第47話:大きくすれば解決するとは限らない
ノートの端に、獣の前脚を描いた。
爪の下へ短い線を引き、その横に眼鏡を描く。
並べてみると、いよいよ頼りなかった。
「牧瀬。そこ、試験に出るのか」
机の横から声がして、俺はノートを閉じかけた。
三谷が、閉じる前の一頁を見ている。
「出ない。たぶん」
「じゃあ、そっちの眼鏡は何。眼鏡をかけた猫?」
「別々」
「合体させればいいのに」
あまりに簡単に言うので、俺は返事に困った。
眼鏡をかけた獣が背中に現れる。
考えたところで、それを出して俺が何をするのか、まるで分からなかった。
昼休みの教室は、暖房を入れるには少し早い温度だった。
窓側の席では肩へ上着を掛けた女子が弁当を食べ、その隣では男子が制服の袖をまくっている。開いた扉から、購買の袋を下げた生徒が二人入ってきた。
昨日の俺が見たものを、ここで見た人はいない。
それなのに、机へ肘をつくと、あの爪と刃が重なった瞬間がまた浮かんだ。
「部活?」
三谷が聞いた。
「バイト先の、練習みたいな」
「例のインターン。絵も描くんだ」
「絵は、業務に含まれてない」
「じゃあ真面目に授業聞けよ」
正論だった。
俺は閉じたノートの上へ、次の授業の教科書を置いた。
桐生さんは、できないことが増えると言った。
強い人に教われば、そのうち自分も同じものを手に入れられる。そういう道が、どこかに一本あると思っていた。
けれど、爪の形を思い出せても、そこへ続く自分の足場が見つからない。
スマホを出し、ひかりさんに短く送った。
『今度、発展の練習について聞いてもいいですか』
返事は、次の授業が始まる直前に来た。
『今度じゃなくて今日。靴忘れないで』
相談に靴が必要なのは、この人らしい。
***
第十一班の事務所へ着くと、ひかりさんはソファの端で靴ひもを結んでいた。
白い上着の袖口から、赤い色が少しのぞく。
俺を見ると、空いている手で隣を指した。
「座らないの。荷物だけ置いて」
座る前に、指の意味が変わった。
「相談って送ったんですけど」
「聞くより見た方が早いんでしょ。桐生の見て、やりたくなったんだろうし」
図星で黙ると、机で書類をそろえていた神代さんが顔を上げた。
眼鏡の奥で、目が少し細くなる。
「昨日の診療で、今日は軽い運動からと言われたのを覚えているかな」
「私は殴らないってば」
「遼悟君にも、殴らせないように」
「じゃあ何しに行くの」
「見学と相談だよ」
神代さんの言葉で、ようやく俺の目的が復帰した。
奥の机では、黒江班長が電話を切ったところだった。
こちらへ目を向け、ひかりさんの手と俺の鞄を順に見る。
「外へ出すなら、練習場の使用を確認してからだ」
「さっき空いてた」
「予約をしてから、という意味だ。神代、頼めるか」
「はい。戻りの時刻も入れておきます」
ひかりさんは口をとがらせたが、出ていくのは待った。
その間、俺はロッカーへ鞄を入れた。
昨日持ち帰った紙袋はもうない。それでも、焦げた布の匂いを思い出すと、自分の袖を確かめたくなる。
黒江班長が、近くを通る俺に声を掛けた。
「急いで、昨日できたことまで崩すなよ」
俺は立ち止まった。
「発展を目指すのは、まだ早いですか」
「目標を持つことに許可はいらない。今日、何を確かめるかは決めておけ」
それなら答えられる、と思った。
けれど口を開いてから、言葉が詰まった。
大きいものを出したい。
強くなりたい。
その二つしか、用意していなかった。
***
練習場の扉を閉めると、金属の留め具が乾いた音を立てた。
床に引かれた線の向こうへ、神代さんが折り畳んだ台を置く。壁際には古いマットが積まれ、窓の下には掃除に使うモップが立っていた。
人を驚かせるものを出す場所にしては、普段の片付けの気配が残っている。
「まずは、いつも通り」
ひかりさんが言った。
俺は眼鏡のつるへ指を添えた。
伝力を通す。
視界の中で、ひかりさんの肩から腕へ続く流れが、背景より拾いやすくなった。
見慣れた、密度の高い動きだ。
袖口の内側から拳へ、細いものが寄り合っていく。
「見えてる?」
「はい。右腕の方が、今は強いです」
「じゃあ、これは」
手首を返しただけだった。
俺は反射的に肩を引いた。
ひかりさんが笑う。
「殴るって言ってない」
