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球体世界の観測者 ~見えるだけの少年は、陰陽寮で世界の裏側を知る~  作者: 雅貴
第2章第7節

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第49話:新機能につき動作保証がありません

眼鏡を外して、明かりに透かした。

レンズの端に、細い筋が見えた気がした。

指で拭こうとして、水城さんとの話を思い出す。

見えたものと、そうであってほしいものは、分けておいた方がいい。


机のライトを少し横へ動かす。

筋は消えた。

単に、光が反射していただけらしい。


俺は眼鏡をかけ直し、ノートへ視線を戻した。

数学の途中式の下に、『右を見ている間の左』と書いてある。

何の問題を解いていたのか、自分でも分からなくなりそうだった。


扉が二度鳴った。

返事をする前に、姉が顔を出す。


「お風呂、空いてる」


「今、行く」


「さっきもそう言った」


言った覚えがなかった。

時計を見ると、思っていたより遅い。


「聞こえてなかった?」


「聞こえてた、と思う」


「返事だけしてたんだ」


姉の方は、原因を特定するのが早かった。

机の上の絵をのぞき込み、首をかしげる。


「何、その丸。眼鏡?」


「うん」


「もう一本いるの?」


「今のところ、増やす予定はない」


「なら大事にしなよ。あんた、外して机に置くとき雑だし」


それだけ言って、姉は廊下へ戻った。

俺はノートを閉じ、眼鏡のねじの辺りを指で確かめた。

発展の心配をする前に、壊してしまうのは避けたい。


廊下の向こうから、もう一度声がした。


「遼悟、お風呂!」


「今度は本当に行く」


今見ているものへ気を取られると、他が抜ける。

それは、練習場だけの話でもなかった。


***


次の練習日は、ひかりさんが先に来ていた。

床へ置いた小さな目印を、靴の先で並べ直している。

神代さんは窓を確かめ、台の位置を動かしていた。


「今日は、紙を追い掛けるだけじゃなくていいんですね」


俺が聞くと、ひかりさんが顔を上げた。


「追い掛けながら歩くの。止まって見てるだけだと、現場で置いてくでしょ」


「ゆっくり、だよ」


神代さんが付け足す。


「今日は私が動かす紙と、ひかりの腕の流れを交互に見る。攻撃を避けるところまでは増やさない」


その横に、腕を折った上着が置かれていた。

桐生さんのものだった。

本人は壁際で携帯をしまい、こちらを見る。


「俺、何すりゃいい」


「遼悟君から短い報告を受けて、場所を変えてほしい。実際に誰かへ渡せるか、確かめたいんだ」


神代さんの説明を聞き、俺は少し身構えた。

見ているだけの練習なら、間違えても自分の中で終わる。

相棒がそれを使うときは、そうはいかない。


桐生さんが、俺の顔を見た。


「外れてたら外れてたって言う。先に全部当てる顔すんな」


そんな顔をしていたらしい。

俺はうなずき、床の目印へ足を合わせた。


***


最初は、ひかりさんの右腕を見た。

起動の流れが、肩から拳へ寄る。

その横を、神代さんの紙がゆっくり進んだ。


「右、集まってます。紙は、その横」


「横って、どっち」


桐生さんに聞かれ、声が詰まった。

俺の右と、桐生さんの右は逆だった。


「ひかりさんから見て左です」


言い直す間に、紙が止まった。

俺は目を戻す。

右の拳にあった伝力は、既に薄くなっていた。


「右、まだ来るのか」


「……今は、減ってます」


桐生さんの足が止まる。

ひかりさんは腕を下ろし、こちらを見た。


「見えてたのに、説明してる間になくなった?」


「はい」


「じゃあ今のを先に言って。前の話されても、もう殴らないし」


正しかった。

伝えるまで残しておきたい。

そう考えていたのに、残したものが古くなっても、口では続きを説明してしまう。


俺は、眼鏡から指を離した。


「右は減った。紙、ひかりさんの左で停止。これぐらいですか」


「分かる」


桐生さんが答えた。


「それで、お前どっち向けねえんだ」


紙も腕も、見えている。

けれど、両方を確かめるために、俺は右足を目印の外へ出していた。

そのせいで、次に進む方向が台に塞がれていた。


「今、左へ回れないです」


「なら俺がこっち行く。次、そっち見ろ」


桐生さんが位置を変える。

相手の流ればかり見ていた視界へ、相棒の肩と、その先の空いた床が入った。

前の事件でも、言えば動かせるところがあると言ってくれた。

