第48話:先生、そこは聞いていませんでした
水城さんとの約束は、次の土曜日の午後になった。
いつもいる机の前を通りかかり、空いていますかと聞けば済む距離にいるのに、予定が合うまで数日かかった。
俺に授業がある時間、水城さんは戻っている。
俺が事務所へ来る頃には、別の場所へ出ている。
同じ班だから、いつでも教わることができる。その考え自体が、少し甘かった。
約束の時刻より早く着くと、彼女は机に二つの紙コップを置いていた。
片方を俺の方へ寄せ、もう片方の中をのぞく。
「砂糖、入れてない方が遼悟君の。私は間違えるから、置く場所を分けてる」
「水城さんでも、間違えるんですか」
「するよ。忙しいときほど。飲んでから気づく」
紙コップを持ち上げると、温かかった。
机の端には、青い髪留めが一つ置いてある。同じ色のものが、彼女の横髪を留めていた。
俺が見たのに気づき、水城さんは机の方を指でつついた。
「留めるところが緩くなったから、交換。こっちは捨てる前に、金具を見てもらう」
「第五班ですか」
「そう。何でも伝力のせいにすると、普通の故障が残るからね」
湯気の向こうで、彼女が笑った。
伝力を聞き分ける人も、髪留めを自分で直せるわけではない。
その当たり前のことが、なぜか相談前の緊張を少しほどいた。
「ひかりから、眼鏡が大きくならなかったって聞いた」
ほどけたものが、少し戻った。
「その説明、間違ってはないですけど」
「うん。だから、遼悟君の方の説明を聞きたい」
水城さんは、そこで待った。
俺がノートを出し、爪の絵を飛ばして、下の一行を探すまで。
「見る場所を変えると、直前のことが抜けます」
榛名さんの手元から肩へ、また手元へ。
目を動かすたびに、いま見ているものが全部になる。
第五班の仕事では、一つの道具を落ち着いて見ればよかった。
動く相手を前にすると、選んで見ることと、他を見失うことが、ほとんど同時に起きる。
説明し終えるまで、水城さんは口を挟まなかった。
最後に、確かめるように聞いた。
「それで、前の場所を見なくても分かるようにしたい?」
「できるなら、そうしたいです」
「今、見えていないものも?」
俺は、返事をためらった。
壁の向こうが見えるなら、当然便利だ。
けれど、今回困ったのは、壁の向こうではない。
自分で見ていた手を、次の瞬間に追えなくなったことだった。
「まず、見えてたものを。今と比べるまで、なくならないようにしたいです」
水城さんは、そこで初めてノートを近くへ寄せた。
「じゃあ、それを少し確かめよう。私と同じ聞き方にする必要はないから」
***
事務所の奥の打合せ場所には、廊下から台車の音が聞こえていた。
壁際の換気扇は、一定の速さで回っている。
水城さんが扉を少し開けたままにし、椅子を引いた。
「今、何が聞こえる?」
「換気扇と、外の車と……廊下で誰か話してます」
「私が机をたたくから、その音を数えてみて」
指が、机を三度たたいた。
少し間が空いて、二度。
俺は五回、と答えた。
「その間、廊下の台車は、どっちへ行った?」
台車の音は、聞こえていたはずだった。
でも、机の音を数え始めたところから、記憶が曖昧になる。
「……分からないです」
「じゃあ、今度は台車。戻ってくると思う」
本当に、ほどなく車輪の音が近づいてきた。
俺は床を転がる振動へ耳を向けた。
水城さんの指も動いたが、そちらの回数は数えられない。
「できないですね、両方」
「慣れれば、今よりできることもある。でも、最初に両方を同じ細かさで聞こうとすると、私は混ざった」
彼女は、机に置いたペンを左右へ動かした。
「片方は回数。片方は、まだ近くにいるかどうか。それなら?」
三度目は、回数を数えながら、台車の音が残っているかだけ確かめた。
金属の荷台が廊下の継ぎ目を越え、がたんと鳴る。
四回目の机の音と重なった。
間違えかけたが、指が机に当たる乾いた音へ戻る。
「六回。台車は、まだ左の方に」
水城さんは、扉の方を見た。
「うん。今、止まってる」
正解したのに、気分はすっきりしなかった。
俺が聞いているのは、普通の音だ。
これで眼鏡に何かが現れるとも思えない。
机の向こうで、彼女がペンの先を浮かせた。
何かを書き留めるのかと思ったが、紙には触れず、そのまま俺を見ている。
