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球体世界の観測者 ~見えるだけの少年は、陰陽寮で世界の裏側を知る~  作者: 雅貴
第1章

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第7話:現場見学(見学だけとは言っていない)

「今日は、見つけても近づかない。動くときは、私に言ってから」


次の週末、神代さんは建物を出る前にもう一度確認した。

俺はうなずいた。

隣でひかりさんが、靴のかかとを床へ軽く打ちつけている。


「何回目?」


「必要なら、何回でも」


神代さんは俺から目を離さずに答えた。


「もし私たちがすぐに動くように言ったら、理由を聞くのは移動してから。分からない指示は、その場で分からないと言って」


「はい。俺が何か感じても、勝手に確かめない」


自分の言葉で返すと、神代さんはうなずいた。

今日は現場を見学する。

俺の役目は、教わった範囲で気づいたことを伝えること。処理をするのはひかりさんで、俺を含めた周囲を見るのは神代さんだ。

その区別は、出かける前から何度も聞いていた。


秋庭さんが薄い上着を差し出した。


「これも持っていってね。汗をかいたまま冷えると、身体に負担がかかるから」


俺のものだった。練習の部屋へ置いていたのを忘れていた。

受け取ると、秋庭さんは俺の手元を見た。


「お守りは?」


「持ってます」


「なくさないようにね。今日はそれを投げる練習ではないからね」


俺はポケットの上から形を確かめた。

ひかりさんは、その動作を見てから外へ向き直る。

いつものように何か言うかと思ったが、何も言わなかった。


黒江班長は机の向こうから、短く声をかけた。


「帰ったら、見たことを聞かせてくれ」


「はい」


報告できるものを持って帰る。

そのことを考えて、俺は鞄を部屋に置いた。

両手が空いている方がいいと言われたからだ。

胸の内側にはスマホ。ポケットにはお守り。

動きやすい靴は、初めてここへ来た日と同じだった。


***


最初の連絡は、歩いている途中で入った。

神代さんがスマホを見て、ひかりさんへ画面を向ける。

駅の近くの地図に、小さな印がついていた。


「沙羅君から。立体駐車場の裏、二階の通路」


「まだ、あそこに残るんだ」


ひかりさんが言う。

俺は二人を交互に見た。


「行ったことがある場所ですか」


「何度か。見つけた人が位置と状態を送ってくれる。今日は水城沙羅という班員が、巡回の情報を見ている」


神代さんは画面をしまった。


「感知が得意な人でも、全部を同時に見ているわけではない。ほかの情報と合わせて、確かめているんだ」


地図の印だけで、全員が走り出すものだと思っていた。

神代さんは歩く速さを少し上げただけだった。

ひかりさんも前へ飛び出さず、俺の少し先を歩いている。


駐車場の裏は、表の通りより暗かった。

コンクリートの壁に、古い雨の跡がある。車の出入りする音が、建物の内側で低く響いていた。

神代さんが立ち止まり、俺を呼んだ。


「ここから、一緒に動いて。離れないように」


「隠形ですか」


「そう。私たちが周囲の目を引かずに作業するために使う」


神代さんが袖口へ指を入れた。

小さく折られた紙が一枚、指の間から現れる。

それが壁際へ滑るように移動した気がして、俺は目で追った。

紙の端が、普通の風とは違う向きに動く。


「式神ですか、それ」


「手伝ってもらっている。見ている間も、足元には気をつけてね」


俺はすぐ視線を戻した。

全部に名前がつき始めると、全部を見ていたくなる。

でも、階段を踏み外したら、見学どころではない。


二階へ上がる途中で、男性とすれ違った。

鍵を指で回しながら、こちらへ来る。

俺は道を空けるつもりで端へ寄った。

男性は、俺の顔を見ることなく下へ降りていった。


「見えなかったんですかね」


小声で聞く。

神代さんは歩きながら答えた。


「気に留めなかった、くらいに考えておこう。見えないから何をしてもいいわけではないよ」


喫茶店の水を思い出した。

音は消えない。

人とぶつかることもある。

俺は手すりに触れ、階段の幅を確かめた。


***


通路の奥へ行くと、胸の内側が少し重くなった。

昔から知っている感覚だった。

俺は足を止めかけ、神代さんの袖の位置を見た。


「あそこに、います」


壁と天井の角を指した。

空気が薄く引きつっている。

明るい場所より暗い場所の方が濃く見えるだけで、色があるのかは分からない。

けれど、そこだけ、壁までの距離が曖昧になっていた。


