第10話:眼鏡が本体という風評被害
「ただのアルバイトだよ」
言った瞬間、自分でも唐突すぎると思った。
八月に入ったばかりの、夏休みの朝だった。
母さんは食卓の向こうで、俺が置いた紙を見ている。
活動する日と帰る時間、連絡先。それから、簡単な説明。
大事なところほど、言葉を選んで書いた。
「欲しいゲームがあるからアルバイト始めただけだよ」
「何のアルバイト?」
母さんが顔を上げる。
俺は少し考えた。
「交通量調査とか、どれだけの人が行き来しているのか数えるやつ」
「まぁ、あんたがやるならそういったのでしょうね」
否定されなかった。
そのことに安心していいのか不安にはなりつつ、俺は続けた。
「いままで研修期間だったけど、今週からは本格的に続けてみようかなと思ったんだ」
言い終えると、母さんは紙を置いた。
俺の腕へ、一度だけ視線を向ける。
傷は、もうほとんど分からない。
「帰る時間が変わるなら、連絡して。無理をしていると思ったら、お母さんやめさせるからね」
「分かった」
「分かっただけじゃなくて、忘れないように」
姉が横から、ヨーグルトのふたを開けながら言った。
「あと、夏休みだからって課題なくならないよ」
「知ってる」
「知ってるじゃないよ、さっさと終わらせなさい。っていうか私の時は駄目って言ったのに、りょうはいいの」
「そりゃ高校生の娘がガールズバーで働くって言ったらとめるでしょ」
「いいじゃん、ケチ」
不貞腐れながらヨーグルトを書き込む姉の姿を見ながら、自分のことを棚に上げて姉のアルバイト候補が却下される姿を見る。今月で何度ものやり取りなのか、すでに見慣れてきた光景である。
俺に飛び火しないよういつものようにそっと台所逃げ込む。
紙をもう一枚、冷蔵庫に張り付けた。
これで、帰りが遅くなる説明ができた。
全部を話せたわけではない。
でも、今はこれくらいでいい。
そう思っていた。
***
第11班へ着くと、秋庭さんが俺を打ち合わせ用の机へ呼んだ。
黒江班長と神代さんが、先に座っている。
今日は、その机の前へ立って挨拶する。
答えは、昨夜のうちに神代さんへ伝えていた。
まだ怖い。それでも、教わることを続けたい。
そう書いて送る前に、俺は一度、文章を読み直した。
所属しなくても、見えるものは残る。
道を変えれば済む日も、そうでない日も、きっとある。
次に何か起きたとき、何も知らなかったからと言い続けたくはなかった。
強くなれると約束されたから、決めたのではない。
分からないと言えば確かめてもらえたことと、帰る時間まで気にしてもらえたことが、俺には残っていた。
その人たちと、もう少し先まで学びたいと思った。
いま、目の前にその人たちがいる。
俺は鞄から手を離し、顔を上げた。
「牧瀬遼悟です。これからも、教わりながら続けたいと思います。よろしくお願いします」
練習した言葉だった。
家で声に出したときより、少しだけ固くなった。
黒江班長が、うなずく。
「こちらこそ。第11班の一員として歓迎する」
その言葉で、胸の奥が少し温かくなった。
研修に来た人ではなく、ここにいる人になる。
部屋の机の数も、名前の書かれた予定表も、急に近く見えた。
「ただ、研修が終わったから何でもできる、という扱いにはしない。分からないことは聞く。体調は伝える。学校と家の予定も忘れない」
「はい」
最初にここへ来た日と、同じ注意だった。
そのときは、当たり前のことだと思った。
いまは、どれも忘れると困ると知っている。
神代さんが、俺の前へ薄いファイルを置いた。
所属する班と、連絡する先。活動の記録についての紙が入っている。
秘密の紋章や、強い武器は出てこなかった。
名前を書く場所が増えた。
「このあとも、秋庭さんの指導を受けながら、現場へ出る範囲を考える。今月は、ひかり君と一緒に動くことが多くなると思う」
俺は横を見た。
ひかりさんが自分の机の脇に立っている。
「よろしく」
短く言われて、俺も返した。
「よろしく」
言うだけなら、もう少し前からできていた。
