第50話:解像度を上げると頭が下がります
眼鏡の横に初めて光が出た日のことは、ノートに残っている。
その次の頁には、大きく『頭が痛い』と書いてある。
さらに次も、同じだった。
年が変わってから読み返すと、何を研究していたのか少し怪しい。
練習場の台へ腰を掛け、俺はノートを閉じた。
窓の端が白く曇っている。外へ出るときに手袋を忘れたので、ここへ来るまで指先が冷たかった。その指も、今は少し熱い。
ひかりさんが、床へ落ちた目印を拾った。
「今日は、うつむかないのね」
「その言い方だと、俺が毎回負けてるみたいです」
「負けてたでしょ。自分の眼鏡に」
否定できなかった。
初めての光をもう一度出せたとき、ひかりさんの腕が、違って見えた。
肩から拳まで一本につながっていた流れが、何本もの細い筋に分かれていた。
拳へ進むもの。
肘の辺りで巡るもの。
動きに合わせて集まり、形を変え、またほどけるもの。
それまで見えていた線の内側に、さらに線があった。
見ようとするほど細かくなる。
それが面白くて、俺は供給を止めるのが遅れた。
次に思い出せるのは、神代さんの靴だった。
顔を上げようとすると、目の奥からこめかみへ、鈍い痛みが動いた。
視界が明るすぎたときとは違う。
見たものを考える前に、次のものが押し寄せてきていた。
「もう見なくていい。床を見よう」
神代さんの声で、ようやく眼鏡へ通すものを緩めた。
練習は、そこで終わった。
あれから、季節が一つ進んだ。
学校の掲示板には学年末の予定が貼られ、ノートには数学の課題と、練習の失敗が交互に増えた。
急いでいるときに限って、どちらの紙も鞄の底へ潜る。
発展を目指す生活は、もっと特別なものだと思っていた。
実際には、授業へ出て、走って、目を休めて、分からないところを聞く。その繰り返しだった。
「今日は、痛くないんです」
言うと、ひかりさんが目を細めた。
「隠してない?」
「隠しても、神代さんに聞かれます」
「じゃあ大丈夫か」
納得する先が、俺ではなかった。
神代さんが、台の上から紙を回収した。
「今、何を残した?」
「右腕へ集まる流れと、紙の角へ向かうものです。ひかりさんの脚の方は、細かく見てません」
「それで、紙はどう動くと思った?」
「右の角から起きると思いました。そこまでは合いました。そのあと回った向きは、分からなかったです」
神代さんが、紙を指で裏返した。
「うん。途中で変えたからね」
見えた先が、決まっているわけではない。
一度口にして覚えても、実際に動くものを見ると忘れそうになる。
ひかりさんは上着を取り、俺の眼鏡をのぞいた。
「さっきの、横に流れるやつは前より出てたわよ」
「帯みたいな方ですか」
「そう。私の腕じゃなくて、自分の顔も誰かに見てもらわないと分かんないね」
レンズの縁を指でなぞる。
触れるところには、いつもの眼鏡しかない。
でも、選んだ流れを細かく捉えようとすると、つるの周囲に薄い伝力が巡り、目を動かしたあとを細く引くようになったらしい。
出たからといって、全部うまくいくわけではない。
まだ、頭痛で止められる日もある。
水城さんに教わった、粗く残す方の見方も、やめてはいない。
細かく見えるようになったから、いつもそうするべきだと思った時期があった。
実際には、紙がこちらへ来たことだけ分かればよいとき、角の内側まで追う必要はなかった。
ある日の練習で、水城さんは俺へ、紙の動きではなく、途中で部屋に入ってきた人のことを聞いた。
誰か来た音は、聞こえた。
でも、誰がどこへ立ったか、俺は答えられなかった。
『詳しくなったところへ、全部持っていかれてるね』
そのあと、神代さんに頼む課題を減らした。
細かく見るのは、一つの流れの曲がるところだけ。
周りに人がいないかは、普通に顔を上げて確かめる。
聞く方まで目に任せようとしない。
すぐに上手くなったわけではない。
細部を手放すと、せっかく見えるようになったものを、捨てている感じがした。
でも、ひかりさんが練習の途中で場所を変えたことに、前より気づけるようになった。
本人には、ようやくかと言われた。
「何でも見えるようになったんじゃないんですね」
休憩のとき、俺が言うと、神代さんが笑った。