「どのくらい?」


「1mくらい。いや、端が伸びてるので、もう少し」


答える間に、薄いものが壁を離れた。

肩が上がる。

俺の身体は、説明より先に逃げる準備をした。


神代さんが手を軽く上げる。


「ここで見ていよう」


ひかりさんはその間にも歩いていた。

俺なら距離を取るところへ、迷わず近づいていく。

右手が動く。

伝力が手の周りに集まり、薄いものの端へ触れた。


空気が一度、押し広げられたように見えた。

濃かったところが裂け、天井へ向かって薄く散る。

ひかりさんが手を下ろしたときには、もう重さがほとんどなくなっていた。


「終わり」


俺は返事をしなかった。

まだ、薄いものがいた場所を見ていた。


「……それ、俺がユラギって呼んでたやつです」


「こっちでは、干衝霧(かんしょうむ)って呼んでるわ」


ひかりさんは俺の方へ戻りながら言った。


「霧みたいに、形を保ってないやつ」


「あれが、干衝体なんですか」


「その中の一つだね」


神代さんが補った。


「形が安定していないものを、干衝霧と呼んでいる。名前が違うからといって、君が見てきたものまで別物になるわけではないよ」


俺は、いなくなった角を見る。

ずっと避けてきたものに、名前がついた。

ひかりさんは、それを、終わりと言って帰ろうとしている。

その速さに、置いていかれた気がした。


「毎回こうなんですか?」


「場所にもよる。近づく前に、周りを見ないといけないし」


ひかりさんが神代さんを見た。

神代さんは壁際へ近づき、さっきの紙を手へ戻した。

俺には、散った伝力の薄い跡がまだ感じられる。


「少し、残ってます」


「そうだね。まとまっている感じは?」


「ないです。上に、薄く」


「分かった。報告も、その言い方でいい」


神代さんがスマホへ短い文章を入れる。

倒したことだけでなく、残り方も伝えるらしい。


「見つかった場所、報告と少しずれてませんでした?」


地図の印を思い出して聞くと、神代さんはうなずいた。


「動いていたからね。連絡をもらった場所は、探し始める目安。着いたときもそこにいるとは限らない」


「沙羅さんも、ずっと見てるわけではないんですね」


「うん。君がここで見た情報も、一緒に残す」


俺の答えが、送られた情報へ足される。

見学なら、見ているだけだと思っていた。

今いる場所でしか分からないことを、短く伝えるだけでも、仕事の途中へ入ることがある。


神代さんは送信してから、もう一度通路を見た。

ひかりさんも、階段へ向かう前に足を止める。

散ったあとを確かめる。その間にも、人の足音が聞こえる。

俺は二人の後ろで、その順番を覚えようとしていた。

俺は壁の角へ最後に目をやって、二人について階段へ戻った。


***


二つ目は、駅の裏にある自転車置き場だった。

ひかりさんが立ち止まって、前の列を眺める。

自転車のかごには、小さな買い物袋が入っていた。通路の向こうで、女性が鍵を探している。

神代さんはそこへ近づかず、俺を日陰の側へ寄せた。


「いま、感じる場所を言ってみて」


俺は、駐車場で覚えた言い方を思い出した。

あそこ、では伝わりにくい。

どの列で、何の近くか。


「右から二列目。青い自転車の後ろ、地面の近くです」


「動いている?」


「前の方へ、少し。女性の右足の近くです」


神代さんの声が、少しだけ低くなる。


「ひかり君」


「見えてる」


ひかりさんが通路へ入った。

女性は鍵を見つけ、自転車を引き出そうとしている。

俺は口を開きかけた。

声をかけたら、昨日と同じようにこちらへ来るだろうか。

その前に、神代さんが小さく手を動かした。


女性が、通路の反対側へ目をやる。

引き出しかけた自転車の向きを、少し変えた。

ひかりさんは空いた場所へ足を入れ、薄いものの流れを、手の先で切った。

俺には、その一瞬が見えた。

女性は自転車を押しながら、俺たちのそばを通り過ぎていく。


何も言わない。

振り返りもしない。


俺は、自分のポケットの上へ置いていた手を下ろした。

お守りを出す必要はなかった。


「あの人、気づかなかったんですね」


「気づかずに済んだなら、それでいい」


神代さんはそう言って、女性の行く先を見ていた。

視線は、角を曲がるまで戻らなかった。


「いつも、こうやってるんですか」


「できるだけ。危ないと思ってから逃げてもらうより、危ない場所へ入らずに済む方がいい」


昨日、俺は白波に嘘をついた。

落としたぞ、と言って、振り返らせた。

うまいやり方ではなかった。

ただ、似た目的で、もっと上手に動く人たちがいる。