それを頼むのは、どうしても、少し遅くなる。


***


二回目は、伝力を絞って始めた。

ひかりさんの右腕を見る。

流れが寄ったところで、紙へ視線を動かす。

切り替える直前、右腕のどこまで見たかを、短く覚える。


肩から肘。

肘から拳。

拳へ集まっていた。


紙を見たあとで、同じ順に思い出そうとした。

その間に、また紙が動く。

俺は声を出せなかった。


「暗記しようとしてる?」


ひかりさんの声に、俺は顔を上げた。


「順番を、忘れないように」


「それで目の前止まったら、意味なくない?」


「そうなんですけど」


「一回やってみるまで、分からないこともあるからね」


神代さんが台へ近づき、紙を止めた。


「いま覚えようとしたもの、全部必要だったかな」


必要なものと、見えたから持っていきたくなるものが混ざっていた。

腕を流れた細い筋の一本ずつ。

その色の違い。

拳の先で重なった位置。

どれも捨てるのが惜しかった。


「増えたか、減ったか。それなら」


「まず、それでやってみよう」


神代さんは台を少し離した。

左右の間が広がり、目を動かさないと追えなくなる。

俺は一瞬、難しくされたと思った。

でも、片方を見ながらもう片方も細かく見る、という逃げ方ができなくなる配置でもあった。


三回目。

ひかりさんの腕で、流れが増える。

紙へ目を向ける。

増えた、とだけ残す。


紙が起き上がった。


「紙、動きます」


桐生さんが一歩ずれた。

俺は、ひかりさんを見る。

腕の流れは薄くなっていた。


「右は、減りました」


言ってから、少し遅いと思った。

それでも、二つの出来事を順番に渡すことはできた。

全部見えたときより、口が追いついていた。


ひかりさんが、腕を下ろして笑った。


「今の方がまし」


うれしかった。

その言葉だけで、次も同じようにできそうな気がした。


***


できなかった。

次は、ひかりさんが腕に通したものを、すぐには減らさなかった。

紙の方も、動き始めてから一度止まる。


俺は、前と同じつもりで答えた。


「右、減って――」


ひかりさんは動かなかった。

拳の周囲に、まだ濃いものが残っている。


「減ってないです。すみません、今の、訂正」


桐生さんは、その場で止まっていた。

俺が目を戻すまで待ったのだと、後から分かった。


「何見て、減ったって言った」


「前のときが、そうだったので」


「なら、見てねえだろ」


その一言で、顔が熱くなった。

紙を見ていた時間を、さっきの順番で埋めた。

見ていない間にも、相手は自分の都合で動く。

俺が覚えやすい形には、そろえてくれない。


神代さんが、休憩を告げた。


「今日は、その間違いが分かってよかった。現場でひかりが同じように待ってくれるとは限らないからね」


「相手なら待たないわよ」


ひかりさんが言った。

責める声ではなかった。

それがかえって、練習だから止まってもらえていることを意識させた。


壁際へ戻り、俺は水を飲んだ。

桐生さんも隣へ来たが、すぐには何も言わなかった。

床の目印を見ながら、ボトルのふたを回す。


「発展ができたら、こういうのも分かるんでしょうか」


口にしてから、また同じ逃げ方をしたと思った。

できないものを、まだ持っていないもののせいにする。


桐生さんは、ボトルを床へ置いた。


「俺の爪見たら、俺が次にどこ踏むか分かったか」


「全部は」


「俺も全部、最初に決めてねえ。途中で変える」


あの日、獣の爪は一度、振り下ろされなかった。

桐生さんが足を止め、次の場所を選んだ。

大きな姿は、その判断まで代わりにしてくれなかった。


「まず今のやつ、直せ。次はその後だろ」


「はい」


厳しいのに、置いていかれる感じはしなかった。

次があることを、この人は疑っていないらしい。


***


最後は、歩きながら行った。

目印から次の目印まで、ゆっくり進む。

神代さんの紙は、台を離れずに上下する。

ひかりさんは少し離れ、腕へ通す伝力を変えた。

桐生さんは俺の左前に立ち、報告を聞いて位置を変える。


ひかりさんの拳へ集まる。

目を移す。

紙が浮く。


直前に見た、腕の流れが頭に残る。

そこで、俺は違和感を覚えた。


レンズの端に、細い光があった。

目を動かす方向へ、糸のように引かれている。

ひかりさんの腕そのものが、そこへ映っているわけではない。

ただ、さっきの濃いものの向きが、薄い筋になって、視界の縁へ触れた気がした。


俺は足を止めかけた。

でも、紙が今も浮いている。


