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球体世界の観測者 ~見えるだけの少年は、陰陽寮で世界の裏側を知る~  作者: 雅貴
第1章

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第3話:お冷も提供されないなんて…イジメですか

ひかりさんに連れられて入ったのは、大通りに面した喫茶店だった。


扉を開けると、小さなベルが鳴った。コーヒーの香りと、食器の触れ合う音が迎えてくれる。

店内には何組かの客がいて、入口の近くでは店員がカップを並べていた。こちらに気づくと、「いらっしゃいませ」と声をかけてくる。妙な場所へ連れ込まれるわけではない。それだけで少し安心した。

ただ、落ち着いた照明も、重そうな木のテーブルも、高校生の懐には優しくなさそうだった。


その安心を打ち消すように、窓際の席で男性が手を上げた。ひかりさんはそちらへ真っ直ぐ歩いていく。


スーツ姿。俺よりずっと年上。平日の午後に、女子高生と喫茶店で待ち合わせている男。

どういう関係だ。

ひかりさんは迷わず男性の隣の席に座り、向かいの椅子を俺に示した。


「神代直哉です。座ってくれるかな」


ナンパの次は美人局か。


俺、まだ何もしてないぞ。名前だって、聞かれた覚えがない。

財布の中身を思い出しながら、椅子の背に手をかけたまま止まる。


「昨日のことを聞きたいんだ」


その一言で、考えていたことが全部飛んだ。


「……路地のことですか」


「空気が歪んで、君を追った。最後は……お守りかな。それを投げていたね」


そこまで見ていたのか。


俺も腰を下ろしたが、鞄は足元に置かず、膝の上に抱えた。


神代さんがメニューを差し出し、俺は一番上にあったものを指した。何を飲みたいか考える余裕はなかった。

神代さんは軽くうなずいて、メニューをテーブルの端へ戻した。


「ここの分は私が持つよ」


財布を気にしていたのが顔に出ていたらしい。ありがたい。ありがたいが、それで警戒を解くほど素直にもなれない。


「普通の人はいきなり全力疾走してから、急に後ろに物を投げたりしないと思うが、君は違うようだね」


「いや、その……クラスメイトに声をかけたんです。それで、恥ずかしくなって逃げただけで」


朝、白波にした説明を、ここでも繰り返す。お守りを投げた理由にはなっていない。自分でも分かっていた。


「あの子は君のクラスメイトだったんだね」


俺はうなずいた。白波が朝、普通に教室にいたことを思い出す。


「その子には今日謝りました」


「許してもらえたのかい?」


「はい……」


神代さんは一度だけうなずき、声の調子を変えずに続けた。


「昨日、君を追っていた存在を、私たちは『干衝体』と呼んでいる」


「はぁ……」


急に話の方向が変わった。

美人局ではないのかもしれない。代わりに、別の意味で危ない人なのではないか。そういう不安が頭をもたげた。


「あの……宗教とかセミナーへの勧誘だったら、お断りしたいのですが」


「宗教でもセミナーでもないよ。もっとも、勧誘という意味では、そうなるかもしれないね。ひかり君はどう思う?」


「ごめん。聞いてなかった」


席に座るなりスマホを見ていたひかりさんが、面倒そうに顔を上げた。


「っていうか、もう終わった? 私、このあと行くところあるんだけど」


人を連れてきておいて、自分は帰る気か。

戸惑いより先に、苛立ちが口から出た。


「いや、あんたが声かけてきたからついてきたのに、もういなくなるつもりかよ?」


「ひかり。天城ひかりって名前があるんだけど。『あんた』じゃないし、何その言い方」


いきなりけんか腰で返され、俺は神代さんへ視線を向けた。仲裁してくれるかと思ったのに、口元が少し緩んでいる。

この人、楽しんでないか。


「ひかり君、彼を連れてきたのは君だよ。予定があるなら、もう少し説明を手伝ってくれるかな」


「……分かってる」


ひかりさんはスマホを伏せた。神代さんは俺にも穏やかな顔を向ける。


「彼女も帰るわけじゃない。続けてもいいかな」


返事をする前に、俺は周囲へ目をやった。

少し声を荒らげてしまった。店員に注意されてもおかしくない。

けれど、誰もこちらを見ていなかった。


俺は、隣の席を見た。

ノートパソコンを開いた客がいる。少し離れた席では、二人連れが笑っていた。

制服姿の男女と、スーツの大人。しかも、ひかりさんは黙っていても目を引きそうな顔立ちだ。そんな組み合わせで言い合えば、少しくらい注目されそうなものなのに。


「周りは気にしなくていいよ」


神代さんが言ったところへ、店員が水を二つ載せたトレーを持ってきた。

けれど、俺たちの席を通り過ぎる。奥の席まで行き、足を止めて、店内を見回した。


「君のお守りで散らせたのは、幸いだった」


お守り。散らす。話がますます分からなくなる。

店員は空いている席を確かめるように首をかしげ、水を持ったままカウンターへ戻っていった。

さっき入ってきた俺たちの分じゃないのか。

隣の客も顔を上げない。

何も聞こえていないようには見えない。俺が椅子を動かした音には、少し目を向けたのだから。


「今、何かしてるんですか」


「この話に、注意が向かないようにしている」


俺は、自分の声をひそめかけたまま止まった。


隠すというのは、鍵をかけることだけではないらしい。


「この人、そういうのが仕事」


ひかりさんが横から言った。


「私は戦う方。この人は、周りをごまかしたり、後片づけしたり。あと、うるさい」


「引率者と言ってほしいな」


「だいたい同じでしょ」


「少なくとも、勝手にどこかへ行かないように見ているという意味ではね」


