曜日であった。自分が抜けられるはずがないと晴斗は思った。しかし、まだ彩乃は病院に連絡していないのだと言う。とりあえず、真っ先に病院に連絡して、救急車を自宅に呼んで来てもらうほかない。
「分かった。とりあえず、救急車を家に呼ぶから、おとなしくしてるんだぞ!」
晴斗がそう言うと、『ええ。分かったわ……。』と、彼女は苦しそうに言った。
電話を切った後、晴斗はすぐに一一九番に電話する。しばらくして、女性の声が出た。晴斗は事情を説明し、自宅に救急車を寄越してほしいことを伝え、自宅の住所を告げた。それから、彩乃の通っている産婦人科まで連れて行ってほしいことも言うと、分かりましたとその女性は言って、電話を切った。
電話を終えた後、晴斗は考える。とりあえず、救急車の手配はできたが、それからどうしようかと晴斗は思った。ここでお店を抜けて、彼女のいる病院へ向かいたいとは思ったが、晴斗は今、店主代理と言う立場である以上、ここを抜ける訳にはいかなかった。いや、皆に事情を話せば、一瞬くらい抜けても平気だろうか。いくら杉下さんが来ているからとはいえ、何か問題があっても困る。抜けられるはずもないだろう。
「山崎さん、どうかしたんですか?」
晴斗がそう考えていると、ふと後ろから声を掛けられた。振り向くと、そこに杉下さんが不思議な顔をして立っていた。
「ああ、杉下さんか。実は……。」
晴斗はたった今、彩乃から陣痛で苦しんでるという連絡を受けたことと、救急車を自宅に寄越したことを話した。
「それは大変なことになりましたね!」
彼女は困惑した顔で言った。
「うん……。僕が抜けて、彼女のところへ行きたいんだけれど、それだとマズイなあと思って……。」
晴斗が思っていたことを口にすると、「じゃあ、あたしが」と、彼女が口を開いた。
「あたしが代わりに、彩乃の様子を見てきましょうか?」
杉下さんがそう言った。
「え? 本当に?」
晴斗がビックリして彼女にそう訊くと、「はい」と、彼女が言った。
「いいの?」
「はい。いいですよ。あたし、彩乃の友達ですし。だってほら、そうすれば、山崎さんが抜けなくても済むじゃないですか!」
彼女がにやりと笑って言った。
確かにと、晴斗は思った。
「じゃあ、杉下さん、悪いんだけど、お願いしてもいいかな?」
晴斗がそう言うと、「もちろんです」と言って、彼女が笑顔を見せた。
「それじゃあ、お願いします。あ、そうだ。連絡はうちの店の番号に」
「分かりました」
それから、晴斗は電話口にあったメモ帳にお店の番号を走り書きし、それを彼女に渡した。
「山崎さん、産婦人科って、駅の近くの所ですか? 高田馬場の?」
それから、彼女がそう訊いた。
「そうです」
「分かりました。救急車はご自宅に着くんですよね」
「はい」
「オーケーです。では、一度ご自宅に行ってみます」
「お願いします」
そうして、杉下さんは事務所へ行き、着替えてすぐにその店を出て行った。
杉下さんが出て行った後も、晴斗はシェフやフロアのスタッフたちと店をなんとかして回していった。彼女一人抜けたことで、晴斗たちは先ほどよりも動き回った。やはり彼女一人がいるのといないのでは忙しさも違うなと晴斗は思った。
それから、午後二時半を過ぎた頃だった。
ランチタイムのピークを終えて、店内のお客さんがぽつぽつといるだけになり、落ち着いていた。その時、店の電話が鳴った。晴斗はすぐに電話に出た。
「お電話ありがとうございます……」
晴斗が次の言葉を言おうとして、『あ、あたしです。杉下です』と、電話口で彼女の声がした。
「あ、杉下さん。どうでした?」
晴斗がそう訊くと、『彩乃は無事でした。それと、無事に女の子が生まれましたよ』と、彼女が言った。
「そうですか。良かった」
晴斗はホッとして言った。
『お店の方は、大丈夫でした?』
それから、彼女がそう訊いた。
「ええ、なんとか」
実際、彼女が抜けたことで晴斗はキツイと思っていた。けれど、そんなことを言えるはずもなかった。
『そうですか。それならいいんですけど』
「女の子ですか」
それから、晴斗は呟くように言った。
『ええ。山崎さん、おめでとうございます!』
