第1話:ユラギとか厨二な呼び方して、恥ずかしい
昔から、俺には“見えるもの”があった。 父にも母にも見えない、形の定まらない影。 風もないのに揺れる空気。 誰もいないのに聞こえる足音。
小学生の頃、担任に相談したことがある。
「変な影がついてくる」 そう言った俺に返ってきたのは、 「気のせいじゃないのかな?」 という、当時の俺にとってはえぐるような言葉だった。
友達にも相談した。でも結局、嘘つき呼ばわりされてからは、もう誰にも話さなくなった。
その一件以来、俺は“見えるもの”の話を封印した。
唯一、母さんの母、うらばあちゃんだけが信じてくれた。
うらばあちゃんも、俺と同じように見える人だった。
俺の言ったことを真剣に受け止めてくれたのは、きっとうらばあちゃんが初めてだったと覚えている。
最近はあまり見えなくなったけれどね、と言いながら、うらばあちゃんは小学生の俺に小さなお守りをくれた。
「追いかけられたら逃げなさい」
「それでも追ってくる奴にはコレを投げつけなさい」
と教えてくれた。
その言葉は今でも俺の心の中に残っている。
それからというもの、逃げても離れないユラギにはお守りを投げてきた。何度助けられたか、もう覚えていない。
大きな病院の薄暗い廊下でも、家族旅行の見知らぬ土地でも、いつも俺を守ってくれた。
これさえあれば大丈夫だと思っていた。その頼みが通じない相手に出会う日が来るとも知らずに。
そんな俺の生活が変わり始めたのは、15歳の春、高校に入ってすぐの、あの日だった。
***
高校生活は拍子抜けするほど静かだった。授業は淡々と流れ、気づけばクラスの輪はもう出来上がっていて、俺の入る余地はどこにもなかった。
俺はただ静かに日々を過ごせることに安心しきっていた。
そんな俺の隣の席に、白波澪が座った。 黒髪で、少し控えめな雰囲気の女子。 特別話したことはないけれど、 どこか気になる存在だった。 隣に座られただけで、妙に意識してしまう自分がいた。
***
放課後。 いつものように帰ろうとしたとき、胸の奥がざわついた。 “嫌な感じ”がする。 生まれて今まで何度も感じた、あの感覚だ。
いつもなら避ける。 見なかったふりをして帰る。
けれど、今日は違った。 あの感覚…誰にも信じてもらえないあいつがいる感覚、いつもより強く、濃く、そして重く感じた。
怖いもの見たさ――というより、ここまで強い感覚は「確実に嫌なことが起きる」という確信めいた予感があった。
***
あいつがいる感覚に任せていつもと違う道を進む。
夕方の住宅街は人もおらず、まるで世界に俺一人しかいないのではないかと錯覚するほど静まり返っていた。
嫌な感覚に従い近づいていくと曲がり角の先に、 白波澪の背中があった。
白波はゆっくりと進んでいく。俺からしたら簡単に追い抜ける速さで歩いていた。
夕暮れの住宅街で、遠くの背中を白波だと即座に分かった自分に少しゾッとした。でも、今はそんなことを考えている場合じゃない。
だって、白波の背後の空気が、うすく、でも確実に歪んでいた。
夕陽が当たっているはずなのに、歪みの中だけ、煤を薄く溶かしたような黒さが残っていた。
俺には、いつものユラギが少し濃く見えるだけだった。
影が伸びるように、白波へ近づいていく。
いつもなら見過ごす。 俺には関係ない、と割り切る。
けれど、このままでは、隣の席で少しだけ気になってきた女子が明日その席にいないかもしれない。そう思ったら、俺の口は勝手に動いた。
「……おい、落としたぞ」
白波が振り返った。そいつを通して振り返った。
でも気づかない。目の前にいるそいつに気づかない。
でもそいつは…ユラギは俺をターゲットに切り替えた――そう直感した。
ユラギは、俺を“見ている”気がした。形はないのに、視線のようなものを感じる。
「え?」
白波はただぽかんと俺を見ている。そんな白波を置いて俺は反対側へ走った。
嬉しくないが、感覚でわかる…ユラギが俺を追ってきた。
***
人気のない路地をただ走る。
運動部でもないのに、長年の“逃げ慣れ”が皮肉にも役に立ってしまう。
路地を一つ抜けると、見慣れた通学路に戻ってこられた。
いつもなら、買い物帰りの人や自転車とすれ違う道だ。今日は、正面にも横道にも人の姿がない。
背後の気配を感じながら、その静けさを気にする余裕はなかった。
それでもユラギは離れない。
嫌な感じが教えてくれる。
ユラギは…やつが背後から迫ってきていると。
***
うらばあちゃんの言葉が頭をよぎる。
「追いかけられたら逃げなさい」
「それでも追ってくる奴にはコレを投げつけなさい」
***
いつもなら走って逃げれば追いつかれない。
走っていればそのうちいなくなる。
でも、今日のユラギはいつもと違った。
通学路脇の森林公園へ駆け込んだ。
角を二つ曲がっただけなのに、背後の気配はまったく遠のかない。
いつもなら、逃げるうちに少しは離れる。それが今日は、一向に離れなかった。
自分の中でここまで来たら、「こいつは決してあきらめない」という確信があった。
でもその確信があったからこそ、俺の次の行動は単純だった。
ポケットからお守りを取り出して投げつける。
ただそれだけだった。
年季の入ったおまもりだ。どこの神社でも売っていそうなただのお守りだ。
そんなお守りが真っ直ぐに飛んでいく。
その先にたまたまユラギがいた。
ユラギを見てから投げていない。
ただ感じる方に投げつけた。
何年も続けた結果上手くなってしまった、そんな自分の特技の一つだった。
空気が弾けるような感覚。ユラギの輪郭がほどけ、薄く引き伸ばされるように散っていった。
そこには、もう何も見えなかった。
地面にお守りが落ちていなければそこに何かいたなんてわからないぐらい、綺麗さっぱりと何も感じなくなっていた。
お守りを拾いながら周囲を見渡す。
誰もいない。白波も、ユラギも。
まるで最初から何もなかったみたいに、世界は静まり返っていた。
路地からここまで、誰ともすれ違っていない。それでも念のため、入口の方を振り返る。
誰もいない。
誰にも見られていない。
そこまで来てやっと一安心ができた。
ようやく息が整い、胸のざわつきも消えた。
その隙間に、白波の顔がふっと浮かんでくる。
――明日、どう説明すればいいんだ。
普段から会話のない自分がどう見られようと構わないと、自分に言い聞かせながら俺は家路へ向かった。