神代さんは笑っていたが、ひかりさんは彼の前にある手つかずの水を引き寄せ、そのまま飲んだ。


「それ、私のなんだけどね」


「だって、私の来ないし」


神代さんは苦笑するだけだった。俺の前にも、まだ水はない。


昨日のあれと戦う女子と、その後を片づける男。


そんな仕事があると、今まで考えたこともなかった。


「霊とは、違うんですか」


「そう呼ぶ人もいる。君は昔から、似たものを見たことがある?」


俺は、足音と影の話をした。


全部は話せない。説明のしようもない。それでも、疲れているのではないかと言われる前に、神代さんが続きを待ってくれた。


「見えたら逃げてました。逃げてもついてくるときは、お守りを投げて。それ以外は、何もできません」


「昨日も避ければよかったのに」


ひかりさんの言葉に、俺は膝の上の鞄を握った。


「先に、クラスの子がいたから」


ひかりさんは俺を見て、一度だけ口を閉じた。


「……それで、引っ張ったわけね」


俺には何かを引っ張ったつもりはない。逃げたらついてきた。それだけだった。


「どうして俺の方へ来たんですか」


「君から漏れていた力の方が、おいしそうにでも見えたんだろうね」


神代さんの答えは、あまりに簡単だった。


「力?」


「伝わる力と書いて、伝力(でんりょく)。私たちはそう呼んでいる」


俺は自分の手を見た。昨日、お守りを投げた手だ。指を開いても握っても、何も起きない。

膝の上の鞄へ手を戻す。指先に触れる布の感触は、昨日までと何も変わらない。


「知らなくても漏れるんですか」


「むしろ、扱い方を知らないから漏れていることもある」


「それ、止められるんですか」


「練習は必要だけどね。何も習っていなくてあれだけの気配があるなら、きちんと学べば、一人前になれる見込みはある」


「そこは、私もそう思う」


ひかりさんがうなずいた。さっきまでの投げやりな声とは、少し違った。


「神通力でも魔力でも霊力でも、好きに呼べばいいんじゃない。大体根っこは同じだし」


ひかりさんはそう言ってから、俺の顔を見た。


「ただ、強ければ勝てるってわけでもなかったみたいだけど」


「……見てたんですよね。だったら、昨日」


助けてくれればよかった。


そこまで言わなかったが、二人には伝わったらしい。


ひかりさんが、少し目を逸らした。


「自分で何とかすると思ったの。あれだけの気配を出してたから」


「君が使い方まで知っていると、早合点した」


神代さんは笑わずに言った。


「逃げてるんだと思ったから、私も出ようとした。そしたら、君がお守りを投げたの」


「思ったから、って……」


こっちは、最初から必死だった。

言葉が途切れる。ひかりさんは反論しなかった。


「判断が悪かった。すまなかったね」


神代さんが言った。

俺はすぐには返事をしなかった。けれど、二人が何もかも知っているわけではないことは分かった。

少なくとも、俺の対処法が逃走とお守りだけだとは、昨日は思っていなかったらしい。


「私たちは、干衝体へ対処したり、現場を調べたりする組織にいる」


神代さんは、テーブルに指を一本置いた。

俺はカウンターへ目をやった。店員は別の客の注文を聞いている。俺たちのところへ来る様子はない。

水だけでなく、注文を聞きに来るのも忘れられているらしい。


「干衝体がどこから来るのか、君のその伝力をどう扱うかも、教えられる」


「どこから来るのかって、宇宙からでも来るんですか」


冗談のつもりだった。けれど、ひかりさんは首をかしげただけだった。


「宇宙って呼んでいいかは知らないけど、この世界の外にも、いろいろあるから」


「外側からこちらへ干渉してくるものは、確かにいるよ」


神代さんまで、あっさりうなずいた。

この世界の外。そういう場所から、干衝体というあれらが来るのか。

冗談に乗っているようには見えなかった。

俺は、その理解でようやく話についていける気がした。分からない言葉を一つずつ聞いていたら、いつまでも家へ帰れそうにない。


「教われば、昨日みたいにならずに済むんですか」


「何も知らずに逃げるより、選べることは増える」


「私くらいに、とは言わないけどね」


ひかりさんが付け足した。


その言い方に少し腹が立ち、少しだけ安心した。急に何でもできるようになると言われるより、信じられる。


「今すぐ組織へ入れとは言わないよ。今日聞いたことを、いったん持ち帰ってほしい」


神代さんが内ポケットから名刺を出した。

『陰性・陽性領域間干衝調整対策機構』

『第11班 特別対策員 神代直哉』


文字を追うだけで、少し時間がかかった。


「……長い」


「でしょ。ダサいし長ったらしいから、誰も正式名称で呼んでない。陰陽寮でいいの」


ひかりさんが、待ってましたとばかりに言った。


『陰陽寮』


そっちなら覚えられそうだった。俺は名刺の下にある連絡先を確かめ、財布へしまった。


「困ったら連絡して。昨日みたいなときも、一人で何とかしようとしないでほしい」


俺はうなずきかけて、ポケットのお守りへ触れた。

昨日まで、見えてしまうことに得はないと思っていた。道を避ける理由が一つ増えるだけだった。


けれど、見えたから白波に声をかけた。

うまくできたとは言えない。逃げ回って、お守りに助けられただけだ。


それでも、やり方を教われば、次はもう少し違うことができるかもしれない。


店を出ると、大通りの車の音が戻ってきた。

俺の手にも身体にも、何かが増えた感覚はなかった。


財布に名刺が一枚増えただけだ。


それを、今夜うらばあちゃんにどう説明しようか。

そう考えながら、俺はいつもの帰り道へ歩き出した。


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