「何を見ないか、少し選べるようになったんじゃないかな」
机へ戻り、俺は今日の欄に『紙の角、合った。その後は別』と書いた。
頭が痛い、以外のことが書ける日は増えていた。
***
今回の依頼は、第二班を通して来た。
黒江班長の机に置かれた地図には、知らない町の名前がある。
セーヴィク。
ヴェルネのときより、坂と細い水路が多かった。
倉庫の並ぶ通りへ、小さな丸が幾つも書かれている。
「保管してある道具が、夜の間に持ち去られる。場所を替えても繰り返しているそうだ」
黒江班長が、写真を一枚出した。
割れた木箱と、内側へ引きずられたような蓋。
その横に、細い傷が何本も走っていた。
「窃盗ですか」
「最初は、その可能性も調べた。ただ、見回りの者が細い白いものに腕を切られている。現地では、人以外のものも疑っている」
隣で桐生さんが写真を引き寄せた。
「何が盗られた」
「伝力を通して使う運搬具や、作業用の道具。新品より、使い込んだ物が多い」
俺は、傷のそばを見た。
写真からは、伝力は分からない。
写っている細い線を、流れの跡だと思いかけてやめた。
「現地で、残っているものを見てほしいそうだ。能動的に広く調べる方法では、倉庫ごとの道具や設備の反応が重なって、絞り切れていない」
「俺なら、必ず分かるというわけでは」
「そう伝えてある。だから、調査の補助だ」
黒江班長は、別の紙を重ねた。
同行は神代さんと桐生さん。
現地の担当者と合流し、既に立入を止めた倉庫の一角を調べる。
相手が見つかっても、周囲を確かめる前に追い掛けない。
「発展の練習の成果を、出しに行くんじゃないぞ」
黒江班長が言った。
「使うかどうかも含めて、現場で判断する。今までの見方で足りれば、それでいい」
俺はうなずいた。
何か新しいものを得ると、使う場所を先に探したくなる。
班長には、そこまで見えているらしかった。
***
渡航の日、受付で受け取った認証具は、前に使ったものとは違っていた。
登録した伝力を照合し、今回の行き先を確かめる。
セーヴィクの指定区域と、そこへ至る経路。
戻る窓口と、予定の時刻。
「以前行った場所でも、今回は含まれていません」
担当の人が、図の外を指した。
「帰還時に返却した時点で、その渡航の滞在許可は終わっています。今回はこちらです」
「はい」
俺は認証具をしまった。
以前の試験を受け直すわけではない。
でも、外側を自由に歩ける人間になったわけでもない。
桐生さんが、俺の荷物を見た。
「忘れ物ねえか」
「水と、ノートと、拭くやつと」
「眼鏡は」
俺は、自分の顔へ触れた。
桐生さんの口元が、少しだけ動く。
「そこは大丈夫です」
「なら行くぞ」
神代さんは最後に、帰宅までの道順を確認した。
午後八時より前に家へ戻る。
それを守るには、町を出る時刻がある。
手帳に書かれた数字を見て、俺もスマホへ同じ予定を入れた。
***
外側の空気は、現世でかじかんだ指先へ、少し柔らかかった。
同じ服で歩くと、坂の途中で襟を緩めたくなる。
空は明るいのに、光の来る向きを一つに決められない。
建物の端に残る影を見て、こちらへ来たのだと分かった。
セーヴィクの道は、白い石の間に青灰色の石が交じっていた。
水路へ向かって、緩やかに傾いている。
橋の上を小さな荷車が通り、車輪の音が、石の壁からもう一度返った。
窓の多い家の下に、口の狭い倉庫が続いていた。
待っていた女性が、神代さんへ手を上げた。
短くまとめた淡い髪に、作業用の濃い上着。
腰に下げた札をこちらへ示す。
「ローヴァ。保管区の管理をしています。来てくれて、ありがとう」
耳の形が、髪の間から少し長く出ていた。
整った顔に目を取られかけ、その手の甲の小さな傷へ視線を戻す。
机だけに座っている人の手ではなかった。
神代さんが自己紹介し、俺たちも名乗った。
ローヴァさんは俺の名前を、ゆっくり繰り返した。
「遼悟さん。技術者の話で聞いた人ね。細いものを、流れを足さずに見るって」
「見えても、意味が分からないことはあります」
「それは私たちも同じ。倉庫のことなら説明できるから、聞いて」
その返事に、少し息がしやすくなった。
何も知らない俺が、一人で答えを出すために呼ばれたのではない。
橋を渡る途中、ローヴァさんは端へ寄った。
