第9話:お守りの保証対象外です
肘の傷が、ようやく目立たなくなってきた。
半袖から出るところだったから、最初の何日かは、つい触りそうになった。傷そのものより、触るなと言われたことの方が気になった。
いまは薄い跡があるだけだ。
掌も、普通にノートを書ける。
階段で足をかばう必要もなくなった。
二週間。
あの白いものから逃げた時間は一分半もなかったと聞いたのに、その後には普通の二週間が流れた。
授業を受けた。
小テストで間違えた。
姉に風呂の順番を取られ、母さんに洗濯物を出し忘れたと言われた。
どれも、あの前と同じだった。
変わったのは、ポケットのお守りへ手を入れたときの気持ちくらいだ。
持っている。
なくなったわけではない。
泥は落としてもらい、袋も破れていなかった。
それでも、触れれば全部が終わると思っていた頃には、戻れない。
朝、玄関で靴を履きながら、俺は布の角を指で確かめた。
いつもの形だった。
それが、少しだけありがたくて、少しだけ心細かった。
「今日は、何時?」
台所から母さんの声がした。
「六時半くらい。遅くなるなら連絡する」
「分かった。暑いから、水を持っていきなさい」
食卓へ置かれていたボトルを鞄へ入れる。
家の中では、俺が出ていく理由より、帰ってくる時間の方が大事らしかった。
それは助かった。
詳しく聞かれても、まだ説明しきれない。
扉を開けると、朝から空気が重かった。
七月も半ばを過ぎると、日陰へ入っても涼しいわけではない。
俺は上着のいらない肩を少し回し、学校へ向かった。
***
「それ、もう痛くないの?」
教室で鞄を置くと、白波が俺の肘を見た。
顔を上げてから、自分の腕を見る。
「ああ。もう平気」
「よかった。最初、けっこう擦ってたから」
転んだ、と話してある。
嘘ではない。
転んだ理由だけ、言っていなかった。
白波はプリントの束を揃え、二枚、俺へ渡した。
夏休みの課題について書いてある。
まだ休みに入っていないのに、やることだけ先に増えていた。
「もう、夏休みの予定って決めてる?」
「いや。まだ」
「私も。課題の量を見てから、考えることにした」
少し笑う。
俺もプリントの裏を見て、同じように笑った。
普通の会話だった。
隣の席で、普通に話せる。
最初にあの道で会ったときより、少しだけ自然になった。
そのことを嬉しいと思いながら、俺は別のものを考えていた。
また、この人の近くへ何かが来たら。
お守りで散らせるものなら、いい。
散らせないものなら、どうする。
「何も起きていない時間にまで、起きるかもしれないことを考えている。
そうなったのは、教わり始めたからだろうか。
それとも、教わり始める前から、ずっとそうだっただろうか。
授業のチャイムが鳴った。
考えていたことをノートの端へ書くわけにもいかず、俺は教科書を開いた。
***
第11班へ着くと、神代さんが机から顔を上げた。
「今日は少し、待ってもらってもいいかな。第1班の丹羽副隊が、もうすぐ来る」
俺は鞄を下ろしかけて、手を止めた。
「今日、ですか」
「急に時間ができたそうでね。君の予定に問題がなければ、と思って」
「大丈夫です」
返事が早くなった。
映像で見た人。
攻撃が届く前に動き、少しずらして、相手を止めていた人だ。
同じ感知系だと聞いてから、会ってみたいと思っていた。
「怪我の方は?」
神代さんが俺の手元を見る。
「もう、普通に動きます」
「よかった。今日は激しく動く予定にはしていないよ」
言われて、少し安心した。
同時に、がっかりした気持ちもある。
会えたら、あの動きを近くで見られるかもしれない。
そういう期待を、自分でもしていたらしい。
ひかりさんが自分の机から顔を上げた。
「あんまり頑張りすぎないでね」
「まだ、何もしてないけど」
「何かやらかしそうな顔してる」
俺は頬をかいた。
そんなに分かりやすいだろうか。
ひかりさんは笑うでもなく、俺の上着のポケットへ視線を落とした。
「お守り、持ってきた?」
「うん」
「ならいい」
それで終わりだった。
効かなかったから捨てろとは、誰にも言われていない。
助けられた回数まで、なくなるわけではないのだ。
机の脇へ座り、ノートを出す。
見学のあと、秋庭さんと振り返った内容が残っていた。
お守りを投げる前に報告しなかったこと。
