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球体世界の観測者 ~見えるだけの少年は、陰陽寮で世界の裏側を知る~  作者: 雅貴
第1章

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第6話:ぼ、僕にも見えるぞ

札の隅が、黒くなった。


焦げたわけではない。秋庭さんは、失敗しても燃えるものは使わないと言っていた。

ただ、細い線の上を伝力が進むはずだったのに、俺が触れた場所だけ、染みのようなものが広がった。


「……また、ここで止まりました」


「そうね。一度、手を離して」


俺は札を机へ戻した。

秋庭さんが横に用意していた紙と比べる。そちらでは、線に沿って薄いものがきれいに流れている。

流れ方は分かる。

俺のものが、どこで詰まったかも分かる。

なのに、同じようにできない。


「ここ。最初に曲がるところまでは、行ってるんです」


俺が示すと、秋庭さんは札を近づけて確かめた。


「うん」


「次の線へ移る前に、こっちに散って。そうならないようにしたつもりだったんですけど」


「見えていることと、そこへ必要な量を通せることは違うからね」


何度も聞いた言葉だった。

実際にやると、その違いは思っていたより腹立たしい。

分からなくて失敗するなら、まだいい。

失敗する場所まで分かるのに、そこへ来ると、やっぱり失敗する。


「あと一回だけ」


言うと、秋庭さんは壁の時計を見た。


「一回やって、休憩。そのあとは別の確認にしましょう」


俺は新しい札を取った。

指先で角を持つ。線へ触れないように、ゆっくり伝力を通す。

最初の曲がり角を越えた。

次の線へ向かう。

量を増やさない。

そう思った瞬間、指に力が入った。


紙の真ん中へ、小さな染みができた。


「……はい」


返事だけして、机へ置く。

秋庭さんは失敗した紙をすぐ捨てず、前の一枚と並べた。


「最初より先へ進めたわね」


「でも、失敗しました」


「そうね。先へ進めたことも、その先で失敗したことも、両方記録しておきましょう」


それは褒めているのか、慰めているのか。

分からなかったけれど、二枚の違いは確かにあった。

俺はノートへ、曲がり角の先、と書いた。


***


陰陽寮へ来るようになって、学校の時間は変わらなかった。

授業に出て、昼を食べて、帰る。

週に何度か、その帰り道だけが違う。

秋庭さんは日程を決めるとき、まず俺に学校の予定を聞いた。ひかりさんが休み時間にまで連絡してくるのでは、という心配は、今のところ外れている。


家では、姉が俺の鞄へ増えたノートを見つけた。


「何、それ」


「習ってることのメモ」


「学校以外で、勉強してるんだ」


「その言い方、ひどくない?」


玲奈はノートを開かず、机へ戻した。


「うらばあちゃんには言った?」


「教えてくれる人に会ったって、メールした」


「じゃあ、勝手に変なところ行かないでね」


「変なところって」


「あんたが変だと思ったところ」


それを避けていたら、そもそも陰陽寮へ行けない。

でも、姉が言いたいことは分かった。

俺は帰る時間を、前よりきちんと伝えるようにした。


白波には何も話していない。

隣の席で、提出するプリントを渡されることはある。昨日の路地の話を、もう一度聞かれることはなかった。

俺はそれに安心しながら、少しだけ申し訳ない気持ちにもなっていた。

声をかけた理由を、本当の形では話せていない。


けれど、教わり始めたばかりの俺が、何を説明できるというのだろう。

机の上で札を黒くしていることくらいだ。


「牧瀬くん、これも後ろへ回して」


ある日の授業前、白波に言われて、俺は二枚目のプリントを受け取った。

指先が触れそうになって、必要以上に慎重になる。

伝力は、普通の紙に触れたら何でも染みるわけではない。

分かっているのに、俺はプリントの角を見た。


「どうかした?」


「いや。枚数、確かめただけ」


二枚とも、ただの白い紙だった。

後ろの席へ渡す。

学校まで練習にしてはいけない、と自分に言い聞かせた。


***


「今日は、どこにあるのかを調べてみましょう」


休憩のあと、秋庭さんは机に小さな箱を三つ置いた。

どれも同じ色で、中は見えない。ふたに番号がついている。


「一つに、伝力を残した道具が入っている。触らずに、分かる範囲で教えて」


俺は椅子へ座り直した。

札を扱う練習より、少し気が楽だった。


「右です」


秋庭さんが手を止めた。


「まだ、並べ終わってないけど」


「いや、その、置く前から」


気配がしていた。

