第4話:夢がねぇ
名刺を机の上に置いて、俺は三度、スマホの画面を閉じた。
電話をかけるだけだ。相手は昨日会ったばかりの人で、困ったら連絡してくれと言っていた。何もおかしくない。
それでも、連絡先を登録する指は遅かった。
神代直哉。
名前だけなら、父さんの会社の取引先にいてもおかしくない。
けれど、所属先を書き写そうとして途中でやめた。名刺の長い文字列は、昨日聞いた話を夢にしてくれない。
机の隅のお守りに触れる。
昨日までなら、これを持っていれば帰ってこられた。
これからも、そうだろうか。
白波に声をかけた瞬間を思い出した。振り向いた顔。俺を見つけて、あいつが向きを変えたように感じた、あの重さ。
次も誰かが近くにいたら、俺はまた、落とし物をしたと嘘をつくのか。
送信する文章は短くした。
『牧瀬遼悟です。昨日はありがとうございました。力の扱い方を教わる話、もう少し聞きたいです』
打ち終えてから、力、と書いたところだけが妙に恥ずかしくなった。
ゲームの中でもなければ、漫画の感想でもない。
自分について、そういう言葉を使っている。
返信は、風呂から戻る前に来ていた。
まずは見学と説明だけでも構わない。都合のいい日を教えてほしい。動きやすい服装で来てもらえると助かる。
動きやすい服装。
そこだけ、急に体育の連絡みたいだった。
***
土曜日の午後、指定された建物の前で、俺は住所を二度見した。
大通りから一本入った場所にある、何階建てかのビルだった。隣にはコインパーキングがあり、一階の窓には貸事務所の案内が貼ってある。
神社でも、地下へ続く秘密の入口でもない。
自動ドアの向こうに見えるのは、郵便受けと、くすんだ色の床だった。
「何で止まってるの」
背後から声がして、肩が跳ねた。
ひかりさんがペットボトルを持って立っている。今日は制服ではなく、薄手の上着に細身のパンツだった。
「ここで合ってるのかと思って」
「住所、合ってるでしょ」
「もっと、こう……」
口にしかけて、自分でも何を期待していたのか分からなくなった。
ひかりさんは俺の顔を見て、少し笑った。
「鳥居とか?」
「いや、そこまでは」
「あったら毎日くぐるの面倒じゃない」
そういう問題なのか。
ひかりさんが先にドアを抜ける。俺は鞄のひもを握り直して、あとに続いた。
エレベーターの中には、点検予定を知らせる紙が貼られていた。ひかりさんがボタンを押すと、少し遅れて扉が閉まる。
壁に映った俺の顔は、休みの日に塾へ来た高校生と大差なかった。
「神代さんは?」
「上。今日は千景さんが説明するって」
「ひかりさんはしないのか」
「パス。話聞くならちゃんとした人に聞いた方がいいでしょ」
確かに、昨日の説明でひかりさんに教えてもらったことなんて、組織名がダサいという話だった。
そこは口にしないでおいた。
扉が開くと、短い廊下の奥から電話の声が聞こえた。
ひかりさんが一つのドアを開ける。
中には机が並び、端の棚にはファイルと紙袋、揃っていないマグカップが置かれていた。壁の時計の下に、地図と、何かを書き込んだホワイトボードがある。
俺が最初に気にしたのは、机の数だった。
今見える人より、ずっと多い。
椅子の背に上着がかかっている。空いた机の隅には、飲みかけらしいお茶のボトルがある。
留守なだけで、使われている場所なのだ。
「来たね」
奥の机から神代さんが立ち上がった。
今日はスーツの上着を着ていない。袖を少し折ったシャツ姿で、それだけで喫茶店より職場の人に見えた。
「迷わなかった?」
「ひかりさんに会えたので」
「拾ってきた」
「俺、落ちてたわけじゃないんだけど」
ひかりさんはもう自分の机らしい場所へ向かっていた。
神代さんは笑って、部屋の奥を手で示した。
「先に黒江班長へ挨拶しよう。そのあと、今日の担当に引き継ぐ」
班長。
言葉を聞いて、背筋が少し伸びた。
奥にいた男性は、椅子を回してこちらを向いた。三十代か、もう少し上か。短く整えた髪と、よく日に焼けた首筋。片方の眉の近くに、薄い傷が残っている。
机の上には、開いた書類と、赤いペンが一本あった。
「牧瀬君だな。黒江泰成。第11班の班長をやってる」
「牧瀬遼悟です。よろしくお願いします」
言い終えたあとで、お辞儀が深すぎた気がした。
黒江班長はそれを笑わず、俺が顔を上げるのを待ってくれた。
「今日は見学と、基礎の説明だ。入ると決めたわけじゃないと聞いてる。それでいい」
