第7話:現場見学(見学だけとは言っていない)
「今日は、見つけても近づかない。動くときは、私に言ってから」
次の週末、神代さんは建物を出る前にもう一度確認した。
俺はうなずいた。
隣でひかりさんが、靴のかかとを床へ軽く打ちつけている。
「何回目?」
「必要なら、何回でも」
神代さんは俺から目を離さずに答えた。
「もし私たちがすぐに動くように言ったら、理由を聞くのは移動してから。分からない指示は、その場で分からないと言って」
「はい。俺が何か感じても、勝手に確かめない」
自分の言葉で返すと、神代さんはうなずいた。
今日は現場を見学する。
俺の役目は、教わった範囲で気づいたことを伝えること。処理をするのはひかりさんで、俺を含めた周囲を見るのは神代さんだ。
その区別は、出かける前から何度も聞いていた。
秋庭さんが薄い上着を差し出した。
「これも持っていってね。汗をかいたまま冷えると、身体に負担がかかるから」
俺のものだった。練習の部屋へ置いていたのを忘れていた。
受け取ると、秋庭さんは俺の手元を見た。
「お守りは?」
「持ってます」
「なくさないようにね。今日はそれを投げる練習ではないからね」
俺はポケットの上から形を確かめた。
ひかりさんは、その動作を見てから外へ向き直る。
いつものように何か言うかと思ったが、何も言わなかった。
黒江班長は机の向こうから、短く声をかけた。
「帰ったら、見たことを聞かせてくれ」
「はい」
報告できるものを持って帰る。
そのことを考えて、俺は鞄を部屋に置いた。
両手が空いている方がいいと言われたからだ。
胸の内側にはスマホ。ポケットにはお守り。
動きやすい靴は、初めてここへ来た日と同じだった。
***
最初の連絡は、歩いている途中で入った。
神代さんがスマホを見て、ひかりさんへ画面を向ける。
駅の近くの地図に、小さな印がついていた。
「沙羅君から。立体駐車場の裏、二階の通路」
「まだ、あそこに残るんだ」
ひかりさんが言う。
俺は二人を交互に見た。
「行ったことがある場所ですか」
「何度か。見つけた人が位置と状態を送ってくれる。今日は水城沙羅という班員が、巡回の情報を見ている」
神代さんは画面をしまった。
「感知が得意な人でも、全部を同時に見ているわけではない。ほかの情報と合わせて、確かめているんだ」
地図の印だけで、全員が走り出すものだと思っていた。
神代さんは歩く速さを少し上げただけだった。
ひかりさんも前へ飛び出さず、俺の少し先を歩いている。
駐車場の裏は、表の通りより暗かった。
コンクリートの壁に、古い雨の跡がある。車の出入りする音が、建物の内側で低く響いていた。
神代さんが立ち止まり、俺を呼んだ。
「ここから、一緒に動いて。離れないように」
「隠形ですか」
「そう。私たちが周囲の目を引かずに作業するために使う」
神代さんが袖口へ指を入れた。
小さく折られた紙が一枚、指の間から現れる。
それが壁際へ滑るように移動した気がして、俺は目で追った。
紙の端が、普通の風とは違う向きに動く。
「式神ですか、それ」
「手伝ってもらっている。見ている間も、足元には気をつけてね」
俺はすぐ視線を戻した。
全部に名前がつき始めると、全部を見ていたくなる。
でも、階段を踏み外したら、見学どころではない。
二階へ上がる途中で、男性とすれ違った。
鍵を指で回しながら、こちらへ来る。
俺は道を空けるつもりで端へ寄った。
男性は、俺の顔を見ることなく下へ降りていった。
「見えなかったんですかね」
小声で聞く。
神代さんは歩きながら答えた。
「気に留めなかった、くらいに考えておこう。見えないから何をしてもいいわけではないよ」
喫茶店の水を思い出した。
音は消えない。
人とぶつかることもある。
俺は手すりに触れ、階段の幅を確かめた。
***
通路の奥へ行くと、胸の内側が少し重くなった。
昔から知っている感覚だった。
俺は足を止めかけ、神代さんの袖の位置を見た。
「あそこに、います」
壁と天井の角を指した。
空気が薄く引きつっている。
明るい場所より暗い場所の方が濃く見えるだけで、色があるのかは分からない。
けれど、そこだけ、壁までの距離が曖昧になっていた。
「どのくらい?」
「1mくらい。いや、端が伸びてるので、もう少し」
答える間に、薄いものが壁を離れた。
肩が上がる。
俺の身体は、説明より先に逃げる準備をした。