「言わないで殴ることもあるので」
「練習じゃ言ってるでしょ」
確かにそうだった。
神代さんが横で一つ咳をした。
「ひかり、今日は怖がらせる日でもないからね」
「はいはい。少し離れてて」
彼女の拳の周囲が、白く浮いた。
皮膚の上に何かを塗ったのではない。握った指の線を追うように伝力が重なり、腕から肩へ、途切れずつながっている。
その流れを目で追ったとき、背後に輪郭が生まれた。
一対の、手甲。
本人の手よりずっと大きい白い形が、肩の外側に浮かんでいた。
縁を覆う赤い光が、ほぐれた糸のように揺れる。
ひかりさんが右の拳を開けば、大きな指も開いた。
握れば、白い節が順に折り重なった。
俺は思わず、彼女の横へ回り込もうとした。
「そこで止まって」
神代さんの声で足が止まる。
「動きを見たいなら、ひかりに先に言おう。今、そこへ腕を動かすかもしれない」
「すみません」
ひかりさんは振り向かなかった。
俺の場所を確かめてから、拳をゆっくり前へ出す。
白い手甲も、同じ側が進んだ。
拳と手甲の間にある空間が、赤い筋でつながって見える。
「それ、別々には動かせないんですか」
「私の拳だもん。こっち止めて、あっちだけ好きに殴らせるために出してない」
左腕を引き、右腕を戻す。
大きい形は、彼女の動きを少しも追い越さない。
背中に二本、腕を増やしたのだと思った。
でも、見ているうちに、それよりも、本人の拳が外まで続いているように感じられた。
「前は、何を練習したんですか」
「拳に通すのと、止めるの。身体がぐらつくと、こっちもぶれるから」
「大きくする練習は?」
「大きいだけなら邪魔」
即答だった。
「例えば、あんたの背中に巨大な眼鏡が出たとして」
「やめてください」
「まだ何も言ってないけど」
教室で描いた絵を、見られた気分になった。
ひかりさんは、口元だけで笑った。
「何が見えるようになるの。それ」
答えられない。
背後の白い手甲が、指先からほどけた。
赤い光も薄くなり、練習場の壁が元の色に戻る。
彼女は手を振り、神代さんの置いた台からペットボトルを取った。
「桐生のもそう。獣が格好いいから強いんじゃないでしょ。何してるか、見たんじゃないの」
足場を作る。
踏み込む。
刃を重ねる。
あの人が何度も選び直した位置を思い出し、俺はうなずいた。
「俺は、何を伸ばせばいいんでしょう」
「そこは私に聞かれても」
ひかりさんは、あっさり言った。
「殴れるようにするなら、見れるけど。眼鏡の気持ちは分かんない」
「道具に気持ちがある前提ですか」
「あんたが一番よく使ってるでしょ、ってこと」
言い直した声には、さっきほどのからかいはなかった。
***
「じゃあ、私の方も少し見てみようか」
神代さんが、胸ポケットから紙を取り出した。
折り目のある小さな紙が、指先を離れて浮く。
見慣れた式神だった。
「最初に頼む仕事は、あの台まで行って戻ること」
紙は床へ落ちずに進み、台の端で向きを変えた。
俺の近くを通って、神代さんの手へ戻る。
「今のが起動ですか」
「うん。この紙を動かして、決めた仕事をさせる。今日は分かりやすく、行って戻るだけだね」
もう一度、紙が離れる。
今度は、その周囲に薄い翼が現れた。
紙の芯を残したまま、鳥の形がかぶさる。
羽の端は半ば透け、壁の傷が向こうに見えた。
鳥は、神代さんからひかりさんの手元へ向かった。
彼女が指を出すと、そこへ軽く止まる。
「伝える相手を決めて、届ける。見た目だけ鳥にしたんじゃない」
「今、何を伝えたんですか」
ひかりさんが、こちらを見た。
「水飲ませろって」
「休憩を挟もう、と送ったつもりなんだけど」
「同じでしょ」
鳥が戻り、紙の周囲の翼が消えた。
神代さんは、同じ形を続けて何体も並べようとはしなかった。
一度紙を確かめ、折り目を指で直してから、台へ置く。
「役割によって、外へまとわせる形も変わる。意識をそらすときの狐や、防ぐための亀もそうだ。ただ、形を変えれば何でもできる、というわけではないよ」
「犬なら噛む。亀なら守る、ですか」
「私が、その仕事のために使っている。だから、その姿が合う。逆から全部決めると、できない仕事まで増やしたくなるんだ」
俺は台の上の紙を見た。
普通の紙より少し丈夫そうに見えるが、それだけだった。