秋庭さんが箱を持っていたときから、右手の方に薄いものが残っていた。

目の前へ並べられたあとも、その感じは変わらない。


「どのあたりに?」


「箱の中で、左寄り。平たいもの、だと思います」


秋庭さんはふたを開けた。

中には、短い札が入っていた。箱の左端へ寄っている。


「これ?」


「はい」


「じゃあ、今度は箱を動かしてみるわね」


今度は俺に後ろを向かせた。

紙がこすれる音がする。箱を机へ置く音もした。

振り返るように言われ、俺は机を見る。


「真ん中。さっきより薄いです」


「場所だけでなく、薄さも変えてみたの」


秋庭さんは記録用紙へ目を落とした。

さっき札を失敗したときより、書く量が多かった。


「当たってます?」


「ええ、今は合っているわ。もう何回か確かめてみましょう」


俺はうなずいた。

すぐに得意だと決められないところが、少し安心できた。

一回だけなら、たまたまかもしれない。

何度もできたなら、できることとして考えられる。


箱が四つになった。

机の下へ一つ置かれる。

札を二枚にされる。

何も入っていない回もあった。


最後の回で、俺は答える前に首をかしげた。


「箱には、ないです。でも、あっちに」


秋庭さんのファイルを指した。

さっき使った道具を、そこへ挟んだ感じがした。


秋庭さんはファイルを持ち上げ、内側から紙を抜いた。


「よく見つけたわね」


俺は息を吐いた。

探すものがない、と言っていいのか迷っていた。

問題を出されたら、答えは箱のどこかにあるものだと思ってしまう。


「ないって言うのも、答えなんですね」


「実際の場所には、必ずあるわけではないから。見つけたことと、見つからなかったことは、両方大事」


その言葉は、札の練習より長く残った。

分からないなら分からないと言う。

ここへ来た最初の日、黒江班長に言われたことだった。


***


神代さんが様子を見に来たとき、机の上には箱と、黒くなった札が並んでいた。

ひかりさんも後ろからのぞき込んだ。


「ずいぶん使ったね」


神代さんが札を見る。

俺は少しだけ姿勢を小さくした。


「見る方はいいんですけど、通す方が」


「いまは、差がはっきり出ていますね」


秋庭さんが記録を見せた。

ひかりさんは箱を手に取りかけ、秋庭さんに目で止められた。


「もう終わったんじゃないの」


「記録のために位置を残しているの。もう少しそのままにしておいてね」


「ふーん」


ひかりさんは手を引いた。

神代さんが紙へ目を通し、俺を見る。


「昔から、見ないでお守りを投げられたと言っていたね」


「感じる方へ投げてただけです」


「その『だけ』が、ほかの人には同じようにできるとは限らないじゃない」


俺はひかりさんへ目を向けた。

ひかりさんは、俺を見返して、肩をすくめる。


「私は、だいたいそこにいるって分かればいいから」


「細かいところまでは、分からない?」


「分からないんじゃなくて、全部見なくてもいいの」


少し言い返す調子になった。

秋庭さんが間に入る。


「ひかりは、分かる範囲で対処できることが多い。牧瀬君は、対処する前の情報を細かく拾っている。どちらが上かではなくて、使い方の違いね」


俺は箱を見る。

場所を当てられた。

薄いか、濃いかも、少しなら言えた。

でも、そこにいるものを追い払えるかは別だ。


「見つけるだけだと、結局、逃げるしかないですよね」


言うと、ひかりさんが首をかしげた。


「どうして」


「俺、ひかりさんみたいに戦えないし。札も、まだこうだし」


黒くなった紙を指す。

ひかりさんはそれを見てから、神代さんへ顔を向けた。


「志乃さんに会わせれば?」


初めて聞く名前だった。

神代さんは一度だけうなずき、秋庭さんも記録を閉じた。


「ちょうど、その話をしようと思っていた」


***


秋庭さんが持ってきたのは、短い訓練映像だった。

画面の中には、動きやすい服を着た女性がいる。髪が短い。片手に細い訓練用の棒を持っていた。


「丹羽志乃(にわ しの)。第1班の副班長。感知系の能力を使う人です」


映像が動き始めた。

向かいにいる相手が、肩を引いて棒を振る。

丹羽さんは大きく逃げない。身体を少し外へずらし、相手の手元へ自分の棒を触れさせた。

攻撃が途中で止まる。

次の動きも、似ていた。

相手が前へ出るより少し早く、丹羽さんの足が動く。

派手な光も、大きな音もない。

何が起きたのか、最初はよく分からなかった。


「もう一回、見てもいいですか」


神代さんが映像を戻した。

俺は相手の顔ではなく、肩と手を見た。

そこに薄い変化がある。