「私の聞いているものを、そのまま聞こうとしなくていいんだよ」
「前も、そう言ってもらいました」
「うん。今は、聞こえるようになったあとで何を困ってるか、話せるから」
以前なら、俺も伝力を出して探せるようにならなければと考えた。
同じ感知系でも、入口が違えば、教わった通りの手順にならない。
水城さんは、その入口を変えるために座っているのではない。
俺が見ているものを、一緒に整理するために待ってくれている。
「紙に書いた方が、説明しやすいですか」
俺が聞くと、彼女はペンを置いた。
「遼悟君が話しやすい方で。今は、言い直してくれたところの方が分かりやすかった」
最初に答えを用意して来なくても、よかったらしい。
俺はノートの空いたところへ、左右に離れた二枚の紙を描いた。
「能力の練習じゃなくても、いいんですか」
「私に説明してくれた困り方が、どこから来るか知りたかったの。眼鏡を通したときだけ? 普段も?」
「普段も、ありました」
「じゃあ、全部を眼鏡のせいにはできないね」
水城さんは、俺のノートへ勝手に書き込まなかった。
代わりに、机の紙へ小さな丸を二つ描く。
片方を塗りつぶし、もう片方は輪郭だけ残した。
「片方を見る間、もう片方へ何を頼みたいか。全部、ではなくて」
その絵を見たとき、榛名さんの手と肩が、初めて別々のまま並んだ気がした。
両方を、同じ詳しさで見なくてもいい。
手元の火の形を追い続けなくても、流れがまた増えたことに気づければ、声を出せるかもしれない。
「動き始めたか、だけなら」
「それで足りるときもある。足りないときは、見る場所を戻す。私も、聞いて分からないことまで分かったとは言わない」
水城さんが、窓を一度見た。
車の音が、少し近くなっていた。
***
午後の練習場には、神代さんが先に来ていた。
水城さんが時間を確認し、あと少しだけ付き合うと告げる。
俺は荷物を端へ寄せ、眼鏡の汚れを拭いた。
「音の練習から?」
神代さんに聞かれ、さっきの台車の話をした。
「なら、紙を二つ使ってみよう。一つずつ、短く動かす。今日は当てないから、走らなくていい」
二枚の紙が、離れた台の上へ置かれた。
どちらも、俺から見える。
左を手元の代わり、右を肩の代わりにするらしい。
神代さんは自分の立ち位置も、二つの台の間から外した。
最初、俺は左を見た。
折り目に沿って流れる伝力が、紙の角へ寄る。
ふわりと浮いたところで、右が動いた。
そちらへ目を向けると、左が台に戻っていた。
「どっちが先でした?」
「右が動くのは見えました。でも、左が止まったところは」
「では、止まったところを見たことにはしない。次に戻って確かめよう」
神代さんは、淡々と言った。
失敗したから、最初に戻るわけではない。
目を戻し、左の紙が台の上にあるのを確かめて、ようやく一組の答えになった。
二度目、俺は眼鏡へ伝力を多く流しそうになった。
つるの近くが明るくなる前に、手を止める。
量は、前と同じ程度。
見たいものを、二つに増やす。
すると、左の折り目がぼやけた。
右も、詳しくは見えない。
どちらの色も薄く、何かが動いているだけになった。
「今度は、両方分からなくなりました」
「うん。一度、眼鏡を休ませて」
水城さんの声で、俺は供給を止めた。
彼女は台へ近づかなかった。
俺の横へ立ち、同じ方向を見る。
「細かく見る方、どっちにする?」
「左です」
「右は?」
「動き始めたか、だけ」
声に出すと、さっきより欲張っていないことが分かった。
左の折り目へ、意識を戻す。
右の紙は視界の端に残した。
色や細い筋を追わない。
そこが急に明るくなったら、確かめる。
左が浮く。
その下の影が、少し離れる。
右側で、白い光が膨らんだ。
「右」
声を出してから、目を動かした。
紙が起き上がりかけていた。
間に合った、と思った瞬間、左が分からなくなる。
そこまで、変わっていなかった。
「右は分かりました。でも、その後、左がまた」
神代さんは、両方の紙を台へ戻した。
「それは、今日できた方と、まだできない方が分かったということだね」
「発展っぽさは、ないですけど」
自分で言って、少し子供っぽいと思った。
水城さんは笑わなかった。
「見た目の話をすると、そっちへ頑張りたくなるから。今日は、困っている方を先にしたい」