そこから鳥の翼が出てきたことより、鳥になる前から、誰へ何を届けるかが決まっていたことが気になった。
「神代さんは、最初からこうしたかったんですか」
「最初から、うまく分かっていたわけじゃない。紙を増やして、一度に頼めば便利だと思ったこともある」
「便利そうです」
「便利だよ。私が全部、見失わなければね」
ひかりさんが、ふっと鼻を鳴らした。
「何かしたんですか」
俺が聞くと、神代さんは彼女の方を一度見た。
「その話は、今日の練習に必要かな」
「急に先生っぽくするじゃん」
ひかりさんが楽しそうだったので、俺は少しだけ安心した。
最初から、全部できる二人がここにいたわけではないらしい。
***
神代さんが、もう一枚の紙を指に挟んだ。
「もう一つだけ。さっき、紙の核が見えたね」
「はい。鳥の中に、折ったところが残ってました」
「そこを見ていて。姿が出ているところと、まだ紙だけのところを」
紙の縁に、小さな亀の甲羅が重なった。
台の上に置かれた白い芯を、淡い曲面が覆っている。
神代さんが台をわずかに傾けると、紙とその周囲の形が、一緒に位置を変えた。
俺はしゃがみ、台の側面から見た。
上に飾りを乗せたのではなく、紙から続いたものが外へまとまっている。
「これ、俺が触っても」
「今日は触らずに見よう。ひかりの拳も、私の式神も、触れた感じを先に確かめる必要はないから」
伸ばしかけた手を戻す。
便利そうだと思うと、すぐに自分で動かしたくなる。
その前に見ることがある、と何度も言われているのに、目の前に形が出ると忘れそうになった。
神代さんは台を戻し、甲羅を消した。
「いま、形のどこを見た?」
「外側と、紙から続くところです」
「自分の眼鏡を見るときも、外へ出たものだけを探さないようにね」
俺はうなずき、かけている眼鏡のつるに触れた。
ずっと使っているものなのに、他人の道具より、自分の方が見えづらかった。
外して眺めるだけでは、使っているときと違ってしまう。
それも、誰かに見てもらわなければ分からないのかもしれない。
試しに、俺も眼鏡へ伝力を通した。
普段より多く、というつもりだった。
両耳の近くから、つるをたどって前へ。
レンズの縁に集まった光を、外へ広げようとする。
視界の端が白くなった。
ひかりさんの腕の流れまで明るくなり、床の線がその向こうで薄くなる。
眼鏡を外しかけて、やめた。
供給を減らす。
やっと、部屋の奥行きが戻った。
「……見づらくなりました」
「前にも、そこは練習したよね」
神代さんに言われ、俺はうなずいた。
第五班で気づいたばかりだった。
見たいものを選ばずに強くしても、全部がうるさくなる。
分かっていたのに、大きな手甲を見た後では、何かを足さなければと思ってしまった。
「量が足りないのかと」
「量を足して、何をしてほしかった?」
眼鏡のつるへ触れたまま、俺は止まった。
大きくなれ、としか考えていなかった。
その大きさで何を見るのか、決めていない。
ひかりさんが、俺の前にペットボトルを置いた。
「桐生と同じもの欲しがっても、あんた眼鏡で斬らないでしょ」
「斬れたら、それはそれで」
「まず割れるわよ」
現実的な返事だった。
俺は水を一口飲んだ。
冷たさが喉を通り、目の奥の熱が少し引いた。
「榛名さんの手を見てたとき、肩にできたものに気づくのが遅れました」
二人が、黙って聞いてくれた。
「肩を見たら、次は手元を見落としそうになって。見えるものは増えたのに、見てる場所を変えるたび、一つ前がなくなる感じで」
神代さんは、すぐには説明しなかった。
代わりに、台の紙を裏返す。
「それを、沙羅さんに話してみよう。前に、聞き分ける話をしていたね」
「はい。でも、また最初から聞くみたいで」
「今の話なら、前とは違うことを聞けると思うよ」
ひかりさんが、空になった自分のボトルを握りつぶした。
ぱき、と薄い音がした。
「今日まで気づかなかったこと、あるんでしょ。だったら無駄じゃないじゃん」
俺は、持ってきたノートを開いた。
爪と眼鏡の並んだ頁の下に、一行だけ足す。
『次を見たとき、前はどうなっているか』
発展の形は、まだ描けない。
でも、質問するための言葉は、さっきより具体的になっていた。