踏み込む前に、腰のあたりにも、伝力が寄っているように見えた。


「ここで、分かってる?」


画面を止めると、秋庭さんは俺が示した場所を見た。


「彼女が何を手がかりにしているのかは、本人に聞いてみましょう。でも、攻撃が届く前から動いているのは分かるわね」


「相手が動く前に?」


「予兆を読む。弱いところを見つける。持っている道具と、教わった動きで対処する。そういう戦い方もあるの」


俺は映像をもう一度流した。

丹羽さんが全部を見通しているように思えた。

けれど、一度だけ、袖に相手の棒が触れる場面があった。

丹羽さんはそのあと、距離を少し広く取った。


「当たることもあるんですね」


「あるよ。見えても、身体が間に合わないことはある」


神代さんが言った。


「見えることを使うには、身体と道具の練習も必要になる。君が今後学ぶなら、そういう方法は参考になると思うよ」


俺は自分の手を見た。

札の線へ伝力を通す手ではなく、お守りを投げる手だ。


「俺も、ああいう棒を使うんですか」


神代さんは映像の止まった画面へ目をやった。


「それを決めるのは、まだ先でいいと思うよ。武器の種類より、まずは持ち方と足の使い方。身体を支える強化の基礎も、並行して教わることになると思うよ」


「札をやめて、そっちに?」


「今の札の練習で、すぐ成果が出るとは限らない。でも、道具を持って動く練習なら、適性の違いがあっても覚えられる部分が多いんじゃないかな」


秋庭さんが、黒くなった札を一枚取り上げた。


「札が全部使えないと決まったわけではないのよ。今は、伸ばしやすいところから練習しようという話」


ひかりさんが訓練用の棒を持ち、俺へ差し出した。

受け取ると、軽い。

だからといって、振れば誰かに勝てるわけではない。

俺は机から離れた方へ向きを変えて、手の位置を確かめた。


「強く握りすぎ」


ひかりさんが言う。

力を抜くと、棒の先が下がった。


「今度は抜きすぎ」


「ちょうどいいところが分からないんだって」


言い返すと、ひかりさんは少し笑った。


「そっちも練習するんでしょ」


札の曲がり角と同じだった。

見ればすぐ分かることでも、手でやろうとすると違う。

俺は棒を秋庭さんへ返し、ノートの端へ、握り方、と書いた。

昔からやってきたことに、先があるのかもしれない。


「この人も、俺と同じものが見えるんですか」


「同じ感知系でも、同じように見えるとは限らないのよ」


秋庭さんは画面を閉じた。


「彼女は、物や作用を層に分けて捉えるのが得意。牧瀬くんがいま話してくれる感覚と、重なる部分も、違う部分もあるはずよ」


「会えますか」


言ってから、自分の声が少し早くなったことに気づいた。

会って話を聞きたい、と思った。

神代さんや秋庭さんの説明が嫌なわけではない。

でも、見えることで戦っている人が、どこを見ているのか知りたかった。


「都合を聞いてみるよ。今日は現場へ出ているから、すぐには約束できないけど」


神代さんの返事に、俺はうなずいた。

ひかりさんが、椅子の背へ肘を置く。


「いきなりあれやろうとして、転ばないでよね」


「まだ、やれないのは分かってる」


「さっきの顔だと、分かってなさそうだったし」


自分の顔を触りたくなった。

そんなに分かりやすかっただろうか。


***


秋庭さんは映像の感想だけで、その日の確認を終えなかった。

床へテープを二本貼り、俺をその間に立たせる。

柔らかい練習用の棒を持って、正面へ来た。


「速くは動かさないから。私がどちらへ動かすか、分かったところで言って」


右、左、上。

俺は声に出した。

半分以上は当たったが、外れもあった。

考えた動きと、実際に選ぶ動きが違うこともあるらしい。


「じゃあ、今度は一歩だけ避けてみましょう。飛び退かなくていいのよ」


棒が動く。

俺は左へ大きく跳び、テープの外へ出た。


「一歩だけでいいのよ」


「い、今のが一歩です」


「少し大きく踏み出しすぎたわね。次に動くために、足を戻さなくてはいけなくなっているの」


言われて下を見ると、確かに、両足が開きすぎていた。

逃げられればいいと思っていた。

次の動きのことまでは、考えていなかった。


もう一度、元の位置へ戻る。

今度は小さく避けようとして、棒の先が肩へ触れた。

痛くない。

痛くないからこそ、失敗がはっきり分かる。


「見えなかった?」


「見えました。足を、どこへ出すか考えてたら」


秋庭さんは棒を下ろした。


「そこは、考えなくても動けるように練習する。見えている時間を、足の置き方に全部使わないようにね」


俺は映像の丹羽さんを思い出した。

小さく動いていたのは、格好をつけていたからではない。