神代さんが手を軽く上げる。
「ここで見ていよう」
ひかりさんはその間にも歩いていた。
俺なら距離を取るところへ、迷わず近づいていく。
右手が動く。
伝力が手の周りに集まり、薄いものの端へ触れた。
空気が一度、押し広げられたように見えた。
濃かったところが裂け、天井へ向かって薄く散る。
ひかりさんが手を下ろしたときには、もう重さがほとんどなくなっていた。
「終わり」
俺は返事をしなかった。
まだ、薄いものがいた場所を見ていた。
「……それ、俺がユラギって呼んでたやつです」
「こっちでは、干衝霧って呼んでるわ」
ひかりさんは俺の方へ戻りながら言った。
「霧みたいに、形を保ってないやつ」
「あれが、干衝体なんですか」
「その中の一つだね」
神代さんが補った。
「形が安定していないものを、干衝霧と呼んでいる。名前が違うからといって、君が見てきたものまで別物になるわけではないよ」
俺は、いなくなった角を見る。
ずっと避けてきたものに、名前がついた。
ひかりさんは、それを、終わりと言って帰ろうとしている。
その速さに、置いていかれた気がした。
「毎回こうなんですか?」
「場所にもよる。近づく前に、周りを見ないといけないし」
ひかりさんが神代さんを見た。
神代さんは壁際へ近づき、さっきの紙を手へ戻した。
俺には、散った伝力の薄い跡がまだ感じられる。
「少し、残ってます」
「そうだね。まとまっている感じは?」
「ないです。上に、薄く」
「分かった。報告も、その言い方でいい」
神代さんがスマホへ短い文章を入れる。
倒したことだけでなく、残り方も伝えるらしい。
「見つかった場所、報告と少しずれてませんでした?」
地図の印を思い出して聞くと、神代さんはうなずいた。
「動いていたからね。連絡をもらった場所は、探し始める目安。着いたときもそこにいるとは限らない」
「沙羅さんも、ずっと見てるわけではないんですね」
「うん。君がここで見た情報も、一緒に残す」
俺の答えが、送られた情報へ足される。
見学なら、見ているだけだと思っていた。
今いる場所でしか分からないことを、短く伝えるだけでも、仕事の途中へ入ることがある。
神代さんは送信してから、もう一度通路を見た。
ひかりさんも、階段へ向かう前に足を止める。
散ったあとを確かめる。その間にも、人の足音が聞こえる。
俺は二人の後ろで、その順番を覚えようとしていた。
俺は壁の角へ最後に目をやって、二人について階段へ戻った。
***
二つ目は、駅の裏にある自転車置き場だった。
ひかりさんが立ち止まって、前の列を眺める。
自転車のかごには、小さな買い物袋が入っていた。通路の向こうで、女性が鍵を探している。
神代さんはそこへ近づかず、俺を日陰の側へ寄せた。
「いま、感じる場所を言ってみて」
俺は、駐車場で覚えた言い方を思い出した。
あそこ、では伝わりにくい。
どの列で、何の近くか。
「右から二列目。青い自転車の後ろ、地面の近くです」
「動いている?」
「前の方へ、少し。女性の右足の近くです」
神代さんの声が、少しだけ低くなる。
「ひかり君」
「見えてる」
ひかりさんが通路へ入った。
女性は鍵を見つけ、自転車を引き出そうとしている。
俺は口を開きかけた。
声をかけたら、昨日と同じようにこちらへ来るだろうか。
その前に、神代さんが小さく手を動かした。
女性が、通路の反対側へ目をやる。
引き出しかけた自転車の向きを、少し変えた。
ひかりさんは空いた場所へ足を入れ、薄いものの流れを、手の先で切った。
俺には、その一瞬が見えた。
女性は自転車を押しながら、俺たちのそばを通り過ぎていく。
何も言わない。
振り返りもしない。
俺は、自分のポケットの上へ置いていた手を下ろした。
お守りを出す必要はなかった。
「あの人、気づかなかったんですね」
「気づかずに済んだなら、それでいい」
神代さんはそう言って、女性の行く先を見ていた。
視線は、角を曲がるまで戻らなかった。
「いつも、こうやってるんですか」
「できるだけ。危ないと思ってから逃げてもらうより、危ない場所へ入らずに済む方がいい」
昨日、俺は白波に嘘をついた。
落としたぞ、と言って、振り返らせた。
うまいやり方ではなかった。
ただ、似た目的で、もっと上手に動く人たちがいる。
ひかりさんが戻ってきた。
「今の場所は、言い方よかった」
俺は顔を上げた。