見ることと抑えることを、同時にしようとしたこと。
転びかけた場所と、足を戻せた場所。
書いてあるのは、俺の失敗だけではない。
別の場所から反応が出たこと。退路が狭くなったこと。見学に選んだ場所の情報が足りなかったこと。
秋庭さんは、そのページを一度見てから言った。
「一人の反省だけで終わらせないために、みんなの動きを残すの」
俺はその言葉を、ページの下に書いていた。
今日はそこを見てから、ノートを閉じた。
***
丹羽さんは、思っていたより静かな人だった。
髪は映像で見たとおり短い。薄い上着を腕へかけ、手には小さな鞄を持っていた。
部屋へ入ったとき、ひかりさんがすぐ立つ。
「志乃さん」
「ひかり。少し背が伸びた?」
「そんなに会ってませんでしたっけ?」
「会ってはいるけど、立って並ぶことが少なかったから」
何でもないやり取りだった。
訓練映像で見た、近づくとすぐ負けそうな人とは、少し違う。
神代さんが俺を紹介する。
「牧瀬遼悟君。研修を受けていて、知覚について一度相談できればと思っていた」
「丹羽志乃です。第1班で副班長をしています」
俺は立ち上がり、頭を下げた。
「よろしくお願いします。映像、見せてもらいました」
「ああ、あれね。それで君は何を見えたんだい」
答えようとして、少し詰まった。
すごかった、では何も伝わらない。
「相手が振る前に動いて、手元を止めてました。大きく避けないで、次も動ける位置に」
丹羽さんがうなずいた。
「そこを見たなら、話が早い。今日は、君が何を見ているかも聞かせて」
俺は返事をした。
丹羽さんは鞄を置き、俺のノートへ目を向ける。
秋庭さんが椅子を持ってきた。
「まず、お話からにしましょう。試すのは、そのあとでいいわ」
三人で座る。
ひかりさんは少し離れた机へ戻ったが、スマホを開かずにこちらを見ていた。
***
俺は、昔から見えていた影や、音の話をした。
言い慣れないことばかりだった。
見える、と言っても、普通の目で見ている輪郭とは違うことがある。
聞こえる、と言っても、靴音や声とは違うことがある。
いままで、まとめて嫌な感じと呼んでいた。
丹羽さんは、すぐに自分の言葉へ置き換えなかった。
「今、何か分かる?」
聞かれて、俺は入口を見る。
紙が貼ってある。
その近くに、細い感じが残っている。
「入口のところ。あとは、丹羽さんの手の近くにも少し」
「私の手?」
「右の、指の間のあたりです」
丹羽さんは右手を開いた。
何も持っていない。
でも、さっきより少し、薄いものが減った気がした。
「いま、変わりました」
丹羽さんが秋庭さんへ目を向けた。
秋庭さんはすぐには何も言わず、記録用紙へ書いている。
「じゃあ、何が変わった?」
「まとまっていたのが、少し薄くなった感じです」
「それを見るために、何をした?」
「手を、見ました」
答えると、丹羽さんが少しだけ首を傾けた。
「その前に」
「前?」
「見る準備。何か、自分の中で変えたりはした?」
俺は思い出そうとした。
入口を見た。手を見た。
変わったから、変わったと言った。
それだけだった。
「……何も、してないと思います」
丹羽さんは俺の返事を聞いて、すぐに間違いとは言わなかった。
「そう。今日は、そういうことにしておきましょう」
秋庭さんがうなずく。
俺は二人を見た。
何か、答え方を間違えたのだろうか。
それとも、自分で気づいていない準備をしているのか。
丹羽さんは机の上へ、細い棒を置いた。
映像のものより、ずっと短い。
「持ち方を少し見ようか。難しい術ではなくて、道具を持って動く方」
俺は手を伸ばした。
棒は軽い。
握った瞬間、指へ力が入りすぎる。
「いま、リキんだね」
「前も言われました」
「じゃあ、前に言われたことを思い出せている。悪い話じゃない」
その返事に、少しだけ息が楽になった。
できていないことを、同じように言われた。
でも、前に言われたことが残っていると考えれば、何もしてこなかったわけではない。
***
動く練習は、本当にゆっくりだった。
丹羽さんが柔らかい棒を持ち、俺の肩の近くへ動かす。
俺は一歩ずれる。
足が開きすぎたときは、丹羽さんが止める。
「次、どちらへ出る?」
俺は足元を見て、答えた。
右なら出られる。
左へ行くには、戻さなければならない。