今日の言葉は、少し違う。
逃げるしか知らなかった俺が、同じ場所へ行く相手として返している。
秋庭さんが、ファイルの一枚を指した。
「後で、一緒に確認しましょう。分からないまま署名する必要はないからね」
俺は紙をめくった。
強くなるために残ったはずなのに、最初にやることは書類を読むことだった。
そういうところまで含めて、ここで暮らす人の仕事なのかもしれない。
***
書類の確認が終わると、神代さんと一緒に第1班の事務所へ向かった。
手元には、さっき署名した紙の入ったファイルがある。
「まだ、手続があるんですか」
「伝力の登録と、認定証の受け取り。正式に所属した人は、こちらで済ませるんだ」
事務所の受付で名前を伝えると、担当の人が俺の書類を受け取った。
奥へ呼ばれ、机の前へ座る。
神代さんは、少し離れた椅子へ腰を下ろした。
机の上には、小さな板が置かれていた。
担当の人は俺の名前と所属を読み上げ、間違いがないことを確かめてから、板を手元へ寄せた。
「では、こちらへ少し伝力を通してください。強くしなくて大丈夫です」
指先を近づける。
板に触れ、いつもの練習を思い出した。
見てもらうと思うと、余計に力が入る。
担当の人が、少し待ってから言った。
「急がなくていいですよ。そのまま、もう一度」
息を吐き、やり直す。
指先から板へ、細く伝力が移った。
俺はその流れを見ていた。横で、担当の人が何かを確かめている。
「はい。ここまでで大丈夫です」
手を離した。
派手な光も、大きな音もなかった。
担当の人は書類の欄を埋め、俺へ所属の認定証を差し出した。
『牧瀬遼悟 第11班』
自分の名前なのに、印字された文字をもう一度読んだ。
「伝力も、名前と一緒に登録するんですね」
「そうです。今回の所属手続と合わせて、記録を作ります」
担当の人が、俺の認定証と机の書類を見比べた。
俺も、名前が合っていることを伝える。
認定証をケースへ収めると、神代さんが椅子から立った。
廊下へ出てから、もう一度だけケースを開いた。
何か強い物をもらったわけではない。
それでも、研修に来ていたときには持っていなかった物だった。
「なくさないようにね」
神代さんに言われ、俺は鞄の内側へしまった。
外のポケットより、少し奥にした。
第11班へ戻ると、秋庭さんが机の上を片づけていた。
俺の手元を見て、穏やかに笑う。
「受け取れたのね。じゃあ、今度はこちらの続きにしましょう」
***
「じゃあ、身体を動かすところから」
秋庭さんが練習の部屋へ案内した。
床には、見慣れたテープが残っている。
壁際に重い机はない。
今日は、低い台と、柔らかい棒が用意されていた。
正式所属の初日だ。
何か、少しは変わるかもしれない。
そんな期待を、自分でもしていた。
秋庭さんは俺の足元を見て、姿勢を直した。
「最初は、支える方。踏み出す前に、足と膝のところへ必要な分を回してみて」
俺は呼吸を整えた。
手のひらで練習した感じを、今度は足の方へ向ける。
身体の中を全部まとめて変えようとすると、うまくいかない。
今日は膝と、足首の近く。
低い台へ足を載せる。
体重を移した。
いつもより、少しだけ支えやすい気がする。
気がするだけかもしれない。
「いま、変わった感じは?」
「膝が、少し楽です」
「じゃあ、戻してからもう一度。変えていないときと比べましょう」
戻す。
少し不安になる。
もう一度、同じように回す。
今度は力を入れすぎて、足の外側へ薄く漏れた。
「増えたわね。動きを大きくする前に、量を落としてみて」
秋庭さんの言葉に、俺は止まった。
ひかりさんは壁際から見ている。
俺が台を降りると、何か言いたそうな顔をした。
「何」
「いま、跳ぶつもりだった?」
「ちょっとだけ」
「まず立ててからでしょ」
何も言い返せなかった。
強化したら、もっと高く跳べる。
そういう分かりやすい成果を、見たかった。
でも、普通に立つ足ができていないなら、跳んだあとが危ない。