電話越しに杉下さんが祝福してくれた。
「ありがとうございます。こちらこそ、今日は杉下さんにご迷惑を言って、申し訳なかったです」
晴斗がそう言うと、『全然いいんですよ』と、彼女が言った。
『困った時はお互い様ですから』
「はあ」
『それに……。あたしたちも以前、山崎さんに助けていただいたんですから』と、彼女が言った。
「そうだっけ?」
晴斗がそう言うと、『ほら』と、彼女が言って話し始めた。
それは、晴斗が彩乃と付き合う前のことであった。晴斗がたまたま行った有楽町のフランス料理店で、彩乃と杉下さんが外国人に絡まれていたのだった。それを晴斗が助けた(実際には、後からやって来た外国人の男性が助けてくれたのだった)ことがあった。
「そういや、そんなこともありましたね……。」
晴斗はそれを思い出して言った。
『懐かしいですよね』と、彼女が言って笑った。
『ということなので、二人は大丈夫ですからね』
それから、彼女がそう言った。
「分かりました」
『あ、そうだ』その後、彼女が思い出したように言った。『彩乃が明日にでもいいから病院に来てって言っていましたよ』
明日は月曜日で、お店は休みだった。
「そうですね。はい、そうします」と、晴斗は言った。
『あ、それと……』
「なんですか?」
『あの、山崎さん。あたし、一度お店に戻ったほうがいいですよね?』
それから、彼女がそう訊いた。すぐに晴斗は時計を見た。もうすぐ三時になろうとしていた。そのまま直帰でも構わないだろうと思った晴斗は、彼女にそれを伝えた。
『分かりました。すみません、では失礼します』と、彼女が言った。
「はい、お疲れ様です」と晴斗は言い、電話を切った。
「ずいぶん電話長かったですね?」
電話を終えると、後からそう言われた。振り向くと、そこに吉田というシェフの男がいた。
「ああ、杉下さんからだよ。彩乃は無事だった」
晴斗が笑顔でそう言うと、「おお、そうですか。それは良かった」と、彼もにこりと笑った。
「うん、それとね。女の子が生まれたって」
晴斗がそう言うと、吉田は目を丸くした。それから、彼は「おめでとうございます」と祝福した。
その後、吉田は厨房にいた他のシェフたちにそのことを耳打ちした。すると、彼らは「マジで?」と驚き、晴斗のところに来て「山崎さん、おめでとうございます」と、笑顔で言った。
「ありがとう」
晴斗は彼らを見てそう言い、微笑んだ。
帰宅すると、家の中は真っ暗だった。
そこに彩乃はいなかった。それもそのはずだと晴斗は思った。彼女は今日、生まれたばかりの赤ちゃんと一緒に病院にいるのだ。
その日の昼に、杉下さんから電話があって、そこで女の子が生まれたことを知った。晴斗はそれを聞いて、正直に嬉しく思った。
彩乃は明日、病院に来てほしいと言っていたらしい。明日の朝、晴斗は彩乃や自分の娘のいる産婦人科の病院に行くことにした。
翌朝、八時に晴斗は目が覚めた。彼女のいる病院は面会が九時からのようであった。晴斗は身支度をし、コーヒーと食パンで朝食を済ませると、すぐに家を出た。
車を十分ほど走らせた所に、その産婦人科はあった。
受付を済ませると、すぐにその看護士が晴斗を彩乃のいる部屋へと案内してくれた。
「あなた、来てくれたのね」
晴斗を見るなり、彼女は笑顔でそう言った。
「うん。杉下さんから電話で聞いたよ。無事だったって」
「でも、私、ビックリしたわ。だって、来たのがあなたじゃなくて、栞里だったもんだから」
彼女はそう言って笑った。
「仕方ないよ。俺だって、あの時はランチタイムだから手を離せなかったんだよ」
「まあ、そうよね……。でも、栞里で良かった気もする。あなた、ありがとう」
「ああ」
「……そんな話じゃなくて、ねえ、あなた、見て!」
彼女はそう言って、抱いている赤ちゃんを晴斗に見せた。「可愛いでしょ?」
その赤ちゃんは可愛らしかった。
「うん、可愛い」
晴斗がそう言うと、「でしょ? 女の子だよ」と、彼女が言った。
「そうだってね。それも杉下さんから聞いたよ」
晴斗はそう呟くと、「ねえ、あなた、この子抱っこしてみない?」と、彼女が言った。
そう言われると、晴斗はその赤ちゃんを抱っこしてみたいと思った。
