第5話:あ、溢れるぅ
「まず、何もしないで座っていて」
秋庭さんにそう言われたとき、俺は少しだけ安心した。
日曜日の午後。昨日と同じ部屋には、机と椅子が一つずつ出ている。
映画の修行なら、いきなり滝に打たれたり、重い石を持ち上げたりするところかもしれない。そういうものを想像していたわけではないが、座るだけならできる。
「何も、って?」
「普通に呼吸して。力を出そうとも、止めようともせずに」
俺は椅子へ座った。
床に両足をつける。上着は背にかけ、鞄は壁際へ置いた。お守りだけはポケットに残してある。
秋庭さんは向かいへ腰を下ろし、机の上に薄い紙を置いた。
縦に何本かの線がある。線の端へ、小さな字で印がついている。
札なのか、検査用紙なのか、俺には分からない。
「その紙、何に使うんですか」
「今、どのくらい外へ伝力が出ているかを見る。目安にする道具」
「電気のメーターみたいな?」
「考え方は近いかな。ただ、これだけで全部が分かるわけではないのよ」
紙の上の線が、わずかににじんだ気がした。
俺は顔を近づけかけた。
「触らず、そのままでいてね」
秋庭さんの声で止まる。
紙の周りに、薄い空気の層がある。昨日、入口で感じた細い線とは少し違う。幾つかの線が同じ方向へ引かれ、その間へ何かが流れているように見えた。
「これ、今、俺のを?」
「そう。伝力を出す練習をする前に、何もしていないときの状態を見ておきたいの」
俺は紙から自分の手へ視線を移した。
何も光っていない。風も出ていない。
でも、見ようとすると、腕の外側に薄くまとわりつくものがある。
前から、たまにそんな感じがしたことはあった。身体に熱がこもっているとか、変な気分になっているとか、それくらいに考えていた。
「……これが、漏れてるってことですか」
「どんなふうに感じる?」
「手の先だけじゃなくて、腕とか、肩のあたりからも。薄く、外へ流れてるみたいな」
秋庭さんは記録用の紙へ何かを書いた。
褒められるでも、違うと言われるでもない。その沈黙に、少し不安になる。
「違います?」
「今は、牧瀬くんがどう感じるかを聞いているの。私と同じ言い方にしなくていいのよ」
「じゃあ、流れてる感じです」
「ええ。それで残しておきましょう」
記録される。
俺の言葉が、変な話として片づけられずに残る。
それはまだ慣れない感覚だった。
***
「次は、私の方を見ていてね」
秋庭さんが右手を机に置いた。
爪は短く整えられ、指の関節には、紙をよく扱う人らしい乾いた感じがある。
「今、少し出してみるわね」
手の周りが、変わった。
白く光るわけではない。線の濃さが変わるような、空気の重なりが一枚増えたような変化だ。
机の上の紙の線が、さっきよりはっきり揺れた。
「見えるかしら?」
「手の甲のところ、厚くなりました」
「じゃあ、戻すわね」
厚みが消える。
全部がなくなったわけではない。ただ、さっきまでとは違う。
俺は手の甲の一点を見つめていた。
「止めた、というより、外へ出さないようにした?」
秋庭さんは一度、顔を上げた。
「そうね。いまは、その言い方の方が近い」
「俺も、同じようにできるんですか」
「練習するのはそこ。最初から私と同じように、とは言わないけど」
椅子の上で姿勢を直した。
できるかもしれない、と思った瞬間、手に力が入った。
指を握る。腕を固める。肩も上がる。
紙の線が、勢いよくにじんだ。
「出ました?」
「増えたわね。でも、一度休みましょう」
「いま、ちょっとできた気が」
「肩に力が入っているわね。息も止まっているわ。少し緩めてみて」
言われて初めて、胸が苦しくなっていることに気づいた。
息を吐くと、紙の線はまだ揺れたままだった。
「力を出すって、筋肉に力を入れるのとは違うんですか」
「一緒に変わることはある。でも、同じことではないね。歯を食いしばれば上手になる、というものではないの」
俺は口を少し開いて、顎の力を抜いた。
出たのなら成功ではないのか。そう言いたかったが、秋庭さんは紙の端を指していた。
「出す量を決めて、その量で止める。必要がなくなったら戻す。さっきは、増えたままになっている」
「……出すだけじゃ駄目なんですね」
「出せること自体は大事。でも、蛇口を開けたあと閉められなかったら、困るでしょう」
比喩は分かる。
蛇口の場所だけが分からない。
「身体のどこを触ればいいんですか」
