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球体世界の観測者 ~見えるだけの少年は、陰陽寮で世界の裏側を知る~  作者: 雅貴
第2章第8節

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第52話:次に来たら、の有効期限

管理所の窓辺には、浅い皿が並んでいた。

薄く切った果物を干しているらしい。

水路から来た風が窓の縁を鳴らすたび、甘い匂いが少し動いた。


「それは、まだ食べないで。乾かしている途中」


ローヴァさんに言われ、俺は手を引っ込めた。


「見てただけです」


「そう。だったら、こっちを」


別の皿が、机の上へ置かれた。

こちらには、焼いた薄い生地が折り重なっている。

桐生さんが一枚取り、割った。


「甘いやつか」


「少し。口に合わなければ、無理に食べなくていいから」


先に食べた桐生さんが、もう一枚取る。

それを見て、俺も手を伸ばした。

薄い塩気のあとで、果物に似た甘さがした。

現世で食べた何かに近いのに、すぐに名前が出てこない。


ローヴァさんが、湯気の立つカップを置いた。

目を休ませるため、眼鏡を外す。

部屋の向こうにある札の文字がぼやけた。

自分の眼鏡は、伝力を見なくても、普通に必要だった。


「よく見つけてくれたわね」


ローヴァさんが言った。


「俺が見つけても、桐生さんがそこまで行けなかったら」


「行けるように話してたんでしょう」


答えられずにいると、隣から声がした。


「そこで引き算しなくていいんだよ」


桐生さんは、生地の欠片を口へ入れた。

褒められたとき、先に自分の不足を話す癖は、まだ直っていない。


神代さんが戻ってきた。

現地の担当者と、残った道具の確認をしていたらしい。

机へ、折り畳んだ紙を置く。


「奥には、動いているものは見つかっていない。残った欠片の扱いと、倉庫を使っていいかの判断は、向こうで進めてもらう」


「全部、終わりですか」


「私たちの今日の作業は、報告をまとめたらね」


ローヴァさんが、二つ目のカップを出した。


「助かりました。疑われた者も、安心できると思う。まだ、道具の足りない人はいるけど」


彼女は、いったん隣の部屋へ声を掛けた。

疑っていた作業員へ、管理所に来て事情を聞かせてほしいと伝える。

叱るためではないことも、付け加えた。


少しして、戸の外で声がした。

橋の上で荷を結び直していた男だった。

入口から中を見て、ローヴァさんを確かめる。


「もう、俺じゃないって話していいんですか」


「あなたが入ったかどうかは、鍵の記録でも確認します。でも、道具を引き込んでいたものは見つかった。その説明は、こちらからします」


男は、俺たちへ目を向けた。

俺の服に残る白い粉を見てから、桐生さんの手元を見る。

腰にある物を見て、少しだけ身体を引いた。


「中で、それと、やったんですか」


「動くやつだったからな」


桐生さんが答えた。

男は口を開きかけ、やめた。

そのまま帰ろうとして、戸のところで振り返る。


「あの、ありがとうございます。倉庫へ入るなって言われると、ほかの仕事まで頼まれなくなるので」


ローヴァさんは立ち上がった。

男と一緒に外へ出て、管理所の別の人へ話す。

誰が何を知っているかを確かめ、午後に鍵の記録を見直す予定を決めていた。


俺はその声を聞きながら、カップを持った。

相手を倒して戻れば、疑いも全部消えるわけではない。

それでも、仕事へ戻るための話が始まっていた。


「俺、あそこまで考えてなかったです」


隣へ言うと、桐生さんが窓の方を見た。


「お前が全部考えるなら、あいつら何しにいるんだよ」


俺は、外で話すローヴァさんを見た。

今日の俺たちが止めたあとを、引き受ける人がいる。

それを任せていいことも、前より分かるようになっていた。


俺は窓の外を見た。

倉庫の前を、荷車がゆっくり通っている。

止められていた仕事が、順番に動き出す。

それは、前にも見た景色に似ていた。


***


報告のために、ローヴァさんが保管していた一覧を出した。

失くなったものと、見つかったもの。

名前だけでは分からない道具は、横に描かれた小さな絵で確かめた。

俺は、乾燥室のどこにあったかを、神代さんの図へ書き足す。


「それは、昔からここで使ってる形。握りが違うのは、持ち主が直したんだと思う」


ローヴァさんが説明する。


「自分で、ですか」