その言葉で、肩の力が少し抜けた。
来たからには何かの契約書を出されるのでは、と考えていた自分がいる。
「学校と家の用事は優先してくれ。こっちの都合で、急に生活を変える必要はない」
「はい」
「分からないことは聞く。体調が悪くなったら言う。できないことを、できるとは言わない。今日はそこだけ覚えて帰ればいい」
思っていたより、普通の注意だった。
ただ、最後の一つを言うときだけ、声が少し低くなった。
「分かりました」
黒江班長はうなずいて、机の向こうへ目を向けた。
「秋庭、頼む」
「はい」
棚の前にいた女性が、薄いファイルを持ってこちらへ来た。
落ち着いた色のブラウスに、動きやすそうな靴。髪を後ろでまとめていて、ファイルの端から、細長い紙が何枚かのぞいている。
「秋庭千景です。副班長をしています。今日は私が説明するわね」
「よろしくお願いします」
「少し緊張しているかしら?」
「少し」
「じゃあ、まず座りましょう。立ったまま緊張していると、足まで疲れてしまうからね」
秋庭さんは部屋の脇の小さなテーブルを指した。
言い方が具体的で、何をすればいいか、すぐ分かった。
神代さんが椅子を引いてくれる。
秋庭さんは人数分のコップを持ってきて、水を注いだ。俺の前にも、ちゃんと置かれる。
その当然の動作に、思わず目が止まった。
「何か気になることがあるかしら?」
「いえ」
口にしてから、昨日の喫茶店を思い出した。
俺とひかりさんの水だけが来なかった。
ここでは来る。
何でもない違いのはずなのに、気になった。
***
秋庭さんはファイルを開かず、まず地図をこちらへ向けた。
見慣れた駅の名前がある。学校も、家の近くの交差点もあった。
「ここが第11班の担当区域。いま見ている部屋は、その班の拠点です」
「11ってことは、ほかにも十個はあるんですか」
「支社の中には、第14班まであるわ。ただし、全部が同じ仕事をしているわけではないの」
秋庭さんは地図の下側を指でなぞった。
「地域を担当する班もあれば、治療や設備の維持、事後処理を専門にする班もある。第11班は、このあたりで起きたことを調べて、必要なら対処する班」
昨日の森林公園も、その指の先に入っていた。
見慣れた土地が、別の色で区切られている。
駅から家へ帰るだけだった道に、担当者がいた。
「ここにいる人だけで、この広さを?」
「今日は顔を合わせられたのが黒江班長と私だけだけど、ほかにも班員はいるわ。外に出ている人も、今日は休みの人もいる」
秋庭さんは空いている机へ目をやった。
「ひかりちゃんと神代さんを含めて、みんなが一度にここへ揃う方が珍しいかな」
電話が鳴った。
神代さんが俺たちに軽く手を上げ、席を離れる。声の調子が仕事のものに変わった。
秋庭さんは続きを急がず、俺が地図を見終えるまで待っていた。
「治療って、病院じゃ駄目なんですか」
「病院で診てもらえる怪我もあるわ。ただ、普通の検査では原因が分からないものもあるから、そのときは、事情の分かる人に診てもらうの」
「第6班」
自分の机にいたひかりさんが、画面から目を離さず言った。
「あそこの待合室、普通に風邪の人もいるよ」
「風邪も診るの?」
「診療所だもん」
驚く俺がおかしい、という顔だった。
秋庭さんは少し笑った。
「特別なことだけして暮らせるわけではないから。普通の生活の中に、こういう仕事があると思ってもらう方が近い」
「じゃあ、俺みたいな高校生もいるんですか」
「いるわ。ひかりもそう。ただ、今の牧瀬くんは研修に来ている段階。班員と同じ仕事を任せるという意味ではないから、そこは分けておこうね」
俺はうなずいた。
昨日、名刺をもらっただけで増えたと思った選択肢は、今日、少しだけ形を持った。
選べることが増えるのと、何でも選んでいいのは違うらしい。
「こんな組織、昔からあったんですか」
秋庭さんはその質問に、すぐには答えなかった。
ファイルの最初のページを開き、年表らしい紙を一度見て、また閉じる。
「今の名前や形になる前から、似た仕事をしていた人たちはいたよ。見える人が集まって、見えない人の代わりに調べたり、危ないものを遠ざけたり」
「陰陽師とか?」
「そう呼ばれた人たちもいるでしょうね。でも、名前だけで全部を同じものとは考えない方がいいのよ」
歴史の授業で聞く話と、目の前の電話やコピー機が、うまくつながらない。