聞いたあとで、そんなものがあれば先に教えているか、と思った。
秋庭さんは笑わなかった。
「今、外へ流れている感じがするんだよね。その感じを、最初より少しだけ狭くするつもりで。全部止めようとしなくていいのよ」
俺は目を閉じかけた。
「開けていてもいいよ。自分に分かりやすい方で」
右手を机に置いた。
指の間を見て、腕の外側を見る。
目で見る輪郭と、伝力の流れの境目が重ならない。少し外に、もう一つの輪郭があるみたいだった。
それを近づける。
身体の内側へ、押し込む。
そう考えると、また肩に力が入った。
紙の線が広がる。
「違う。いや、これ……」
「失敗してもいい。さっきと何が違ったかしら?」
「押さえようとしたら、逆に増えました」
「ええ。じゃあ、押さえる、は今の牧瀬くんには合っていないのかもしれない」
秋庭さんは記録を続けている。
俺は紙を見るたび、成績表を思い出しそうになった。
点をつけるためではない、と頭では分かっている。それでも、何度もできないことを見せるのは気が重かった。
***
三回目の休憩で、ひかりさんが部屋へ顔を出した。
「まだ座ってるし」
「まだ座ってるよ」
俺が返すと、ひかりさんは机の紙を見て、椅子の背へ手をかけた。
「出す方は?」
「出た。止まらない」
「ああ」
妙に納得した声だった。
納得されると腹が立つ。
「ひかりさんは、最初からできたのか」
「最初からできたことも、できなかったこともある」
「それ、答えてなくない?」
「全部できたって言ってないでしょ」
ひかりさんは自分の右手を見た。
俺はその手の周りにある、密な感じに気づいた。
昨日までなら、単に怖い人の気配だと思っていたかもしれない。
いまは、伝力なのだろうと考えられる。
「そんなに出してるのに、漏れてない?」
「必要なところに回してるだけ」
「必要なところって」
ひかりさんは返事をする代わりに、壁際にあった少し重そうな折り畳み机を持ち上げた。
片手で向きを変え、脚を床へそっと戻す。
大きな音はしなかった。
「こういうの」
俺は椅子から腰を浮かせた。
ひかりさんの細い腕と、机の重さがうまく結びつかない。
「肉体強化ね」
秋庭さんが言った。
「持ち上げる力だけでなく、支える身体にも伝力を使う。今日すぐ真似をする必要はないのよ」
「軽く持ち上げたからって、軽い机になったわけじゃないし」
ひかりさんは机の角を指でたたいた。
俺は手を伸ばしかけて、やめた。
さっきまで、何もできない手だと思っていた。
使い方が違えば、同じ伝力でこうなる。
「隠形も、それでやるんですか」
「そう。回復に使う人もいる。道具を動かす人も、感じ取ることに使う人もいる」
秋庭さんは一つずつ挙げたあと、机の紙へ視線を戻した。
「でも、伝力があるから全部が得意、とは限らない。ひかりがこの机を持てても、私と同じように札を扱うわけではないでしょう」
「面倒だからやらないだけ」
「得意ではないでしょう?」
「……まあね」
ひかりさんが目を逸らした。
少しだけ、いいものを見た気がした。
「俺は、何ができるんですか」
聞くと、秋庭さんは首を横に振った。
「今日だけでは決めない。まずは、困らない使い方からね」
ひかりさんは入口へ戻りかけて、ふと足を止めた。
「お漏らしが治ったら、変なのに寄られにくくはなるんじゃない」
それは、今日聞いた中で一番ひどい説明ではあったが分かりやすかった。
俺が欲しいのは、机を片手で持ち上げることではない。
帰り道を、普通に歩けることだった。
***
練習を再開すると、今度は机の紙を半分だけ見た。
さっきまでは、紙を変えようとしていた気がする。
結果を見つめて、こうなれ、と念じていた。
でも、紙は俺の状態を映しているだけだ。
自分の腕へ注意を戻す。
出ているものを押し込むのではなく、外へ向かう前のところを探す。
分からない。
どこからが自分なのか、それさえ少し曖昧になる。
「手のひらだけでやってみましょう」
秋庭さんが言った。
「全部を一度に変えようとしなくていい。肩も背中も、今日は放っておこう」
放っておく。
それでいいと言われると、少しだけ楽になった。
右の手のひらを見る。
薄いものが流れている。
さっきより細かく見える気がしたが、見えるもの自体が増えたのか、注意して見ているだけなのかは分からない。
指を閉じず、手首を固めず、息を吐く。
「いま、変わった?」
「……少し」
紙の線が一本、薄くなった。