「簡単なものなら。でも、分からないところは頼むわ。私も、何でも直せるわけじゃないし」


俺はうなずいた。


「前に行った町にも、そういう工房がありました。白い灯りとか、使い込んだ道具を直す店が並んでて」


「この辺りなら、多いわね。どこ?」


「ヴェルネです」


紙の上を動いていた彼女の指が、止まった。


俺は、知らない町だっただろうかと思った。

名前の発音が違ったのかもしれない。

もう一度言い直そうとして、やめた。

ローヴァさんが、神代さんの方を見たからだ。


「あなたたち、あそこへ行ったの」


声が、さっきより低かった。


「はい。少し前ですけど」


俺は答えた。


「設備のことで、仕事があって。技師の人に、いろいろ教えてもらって」


ローヴァさんは、すぐに何も言わなかった。

机に置かれた紙を、指で押さえ直す。

窓が、小さく鳴った。


「聞いていないのね」


何を、と聞く前に、嫌なものが胸へ落ちた。

干衝体を見たときとは違う。

眼鏡をかけても、正体の見えないものだった。


神代さんが、椅子を引き直した。


「こちらへ届いた知らせと同じ件か、確かめさせてください」


ローヴァさんは彼を見た。


「町が、大きな被害を受けたって。建物が崩れて、亡くなった人も多い。私は、避難した人から荷を預かった者に聞いたの。詳しい報告を持っているわけじゃない」


俺は、机の図を見た。

今日の乾燥室が描かれている。

そこにヴェルネの通りはない。

それでも、さっきまで置いてあった倉庫の名前が、あの工房の札に見えた。


「いつですか」


自分の声が、妙にはっきり聞こえた。


「いつ、そうなったんですか」


「少し待って。日付までは、覚えていない。最近起きたという話ではなかったと思う」


「じゃあ、今は」


先に続ける言葉がなかった。

直ったのか。

人は戻ったのか。

灯りはつくのか。

どれも聞きたいのに、一つに決められない。


神代さんが、俺の前へ眼鏡を寄せた。

置き忘れないように、という動作だった。

俺はそれをかけた。

札の文字が、急に元の大きさになった。


「まず、町の名前と、聞いた時期を確認させてください」


神代さんが言った。


「情報の出どころと、今、確かめられている範囲を」


ローヴァさんは立ち上がった。

隣の部屋へ行き、何かを探す音がした。

俺はその間、カップの縁を見ていた。

湯気が、もう薄くなっていた。


***


戻ってきた彼女は、通りの名前を書いた紙を持っていた。

物資を送る先を、確認したときの控えだという。


そこにある橋と、工房の並ぶ通りの名を、神代さんが自分の手帳と照らし合わせた。

桐生さんが横から見た。


「前に来た知らせと、同じか」


「……うん。少なくとも、場所は」


その返事で、俺の中の、聞き間違いかもしれないという部分がなくなった。


「そこ、どうやって行けばいいんですか」


ローヴァさんが、顔を上げた。

俺は椅子から立っていた。


「前に、行った場所なので。地図があれば」


桐生さんの手が、机の端へ置かれた。

俺をつかんだわけではなかった。

立ち上がっても、すぐには通れない位置だった。


「まず、座れ」


「でも」


「今から行って、誰に会うんだ」


「工房に。エイリクさんと、リーネさんが」


名前を口にした途端、顔が浮かんだ。

作業台へ身を寄せる技師の手。

破れた袖を見て、まず座ってと言ったリーネさん。

次に来たら、動いている道具の話をしたかった。


次に。


その言葉を、自分の都合で置いてきた。


神代さんが、俺を見た。


「その二人のことを、まず確かめよう。連絡できる先を探す」


「行った方が、早いんじゃ」


「ここからの道を、君はまだ知らない。今回の許可にも含まれていない」


認証具が、上着の内側にあった。

受け取るときに見た地図が、浮かぶ。

セーヴィクの、指定された区域。

あのときは、行ったことのある場所へ勝手に寄らないという、当たり前の注意だった。


「追加してもらうことは」


「窓口へ聞く。ただ、今日このまま行けるとは約束できない。帰るための時間も含めて、確かめる」


そう言われて、ようやく時計を見た。

午後の時間が、思っていたより進んでいる。

依頼を終えて、話をして、帰るはずだった時間だった。


「帰るんですか」


口にすると、責めるように聞こえた。

神代さんは、返事を急がなかった。


「今は、連絡する。帰る判断から逃げるために、何も知らないまま歩き出すことはしない」


俺は、椅子へ座った。

立っていた膝が、机の下へ入る。