秋庭さんは俺の視線に気づいたらしい。
「昔の方法も残っているけど、使える道具は使う。連絡するのに毎回手紙を書いていたら、現場へ着くのが遅くなるでしょう?」
「……それは、そうですね」
「ここへ来る約束も、メッセージでできたでしょう?」
古いものを扱う仕事でも、古い生活をしているわけではない。
言われてみれば当然だった。
俺は地図の隅に貼られた、手書きの訂正用の付箋を見た。誰かがそこへ鉛筆で小さく、工事中、と書いていた。
「知らない人に、話してもいいんですか」
思いついたことを聞くと、秋庭さんはファイルを置いた。
「何を、誰に話したい?」
「まだ、誰っていうのはないです。見えたものを話すと、変だって言われることが多かったから。ここでは、そうじゃないんだなって」
言い終えると、部屋の音が少し近くなった。
ひかりさんの机で、スマホが一度震える。
秋庭さんは俺の顔を見たまま、うなずいた。
「信じてもらえなかった経験と、今、誰かへ説明することは、分けて考えましょう。ここで話していいことと、その人に話す必要があることも、同じではないからね」
「全部、秘密ってわけではなくて?」
「相談できる相手はいた方がいい。ただ、相手が確かめようとして危ない場所へ行くかもしれないでしょう。写真を撮りたいとか、本当にいるのか見たいとか」
俺は、昔の友達の顔を思い出した。
嘘なら連れていけ、と言われたことがある。
連れていかなかった。
それで、ますます嘘だと思われた。
「そういう人には、先に相談してくださいってことですか」
「ええ。牧瀬くんだけで責任を持たなくていいのよ」
秋庭さんの言葉に、俺はノートを開いた。
何を書くか迷って、話す前に相談、とだけ残す。
「うらばあちゃんには、見えることを教えてくれる人に会ったって、言ってあります」
「そう。牧瀬くんのことを心配してくれる人には、帰る時間も伝えてね。今日は何時まで大丈夫?」
現実の時間へ戻されて、俺はスマホの時計を見た。
夕飯に間に合う時間を答えると、秋庭さんは自分の時計も確かめた。
話すことが山ほどあっても、家で待つ人の時間はなくならない。
その扱い方は、俺には思っていたより大事だった。
***
神代さんが戻ってきたところで、俺はコップを持った。
水は少しぬるくなっていた。
「そういえば、喫茶店で、水が来なかったですよね」
神代さんの眉が上がった。
ひかりさんが、今度は画面から顔を上げた。
「気づいてたの」
「二つ持ってた店員が、俺たちのところを通り過ぎたから」
「あれは私のせいだね」
神代さんは空いている椅子へ座った。
「君たちが入ったときには、まだ普通に見えていた。そのあと、周囲から注意が向かないようにした。店員さんも、その影響を受けた」
「入ってきたのは知ってるのに、どこに座ったか分からなくなった?」
「あのときは、そういうことだね」
店員が奥で首をかしげていた姿を思い出した。
会話を気にしないようにした、と言われていた。
俺はそれを、話の内容だけが気にならなくなることだと思っていた。
その場に座っている人間も、気に留められなくなるのか。
「ひかりさんが神代さんの水を飲んだのも」
「私のが来なかったから」
ひかりさんは何でもないことのように答えた。
「待ってても来ないし」
「だからって、断りもなく取るのは別の話だよ」
「今それ言う?」
秋庭さんは二人のやり取りを止めず、俺へ向き直った。
「隠形という術の使い方の一つ。目の前にいるものを、見つけにくくする。消えていなくなるわけではないから、椅子も動くし、音もする」
「透明になるのとは違うんですね」
「似た結果になることはある。でも同じではないのよ。歩けばぶつかる可能性もある。何をしても気づかれない、というものではないの」
俺はひかりさんを見た。
昨日、俺に向かって走ってきた、と言った。
あのとき正面には、誰もいなかった。
「一昨日も、使ってたんですか」
「うん」
ひかりさんは短く答えた。
「君の前にいた。正面から来たから、少し横に避けた」
「俺、見えてなかった」
「だから避けたんでしょ。ぶつかられたくないし」
あの角を曲がる前に、人がいた。
俺が何もいないと思って走ったところで、俺を見ていた人がいた。
背中に、遅れて寒気が来た。
「森林公園まで、誰にも会わなかったんです。普段なら、あの時間はもう少し人がいるのに」