ひかりさんが戻ってきた。


「今の場所は、言い方よかった」


俺は顔を上げた。


「あそこ、じゃなくて?」


「あそこって言われても、どのあそこよ」


返事は短かった。

それでも、練習で言われたことが現場で使えたのだと思うと、少し嬉しかった。

喜んだら漏れる量が変わることまで思い出し、すぐ落ち着こうとした。

神代さんはそれに気づいたらしい。


「今は、無理に抑えようとしなくていい。見ることと、私たちの指示を聞くことを優先して」


全部を一度にできるようになる必要はない。

今日も同じことを言われた。

ただ、机の前より、その意味は大きかった。


自転車置き場を出たところで、神代さんは一度、隠形を弱めると説明した。

人通りのある道へ戻り、普通に歩く。

向こうから来た人が、俺たちを避けて通った。

さっきの駐車場では意識されなかったのに、今は、ちゃんと道を空けてもらえる。


「ずっと使ってるわけじゃないんですね」


「必要な範囲で。何のために使っているかを、忘れないようにしている」


神代さんは歩道の端へ寄った。

ひかりさんも、歩いてきた子どもを避ける。

その子はひかりさんを一度見て、すぐ親のところへ戻った。


「隠形の中だと、相手が避けてくれるとは限らないからね」


俺は駐車場の階段で、自分から端へ寄ったことを思い出した。

ぶつからなかったのは、見えない力が壁を作ってくれたからではない。

自分で避けたからだ。


「自分で使えるようになったら、帰り道でも使っていいんですか」


神代さんがこちらを見た。

少しだけ、返事をする前の間があった。


「まず、どうして使いたいかを考えよう。人と顔を合わせたくないから、というだけなら、別の方法をおすすめするよ」


俺は口を閉じた。

昨日のひかりさんに声をかけられたことや、白波に説明した朝を思い出していた。

気まずいときに見つからなければ、楽だと思った。


「……便利そうだったので」


「便利な術ではあるよ。ただ、横断歩道で運転手に気づかれなかったら、危ないだろう?」


その場面を想像して、俺は道路へ目をやった。

車は、俺がいなくなるから止まるわけではない。

見つけてもらえないまま、そこにいる。


「使わない方がいい場所もあるんですね」


「ある。覚えるときは、使う練習と使わない練習を一緒にする」


止める方が難しい。

伝力の練習で、自分で言った言葉が戻ってきた。

出すものが違っても、使ったあとを考える必要がある。


ひかりさんが、通りの先の店を指した。


「昨日の店、あっち」


俺は看板を見る。

喫茶店の窓の向こうで、店員がトレーを持って歩いていた。

今日は水を探している様子はない。

座っている客の前へ置き、普通に戻っていく。


「あれ、悪いことしちゃいましたね」


思わず言うと、神代さんが小さくうなずいた。


「私があとで説明して、注文と会計は済ませた。君たちを先に外へ出したから、見ていなかったね」


「……見てないです」


俺は店を振り返った。

あの日は、自分のことで頭がいっぱいだった。

神代さんが店の中へ残った短い時間を、気にしていなかった。


「神代さん、仕事多いですね」


「だから、引率者だって言ってるでしょ」


ひかりさんが先に答えた。

神代さんは、まったくその通りだという顔をした。


「ひかり君が水が届くまで待ってくれれば、少しは私の負担が減るんだけどね」


「待っても来ないじゃん」


「それは、私の使い方の問題だからね」


俺は笑った。

術が便利でも、喫茶店で水が来なくなる。

そういう面倒まで含めて、使うものなのだ。


***


次の連絡を待つ間、少し離れた自動販売機の前で休んだ。

俺は買った水を一口飲んだ。

ひかりさんはベンチへ座らず、建物の陰で上着の袖を直している。


「今日、こんなのがずっと続くんですか」


「日によるよ」


神代さんが答える。


「空振りもある。行ったときには散っていることも、見間違いだったこともある」


「いまの二つは、ひかりさんがすぐ片づけましたけど」


「片づけやすいものを、見学に選んでいるからね」


俺はペットボトルを下ろした。

たまたま楽な現場ばかりなのではなかった。

俺がいるから、そういう現場へ来ている。


「もっと、難しいのも?」


ひかりさんが、通りの向こうを見たまま答えた。


「実体を持ってると、また違う」


「触れるものってことですか」


「向こうも、普通に触ってくるってこと」


言われて、駐車場の薄い影を思い出した。

形がないから怖かった。

形があれば、もっと分かりやすいものになると思っていた。

それは、俺の都合のいい考えだったのかもしれない。


