第51話:弱点が分かっても手は届きません
乾燥室へは、倉庫の外を回った。
水路へ下る階段の途中に、細い戸がある。
普段は荷を入れない場所なので、段の角に砂がたまっていた。
ローヴァさんが鍵を差し込もうとすると、神代さんが先に声を掛けた。
「開けたら、脇へ。中へは入らないでください」
彼女がうなずく。
鍵が回り、戸の下にたまっていた砂が動いた。
桐生さんが、俺を一歩下がらせる。
内側は、静かだった。
湿った縄と、古い木の匂いが混ざっている。
俺は入口から中をのぞいた。
天井近くに細い窓があり、その下へ、使わなくなった枠や棒が立て掛けられている。
床の奥に、幾つか金属の塊があった。
「あれ、持ち出された物の一つです」
ローヴァさんが言った。
小さな車輪の付いた運搬具だった。
他にも、握りの擦れた工具や、割れた箱がある。
誰かの盗品の置き場にも見えた。
神代さんが紙を一枚、入口の内側へ進めた。
低く浮いたまま、床の上を通る。
物陰を透かして見せてくれるわけではない。
先に動くものを置き、こちらから何かが出たときに、気づく余地を作っている。
桐生さんが入った。
俺は、灯りを入れてもらってから続いた。
足を置く場所だけは、先に見る。
壁際の古い枠へ、白いものが絡んでいた。
ほどけた荷綱かと思った。
けれど、あちこちに節がある。
細い先端が床へつき、その奥で、石の色に似た殻が重なっていた。
俺が眼鏡へ通す前に、それは動いた。
「下がれ」
桐生さんの腕が、俺の前へ出た。
白い節が、横に跳ねる。
先端が木枠へ当たり、乾いた音を立てた。
俺の目の高さで、木の薄い破片が舞う。
踏み出しかけた足を戻す。
床に何かが滑り、入口側へ線を引いた。
神代さんが、戸の脇からローヴァさんを離した。
「入口を空けて。外の方も、階段から下がってもらってください」
ローヴァさんの返事が、遠ざかる。
俺は、桐生さんの背中越しに見た。
白い脚の奥に、平たい胴がある。
細い節足を幾つも広げ、低い棚の下へ身体を押し込んでいた。
目に当たる部分が、どこなのか分からない。
「今度は、何だと思う」
桐生さんが聞いた。
「干衝体、だと思います。でも、あの胴のどこまでが身体か」
「分かってるところからでいい」
俺は、流れを選んだ。
***
外へ伸びた白い脚は、目立つ。
一本ずつが、床の上で違う方向へ曲がっている。
その表面に、細かな伝力が走っていた。
初めは、全部が別々のものに見えた。
けれど、一本をたどると、胴の下へ戻る。
別の一本も、同じ方へ。
「脚の流れ、奥へつながってます。同じものから来てるかもしれないです」
「本体、一つか」
「見えてる範囲では」
桐生さんが、正面から少しずれた。
白い脚の一本が持ち上がる。
動く前に、節の内側へ細いものが寄った。
「前の一本、来ます」
声の途中で、桐生さんが腰を落とした。
脚の先が横を抜け、刃が下から入る。
白い節が床へ落ちた。
俺は反射的に、落ちた方を見た。
まだ、薄い光が残っている。
「止まるか」
「いえ、他の脚は――右!」
別の脚が、俺の方へ伸びた。
神代さんの紙が、横からその先へ重なる。
薄い亀の形が、ほんの短く、足元に膨らんだ。
硬いもの同士が擦れる音。
白い先端がずれ、俺は後ろへ足を引いた。
完全に止めたわけではなかった。
台の脚が削れ、灰色の粉が床へ散る。
神代さんの紙は戻り、その周りの形が薄くなった。
「足を動かして。見つけたものを、そこでずっと見続けない」
「はい」
俺は入口寄りの、桐生さんと重ならない位置へ動いた。
さっき切れた脚は、もう光を失いかけている。
でも、奥の胴には、新しく集まるものがあった。
一本切ったところで、それを送る方が残っている。
見慣れた太い流れの内側に、細い戻りが混じっていた。
外から胴へ。
胴から脚へ。
同じ場所を通っているようで、動く向きが違う。
目の奥が、わずかに重くなる。
俺は全体を追うのをやめた。
一本。
さっき動いた脚の、根元だけ。
「奥の下へ、集まるところがあります」
「どこだ」
「胴の、床側です。今は棚で半分隠れてます」
桐生さんが、踏み出しかけて止まった。
低い梁と、立て掛けた枠が前にある。
そこへ刃を入れても、胴まで届くか分からない。