「避けたあとの場所まで考える。見えることは、動く前の時間を少し増やしてくれる。その時間を、何に使うかだね」
俺はうなずいた。
見えたら避けられる、と考えていた。
実際には、見えたあとでも、考えることがある。
「先に分かっても、身体が間に合わないです」
「間に合うように身体を動かす練習と、間に合わない位置へ最初から立たない練習をする」
丹羽さんは俺の立つ位置を指した。
壁に近すぎた。
下がれると思っても、二歩目で止まる。
「見えないところまで全部分かるようにしないと、戦えないと思っていた?」
少し考えてから、俺はうなずいた。
「ひかりさんみたいに強くないなら、それくらいできないと」
「まず、いま分かる範囲で、立つ場所を選んでみよう。全部分かる日まで、待ってはくれないから」
丹羽さんは棒を下ろした。
俺も手を下ろす。
汗が、背中へ流れていた。
速く動いたわけではない。
考えながら足を出すだけで、疲れる。
休憩の水を飲むと、喉が思っていたより渇いていた。
丹羽さんはもう一度、俺の見え方について聞いた。
俺は、さっきと同じようにしか答えられなかった。
「もう少し、別の確かめ方も考えたいね。次に時間が取れたら、準備して来る」
「今日だけでは、分からないですか」
「分かったことはある。でも、まだ決めない方がいいことのほうが多いわね」
俺はうなずいた。
会えば全部が分かると思っていたわけではない。
ただ、少しだけ期待していた。
その期待が全部なくなったわけでもなかった。
***
丹羽さんが帰ったあと、黒江班長に呼ばれた。
机の上には、研修の記録が揃っていた。
秋庭さんも神代さんもいる。
叱られる話ではない、と先に言われたのに、椅子へ座ると背筋が伸びる。
「今月で、一度区切りにする」
黒江班長が言った。
「基礎の研修期間が終わる。続けるなら、正式に所属するかを考えてもらいたい」
俺は、紙へ目を落とした。
自分の名前がある。
名前の下に、何日も記録が続いている。
来る前は、見えるものの話を誰にしても信じてもらえなかった。
ここには、話したことが紙になって残っていた。
「所属すると、すぐ現場へ?」
「研修が終わるのと、一人で何でもできるのは違う。学ぶことは続く。任せる範囲も、そのときの状態で決める」
神代さんが補った。
「学校や家庭の予定も含めて考えよう。今日は、答えを出さなくていいよ」
答えを求められないと分かると、少し安心した。
同時に、いまなら逃げられると思ってしまった。
「続けなかったら、どうなりますか」
黒江班長は顔を上げた。
「困ったときの相談先が消えるわけじゃない。教わったことも、なくならない。ただ、こちらの仕事へ参加することはできなくなる」
普通の生活へ戻れる。
誰にも命令されず、危ない場所へ行かずに済む。
学校が終わったら、そのまま家へ帰る。
俺はその生活を、ちゃんと知っていた。
知っているはずだった。
「見えるものは、変わらないですよね」
言うと、黒江班長はうなずいた。
「所属したから見えるわけではない。だから、所属しなければ見えなくなる、とは言えない」
俺はポケットへ手を入れた。
お守りの形が、指へ触れた。
これがあるから帰れる。
そう思える相手は、今でもいる。
でも、そうではない相手もいる。
「少し、考えます」
黒江班長は、ただうなずいた。
秋庭さんが紙を一枚、俺へ渡す。
日程や活動についての説明だった。
「分からないところがあったら、聞いてね。決める前に知っておきたいことは、遠慮しなくていいのよ」
俺は紙を受け取った。
大きな約束をするような、派手な言葉はなかった。
だからこそ、自分で決めなければならないのだと分かった。
***
廊下へ出ると、ひかりさんが窓の近くにいた。
神代さんを待っているらしい。
俺の手元の紙を見て、何の話だったか分かった顔になる。
「どうするの」
「まだ、考える」
「そう」
短い返事だった。
俺は紙を鞄へ入れた。
「ひかりさんは、どうやって決めたんだ」
「私の話を聞いて、その通りにする?」
「しないけど。参考には、なるかなって」
ひかりさんは少し考えた。
窓の向こうで、蝉の声がする。
「少しでもやめたいと感じたら、やめた方がいいと思う」
胸の奥が、少し沈んだ。
引き留めてほしかったのかもしれない。
