第3話:お冷も提供されないなんて…イジメですか
ひかりさんに連れられて入ったのは、大通りに面した喫茶店だった。
扉を開けると、小さなベルが鳴った。コーヒーの香りと、食器の触れ合う音が迎えてくれる。
店内には何組かの客がいて、入口の近くでは店員がカップを並べていた。こちらに気づくと、「いらっしゃいませ」と声をかけてくる。妙な場所へ連れ込まれるわけではない。それだけで少し安心した。
ただ、落ち着いた照明も、重そうな木のテーブルも、高校生の懐には優しくなさそうだった。
その安心を打ち消すように、窓際の席で男性が手を上げた。ひかりさんはそちらへ真っ直ぐ歩いていく。
スーツ姿。俺よりずっと年上。平日の午後に、女子高生と喫茶店で待ち合わせている男。
どういう関係だ。
ひかりさんは迷わず男性の隣の席に座り、向かいの椅子を俺に示した。
「神代直哉です。座ってくれるかな」
ナンパの次は美人局か。
俺、まだ何もしてないぞ。名前だって、聞かれた覚えがない。
財布の中身を思い出しながら、椅子の背に手をかけたまま止まる。
「昨日のことを聞きたいんだ」
その一言で、考えていたことが全部飛んだ。
「……路地のことですか」
「空気が歪んで、君を追った。最後は……お守りかな。それを投げていたね」
そこまで見ていたのか。
俺も腰を下ろしたが、鞄は足元に置かず、膝の上に抱えた。
神代さんがメニューを差し出し、俺は一番上にあったものを指した。何を飲みたいか考える余裕はなかった。
神代さんは軽くうなずいて、メニューをテーブルの端へ戻した。
「ここの分は私が持つよ」
財布を気にしていたのが顔に出ていたらしい。ありがたい。ありがたいが、それで警戒を解くほど素直にもなれない。
「普通の人はいきなり全力疾走してから、急に後ろに物を投げたりしないと思うが、君は違うようだね」
「いや、その……クラスメイトに声をかけたんです。それで、恥ずかしくなって逃げただけで」
朝、白波にした説明を、ここでも繰り返す。お守りを投げた理由にはなっていない。自分でも分かっていた。
「あの子は君のクラスメイトだったんだね」
俺はうなずいた。白波が朝、普通に教室にいたことを思い出す。
「その子には今日謝りました」
「許してもらえたのかい?」
「はい……」
神代さんは一度だけうなずき、声の調子を変えずに続けた。
「昨日、君を追っていた存在を、私たちは『干衝体』と呼んでいる」
「はぁ……」
急に話の方向が変わった。
美人局ではないのかもしれない。代わりに、別の意味で危ない人なのではないか。そういう不安が頭をもたげた。
「あの……宗教とかセミナーへの勧誘だったら、お断りしたいのですが」
「宗教でもセミナーでもないよ。もっとも、勧誘という意味では、そうなるかもしれないね。ひかり君はどう思う?」
「ごめん。聞いてなかった」
席に座るなりスマホを見ていたひかりさんが、面倒そうに顔を上げた。
「っていうか、もう終わった? 私、このあと行くところあるんだけど」
人を連れてきておいて、自分は帰る気か。
戸惑いより先に、苛立ちが口から出た。
「いや、あんたが声かけてきたからついてきたのに、もういなくなるつもりかよ?」
「ひかり。天城ひかりって名前があるんだけど。『あんた』じゃないし、何その言い方」
いきなりけんか腰で返され、俺は神代さんへ視線を向けた。仲裁してくれるかと思ったのに、口元が少し緩んでいる。
この人、楽しんでないか。
「ひかり君、彼を連れてきたのは君だよ。予定があるなら、もう少し説明を手伝ってくれるかな」
「……分かってる」
ひかりさんはスマホを伏せた。神代さんは俺にも穏やかな顔を向ける。
「彼女も帰るわけじゃない。続けてもいいかな」
返事をする前に、俺は周囲へ目をやった。
少し声を荒らげてしまった。店員に注意されてもおかしくない。
けれど、誰もこちらを見ていなかった。
俺は、隣の席を見た。
ノートパソコンを開いた客がいる。少し離れた席では、二人連れが笑っていた。
制服姿の男女と、スーツの大人。しかも、ひかりさんは黙っていても目を引きそうな顔立ちだ。そんな組み合わせで言い合えば、少しくらい注目されそうなものなのに。
「周りは気にしなくていいよ」
神代さんが言ったところへ、店員が水を二つ載せたトレーを持ってきた。
けれど、俺たちの席を通り過ぎる。奥の席まで行き、足を止めて、店内を見回した。
「君のお守りで散らせたのは、幸いだった」
お守り。散らす。話がますます分からなくなる。
店員は空いている席を確かめるように首をかしげ、水を持ったままカウンターへ戻っていった。
さっき入ってきた俺たちの分じゃないのか。
隣の客も顔を上げない。
何も聞こえていないようには見えない。俺が椅子を動かした音には、少し目を向けたのだから。
「今、何かしてるんですか」
「この話に、注意が向かないようにしている」
俺は、自分の声をひそめかけたまま止まった。
隠すというのは、鍵をかけることだけではないらしい。
「この人、そういうのが仕事」
ひかりさんが横から言った。
「私は戦う方。この人は、周りをごまかしたり、後片づけしたり。あと、うるさい」
「引率者と言ってほしいな」
「だいたい同じでしょ」
「少なくとも、勝手にどこかへ行かないように見ているという意味ではね」
神代さんは笑っていたが、ひかりさんは彼の前にある手つかずの水を引き寄せ、そのまま飲んだ。