「そっちから、見える場所あんのか」
俺は首を動かした。
左へ寄ると、棚がある。
右は、細い脚が二本、床を塞いでいる。
あの下をのぞき込めば見えるかもしれないが、顔を寄せる気にはならなかった。
「今は、ないです」
「なら、作る」
***
床の奥で、車輪が転がった。
相手が引きずってきた運搬具へ、脚が一本絡んでいる。
白い先端が握りをなぞり、そこに残っていた薄いものが、脚の方へ移った。
俺は、そちらへ視線を寄せた。
「道具の方から、戻ってるものがあります」
「食ってんのか」
「そうかもしれません。でも、全部は」
桐生さんが、近づきすぎない位置で止まった。
脚の先を払う。
白い筋が、工具から離れた。
胴の方へ向かっていた流れも、一度途切れる。
それでも、他の脚は止まらなかった。
胴の下に残っているものから、今度は外へ伝力が分かれる。
盗んだ道具から取ることと、脚を動かすことは、同じ一本の流れではなさそうだった。
「そこを切っただけだと、止まりません」
「分かった。じゃあ、物の方はあとだ」
俺はうなずいた。
工具から出た細いものを、最後まで追いたかった。
けれど、その間に右の脚が床を削っている。
何を奪っていたかを調べるのと、いま襲ってくるものを止めるのは、順番が違う。
桐生さんが、神代さんへ短く場所を伝えた。
入口の外へ相手が抜けないように、人を離すこと。
右の脚を引かせる間、俺が動く場所を空けること。
ローヴァさんは、別の出口は閉まっていると答え、外の見張りへ声を掛けた。
桐生さんが、相手の正面へ近づく。
俺は焦って、ついていきそうになった。
「お前はそこじゃねえ」
低い声で止められる。
「右が空いたら、台の手前まで。先へ行くな」
示された場所を見た。
低い台の角なら、胴の下を斜めに見られそうだった。
相手との間にあるのは、今、動いている脚二本。
そこが空くのを待つ。
桐生さんが、前の一本を刃で払った。
白い節が床を打つ。
胴から、その根元へ流れが寄る。
右の脚が、身体を引くために折れた。
「今」
言われる前に動こうとしていた。
でも、走らなかった。
まず一歩。
足元の欠片を避け、台の角へ。
右の脚が戻ってくる前に、身体を横へ向ける。
胴の下が、見えた。
そこには、丸い光の玉があるわけではなかった。
薄い膜の中で、細い筋が幾つも寄り合っている。
寄って、広がり、また寄る。
脚へ送られる流れの前に、その部分が一度、狭くなった。
「下の、膜のところ。脚が動く前に、そこから分かれてます」
「そこ壊せば止まるか」
「まだ、分からないです。でも、どの脚にもつながってます」
桐生さんは、すぐには突かなかった。
白い脚が一本、台へ伸びる。
俺は机の下を見続けたくなったが、顔を上げる。
「こっち、来ます」
桐生さんの刃が、台の前でそれを受けた。
金属の短い音が、低い天井へ返る。
「よけろ」
俺は台から離れた。
目を離した瞬間、下の膜は見えなくなる。
分かるのは、今さっきの位置だけ。
「下、まだ同じとは言えないです」
「見直せるときに言え」
桐生さんは、押し返した脚を追わなかった。
逆側へ、半歩。
相手の胴が、棚から少し出た。
逃げようとしている。
脚の曲がり方が、前へ払うときと違う。
「奥へ引きます。胴、左に」
神代さんの紙が、床の低いところへ回った。
薄い犬の頭が現れ、胴の脇へ当たる。
押しつぶすほどの力ではない。
それでも相手は、そちらへ向けて脚を一つ出した。
胴が横を向き、膜がまた見えた。
「今、下が見えます。床から少し上。桐生さんの刃の、もう少し奥!」
***
桐生さんの背後が、膨らんだ。
獣の肩から前脚へ、形がつながる。
天井まで押し広げるのではなく、踏み込む身体に沿って、低く前へ重なる。
一つの爪と、本人の刃の位置が合った。
俺は、その形を見続けなかった。
胴の下へ視線を残す。
集まったものが、右の脚へ向かおうとしていた。
「右、返ってきます」
桐生さんの肩が、わずかに沈む。
白い脚が上を抜けた。
踏んだ靴の音と、刃が入る音が重なる。
獣の爪が、膜のある位置へ振り下ろされた。
光が、散った。
俺は一瞬、全部が見えた気になった。
胴を走る筋が一斉にほどけ、脚から戻ろうとするものと、外へ漏れるものが交じる。