ひかりさんは俺の顔を見て、続けた。
「怖くないって言って続ける方が、私は嫌。あのとき、怖かったんでしょ」
「怖かった」
「じゃあ、それも含めて考えればいいじゃん」
俺は窓を見た。
外は明るい。
通りを歩く人の影が、短く伸びている。
怖かった。
いまも、思い出すと足の裏が冷たくなる。
それをなかったことにしないと、ここへ残れないと思っていた。
そうではないのか。
「続けたら、また教えてくれる?」
ひかりさんが俺を見た。
「何を」
「逃げる以外のこと」
「そのために来てたんでしょ」
俺は少し笑った。
ひかりさんも、口元だけ動かした。
「まだ、逃げるのが一番うまいけどね」
「知ってる」
返すと、少しだけ気が楽になった。
何もできないと思っていた。
逃げることには、教わって変わった部分もある。
***
帰り道は、いつもと同じだった。
駅前の店から、人が出てくる。
自転車が坂を下りていく。
薄いものを感じた場所は、道の反対側へ避けた。
今日の俺なら、見つけた位置を連絡できる。
自分から近づく必要はない。
俺は道の端で止まり、神代さんへ短く送った。
交差点と、薄いものがあった場所。人が近くを歩いていること。
自分はいま反対側へ離れていることも、最後に足した。
返事が来るまで、その場で見張る必要があるのだろうか。
そう考えたところで、スマホが震えた。
『分かった。こちらで確認する。そのまま家へ帰って大丈夫』
俺は画面を見た。
いま見つけたものは、俺が何とかしなければならないものではない。
教わっているから、そうできるわけではない。
伝えたことを、引き受けてくれる人がいる。
横断歩道を渡り、いつもの道へ戻った。
その間、お守りを取り出さなかった。
前なら、薄いものを見つけたときから、投げるか逃げるかを考えていた。
今日は、その前に報告した。
できたことは、それだけだった。
けれど、自分の足で帰り道へ戻れた。
まだ正式に所属するとは答えていない。
続けなくても、相談はできると言われた。
そこに甘えて、これからも見つけたことだけ送って暮らす方法もあるのだろう。
その方が、危ない場所へ近づかずに済む。
俺は鞄の中の説明用紙を思い出した。
今日も誰かが、俺の送った場所へ行く。
俺が何年も避けてきたものを、仕事として確かめる。
その人たちと同じ場所へ立ちたいのか。
何もできないのが嫌だから、立てるようになりたいのか。
今の俺には、まだうまく分けられなかった。
スマホをしまい、足元を見た。
肘の傷は治ってきた。
あのときの怖さは、まだ残っている。
どちらも自分のことだ。
片方だけを見て、決めることはできなかった。
家の近くへ来ると、夕飯の匂いがした。
どこかの窓が開いている。
テレビの声が、道まで聞こえてきた。
この道へ帰ってこられることを、もう一度、ちゃんと考えたかった。
家へ帰ると、姉が扇風機の前で課題を見ていた。
「おかえり。今日、遅かったね」
「時間は、言ってた通りだろ」
「時間じゃなくて、顔。不景気な顔してるわねあんた」
言い当てられて、俺は鞄を床へ置いた。
玲奈はプリントを一枚めくり、ペンの先で問題を指す。
「先にシャワーでも浴びてきなさい。制服のままいられても汗臭いだわ」
俺は臭いといわれて苦笑いすつつ、部屋へ向かった。
家には、そういう言い方をしてくれる人がいる。
陰陽寮にも、違う言い方で待ってくれる人がいた。
机の上へ、お守りを置いた。
隣に、秋庭さんから受け取った紙を置く。
片方は、ずっと頼ってきたもの。
片方は、これから頼れるかもしれない場所について書かれたものだ。
どちらかを捨てる必要はない。
でも、紙の方へ進むかどうかは、自分で決める。
俺はスマホを開き、うらばあちゃん宛ての画面を出した。
何を書くか考えてから、短く打つ。
『教わるのを続けるか、考えてる。怖いこともあったけど、前より分かることは増えた』
送信して、スマホを伏せた。
返事が来る前に答えを決める必要はない。
誰かの返事を、そのまま自分の答えにする必要もない。
机の紙をもう一度読む。
現場へ行く日。行かない日。相談する相手。
知らない言葉の中に、自分の生活を置く場所が少しずつできていた。
怖いから、戻りたい。
分からないままに戻るのは、もっと嫌だ。
俺はその二つを、初めて別々に考えていた。