俺は目を上げた。
その瞬間、また濃くなる。
「戻った」
「そうね」
「せっかく、できたのに」
「一回できたことは、記録に残せるわ。戻ったことも、同じように残せるの」
秋庭さんは同じ調子で言った。
「今、薄くなったときには、何をしていたの?」
答えようとして、言葉が出なかった。
集中していた。それは確かだ。
でも、何に、どう集中したのか。
「手のひらだけ、見てました。外へ出てるところじゃなくて、もう少し手前を」
「それでいい。次も、同じところへ注意を向けてみましょう」
俺はもう一度、右手を見た。
さっきの成功を再現しようとすると、指先に力が入る。
力を抜くと、気が散る。
気を張ると、漏れる量が増える。
自転車の乗り方を、言葉だけで教えられているみたいだった。
ペダルを踏む、前を見る、倒れないようにする。
分かっている。
できないところだけが、説明よりずっと細かい。
紙の線は、しばらく変わらなかった。
秋庭さんは待っている。
時計の秒針が、部屋の端で小さく鳴った。
急がなくていい。
そう思えたとき、手の周りの流れが、わずかに細くなった。
俺は顔を上げなかった。
変わったところを、そのまま見ていた。
「続けて。いまのいい感じだったわよ」
言われて、嬉しくなった。
その嬉しさで、また少し流れが広がった。
「……喜んだら駄目なのか」
「駄目ではないのよ。ただ、今はそれでも状態が変わるって分かったね」
何をしても課題が増える。
俺は額へ手を当てた。
汗が少しついていた。座っているだけなのに。
***
休憩に入ると、秋庭さんは紙を裏返した。
見えなくなると、思っていたより息が楽になった。
「数字があると、見続けてしまう人もいるからね」
「俺、そうなってました?」
「少し。できているか確認するのは大事。でも、確認ばかりすると、自分の感覚から離れることもあるの」
俺は水を飲んだ。
昨日と違って、コップは最初から目の前にある。
そのことが、いまだに少し嬉しい。
「これ、家でも練習していいんですか」
「今の段階では、増やす練習はここだけにしよう。抑える方も、疲れているときはしないで。無理に長く続けなくていいのよ」
「寝る前とかなら」
「最初は、今日うまくいった感じを思い出すくらい。実際にどのくらい変わっているか、ここで確認できるまでは、試し過ぎないでね」
宿題を出されると思っていた。
やりすぎないように言われるとは思わなかった。
秋庭さんは俺のノートを見た。
「何を書いたの?」
俺は見せるのを少しためらった。
紙には、手前、押し込まない、肩を上げない、と書いてある。
誰かに見せるための文章ではない。
「いいわね」
「これで?」
「自分があとで思い出せれば、十分。用語をきれいに並べても、練習の感覚が戻らなかったら困るからね」
ノートの下へ、嬉しくなると戻る、と書いた。
秋庭さんがそこを見て、少し笑った。
「それも残しておきましょう」
俺はペンを置いた。
理科の授業とも、体育の授業とも違う。
答えがあるのに、自分の言葉を使わないとたどり着けない感じがした。
「伝力が多いから、すぐできるとかじゃないんですね」
「多いとできることは増える。でも、最初から扱い方を知っているわけではない」
「ひかりさんは、強い方なんですか」
「戦うことについてはね。だからこそ、牧瀬くんが同じ方法で覚える必要はないのよ」
ひかりさんに負けないように、と思っていたわけではない。
それでも、目の前で軽く机を持ち上げられると、自分にも何かできないといけない気がした。
それを見抜かれていたのかもしれない。
「今日は、手のひらだけでいいのよ」
秋庭さんは紙を表へ戻した。
「あと二回。できたら終わり、ではなくて、二回やったら終わりにしましょう」
終わりが決まると、少し気持ちが落ち着いた。
俺は右手を机へ置き、さっき書いた言葉を一度だけ見た。
「もう一つ、聞いていいですか」
最後の二回へ入る前に、俺は手を上げた。
秋庭さんがうなずく。
「見てるだけでも、伝力を使ってるんですか。俺、昔から勝手に見えてたんですけど」
「使っていることを意識しなくても、働いている場合はある。いまの牧瀬くんに、どのくらい意図した使い方ができるかは、別に確認していこう」
「勝手に見えるのを、見ないようにはできない?」
秋庭さんは少し考えた。
すぐに、できるとは言わなかった。