自分だけが、元の場所へ戻されていく気がした。


***


ローヴァさんは、管理所の連絡窓口を使えるようにしてくれた。

現地の担当者へ、渡航の照会と、ヴェルネの情報を求める連絡。

神代さんは、相手が誰かを確かめてから、こちらの所属と訪問した時期を伝える。


俺は横で、聞かれた名前を紙へ書いた。

エイリク。

リーネ。

ヴェーガン。


三人目で、手が止まった。

あの人がいれば、何かできたのではないか。

そう考えかけて、やめた。

俺たちも、自分の見ていない場所で、何が起きたか知らない。


桐生さんが紙を見た。


「俺も、そいつの行き先は知らねえ」


聞いていなかったのに、答えてくれた。

俺はうなずいた。


ローヴァさんが、俺の前に水を置いた。


「聞き方が、悪かったわね。知っていると思って」


「いえ。教えてもらって、よかったです」


言葉の形だけは、すぐに作れた。

本当に、よかったのかは分からなかった。

聞かなければ、今日の仕事を終えて、少し誇らしいまま帰れた。

その考えが浮かんだことが、嫌だった。


「私も、誰がどうなったかまでは知らないの」


ローヴァさんは続けた。


「亡くなったという話を、今ここで、知っている人の名前へ当てはめないで。まだ、分かっていないから」


俺は紙を見た。

三つの名前の横は、空いている。

そこへ、自分で答えを書き込もうとしていた。


神代さんが、最初の連絡を終えた。


「窓口側で、被害のあった町と日付を照合してくれる。こちらから第十一班にも知らせる。今分かっているのは、私たちが出たあとに被害があったことだけだ」


「どれぐらい、あとですか」


「その確認も、頼んだ」


俺は、眼鏡のつるへ触れた。

細かく見ようとしているのに、目の前の字が頭へ入らない。

どれだけ伝力を通しても、別の町の作業台は見えない。


今日見つけた細い流れが、急に、ひどく狭いものに思えた。


***


待つ間に、今日の報告を仕上げることになった。

置き去りにはできない、と神代さんが言った。

俺たちが来る前にも、帰ったあとにも、ここで働く人がいる。


俺は、乾燥室の図へ視線を戻した。

胴の下の、流れが集まっていた場所。

脚へ分かれる方向。

桐生さんが位置を変えたところ。


ペンを動かすと、今日やったことは、まだ書けた。

それが、少し残酷だった。

別の町がどうなっていても、今日の乾燥室から道具が見つかったことは変わらない。

この町では、これから荷を取りに来る人がいる。


ローヴァさんが、図をのぞいた。


「この枠は、撤去していいか、持ち主へ確認する。残すなら、次に点検する人が裏を見られるようにするわ」


「はい」


返事をしてから、俺は聞いた。


「ヴェルネへ、荷物を送っているんですよね」


「被害を受けた人のいる先へ。必ず、町の中とは限らない」


避難先。

治療する場所。

工房へ行けば全員に会えるわけではない。

俺は、ローヴァさんの控えをもう一度見せてもらった。

送り先の横に、受け取る人の名がある。

知らない名前だった。


「この人が、知ってるかもしれないんですか」


「確かめてみないと。物を受け取る係が、全員のことを知っているとは限らないから」


彼女の声は、優しかった。

その優しさが、こちらの期待に合わせて答えを変えないことだと分かった。

俺は名前を写し、聞いた元も横に書いた。

ローヴァさんが直接見た話ではない。

その人から、さらに別の人へ聞いた話。

距離は、地図だけにあるのではなかった。


神代さんが、俺の紙へ目を落とした。


「そう。それを持って聞こう。どこまで確かめたか、相手にも分かるように」


俺はうなずいた。

眼鏡を使うときと同じ注意をされているのに、今はひどく難しかった。

知っている通りを歩けば、いつもの位置に人がいるという考えが、少しずつ崩れていった。


神代さんが、紙をまとめた。

俺の書いた三つの名前は、別に持った。


「窓口の方で返事を待とう。帰還の手続きも、そちらで確認できる」


ローヴァさんが、残った生地を小さな袋へ入れてくれた。


「帰り道で。食べられなければ、あとで」


俺は受け取り、礼を言った。

袋は、軽かった。

さっきまで、もう一枚食べようと思っていた。


外へ出ると、荷車の音がした。

橋の上で、道を譲った人が笑っている。

今日の仕事で戻った日常だった。

俺はその横を、三つの名前の返事を待ちながら歩いた。


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