神代さんは俺の顔を見てから、机へ視線を移した。
「あの周辺で対応する準備をしていたからね。人を危険へ近づけないための働きかけもしていた。ただ、道に誰もいなかったことが、全部それで説明できるとは限らない」
「人を、消したわけじゃなくて?」
「消さないよ。近づかずに済むなら、その方がいいという話だ」
俺は頬をかいた。
自分でも、馬鹿なことを聞いたと思う。
でも、一つ分からなくなると、何もかも分からなくなる。
ひかりさんがそこにいたことも、水が来なかったことも、同じ話につながっていた。
「こういう仕事は、倒して終わりではないの」
秋庭さんが地図へ手を置いた。
「通りがかりの人を巻き込まないこと。終わったあと、その人がいつもの生活へ戻れること。そのために動く人もいる」
俺は神代さんを見た。
喫茶店で笑っていた人が、昨日の道で何をしていたのか、少しだけ分かった気がした。
だからといって、見ているだけだったことへの不満が、全部消えたわけではない。
神代さんも、それを言い訳にしようとはしなかった。
「あのときは、君が対処できると思い込んだ。それは、別の問題だね」
俺は小さくうなずいた。
別の問題。
一つ分かったから、別のことまで納得しなくていい。
その分け方は、少しありがたかった。
***
説明が一区切りしたあと、秋庭さんは廊下の向こうへ俺を案内した。
小さな部屋には、机と、壁際へ寄せられた椅子、薄い運動用のマットがあった。窓は閉まっていて、蛍光灯が一本、わずかに低い音を立てている。
「明日から、ここで基礎を学んでいきましょう。最初は自分の伝力を感じて、必要な分だけ出すこと。それから、出したくない分を抑えること」
出す。抑える。
昨日、自分の手を見ても何も起きなかったことを思い出す。
「俺、できるんですかね」
「できるように練習するの。今できるかどうかを決めに来たわけじゃないのよ」
秋庭さんはそう言って、入口の近くに置かれた椅子を引いた。
「今日は疲れていないかを確認して、終わりにしましょう。頭は痛くないかしら?」
「ないです」
「気分が悪いとか、目がちかちかするとか」
「それも、今は」
「じゃあ、最後に一つ。ここへ来てから、何か感じていたかしら?」
質問の意味が分からず、俺は部屋を見回した。
誰もいない。影も揺らいでいない。
けれど、さっきより少し、空気が締まったような感じがあった。
「入口のところ。冷たいっていうか、細い線みたいなのが」
言ってから、また嘘つきだと思われるのでは、と考えた。
そんな心配がまだ抜けない。
秋庭さんは俺の言葉を聞き、入口の柱へ目を向けた。
そこには、小さな紙が貼ってあった。
「そう。そこにあるわ」
俺の話を否定せず、場所を確かめてくれる。
それだけの返事に、喉の奥が少し詰まった。
「よくあるんですか、これ」
「ここでは使っている。仕組みは、明日から少しずつ。今日は、見つけられたところまででいいのよ」
秋庭さんは紙に触れなかった。俺にも、触るようには言わなかった。
知っているのと、扱えるのは違う。
さっき聞いたばかりのことが、もう目の前にあった。
部屋を出ると、ひかりさんが廊下の壁にもたれていた。
「もう終わり?」
「今日は」
「じゃあ帰れるね」
言いながら、俺の足元を見た。
「明日もその靴でいいんじゃない。走りやすそうだし」
「走るの?」
「そのうち」
返事が短すぎて、何も安心できない。
秋庭さんは横で笑っていた。
机のある部屋へ戻ると、黒江班長が書類から顔を上げた。
「今日はどうだった」
俺は少し考えた。
普通のビルだった。机があった。電話が鳴った。水が来た。
その中で、普通だと思っていた道と、喫茶店の記憶が変わった。
「分からないことが、増えました」
「そうか」
怒られるかと思ったのに、黒江班長はうなずいた。
「分からない場所が分かったなら、前よりは進んでる」
俺は、お守りの入ったポケットへ手を入れた。
まだ、これ以外に頼れるものはない。
けれど、明日は、分からないことを一つ聞ける。
建物を出ると、歩道を自転車が通り過ぎた。少し離れたところで、子どもが親の袖を引いている。
俺はその人たちの姿を、いつもより長く見ていた。
見えていることが、全部ではない。
見えていないからといって、いないわけでもない。
それが怖い話なのか、少し安心できる話なのか。
今日は、まだ決められなかった。