「してもいいの?」
晴斗がそう訊くと、「もちろんよ」と、彼女は言った。
それから、晴斗は彼女からその赤ちゃんをゆっくりと受け取り、その小さな赤ちゃんを抱いた。その赤ちゃんは意外と軽かった。晴斗はまるでふわふわとしたわたのような何か軽い物を持ったような感じがした。
それからしばらく、晴斗はその赤ちゃんを抱っこしていた。少しして、その赤ちゃんが泣き始めてしまったので、晴斗はその赤ちゃんを彩乃に渡した。その赤ちゃんはしばらく泣いていたが、彩乃の腕の中が居心地良く感じたらしく、すぐに泣き止んだ。
それを見て、彩乃は笑った。晴斗も笑った。
「名前決めないとね?」
ふいに彩乃がそう言った。
「そうだね」
「どうしよう?」
「女の子だからね……。」
「じゃあさ、この子が退院するまでにお互いに名前を考えようよ」
それから、彼女がそう言った。
いいだろうと思った晴斗は「うん」と頷いた。
「じゃあ、そろそろ帰るよ」
晴斗はそう言った。
「うん」と、彼女は頷いた。
その病院を出て、晴斗は車に乗った。
しばらく車を走らせていると、晴斗は本屋を見つけた。その本屋に寄ろうと思い、晴斗はその駐車場に車を停めた。
本屋に入り、晴斗は本を探した。赤ちゃんの名前の本である。しばらく歩いていると、その本棚を見つけて晴斗はそこで立ち止まった。そこから、晴斗は手頃な本はないか探す。そこには何冊かの本があったので、晴斗は適当にパラパラと本を見て、一冊の本を選んだ。
その本を買おうとレジまで歩いている途中、ふと晴斗は日本の旅行雑誌のコーナーの前で目が留まり、立ち止まった。
それから、晴斗は自分たちが日本料理を食べ周っていたことを思い出した。ここ最近、晴斗は彩乃とそれをしていなかった。最近、バタバタしていたことや彩乃が入院したことで、しばらくそれができなかったのだった。
けど、実は晴斗たちは日本料理をほとんど食べ周っていたのである。その数、確か四十道府県である。
その後、晴斗は自分たちがまだ食べていない県を考えた。あと食べていない県は「宮崎県」と「鹿児島県」の二県であった。
「宮崎と鹿児島か」
晴斗は宮崎県と鹿児島県の旅行雑誌をパラパラと見た。それから、すぐに晴斗は思いつく。
彩乃が退院したら、二人で食べに行くのはどうだろうか。いや、娘も含めたら三人か。
そう考えた晴斗は、すぐさまレジへ行き、本を一冊買って自宅まで車を走らせた。
自宅に着いて、晴斗はリビングのソファに腰を掛けた。先程本屋で買った赤ちゃんの名前の本を見ていた。
女の子の名前のページを見て、晴斗はたくさんある女の子の名前とにらめっこしながらどの名前がいいかを考えた。そこに「彩乃」や「栞里」という名前があった。彩乃や栞里という身近な人物の名前は避けるべきだろうなと晴斗は思った。それから、自分の母親の仁美や祖母の春美という名前も辞めておこうと晴斗は思った。そう考えた後、彩乃のお義母さんやお義祖母さんの名前とも被らない名前がいいだろうとも晴斗は思った。
すると、少しは名前が絞れるなと晴斗は思った。しかし、晴斗の思考はそこで止まってしまう。彼女のお義母さんとお義祖母さんの名前が分からないから考えられないのかもしれないなと思った晴斗は、ポケットからスマホを取り出し、彼女に「お義母さんとお義祖母さんの名前を教えて」と、メッセージを送った。
それからしばらくして、彼女からメッセージが届いた。
『急にどうしたの? お母さんの名前は香穂で、おばあちゃんは千鶴だよ。二人とも可愛いでしょ?』
お義母さんが香穂で、義祖母が千鶴か。なるほどと、晴斗は思った。
「ありがとう。うん、二人とも可愛い名前だね」
晴斗はそうメッセージを打ち、送った。
それから、晴斗は再びその本を開いた。
二日後の水曜日。
朝八時に起きた晴斗はいつものように、朝食や身支度を済ませる。相変わらずその日の朝も、晴斗は自宅に一人だった。
そう言えば、昨日、彩乃から明日退院すると連絡があったのを晴斗は思い出した。
明日からこの家は前の様に賑やかになる。いや家族が増えるので、前以上になるだろう。晴斗は嬉しく思いながら自宅を出た。
店に着き、晴斗は鍵を開ける。