向かってきた荷車には、布でくるんだ長い棒が何本も積まれている。
運んでいた若い男が、車輪を止めずに彼女へ声を掛けた。
「今日は入れていいんですか」
「西の三番は使えます。水路側には、まだ入れないで」
「また向こうへ回すのか」
男がため息をつき、俺たちを見た。
荷台の端で、布のひもがほどけかけている。
ローヴァさんは足を止め、そこを指した。
男は文句を言いかけた口を閉じ、荷車を壁へ寄せて結び直した。
「盗まれた道具がなくて、運び方も変わっているんですか」
俺が聞くと、彼女はうなずいた。
「それもある。あとは、誰が鍵を持っていたかで、話がこじれていて。あの人も、昨日は倉庫へ入るなと言われた側」
俺は、荷車の去る方を見た。
何かがなくなると、物を探すだけでは終わらない。
同じ場所で働いていた人同士が、相手の手元を見るようになる。
「見つかった物は、返す前に一度、持ち主へ確認します。知らない傷があれば、使って大丈夫かも分からないから」
ローヴァさんは、俺の鞄へ視線を移した。
「自分で直した物ほど、他の人には違いが分からないでしょう」
俺は眼鏡のつるに触れた。
何も知らない人には、同じ眼鏡だった。
それをなくしたら、代わりを一つ渡されて終わりにはできない。
ローヴァさんが歩き出す。
通りを一つ入ると、荷車の音が遠くなった。
水路側の倉庫には縄が張られ、出入口に二人の見張りが立っていた。
片方が鍵を取り、閉じていた戸を引く。
乾いた木の匂いがした。
「怪我をした方は?」
神代さんが聞いた。
「手当てを受けています。今日は来させていません。ここへいた者は全員、外へ出しました」
声に、わずかな硬さがあった。
怪我人が出た場所を、もう一度誰かに開けてもらっている。
ローヴァさんは、その入口で先に立つのをやめ、俺たちへ場所を空けた。
***
空いた木箱の横に、布をかぶせた台車があった。
車輪の一つに、欠けた白いものが絡んでいる。
桐生さんが、触らずにしゃがんだ。
「これが、腕を切ったやつか」
「分かりません。朝には、ここに残っていました」
俺は戸の近くから、床を見た。
道具の伝力は、置かれている棚ごとに違う。
古い留め具には、持ち主の手から移ったような薄いものが残る。
でも、今見たいのは、その全部ではない。
台車から、床へ。
車輪の下に、細く途切れた線があった。
昨日以前のものだと、色だけで決めることはできない。
ローヴァさんへ、台車を動かした順を聞いた。
「怪我のあとは動かしていません。ここへ入れる前は、奥の棚の前に」
示された場所とは、違う向きへ薄いものが続いている。
俺は眼鏡の供給を少し変えた。
縁の近くに、伝力が巡る。
線が、二つに分かれた。
片方は台車の金具へ残り、もう片方は床の隙間へ、低く垂れていた。
何もかも拾うと、棚の奥まで急に細かくなる。
俺は足を止め、棚の方を見るのをやめた。
床の線だけ。
いまは、それだけでいい。
「奥の壁まで、確かめたいです」
神代さんが、俺の立つ場所から壁までを見た。
「桐生、先に床を見て。ローヴァさん、その向こうは?」
「使っていない乾燥室。以前は濡れた荷綱を干していました。水路へ抜ける戸は、もう閉めています」
桐生さんが歩き、俺は少し後ろをついていく。
壁で、線が途切れた。
その先は見えない。
石の向こうへ、都合よく続いてはくれなかった。
「壁の手前まではあります。向こうは、まだ」
桐生さんが、低い位置を指した。
床と壁の間に、幅の狭い溝があった。
その縁に、白い欠片が一つ付いている。
台車のものと同じかどうかは、近くで確かめないと分からない。
「乾燥室、別の入口ありますか」
俺が聞くと、ローヴァさんが鍵束を持ち直した。
「外を回れば。ただ、そっちは暗いの」
神代さんが、戸口の見張りへ連絡を頼んだ。
俺たちが出る間、誰もここへ入れないこと。
乾燥室へ通じる側も、人を近づけないこと。
桐生さんが、俺を見た。
「頭は」
「まだ、大丈夫です」
「まだ、なら途中で言えよ」
俺は供給を緩めた。
暗いところを明るくする力を覚えたのではない。
見る場所へ、自分で行かなければならない。
外へ出ると、水路を渡る風に、乾いた縄の匂いが交じっていた。