目の奥が痛んだ。
すぐに供給を減らす。
粗い見え方へ戻しても、脚が止まったことは分かった。
胴が床へ落ちる。
切れた先端が一度跳ね、台車の車輪へ当たった。
その音のあと、部屋が静かになった。
「終わったか」
桐生さんが、相手から目を離さずに聞いた。
「流れは、ほどけてます。動いてたときみたいには、集まってません」
「なら、まだ近づくな」
俺はその場で、足を止めた。
神代さんが、入口から周囲を確かめる。
見張りへ、まだ入らないよう伝えた。
神代さんの紙が、切れた脚の近くを低く通った。
戻ってくるものを俺が見て、胴からの動きも確かめる。
さっきまでは、脚を切った瞬間に次の流れが寄っていた。
今は、そこへ集まってこない。
「つなぎ直す動きは、見えてません」
声に出すと、桐生さんの足が少しだけ緩んだ。
それでも刃は下がらなかった。
切ったことより、切ったあとに何が変わったか。
そこまで見なければ、どこが起点だったかも、俺の予想のままで終わる。
神代さんが、俺の顔へ視線を向けた。
「細かく追うのは、いったん止めよう。動いているかを見る方へ戻して」
俺はうなずいた。
戻すことができた。
前なら、目を閉じて、眼鏡を外して、全部をやめるまで止まらなかった。
今は、入口の形と、床にある脚の位置が残る。
頭痛はあるが、部屋まで失ってはいない。
「桐生さん、右の足の後ろに欠片があります」
「こっちか」
桐生さんが、靴をずらした。
小さな破片が、かかとのすぐ脇にあった。
次に踏んだら、靴底が滑ったかもしれない。
派手なものを見たあとでも、床を見るのを忘れなくてよかった。
白い脚は、少しずつ輪郭を失った。
胴の一部が崩れ、薄い粉のようになる。
その下から、持ち去られた工具が見えた。
握りの部分に、白い膜の切れ端が絡んでいる。
桐生さんは、獣を消した。
刃を下げる前に、棚の向こうも確かめる。
俺は、奥に別の流れがないか、見える範囲を順に見た。
壁の裏まで分かったとは言わない。
「こっちから見えるところに、同じ動きはありません」
「分かった」
その返事を聞いて、ようやく息を長く吐いた。
***
片付けを始める前に、ローヴァさんへ状況を伝えた。
保管されていた道具の一部は、ここにある。
全部そろうかは、持ち出し前の記録と比べる必要がある。
まだ触っていない奥の隙間は、現地の担当者と確認する。
ローヴァさんは、入口の外で話を聞いた。
「人が入って、盗んだわけではなかったのね」
「少なくとも、ここで動いていたのは干衝体です。私たちの呼び方では」
神代さんが答えた。
「道具に残った伝力を集めていた可能性はある。ただ、どうやって入り、いつからいたかまでは、まだ言えません」
彼女はうなずき、見張りの一人へ、疑っていた作業員にも結果を伝えるよう頼んだ。
俺は、そこまで考えていなかった。
犯人が人間ではなかったと分かることで、助かる人もいる。
外へ出ると、坂の途中で荷車が止まっていた。
立入を待っていた職人が、こちらを見る。
ローヴァさんが、もう少し待ってほしいと声を掛けた。
その人は何か言いかけ、俺たちの服についた白い粉を見て、口を閉じた。
「怪我は」
神代さんが聞いた。
「ないです。目の奥が、少し痛くなりました。最後に、見すぎました」
「今は?」
「残ってます。でも、歩けます」
「歩けるかどうかとは別に、休もう」
俺は、近くの段へ座った。
桐生さんが、刃を確かめ終えて隣に立つ。
「あの下、よく見つけたな」
「最初から見えてたわけじゃないです」
「知ってる。場所、動かしただろ」
俺は顔を上げた。
桐生さんは、俺の答えを待っていなかった。
水を一口飲み、乾燥室へ視線を戻す。
「分かってねえとこ、言ってたから動けた。あそこが弱点だって、最初から言い切られるよりよかった」
見つけた場所は、攻撃が通れば崩れる場所だった。
でも、そこへ届く道を作ったのは、俺だけではない。
頭痛の奥で、その順番だけははっきりしていた。
ローヴァさんが、戻ってきた。
「休むなら、管理所へ。温かいものを出します。ここは、水路の風が来るから」
俺はうなずき、立った。
少し誇らしかった。
新しいものが見えたことより、その見えたものを、相棒が使ってくれたことが。