「そんなに出るんですか」


「この区域で、最近ちゃんと実体型の対応をするのは、月に一体くらいかな」


神代さんは、断定しすぎない声で言った。


「場所や時期で変わるから、今月もう出たから安心、というものではないけど」


ひかりさんはポケットへ片手を入れた。


「大半はさっきみたいなの。だからって、触られていいわけじゃないけど」


俺はうなずいた。

雑魚、と言いかけてやめた。

俺は、その大半から何年も逃げてきた。

大きな分類の中では軽い相手でも、俺にとって軽いとは限らない。


神代さんのスマホが震えた。

画面を見た神代さんが、ベンチから立つ。


「もう一か所、確認して帰ろう。水門の脇の管理通路。人が入らない区画で、薄い反応が残っている」


ひかりさんが、ようやく俺を見る。


「疲れてる?」


「まだ、大丈夫」


答えてから、少しだけ考え直した。


「足は平気です。頭は、ちょっと疲れたかもしれない」


神代さんはうなずいた。


「じゃあ短く。確認して、見る必要がなければ戻ろう」


自分の状態を言うのも、今日の仕事だった。

俺は水をしまい、二人に続いて歩き出した。


***


水門の近くは、湿った風が吹いていた。

川沿いの遊歩道から、金網の柵を隔てて、管理用の建物と階段が見える。

コンクリートの壁に苔がつき、下の通路には水の跡が残っていた。


神代さんが入口のところで、作業着の男性と短く話した。

俺たちは少し離れて待つ。

何を言ったのか、全部は聞こえなかった。点検、という言葉だけが耳に入った。

男性は建物の方を示し、鍵を開けてくれた。


「あの人は、知ってるんですか」


「仕事に必要な分だけ。説明する範囲も、人によって違う」


神代さんは扉を押さえ、俺を先に通した。

ひかりさんが前へ出る。

階段の先には、下へ続く狭い通路があった。

壁沿いに配管が走り、奥で水の流れる音がする。


胸の奥が、少し重くなる。

俺は神代さんへ伝えた。


「下の方に、薄いのがあります」


「入口から見える?」


「形までは。奥へ続いてる感じがします」


神代さんは立ち止まり、ひかりさんを呼び止めた。

スマホへ届いた情報をもう一度確認する。


「ここで待とう。ひかり君が、入口の範囲を確認する」


ひかりさんは階段を数段だけ降り、下をのぞいた。

手の周りに伝力が集まる。

薄いものが、通路の向こうへ流れているのが見えた。


「霧、奥に引っかかってる。散らすだけならすぐ」


神代さんは周囲を見てからうなずいた。


「奥まで追わないで、確認できたところまでだ」


「分かってる」


ひかりさんが下へ降りる。

俺は神代さんのすぐ横に立った。

作業着の男性が、建物の戸口からこちらを見ている。神代さんはその人へ手を上げ、入口の外側で待つように伝えた。


水の音。

ひかりさんの靴が階段に触れる音。

湿った空気の中で、奥の薄いものが一度、ほどけた。


俺は息を吐きかけた。

けれど、重さは消えなかった。

下ではない。

横だ。


「神代さん」


声に出すと、神代さんはすぐ俺を見た。


「どこ?」


「そっち。壁の向こう。さっきのとは、違う」


管理建物の脇に、古い資材置き場がある。

金属の扉は閉まっていた。

その下の隙間から、白っぽいものがのぞいている。

霧ではない。

床の上へ、重さが載っている感じがした。


神代さんが俺の肩へ手を置いた。


「入口へ戻る。私の後ろへ」


俺は一歩、足を引いた。

その瞬間、金属の扉の奥で、大きな音がした。

ひかりさんが下から顔を上げる。


「何?」


神代さんの声が鋭くなる。


「戻って。実体型の可能性」


扉が、内側から膨らんだ。

二度目の音で、ちょうつがいの片方が外れた。


俺は、押されるように見えた空気を見た。

白いものが、その中から出てくる。

薄い霧の切れ端ではなかった。


石のような表面。

細い羽根のようなものが、肩のあたりで重なっている。

四本の脚が床へつき、長い前脚の先が、コンクリートを削った。


見えているだけではない。

そこに重さがある。

動くたび、床が鳴る。


閉じていた扉が、足元へ倒れた。

神代さんが俺の前へ出た。

俺は、背後の出口までの距離を見た。


薄いものから逃げていたときとは、違う。

目の前のそれが一歩進むだけで、通路の幅が狭くなる。


白い頭のようなものが、ゆっくりこちらへ向いた。

顔は、見つからなかった。

それでも、次に動く方向だけは分かった。


俺のいる方だった。


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