第2話:女子に見られてた…〇してくれ
家に着く頃には、息はすっかり戻っていた。
けれど、ポケットの中でお守りに触れるたび、あの空気がほどける瞬間が鮮明に蘇る。
指先に残るざらつきが、まるで「まだ終わっていない」と告げてくるようだった。
どうして――あのユラギは白波から俺へ向きを変えたのか。
今までも似た状況は何度かあった。
ユラギは俺が近づくと向かってくることもあれば、逆にそのまま向かってこない場合もあった。
中学生になってからは、俺を狙う割合が増えた気がする。それでも五分五分だ。
でも今日のあいつは、今まで見てきたものと違った。
重さがあった。
濃さがあった。
“気配”としか言えない何かが、俺の背中に貼りつくようにまとわりついてきた。
そう思う一方で、俺はいつも“違い”を確かめる前に逃げていたことにも気づく。
見たくないものから目をそらし続けてきた結果、今日のような“異物”に気づくのが遅れたのかもしれない。
***
靴を脱いでリビングに入ると、姉の玲奈がソファでテレビを見ていた。
画面の光が横顔を照らし、部屋の空気はいつものようにゆるい。
その日常の温度が、さっきまでの非日常とあまりに違いすぎて、少しだけ現実感が揺らいだ。
「おかえり。……何その顔」
「どんな顔だよ」
「体育で最後まで走らされた帰宅部の顔」
的確すぎて、返す言葉がない。
鞄を置くと、玲奈はリモコンを軽く押して音量を下げた。
その仕草が妙に優しくて、胸の奥が少し緩む。
「また変なの見たの?」
「……見た」
「うらばあちゃんの言いつけは?」
「守った。逃げたし、お守りも使った」
玲奈の視線が、俺のポケットへ落ちる。
その目は、見えないものを見ようとするような、静かな真剣さを帯びていた。
「今回も投げたんだ」
「うん」
「で、帰ってきた」
「見れば分かるだろ」
「ふーん。なら、よかったじゃん」
その軽さがありがたかった。
“大丈夫?”と深刻に聞かれるより、ずっと楽だ。
玲奈には俺の見えるものは見えない。
それでも、昔から急に道を変える俺を何度も見てきた。
見えないものを信じるわけではないが、否定もしない。
その距離感が、俺にはちょうどよかった。
「……クラスの子が、近くにいたんだ」
ぽつりと付け足すと、玲奈は眉を上げた。
「その子も逃げられた?」
「わかんね…その前に、俺逃げたから」
「なら、明日ちゃんと確かめな」
テレビの音が戻る。
さっきまで気づかなかっただけで、ずっと流れていたらしい。
その日常の音が、妙に遠く聞こえた。
***
風呂に入り、夕飯を食べ、自分の部屋へ戻る。
机の上に、お守りを置いた。
端についた土は落としたが、糸の隙間にはまだ少し残っている。
その汚れが、今日の出来事を証明しているようで、目を離せなかった。
袋を開ければ何か分かるのかもしれない。
でも、ほどいて元に戻せなかったら嫌だった。
自慢ではないが家庭科の成績は1以外を取ったことがない。
何度も助けられてきたものなのに、今日はいつも以上に手放しがたい。机の上に置いているだけでも心細かった。
スマホを手に取り、検索欄を開きかけてやめた。
『影に追われた』
『お守りを投げたら消えた』
そんな言葉で、欲しい答えが出てくる気はしない。
検索結果の画面に、俺の不安が雑に並べられるだけだ。
白波は、ちゃんと帰れただろうか。
教室ではすぐ隣にいるのに、連絡先すら知らない。
明日の朝、いつもどおり座っていてくれれば、それでいい。
俺はうらばあちゃん宛てのメールを開いた。
前に会ったのは年末年始だ。
昔は母方の実家へよく顔を出していたが、この頃は学校の用事を理由に、会う機会が減っていた。