最初、彩乃がいなくなってしまった時は、一人で鍵を開けるのも苦痛だと晴斗は感じていた。けれど、もう今ではそれも当たり前で、晴斗は気にもならなくなっていた。
しばらくして、シェフたちがやって来て、開店前の準備を皆で始めた。
そして、午前十一時になり開店すると、晴斗たちはランチタイムに来るお客さんのお世話をするのだった。
その夜八時頃であった。一人の中年男性がその店にやって来た。
「いらっしゃいませ」
女性スタッフが明るい声で接客した。
その男性は「一人」と言った。その女性スタッフが空いているテーブル席に案内した。それから、その男性はその女性スタッフに「山崎君はいるかい?」と、訊いた。
「少々お待ちください」
彼女はその男性客に言い残し、厨房にいる晴斗の元へ行った。
「山崎さん、お客様がお呼びです」
坂本という女性スタッフが晴斗にそう言った。誰だろうと思い、晴斗は厨房を抜けて、フロアへ出た。
「あちらのお客様です」と、彼女がその男性客を指して言った。
「よう、山崎!」
藤本さんが白い歯を見せて言った。
「なんだ、藤本さんか」
「なんだとは、何だ?」
「こんばんは。何か用ですか?」
晴斗が彼にそう訊くと、「いや、近くを寄ったんでな」と、藤本さんは言った。
「はあ、ごゆっくり」
晴斗はそう彼に言って、立ち去ろうとした。
それから、「そういや、奥さんは?」と、彼がニヤニヤしながら訊いた。
「あー、今いないですよ」
晴斗がそう答えると、「いない? どうしてだ?」と、彼は不思議な顔で訊いた。
そう言えば、晴斗はまだ藤本さんに彼女が最近、店に来ていないことを話していないのを思い出した。
「今、入院しているんです」
「入院? 奥さん、怪我でもしたの?」
「いえ、そうではなくて。今、娘と病院で……つい最近、娘が生まれまして……。」
晴斗がそう言うと、「ほほう」と、藤本さんは嬉しそうな笑顔を見せた。
「そうかいそうかい。それはおめでとうだね」
「はい。そう言っていただき、ありがとうございます」
「それで? いつ退院なんだい?」
それから、藤本さんがそう訊いた。
「明日、退院の予定です」
「そうか。それは良かったなあ」
「はい」
「ああ、そうだ。山崎、注文いいかい?」
それから、藤本さんがそう言って、メニューを見た。注文がまだだったのかと晴斗は思った。
「ええ、いいですよ」
晴斗がそう言うと、「じゃあ、生一つと、この前のオムレツはできるかい?」と、藤本さんは訊いた。
「はい、できますよ」
彩乃がいなくても、そのオムレツは他のシェフたちでも作れた。因みに、晴斗はそのオムレツの作り方は知らなかった。
「じゃあ、それで」
「かしこまりました」
晴斗はそう言うと、厨房に藤本さんの注文を通した。
それから、晴斗はフロアでテーブルの片づけをしたり、レジを打ったりしていた。
厨房でドリンクを作っているとき、ふと、晴斗は生まれた子どもの名前を考えていたことを思い出した。
結局、晴斗はまだその子の名前を思いついていなかった。いや、全く思いついていないわけではなかった。五個か六個の名前の候補は思いついていた。けれど、名前をどれか一つに絞れないでいた。
「山崎さん、これ、七番テーブルにお願いします」
その後すぐ、吉田シェフがオムレツのお皿を出して言った。七番テーブルは藤本さんの座っている席だった。
「はいよー」と言って、晴斗はそのオムレツを彼のいるところへ運んだ。
「お待たせしました。特製オムレツになります」
晴斗はそう言って、藤本さんの前にそのオムレツを置いた。
「おう、サンキュー」
藤本さんは嬉しそうに言うと、いただきますと手を合わせてそのオムレツを一口食べた。
「うん、うまいなぁ」
それから、彼は嬉しそうに言った。
「それは良かったです」
晴斗は彼の美味しそうに食べる様子を見て言った。
それから、晴斗が彼の方を見て立っていると、「ほら、どっか行けよ。お前、仕事中だろう」と、藤本さんは手を払って言った。
「藤本さん」
その後、晴斗は彼に声を掛けた。晴斗は彼に訊いてみたいことがあった。
「何だよ?」
「藤本さんって、結婚してお子さん二人いましたよね?」