「あそこ、じゃなくて?」
「あそこって言われても、どのあそこよ」
返事は短かった。
それでも、練習で言われたことが現場で使えたのだと思うと、少し嬉しかった。
喜んだら漏れる量が変わることまで思い出し、すぐ落ち着こうとした。
神代さんはそれに気づいたらしい。
「今は、無理に抑えようとしなくていい。見ることと、私たちの指示を聞くことを優先して」
全部を一度にできるようになる必要はない。
今日も同じことを言われた。
ただ、机の前より、その意味は大きかった。
自転車置き場を出たところで、神代さんは一度、隠形を弱めると説明した。
人通りのある道へ戻り、普通に歩く。
向こうから来た人が、俺たちを避けて通った。
さっきの駐車場では意識されなかったのに、今は、ちゃんと道を空けてもらえる。
「ずっと使ってるわけじゃないんですね」
「必要な範囲で。何のために使っているかを、忘れないようにしている」
神代さんは歩道の端へ寄った。
ひかりさんも、歩いてきた子どもを避ける。
その子はひかりさんを一度見て、すぐ親のところへ戻った。
「隠形の中だと、相手が避けてくれるとは限らないからね」
俺は駐車場の階段で、自分から端へ寄ったことを思い出した。
ぶつからなかったのは、見えない力が壁を作ってくれたからではない。
自分で避けたからだ。
「自分で使えるようになったら、帰り道でも使っていいんですか」
神代さんがこちらを見た。
少しだけ、返事をする前の間があった。
「まず、どうして使いたいかを考えよう。人と顔を合わせたくないから、というだけなら、別の方法をおすすめするよ」
俺は口を閉じた。
昨日のひかりさんに声をかけられたことや、白波に説明した朝を思い出していた。
気まずいときに見つからなければ、楽だと思った。
「……便利そうだったので」
「便利な術ではあるよ。ただ、横断歩道で運転手に気づかれなかったら、危ないだろう?」
その場面を想像して、俺は道路へ目をやった。
車は、俺がいなくなるから止まるわけではない。
見つけてもらえないまま、そこにいる。
「使わない方がいい場所もあるんですね」
「ある。覚えるときは、使う練習と使わない練習を一緒にする」
止める方が難しい。
伝力の練習で、自分で言った言葉が戻ってきた。
出すものが違っても、使ったあとを考える必要がある。
ひかりさんが、通りの先の店を指した。
「昨日の店、あっち」
俺は看板を見る。
喫茶店の窓の向こうで、店員がトレーを持って歩いていた。
今日は水を探している様子はない。
座っている客の前へ置き、普通に戻っていく。
「あれ、悪いことしちゃいましたね」
思わず言うと、神代さんが小さくうなずいた。
「私があとで説明して、注文と会計は済ませた。君たちを先に外へ出したから、見ていなかったね」
「……見てないです」
俺は店を振り返った。
あの日は、自分のことで頭がいっぱいだった。
神代さんが店の中へ残った短い時間を、気にしていなかった。
「神代さん、仕事多いですね」
「だから、引率者だって言ってるでしょ」
ひかりさんが先に答えた。
神代さんは、まったくその通りだという顔をした。
「ひかり君が水が届くまで待ってくれれば、少しは私の負担が減るんだけどね」
「待っても来ないじゃん」
「それは、私の使い方の問題だからね」
俺は笑った。
術が便利でも、喫茶店で水が来なくなる。
そういう面倒まで含めて、使うものなのだ。
***
次の連絡を待つ間、少し離れた自動販売機の前で休んだ。
俺は買った水を一口飲んだ。
ひかりさんはベンチへ座らず、建物の陰で上着の袖を直している。
「今日、こんなのがずっと続くんですか」
「日によるよ」
神代さんが答える。
「空振りもある。行ったときには散っていることも、見間違いだったこともある」
「いまの二つは、ひかりさんがすぐ片づけましたけど」
「片づけやすいものを、見学に選んでいるからね」
俺はペットボトルを下ろした。
たまたま楽な現場ばかりなのではなかった。
俺がいるから、そういう現場へ来ている。
「もっと、難しいのも?」
ひかりさんが、通りの向こうを見たまま答えた。
「実体を持ってると、また違う」
「触れるものってことですか」
「向こうも、普通に触ってくるってこと」
言われて、駐車場の薄い影を思い出した。
形がないから怖かった。
形があれば、もっと分かりやすいものになると思っていた。