二回目は、台へ上がって、降りるだけにした。
三回目は、そのあと一歩動いた。
少し楽だった。
それ以上のことは、起きなかった。
***
手の方も、同じようだった。
棒を持つと、握る力が変わる。
必要な分だけ回すつもりでも、腕まで固める。
力が増えても、握り方が悪ければ棒の先は揺れた。
「筋力だけを増やしても、使い方は勝手に上手にならないのよ」
秋庭さんが言った。
「今、持っているものを、同じ位置へ戻せるようにしましょう」
俺は棒の先を見る。
床の印へ近づけ、戻す。
少しだけ速くすると、肘が外へ出た。
もう一度、戻す。
ひかりさんが棒を受け取り、同じ動きをした。
速い。
でも、速さより先に、戻った位置が同じなのが分かった。
腕へ集まった伝力が、動いたあと、すぐに変わる。
ずっと強くしているわけではないらしい。
「どこを見てるの」
聞かれて、俺は答えた。
「いま、振ったあとに薄くなったところ」
「ああ。それは、次へ回すから」
ひかりさんは棒を戻した。
俺はもう一度持つ。
同じように回そうとしても、うまくいかない。
振ったあと、余分なものがまだ腕へ残った。
「見えてても、そうならないんだな」
思わず言うと、ひかりさんが肩をすくめた。
「見えてるだけで、私と同じにできたら困るんだけど」
確かにそうだ。
ひかりさんが覚えてきたことを、俺が一度見ただけでやれるはずはない。
分かっている。
分かっているのに、少し悔しかった。
***
休憩では、水を飲み、手首を回した。
秋庭さんは次の内容を説明する。
消耗したところを、少し戻すための基礎。
回復に使う伝力の扱いだという。
「怪我をしたら、これで全部治せると思わないでね。痛みが減ったから大丈夫、という判断もしないこと」
俺はうなずいた。
ひかりさんも、そこでは何も茶々を入れない。
見学のあと、医療の担当へ連れていかれたことを思い出す。
帰れるくらいに見えても、確認する必要があった。
いまは、少し張っている腕の感覚を確かめる。
秋庭さんが示した範囲へ注意を向け、伝力を細く回した。
温かい感じはある。
肩まで楽になるわけではない。
手首の重さも、すぐには変わらない。
「どう?」
「……気持ち、楽になったかもしれません」
「では、そこで止めましょう。無理に続けて、さらに疲れてしまわないように」
秋庭さんは記録した。
俺は自分の腕を見た。
強い力があると言われた。
教育を受ければ、一人前になれるとも言われた。
いまの俺は、腕が少し楽になったかもしれない、というところだ。
「向いてないんですかね」
言うと、秋庭さんは首を横に振った。
「基礎として使える部分はあるわ。ただ、得意として伸ばすものかは、分けて考えたいの」
「肉体強化も、回復も?」
「どちらも、今は最低限の扱いから。知覚と同じ速さでは進まないかもしれない」
俺は机の紙を見た。
札の練習も、まだ得意ではない。
使える力があるという話と、何にでも使えるという話は違った。
ここへ来てから、そればかり知っている気がした。
***
神代さんが持ってきた箱には、いろいろな小物が入っていた。
短い棒、薄い板、古いペン、金属の輪。
それから、眼鏡が二つ。
「今日は、道具を通す方も比べてみよう」
神代さんが机へ並べる。
俺は、つい棒の方へ手を伸ばした。
丹羽さんが使っていたものを思い出していた。
「まず、それからでもいい」
棒へ、少しだけ伝力を通す。
指先には、流れが感じられる。
棒の端まで続いているかは、曖昧だった。
増やすと、途中から外へ漏れる。
「止めて、一度戻そう」
神代さんが言った。
秋庭さんが横で記録する。
ペンは、少し違った。
通る場所が細い感じがする。
金属の輪では、触れた近くへ偏った。
どれも使い方は知っている。
それでも、同じようにはいかなかった。
最後に、眼鏡を持った。
薄いフレームと、透明なレンズ。
かけるものだということは知っているが、俺はいままで必要としていなかった。
何となく、後回しにしていた。
指を、つるの根元へ置く。