「楽な状態を作れる可能性はある。ただ、今すぐ全部見えなくする、と約束はしない。疲れる見方をしていないか、何に注意を向けているか。そのあたりから試す方がいいと思う」
俺は机の向こうの壁を見た。
昨日教わった入口の紙は、今日も同じところにある。
あれがあると思うと、その周囲の細い線へ何度も注意が戻った。
部屋の中をずっと見張っているみたいになっていた。
「知ってから、気になるんです。入口のところも」
「気づかなかったものが気になるのは、自然なことだよ。でも、ずっと見る必要があるかは、別に考えられる」
秋庭さんは手元のペンを置き、俺の視線の先へ目を向けた。
「今、この部屋の入口を確認するのは私の役目なの。牧瀬くんは練習に集中していていいのよ。見る範囲を、そうやって分担することもできるの」
見るのをやめるためには、自分の感覚を消さないといけないと思っていた。
誰かに任せる、という方法を、考えたことがなかった。
「じゃあ、いまは見なくていい?」
「気になっても、確かめ直しに行かなくていい。何か変わったと思ったら、私に教えてね」
俺は入口から目を戻した。
机の上には、自分の手と、紙がある。
見るものが減ると、流れの感じも少し分かりやすくなった。
秋庭さんは紙を、俺の真正面から少し脇へ動かした。
「じゃあ、今度は紙の結果を私が見る。牧瀬くんは、手の方に注意を向けて」
俺はうなずいた。
紙が見えないわけではない。
見ようと思えば見える。
でも、見なくても、変化があったら教えてもらえる。
一回目は、途中で紙を見たくなった。
顔を動かしたとたん、手の周りの感じが曖昧になった。
秋庭さんが、その前に少し変わっていたと教えてくれた。
二回目は、手を見続けた。
肩へ力が入るのが分かる。
抜こうとして、呼吸まで変えすぎないようにする。
全部を直そうとせず、今日は手のひらだけ。
「いま、変わってる。そのままでいてね」
俺は返事をしなかった。
返事を考える余裕を、手の方へ残したかった。
外へ向かう細い流れが、一度、近くへ寄った。
完全には止まらない。
それでも、さっきまでとは違う。
変わったところを見失う前に、秋庭さんが終わりを告げた。
俺は初めて、自分からもう一回と言わずに手を引いた。
***
最後の練習で、流れが細くなった時間は、ほんの数秒だった。
何秒かと聞くと、秋庭さんはまだ時間を比べなくていいと言った。
終わったあと、紙の線は最初とほとんど同じに戻っていた。
「減ってないですね」
「練習して疲れたから、今は戻っている。今日からずっと漏れなくなる、という話ではないのよ」
「じゃあ、帰りに変なのが来たら」
「今までと同じでいいの。近づかず、一人で確かめようとしないこと。困ったら連絡してね」
秋庭さんは俺がうなずくまで、待ってくれた。
「今日できたから、外でもできるはずだと思うのが、一番危ない。場所が変われば、気になるものも増えるからね」
教えてもらった分だけ、できないことが具体的になる。
でも、それは昨日までの、何も分からない感じとは違った。
今日は、どこを見ればいいかを知った。
どこで失敗するかも、少しだけ知った。
机の部屋へ戻ると、神代さんが席から手を上げた。
「どうだった?」
「止める方が、難しいです」
「出す方は?」
「増えました。秋庭さんには、まだ出せたとは言えないって」
神代さんは納得した顔でうなずいた。
「それは、いい説明だね」
俺は鞄を肩へかけた。
ひかりさんが机の向こうから見ている。
「一つもできなかった?」
「少しだけできた」
「じゃあ、昨日よりはいいじゃん」
予想していなかった返事だった。
俺が黙ると、ひかりさんは眉を寄せた。
「何」
「いや。馬鹿にされると思ってた」
「できたって言ったからでしょ」
言い方は相変わらずだった。
それでも、俺は少し笑ってしまった。
帰りのエレベーターで、一人になった。
鏡の中の自分は、昨日より疲れた顔をしている。
俺は右手を開いてみた。
少し流れが感じられる。
止めようとして、秋庭さんの言葉を思い出し、やめた。
今日は、ここまででいい。
そう決めるのも、練習のうちなのかもしれない。
外へ出ると、風が袖の中へ入ってきた。
これは伝力ではなく、普通の風だ。
普通の風だと分かることまで、少し新鮮だった。
帰ったら、ノートを鞄から出そう。
お守りは、いつものポケットに入れたまま。
できることが一つ増えかけても、まだ、手放していいものではなかった。