「それ、私のなんだけどね」
「だって、私の来ないし」
神代さんは苦笑するだけだった。俺の前にも、まだ水はない。
昨日のあれと戦う女子と、その後を片づける男。
そんな仕事があると、今まで考えたこともなかった。
「霊とは、違うんですか」
「そう呼ぶ人もいる。君は昔から、似たものを見たことがある?」
俺は、足音と影の話をした。
全部は話せない。説明のしようもない。それでも、疲れているのではないかと言われる前に、神代さんが続きを待ってくれた。
「見えたら逃げてました。逃げてもついてくるときは、お守りを投げて。それ以外は、何もできません」
「昨日も避ければよかったのに」
ひかりさんの言葉に、俺は膝の上の鞄を握った。
「先に、クラスの子がいたから」
ひかりさんは俺を見て、一度だけ口を閉じた。
「……それで、引っ張ったわけね」
俺には何かを引っ張ったつもりはない。逃げたらついてきた。それだけだった。
「どうして俺の方へ来たんですか」
「君から漏れていた力の方が、おいしそうにでも見えたんだろうね」
神代さんの答えは、あまりに簡単だった。
「力?」
「伝わる力と書いて、伝力。私たちはそう呼んでいる」
俺は自分の手を見た。昨日、お守りを投げた手だ。指を開いても握っても、何も起きない。
膝の上の鞄へ手を戻す。指先に触れる布の感触は、昨日までと何も変わらない。
「知らなくても漏れるんですか」
「むしろ、扱い方を知らないから漏れていることもある」
「それ、止められるんですか」
「練習は必要だけどね。何も習っていなくてあれだけの気配があるなら、きちんと学べば、一人前になれる見込みはある」
「そこは、私もそう思う」
ひかりさんがうなずいた。さっきまでの投げやりな声とは、少し違った。
「神通力でも魔力でも霊力でも、好きに呼べばいいんじゃない。大体根っこは同じだし」
ひかりさんはそう言ってから、俺の顔を見た。
「ただ、強ければ勝てるってわけでもなかったみたいだけど」
「……見てたんですよね。だったら、昨日」
助けてくれればよかった。
そこまで言わなかったが、二人には伝わったらしい。
ひかりさんが、少し目を逸らした。
「自分で何とかすると思ったの。あれだけの気配を出してたから」
「君が使い方まで知っていると、早合点した」
神代さんは笑わずに言った。
「逃げてるんだと思ったから、私も出ようとした。そしたら、君がお守りを投げたの」
「思ったから、って……」
こっちは、最初から必死だった。
言葉が途切れる。ひかりさんは反論しなかった。
「判断が悪かった。すまなかったね」
神代さんが言った。
俺はすぐには返事をしなかった。けれど、二人が何もかも知っているわけではないことは分かった。
少なくとも、俺の対処法が逃走とお守りだけだとは、昨日は思っていなかったらしい。
「私たちは、干衝体へ対処したり、現場を調べたりする組織にいる」
神代さんは、テーブルに指を一本置いた。
俺はカウンターへ目をやった。店員は別の客の注文を聞いている。俺たちのところへ来る様子はない。
水だけでなく、注文を聞きに来るのも忘れられているらしい。
「干衝体がどこから来るのか、君のその伝力をどう扱うかも、教えられる」
「どこから来るのかって、宇宙からでも来るんですか」
冗談のつもりだった。けれど、ひかりさんは首をかしげただけだった。
「宇宙って呼んでいいかは知らないけど、この世界の外にも、いろいろあるから」
「外側からこちらへ干渉してくるものは、確かにいるよ」
神代さんまで、あっさりうなずいた。
この世界の外。そういう場所から、干衝体というあれらが来るのか。
冗談に乗っているようには見えなかった。
俺は、その理解でようやく話についていける気がした。分からない言葉を一つずつ聞いていたら、いつまでも家へ帰れそうにない。
「教われば、昨日みたいにならずに済むんですか」
「何も知らずに逃げるより、選べることは増える」
「私くらいに、とは言わないけどね」
ひかりさんが付け足した。
その言い方に少し腹が立ち、少しだけ安心した。急に何でもできるようになると言われるより、信じられる。
「今すぐ組織へ入れとは言わないよ。今日聞いたことを、いったん持ち帰ってほしい」
神代さんが内ポケットから名刺を出した。
『陰性・陽性領域間干衝調整対策機構』
『第11班 特別対策員 神代直哉』
文字を追うだけで、少し時間がかかった。
「……長い」
「でしょ。ダサいし長ったらしいから、誰も正式名称で呼んでない。陰陽寮でいいの」
ひかりさんが、待ってましたとばかりに言った。
『陰陽寮』
そっちなら覚えられそうだった。俺は名刺の下にある連絡先を確かめ、財布へしまった。
「困ったら連絡して。昨日みたいなときも、一人で何とかしようとしないでほしい」
俺はうなずきかけて、ポケットのお守りへ触れた。
昨日まで、見えてしまうことに得はないと思っていた。道を避ける理由が一つ増えるだけだった。
けれど、見えたから白波に声をかけた。
うまくできたとは言えない。逃げ回って、お守りに助けられただけだ。
それでも、やり方を教われば、次はもう少し違うことができるかもしれない。
店を出ると、大通りの車の音が戻ってきた。
俺の手にも身体にも、何かが増えた感覚はなかった。
財布に名刺が一枚増えただけだ。
それを、今夜うらばあちゃんにどう説明しようか。
そう考えながら、俺はいつもの帰り道へ歩き出した。