同じように通した。
今度は、途中の感じが分かりやすかった。
流れが、持っているところから離れる。
レンズの端へ続いている。
俺は少し、手を動かした。
「いま、こっちに」
神代さんと秋庭さんが顔を上げた。
「細く通っているね」
「棒より楽です。最後まで、続いてる感じがします」
俺は量を少し落とした。
落としても、通る場所を見失わない。
そこが、さっきと違った。
「もう一つでも試しましょう」
秋庭さんが、形の違う方を出した。
俺は持ち替えた。
こちらでも、棒より通しやすい。
細かな違いはあったが、途中から漏れる感じは少なかった。
ひかりさんが机の向こうから、眼鏡を見る。
「それ、かけたら?」
俺は指を離し、耳へかけた。
鼻の位置が少し合わない。
鏡もなく、かけた感じだけが分かる。
「どう」
「どうって、普通に見えるけど」
「急に別人にはならないか」
ひかりさんは少しだけ笑った。
俺は外そうとして、神代さんに止められる。
「かけた状態でも、少しだけ比べてみよう。見るためではなく、伝力の通し方を確認する」
言われた通りに、眼鏡の近くへ意識を向けた。
頭へ全部集めようとすると、別の感じになる。
眼鏡へ通す。
その細い場所だけを、確かめる。
少し楽だった。
何かが急に強くなったわけではない。
同じ量を通すとき、余計に握り込む必要がない感じだ。
ひかりさんが、わざと丁寧な声を出した。
「本体は、こっちですか」
眼鏡を指している。
俺は顔をしかめた。
「俺が付属品みたいに言うなよ」
「そっちの方が、今日うまく動いてるから」
言い返せなかった。
身体の方は、まだあまりうまく動いていない。
だからこそ、少し悔しい。
***
秋庭さんが、眼鏡のつるを軽く持った。
「通しやすい道具が見つかったのは、いいことよ。でも、道具が君の代わりに何でもしてくれるわけではないの」
俺は眼鏡を外し、机へ置いた。
「何で、これなんですかね」
「理解している機能や、注意を向ける先が関係することがあるわ。長く自分の伝力に触れてきたものなら、馴染みも違う。今日の結果だけで、理由を一つには決めないけれど」
見るための道具。
自分が何をしているかを、考えやすいものなのかもしれない。
でも、それで全部分かったことにはならない。
「長く使えば、もっと楽になる?」
「馴染んでいく部分はあるわ。ただ、使い方を知らないまま、時間だけ待てばいいという話ではないのよ」
神代さんが、棒と眼鏡を並べた。
「棒も練習をやめるわけではないよ。身体を動かす道具と、伝力を通す経路は、統一する必要もないからね」
俺は、少し安心した。
戦うために眼鏡を投げろと言われたら、どうするかと思った。
お守りの次は眼鏡、というのは嫌だ。
「道具を通して作用を出す段階を、起動と呼ぶことがあるの」
秋庭さんが言った。
「今はその前に、安定して通せるかを比べているところ。眼鏡が合うからといって、すぐ特別な技能が増えたわけではないわ」
俺はうなずいた。
できることが増えたと思ったら、まだ、その手前だと言われる。
でも、棒だけを見ていたときより、進む場所は増えた。
***
練習の終わりに、丹羽さんとの次の確認について聞いた。
神代さんが、連絡を受け取った画面を見せる。
「今度は、こちらの練習の様子も一緒に確かめたいそうだ。君が見ているものと、丹羽さんの感じ方に違いがあるのかもしれない」
「同じ感知系でも?」
「同じ分類でも、方法まで同じとは限らない」
俺は、丹羽さんの手を見たときのことを思い出した。
何をする前に見えたのか、と聞かれた。
その前には、何もしていなかった。
「俺、何か出してから見てるわけじゃないんですけど」
秋庭さんが顔を上げた。
「そこを、一緒に確認したいの。自分では意識していない使い方もあるから、今日の記録も残しておきましょう」
分かったと思うと、分かっていないところが見つかる。
それは、もう少し慣れた。
ただ、今日は正式に所属した日だ。