『今日、変なのに追いかけられた。クラスの子も巻き込まれそうだったけど、俺のほうに来たから、その子は家に帰ったと思う。俺は無事。お守りが役に立った。ありがとう』
送信してから読み返す。
これでは心配させるだけかもしれない。
『詳しいことは、また話す』
短く付け足した。
あのお守りのことも、うらばあちゃんなら何か知っているかもしれない。
机の上へスマホを伏せた。
寝ようとしても、走っている間に聞こえた靴音が、まだ頭の中で続いていた。
あの“追われている音”が、耳の奥にこびりついて離れない。
***
翌朝、教室に入ると、白波はいつもどおり隣の席にいた。
鞄から教科書を出す、変わらない動き。
それを見た瞬間、ようやく息が吐けた。
「おはよう」
声をかけると、白波は顔を上げた。
目の下に少しだけ影がある気がしたのは、気のせいだろうか。
「おはよう。昨日……」
少し声を落としたので、俺も鞄を置きながら顔を寄せる。
「悪い、勘違いだった。声をかけた相手がクラスメイトだと気づいたら恥ずかしくなって…ごめん」
「ううん。びっくりしたけど……牧瀬くん、あの後戻ってこなかったから」
白波の視線が、俺の顔を確かめるように動いた。
その目は、昨日の出来事を思い返しているようにも見えた。
「もしかしてナンパしようとしたの?」
「違う、でも驚かせた。ごめん」
「うん」
その返事で、胸のつかえが一つ取れた。
白波の声はいつもどおりで、それが何よりの救いだった。
昨日のあれを、白波はどこまで分かっていたのだろう。
聞きかけたところで、担任が教室へ入ってきた。
白波は机を向き直り、俺も教科書を出す。
隣には、いつもどおりの横顔がある。
それだけで今日はもう十分だと思ったのに――放課後には、また昨日のことを考えていた。
***
あの路地を通る気になれず、校門から帰り道を変えた。
少し遠回りになるが、別の角から大通りへ出られる。
昨日の空気の重さが、まだ足にまとわりついている気がした。
曲がり角の手前で、突然声をかけられた。
「ちょっと、そこの君」
振り返ると、同じくらいの歳の女子が立っていた。
すらりとした姿勢で、こちらを見る目が鋭い。
制服は俺の学校のものではない。
その視線は、観察者というより“選別者”のような冷たさを帯びていた。
「少し話せる?」
俺は自分の後ろを見た。
ほかに呼び止められそうな人はいない。
……まさか、これ、逆ナンか?
「君、昨日ここらへんで女性に声かけた瞬間逃げだしたでしょ」
その瞬間、一瞬でも期待した自分が恥ずかしかった。
声のトーンは淡々としているのに、言葉の選び方が妙に鋭い。
***
彼女の話を要約すると、昨日は女子に声をかけた瞬間逃げだした俺を不審者と思い、警察に通報しようとしていたらしい。
その判断は正しい。
俺の行動は、事情を知らない人間から見れば完全に怪しい。
誰かに見られていたなら、白波に声をかけなければよかったと今更後悔した。
あの瞬間の自分の動きが、こうして別の問題を生むなんて思いもしなかった。
「私、天城ひかり。近くで人待たせてるからさっさと答えて」
「待ってる人?」
一瞬で脳内に警察官が登場した。
制服姿の大人が角の向こうで腕を組んでいるイメージが浮かぶ。
「悪いけど、人違いじゃ――」
「昨日、女性に声かけた瞬間、私に向かって走ってきたでしょ」
彼女は俺の来た方ではなく、昨日逃げていった方向を指さした。
あのとき、正面には誰もいなかったはずだ。走るのに必死で、見落としたのだろうか。
その指先は迷いなく、まるで俺の動きをすべて把握しているかのようだった。
断りかけた言葉が止まる。
「あと森林公園まで走ったかと思ったら、何か投げてた」
ポケットのお守りが、急に重く感じられた。
心臓が一拍遅れて跳ねる。
この子は――あれを見ていた。