次にも動けるようにしていたのだ。


「覚えることが多すぎる…」


「一度に覚えなくていいのよ。今日は、見えていたのに当たった理由が分かったでしょう?」


秋庭さんはテープの端を踏み直した。

俺も立つ位置を直す。

棒を見る。肩の変化も見る。

次は、少しだけ早く足を動かせた。


避けられた。

そのあと、姿勢が崩れた。

俺は笑いそうになって、息だけ吐いた。

一つできるたび、その先に別の難しさがある。


練習が終わったあと、秋庭さんは床のテープをまだ剥がさなかった。


「最後は、避けなくていいわ。分かったことを言葉にしてみましょう」


俺は汗を拭いて、もう一度正面へ立った。

秋庭さんが棒を少し動かす。


「左です」


「私から見てかしら? それとも、牧瀬くんから見て?」


「あ。俺から見て、左です」


「それなら伝わるね」


初歩的なことだった。

でも、自分で見ていると、相手も同じ向きで見ている気がする。

次の回では、棒の先が下へ動くと答えた。

秋庭さんは棒を途中で止める。


「下の、どのあたり?」


「俺の足の前。右足の、少し外」


「ええ。今のなら、そこへ来ると分かる」


言い直すだけなのに、見るときとは違う場所が疲れた。

感じるものには、はっきりした輪郭がないこともある。

目の前の棒なら右足の外と言えるが、昨日まで追われていた薄いものを、どう説明すればいいだろう。


「形が分からない場合は、どう言うんですか」


「分かる位置と、動いている方向。それから、どのくらい自信があるか。全部を正しい用語にしなくてもいいのよ」


「なんとなく、って言ったら困りません?」


「なんとなくでも、変化を感じたなら教えてほしいの。はっきり分かったように言われると、判断を間違えることもあるからね」


俺はノートを持ってきて、床の端へしゃがんだ。

場所、動き、自信。

三つ書くと、少しだけ整理しやすくなった。


「実際に言葉にしてみましょうか」


秋庭さんが机へ回り、小さな道具を動かす。

俺は顔を上げた。


「机の左。俺から見て左です。そっちの棚へ向かってます。はっきり分かります」


秋庭さんはうなずいた。

次は、部屋の入口から薄い感じがした。


「入口の近く。上か下かは、ちょっと分からないです。動いてるかも、分からない」


「そこまででいいのよ」


正解の場所を言わされるより、少し怖かった。

分からない、と言い切ることも、練習になる。


神代さんが横で聞いていた。


「現場でも、そのくらい短く伝えてくれると助かるよ。私たちが別のものを見ているときに、君が先に気づくこともあるだろうから」


「俺の勘違いだったら」


「確認して、違ったと言える。そのために、一緒にいる」


俺は立ち上がった。

昔、見えるものの話をしたときは、信じるか信じないかで終わった。

ここでは、確かめる話が続く。

その違いを、今日も一つ覚えた。


***


帰る前に、黒江班長へ今日の内容を報告した。

箱は分かった。札はうまくいかない。棒を避けると、足が開きすぎる。

口にすると、たいしたことをしていない気がした。

黒江班長は、最後まで聞いた。


「見えるなら、見えることを使えばいい。ただし、見えるから大丈夫とは思わないことだ」


「はい」


「現場では、自分で試す前に報告する。何を感じたか、それがどこにあるか。分からない部分も一緒に」


現場、という言葉に顔を上げた。

神代さんが横から補った。


「近いうちに、一度見学を考えている。こちらの準備ができて、君の体調や予定に問題がなければね」


俺は、声を出す前に少し考えた。

昨日まで逃げていたものが、仕事として処理される。

それを見れば、何か分かるかもしれない。

同時に、見たくない気持ちもあった。


「見に行くだけですか」


「見学だ。君に倒してもらうつもりはない」


黒江班長が言った。

秋庭さんもうなずく。


「次の練習では、見つけたことを言葉にする練習もしてみましょう。自分が分かるのと、人に伝わるのは、また別だからね」


別だから。

今日はその言葉を、何度聞いただろう。

同じものに見えていたことが、少しずつ分かれていく。


俺はノートを閉じた。

そこには、できないことばかりではなく、見つけたものの場所も書いてある。

札の失敗の横に、箱は分かる、と一行足した。


帰り道で、まだ会ったことのない丹羽さんの動きを思い出した。

見えるから、逃げる。

ずっと、それしかないと思っていた。


見えるから、先に動ける。

今は、その言葉の違いが少しだけ分かった。


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