俺は眼鏡の位置を直し、うなずいた。
***
休憩で廊下へ出ると、秋庭さんが小さな紙束を抱えていた。
目が合うなり、足が止まる。
「二枚、別々に見ていたのね」
扉が開いていたらしい。
俺は、はい、と返した。
「右を見たあと、左が見えなくなるというのは、色が消えるのかしら。それとも、どこまで見たか分からなくなるの?」
「色は、そこにあります。たぶん、俺が追えてなくて」
「たぶん、ね。そこは分けておきましょう」
紙束の一枚が、彼女の指で少しずれた。
ペンの先が動く。
「目を動かす前に残っているものと、動かしたあとで思い出したものは、同じかしら」
分からなかった。
さっき左の紙が浮いた形は、思い出せる。
でも、それが見え続けていたのか、単に覚えているだけなのかと聞かれると、自信がない。
「今度、確かめてみます」
「ええ。無理に同じ答えにしなくていいのよ。違っていたら、それも教えて」
秋庭さんは、紙へ何かを書き足した。
俺の知らない楽しそうな表情を、少しだけしていた。
神代さんが、後ろから声を掛けた。
「千景さん、次の打合せまで、あと五分です」
「あら。もう?」
秋庭さんは時計を見て、紙をそろえ直した。
「遼悟君、その眼鏡を通した状態の感覚、言葉にできる範囲で残しておいてね。絵でもいいわ」
去っていく背中を見送り、俺は神代さんを見た。
「今の、何かまずかったですか」
「まずくないよ。休憩中まで練習が延びそうだったから」
神代さんは、紙コップの入った袋を持ち上げた。
「まず、水を飲もう」
***
再開すると、紙が動き出す順番が変わった。
右を見るつもりでいたのに、左から動く。
一枚目が浮いた後、すぐには二枚目が動かないこともあった。
俺は、来るはずの方へ目を移してしまった。
そこには、何も起きていない紙がある。
「待ってるだけで、そっちを見たくなります」
「さっきまで、順番を覚えたからだね」
神代さんの手が、紙を回収する。
水城さんは、壁際の時計を見てから、最後の一回を頼んだ。
今度は、先に左右を決めない。
目の前の二つが、どこにあるかを確かめる。
右の紙へ流れるものが増え、角が浮いた。
左の縁が一度だけ光る。
俺は、左が動く、と言いかけた。
でも、角は台についたままだった。
伝力の筋がほどけ、元の薄さへ戻る。
「左、増えたけど……動いてないです」
「うん。今は止めた」
神代さんが言った。
予兆を見たら、その先が必ず起きる。
そんなふうに、俺はすぐ結びつけたがる。
見えたものを、見えた先まで勝手に伸ばしてしまう。
「右は?」
水城さんに聞かれ、目を戻す。
右は、まだ浮いていた。
「続いてます」
それを確かめてから、俺は供給を緩めた。
息を吐くと、いつの間にか上がっていた肩が下がる。
「いま、左へ移る前の右、少し思い出せます」
「今も同じかどうかは?」
「見直さないと、分からないです」
水城さんがうなずいた。
「そこ、混ぜないで練習できるといいね」
***
帰り支度をするとき、ノートには絵より言葉が増えていた。
左、細かく。
右、増えたか。
見直す。
止まったところは、見てから言う。
派手な技名には、どれも向いていない。
でも、榛名さんを追っていたとき、これができれば助かった場面は幾つも浮かんだ。
「水城さんは、嫌になりませんでしたか」
片付けながら、聞いた。
「何が?」
「他の人のやり方が、自分に使えないときです」
彼女は、交換した古い髪留めを小袋に入れていた。
金具を確かめる指が、一度止まる。
「なるよ。分かりやすく強いものって、欲しくなるから」
少し意外で、俺は顔を上げた。
「でも、同じ班の人が私に頼むのは、殴ることじゃないから。そのとき必要なものを聞き取れた方が、私はうれしかった」
彼女は小袋を鞄へしまった。
「遼悟君は、相手の全部を一人で知りたい? それとも、桐生に伝えるまで見ていたい?」
俺はノートを見た。
あの獣の絵は、もう頁の向こうに隠れている。
「まず、伝えるまで。次に見たものと、比べられるぐらいには」
「じゃあ、それで神代さんに相談しよう。練習も、頼み方で変わるから」
眼鏡の外に、何かを出す。
まだ、その姿には届いていない。
けれど、ただ大きくなれと頼むよりは、ずっと自分のものに近づいた気がした。