「紙、上がってます。右は――見直します」


ひかりさんへ目を戻す。

拳の流れは、さっきより減っていた。


「減りました」


桐生さんが、紙を挟まない方へ動いた。

俺は次の目印へ足を進めた。

細い光は、もうなかった。


「止めよう」


神代さんが言った。

紙が台へ戻り、ひかりさんが肩を回す。

俺は眼鏡へ触れた。

つるの外側に、細いものがほぐれるように消えた。


「今、何か出てましたか」


ひかりさんが、俺の顔へ少し近づいた。


「横に、薄いの。すぐ消えたけど」


「光ですか」


「伝力。さっきまで、なかった形」


俺は、自分の手を下ろした。

自分だけが見たものではなかった。

それだけで、胸が少し速くなる。


「もう一回、やってもいいですか」


「同じ条件で、一回だけね。増やす方にはしない」


神代さんが言った。


俺は立ち位置を戻した。

右腕を見る。

紙を見る。

さっき見た流れを残そうとする。


レンズの端が明るくなった。

でも、それは前にもあった、見づらい方の光だった。

紙の輪郭が沈む。

俺は供給を絞り、首を横に振った。


「今のは違います」


「うん。紙を見る前に、光を出そうとしてた」


神代さんは、すぐに練習を止めた。

俺は、もう一回と言いかけた。

壁の時計を見る。

約束した終了時刻が、近づいていた。


「……今日は、ここまでですか」


「ここまで。目も休ませよう。さっきできたことを、焦って別のものにしなくていい」


桐生さんが、床の目印を拾い始めた。

ひかりさんは俺の前へ手を出す。


「何ですか」


「ノート。書くなら、忘れる前に書きなよ。片付け、そっちの台だけでいいから」


渡せという意味ではなかった。

俺は鞄を取り、さっきの感覚を書いた。

光の形より先に、何を見て、何を言ったか。

目を動かした順番。

歩いていたこと。

もう一度やったら、出なかったこと。


最後の一行を加えると、思っていたより地味な頁になった。

でも、失敗した方を消してしまうと、次も光だけを追い掛ける気がした。


***


事務所へ戻ると、黒江班長が報告を聞いた。

ひかりさんが、短く外形を説明する。

神代さんは、同じようには再現できなかったことを付け足した。


「遼悟は、何が変わった」


黒江班長に聞かれ、俺はノートを見た。


「直前に見た流れと、次に見たものを、比べやすかった気がします。でも、それがあの光のせいかは、まだ分からないです」


「見ていない間の変化は?」


「分かりません。見直しました」


黒江班長は、うなずいた。


「なら、今まで通り、その前提で現場に出る。使えるものとして予定に入れるのは、まだ先だ」


「はい」


少し、残念だった。

何かに名前をつけて、できることの欄へ入れたかった。

けれど、現場で次も出ると当てにしたら、今日二回目の俺と同じになる。


机の向こうから、秋庭さんが顔を上げた。


「そのノート、あとで見せてもらえるかしら。覚えているうちに、言葉を補いたいところがあるの」


「今日は、十分休んでからですよ」


神代さんが言うと、秋庭さんは少しだけ肩を落とした。


「ええ。明日でも構わないわ。最初に見えたものって、あとから話すたびに形がそろってしまうことがあるから、今の書き方を残しておいてね」


俺はノートを閉じずに、端へ日付を書いた。

発展、とは書かなかった。

眼鏡の横に出たもの。

今は、それで十分だった。


ひかりさんが、隣の机へ腰を預けた。


「まあ、ちょっとは先が見えたんじゃない」


「ひかりさんのは、あんなに大きいのに」


「比べるとこ、まだそこ?」


笑われて、俺も少し笑った。


「いえ。次、何を練習するかの方です」


「ならいいけど。足も忘れないでよ。眼鏡だけ先に行っても、置いてくから」


帰り際、ロッカーから鞄を取る。

桐生さんが先に階段へ向かっていた。

俺はノートをしまい、その背中へ声を掛けた。


「桐生さん。次の練習、また報告を聞いてもらえますか」


振り向いた顔は、いつもの少し面倒そうな顔だった。


「時間合えばな。何て言うか、先に決めて来いよ」


「はい。長くしないようにします」


「短けりゃ全部いいわけでもねえけど」


注文は、また増えた。

俺は眼鏡を直し、階段を下りた。

レンズの横には、何も出ていない。

それでも、次に確かめたいことがある。

さっきまでと同じ景色を、少し違う気持ちで見ながら、俺は相棒の後を追った。


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