それは、俺の都合のいい考えだったのかもしれない。
「そんなに出るんですか」
「この区域で、最近ちゃんと実体型の対応をするのは、月に一体くらいかな」
神代さんは、断定しすぎない声で言った。
「場所や時期で変わるから、今月もう出たから安心、というものではないけど」
ひかりさんはポケットへ片手を入れた。
「大半はさっきみたいなの。だからって、触られていいわけじゃないけど」
俺はうなずいた。
雑魚、と言いかけてやめた。
俺は、その大半から何年も逃げてきた。
大きな分類の中では軽い相手でも、俺にとって軽いとは限らない。
神代さんのスマホが震えた。
画面を見た神代さんが、ベンチから立つ。
「もう一か所、確認して帰ろう。水門の脇の管理通路。人が入らない区画で、薄い反応が残っている」
ひかりさんが、ようやく俺を見る。
「疲れてる?」
「まだ、大丈夫」
答えてから、少しだけ考え直した。
「足は平気です。頭は、ちょっと疲れたかもしれない」
神代さんはうなずいた。
「じゃあ短く。確認して、見る必要がなければ戻ろう」
自分の状態を言うのも、今日の仕事だった。
俺は水をしまい、二人に続いて歩き出した。
***
水門の近くは、湿った風が吹いていた。
川沿いの遊歩道から、金網の柵を隔てて、管理用の建物と階段が見える。
コンクリートの壁に苔がつき、下の通路には水の跡が残っていた。
神代さんが入口のところで、作業着の男性と短く話した。
俺たちは少し離れて待つ。
何を言ったのか、全部は聞こえなかった。点検、という言葉だけが耳に入った。
男性は建物の方を示し、鍵を開けてくれた。
「あの人は、知ってるんですか」
「仕事に必要な分だけ。説明する範囲も、人によって違う」
神代さんは扉を押さえ、俺を先に通した。
ひかりさんが前へ出る。
階段の先には、下へ続く狭い通路があった。
壁沿いに配管が走り、奥で水の流れる音がする。
胸の奥が、少し重くなる。
俺は神代さんへ伝えた。
「下の方に、薄いのがあります」
「入口から見える?」
「形までは。奥へ続いてる感じがします」
神代さんは立ち止まり、ひかりさんを呼び止めた。
スマホへ届いた情報をもう一度確認する。
「ここで待とう。ひかり君が、入口の範囲を確認する」
ひかりさんは階段を数段だけ降り、下をのぞいた。
手の周りに伝力が集まる。
薄いものが、通路の向こうへ流れているのが見えた。
「霧、奥に引っかかってる。散らすだけならすぐ」
神代さんは周囲を見てからうなずいた。
「奥まで追わないで、確認できたところまでだ」
「分かってる」
ひかりさんが下へ降りる。
俺は神代さんのすぐ横に立った。
作業着の男性が、建物の戸口からこちらを見ている。神代さんはその人へ手を上げ、入口の外側で待つように伝えた。
水の音。
ひかりさんの靴が階段に触れる音。
湿った空気の中で、奥の薄いものが一度、ほどけた。
俺は息を吐きかけた。
けれど、重さは消えなかった。
下ではない。
横だ。
「神代さん」
声に出すと、神代さんはすぐ俺を見た。
「どこ?」
「そっち。壁の向こう。さっきのとは、違う」
管理建物の脇に、古い資材置き場がある。
金属の扉は閉まっていた。
その下の隙間から、白っぽいものがのぞいている。
霧ではない。
床の上へ、重さが載っている感じがした。
神代さんが俺の肩へ手を置いた。
「入口へ戻る。私の後ろへ」
俺は一歩、足を引いた。
その瞬間、金属の扉の奥で、大きな音がした。
ひかりさんが下から顔を上げる。
「何?」
神代さんの声が鋭くなる。
「戻って。実体型の可能性」
扉が、内側から膨らんだ。
二度目の音で、ちょうつがいの片方が外れた。
俺は、押されるように見えた空気を見た。
白いものが、その中から出てくる。
薄い霧の切れ端ではなかった。
石のような表面。
細い羽根のようなものが、肩のあたりで重なっている。
四本の脚が床へつき、長い前脚の先が、コンクリートを削った。
見えているだけではない。
そこに重さがある。
動くたび、床が鳴る。
閉じていた扉が、足元へ倒れた。
神代さんが俺の前へ出た。
俺は、背後の出口までの距離を見た。
薄いものから逃げていたときとは、違う。
目の前のそれが一歩進むだけで、通路の幅が狭くなる。
白い頭のようなものが、ゆっくりこちらへ向いた。
顔は、見つからなかった。
それでも、次に動く方向だけは分かった。
俺のいる方だった。