もう少し格好のいい成果があってもよかったのに、と思ってしまう。
ひかりさんが眼鏡のケースを持ってきた。
「忘れないでね、本体」
「その呼び方、続けるのかよ」
「今日だけ」
信用できない。
それでも、ケースを受け取る。
中には、神代さんが練習用に貸してくれた眼鏡が入っている。
今日、何でもできるようになったわけではない。
肉体強化は少し。回復は、気持ち楽になったかもしれない程度。
札は、まだ苦手。
眼鏡へは、通しやすい。
並べると、地味だった。
俺はファイルを鞄へ入れた。
その地味な結果も、俺の名前の下へ記録される。
「これがないと、見えなくなるわけではないですよね」
ケースを見ながら聞くと、神代さんは首を横に振った。
「そういう道具を貸したわけではないよ。君は、眼鏡を使う前から見えていた。今日、比べたのは通し方だ」
俺は眼鏡を出し、もう一度かけた。
入口の紙を見る。
細い感じは、いつもと同じ場所にある。
外す。
同じものが、まだ感じられる。
「やっぱり、景色はあまり変わらないです」
「そこも、今日分かったこととして残しておきましょう」
神代さんは、俺のノートを指した。
俺はケースを机へ置き、書き足した。
眼鏡は、見る力そのものではない。
いまのところ、通すときの経路が分かりやすい。
秋庭さんが、その二行を見た。
「物を持つ前に、何のために使うかを知っておくのも大事よ。眼鏡を持てば全部見えると思って、見えない場所へ入ったら困るでしょ」
俺は、水門の通路を思い出しかけた。
ひかりさんが棒を片づける音で、目を戻す。
「分からない場所は、分からないままですね」
「そう。その区別ができたなら、道具を選ぶ意味も見えてくるわ」
俺はもう一度、棒とケースを見た。
同じように手に持てるものでも、同じようには使わない。
神代さんは、眼鏡の片方を別の箱へ戻した。
「貸すのはこちら一つにしよう。鼻のところは調整しておく。慣れるまでは、歩きながら通す練習はしないで」
「家で、かけてみるだけなら」
「それはいい。まず、使っていて邪魔にならないようにね」
ひかりさんが、俺の顔をのぞき込んだ。
「ぶつけて壊したら、本体が大変」
「本体は俺だって」
「はいはい」
俺はノートを閉じた。
笑われたことまで書く必要はない。
ただ、全部がうまくいかなかった日として覚えるのも、少し違う。
通りやすい経路が一つ見つかった。
身体の練習で足りないところも分かった。
正式に所属した日に増えたのは、そんな小さな確認だった。
ここに残ると決めたのだから、そこから始めるしかない。
***
帰りの道で、スマホへ母さんからメッセージが来た。
『夕飯、いつもの時間で大丈夫?』
俺は時間を見て、間に合うと返した。
学校が休みでも、家の食事はある。
新しいファイルが増えても、今日の洗濯物は出さなければならない。
ポケットのお守りへ触れる。
鞄の中には眼鏡のケース。
頼れるものが増えたと言うには、まだ早い。
でも、頼れるようにしていくものが、一つ増えた。
俺はその重さを確かめながら、いつもの道を歩いた。
***
――神代の電話。
遼悟が帰ったあと、神代は廊下の静かな場所で電話をかけた。
「今日は、予定していた時間に終わりました。怪我もありません。帰り道に入りましたので」
『ありがとうございます。本人は、アルバイトで説明できていると思っています』
母親の声に、神代は小さく息を吐いた。
「こちらから先にお話ししたことを、ご本人へ伝える時期は、ご家庭でご相談ください。こちらも、必要な説明は続けます」
『ええ。何を見ているのかは、以前から少し話していましたから。知らないまま遠ざければ済むとは、思っていません』
「活動の範囲を変えるときは、改めてご説明します。無理をさせないことは、約束します」
『本人にも、家での約束は守ってもらいます。夫にも、今日のことを伝えておきますね』
電話を終えると、神代は遼悟の活動予定へ目を戻した。
新しく書かれた名前の周りには、大人たちが確認する欄も残っていた。