以前、晴斗が前の会社で藤本さんと一緒に働いていた時、彼からその話を聞いたことがあった。
「ああ、そうだけど。それが何?」
藤本さんはそのオムレツを食べながら言った。
「あの……お子さんのお名前って、どうやって決めましたか?」
晴斗がそう訊くと、彼はちょっと驚いたらしくむせていた。
「すいません」
晴斗がすぐにそう謝ると、彼はビールを流し込み、口を開いた。
「子どもの名前? ああ、それは自分と嫁さんの二人で決めたよ」
彼はそう言った。
「そうですか」
「それがどうしたのかい?」
藤本さんはオムレツを食べるのを止め、晴斗の方を見て言った。
「あ、その……。」
「もしかして、お前は今、その赤ん坊の名前を決めようとして悩んでいるのか?」
それから、彼がそう言った。
「まあ、そんなところです」
晴斗がそう答えると、「そうか。それは、じっくり悩んで考えるといい」と、彼は言った。
「名前は一生残るし、大切な宝物みたいだからな」
「そうですね」
「山崎、お前の名前は何だっけ?」
「晴斗です。晴れるに北斗の斗で」
「晴斗か。うん、実にいい名前だ」藤本さんはにやりと笑って言った。「きっとお前のご両親はさぞ苦労したんだろうな」
「そうかもしれませんね」
「……だから、お前ももっと悩め。悩んで、素敵な名前をその子に付けてあげなさい」
「はい。分かりました」
「まあ、お前が全部決める必要はない。奥さんと二人で決めるのがいいよ」
藤本さんはそう言って笑顔を見せた。
「はい、そうします」
「おう」
「すみません。お食事中にお邪魔して」
「まあ、いいよ」と彼は言って、オムレツの残りをつついた。
「では、ごゆっくり」
晴斗はそう言って、厨房へ逃げるように戻った。
そうして気が付けば、閉店時間の午後十時になっていた。
終礼をした後、晴斗はいつも通り最終在庫の確認とレジ閉めをした。片付けが終わったシェフやスタッフたちを見送った後、消灯と店の戸締りをして、最後に鍵を閉めた。
その翌日も、ランチタイムは忙しかった。晴斗は必死に厨房とフロアの仕事をこなした。
午後三時になり、従業員たちは休憩を始めた。
「吉田君」
晴斗はシェフの吉田に声を掛けた。
「何ですか?」
「ちょっと彩乃のいる病院に行ってくるよ。一時間程、外出てくるから留守番よろしく。何かあったら連絡してほしい」
晴斗がそう言うと、「分かりました」と、彼は返事をした。
それから、晴斗は机にあったスマホをポケットに入れ、カバンを持って外へ出た。それから、晴斗は駐車場まで行き、車に乗った。エンジンをかけ、晴斗は彩乃たちのいる産婦人科に向かった。
病院に着いて晴斗は受付を済ませると、しばらくして、彩乃が奥の方から赤ちゃんを抱えてやって来た。
「あなた」
彼女は晴斗を見て、笑顔を見せた。
「彩乃、退院おめでとう」
晴斗も彼女を見て言った。
「ありがとう」
それから、彩乃に抱きかかえられた赤ちゃんが笑った。彩乃がその子を見て微笑む。晴斗も思わず笑顔になった。
「じゃあ、行きますか」
「ねえ、あなた」
その後、彼女が口を開いた。
「何?」
「お昼はもう食べた?」
「いや、まだだけど?」
晴斗がそう言うと、「私たちもまだなんだ」と、彼女が言った。
「じゃあ、どこかで食べに行こうか?」
「いいの?」
「うん。その後、家まで送るよ」
「ええ、分かった」
晴斗たちは病院を出て、車の所まで歩いた。晴斗は後部座席の扉を開けて、彼女たちを乗せた。扉を閉めた後、晴斗は運転席に乗る。晴斗はエンジンをかけ、車を発進させる。
車を走らせていると、しばらくしてファミレスが見えた。
「そこのファミレスはどう?」
晴斗がそう訊くと、「いいんじゃない?」と彼女が言ったので、晴斗はそこでお昼を食べることにした。
そのファミレスで晴斗はハンバーグステーキとライスの並みを頼んだ。彩乃は明太子のパスタを注文した。
ファミレスでお昼を食べた後、晴斗は自宅まで車を走らせた。自宅に着き、晴斗は二人をそこで降ろした。それから、晴斗は車の時計を見た。時刻は三時五十五分だった。もうすぐで四時である。夜の準備の時間だった。すぐに晴斗はお店まで車を走らせた。




