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球体世界の観測者 ~見えるだけの少年は、陰陽寮で世界の裏側を知る~  作者: 雅貴
第2章第7節

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第47話:大きくすれば解決するとは限らない

ノートの端に、獣の前脚を描いた。

爪の下へ短い線を引き、その横に眼鏡を描く。

並べてみると、いよいよ頼りなかった。


「牧瀬。そこ、試験に出るのか」


机の横から声がして、俺はノートを閉じかけた。

三谷が、閉じる前の一頁を見ている。


「出ない。たぶん」


「じゃあ、そっちの眼鏡は何。眼鏡をかけた猫?」


「別々」


「合体させればいいのに」


あまりに簡単に言うので、俺は返事に困った。

眼鏡をかけた獣が背中に現れる。

考えたところで、それを出して俺が何をするのか、まるで分からなかった。


昼休みの教室は、暖房を入れるには少し早い温度だった。

窓側の席では肩へ上着を掛けた女子が弁当を食べ、その隣では男子が制服の袖をまくっている。開いた扉から、購買の袋を下げた生徒が二人入ってきた。

昨日の俺が見たものを、ここで見た人はいない。

それなのに、机へ肘をつくと、あの爪と刃が重なった瞬間がまた浮かんだ。


「部活?」


三谷が聞いた。


「バイト先の、練習みたいな」


「例のインターン。絵も描くんだ」


「絵は、業務に含まれてない」


「じゃあ真面目に授業聞けよ」


正論だった。

俺は閉じたノートの上へ、次の授業の教科書を置いた。


桐生さんは、できないことが増えると言った。

強い人に教われば、そのうち自分も同じものを手に入れられる。そういう道が、どこかに一本あると思っていた。

けれど、爪の形を思い出せても、そこへ続く自分の足場が見つからない。


スマホを出し、ひかりさんに短く送った。


『今度、発展の練習について聞いてもいいですか』


返事は、次の授業が始まる直前に来た。


『今度じゃなくて今日。靴忘れないで』


相談に靴が必要なのは、この人らしい。


***


第十一班の事務所へ着くと、ひかりさんはソファの端で靴ひもを結んでいた。

白い上着の袖口から、赤い色が少しのぞく。

俺を見ると、空いている手で隣を指した。


「座らないの。荷物だけ置いて」


座る前に、指の意味が変わった。


「相談って送ったんですけど」


「聞くより見た方が早いんでしょ。桐生の見て、やりたくなったんだろうし」


図星で黙ると、机で書類をそろえていた神代さんが顔を上げた。

眼鏡の奥で、目が少し細くなる。


「昨日の診療で、今日は軽い運動からと言われたのを覚えているかな」


「私は殴らないってば」


「遼悟君にも、殴らせないように」


「じゃあ何しに行くの」


「見学と相談だよ」


神代さんの言葉で、ようやく俺の目的が復帰した。


奥の机では、黒江班長が電話を切ったところだった。

こちらへ目を向け、ひかりさんの手と俺の鞄を順に見る。


「外へ出すなら、練習場の使用を確認してからだ」


「さっき空いてた」


「予約をしてから、という意味だ。神代、頼めるか」


「はい。戻りの時刻も入れておきます」


ひかりさんは口をとがらせたが、出ていくのは待った。

その間、俺はロッカーへ鞄を入れた。

昨日持ち帰った紙袋はもうない。それでも、焦げた布の匂いを思い出すと、自分の袖を確かめたくなる。


黒江班長が、近くを通る俺に声を掛けた。


「急いで、昨日できたことまで崩すなよ」


俺は立ち止まった。


「発展を目指すのは、まだ早いですか」


「目標を持つことに許可はいらない。今日、何を確かめるかは決めておけ」


それなら答えられる、と思った。

けれど口を開いてから、言葉が詰まった。


大きいものを出したい。

強くなりたい。

その二つしか、用意していなかった。


***


練習場の扉を閉めると、金属の留め具が乾いた音を立てた。

床に引かれた線の向こうへ、神代さんが折り畳んだ台を置く。壁際には古いマットが積まれ、窓の下には掃除に使うモップが立っていた。

人を驚かせるものを出す場所にしては、普段の片付けの気配が残っている。


「まずは、いつも通り」


ひかりさんが言った。


俺は眼鏡のつるへ指を添えた。

伝力を通す。

視界の中で、ひかりさんの肩から腕へ続く流れが、背景より拾いやすくなった。

見慣れた、密度の高い動きだ。

袖口の内側から拳へ、細いものが寄り合っていく。


「見えてる?」


「はい。右腕の方が、今は強いです」


「じゃあ、これは」


手首を返しただけだった。

俺は反射的に肩を引いた。

ひかりさんが笑う。


「殴るって言ってない」


「言わないで殴ることもあるので」


「練習じゃ言ってるでしょ」


確かにそうだった。

神代さんが横で一つ咳をした。


「ひかり、今日は怖がらせる日でもないからね」


「はいはい。少し離れてて」


彼女の拳の周囲が、白く浮いた。

皮膚の上に何かを塗ったのではない。握った指の線を追うように伝力が重なり、腕から肩へ、途切れずつながっている。

その流れを目で追ったとき、背後に輪郭が生まれた。


一対の、手甲。


本人の手よりずっと大きい白い形が、肩の外側に浮かんでいた。

縁を覆う赤い光が、ほぐれた糸のように揺れる。

ひかりさんが右の拳を開けば、大きな指も開いた。

握れば、白い節が順に折り重なった。


俺は思わず、彼女の横へ回り込もうとした。


「そこで止まって」


神代さんの声で足が止まる。


「動きを見たいなら、ひかりに先に言おう。今、そこへ腕を動かすかもしれない」


「すみません」


ひかりさんは振り向かなかった。

俺の場所を確かめてから、拳をゆっくり前へ出す。

白い手甲も、同じ側が進んだ。

拳と手甲の間にある空間が、赤い筋でつながって見える。


「それ、別々には動かせないんですか」


「私の拳だもん。こっち止めて、あっちだけ好きに殴らせるために出してない」


左腕を引き、右腕を戻す。

大きい形は、彼女の動きを少しも追い越さない。

背中に二本、腕を増やしたのだと思った。

でも、見ているうちに、それよりも、本人の拳が外まで続いているように感じられた。


「前は、何を練習したんですか」


「拳に通すのと、止めるの。身体がぐらつくと、こっちもぶれるから」


「大きくする練習は?」


「大きいだけなら邪魔」


即答だった。


「例えば、あんたの背中に巨大な眼鏡が出たとして」


「やめてください」


「まだ何も言ってないけど」


教室で描いた絵を、見られた気分になった。

ひかりさんは、口元だけで笑った。


「何が見えるようになるの。それ」


答えられない。

背後の白い手甲が、指先からほどけた。

赤い光も薄くなり、練習場の壁が元の色に戻る。

彼女は手を振り、神代さんの置いた台からペットボトルを取った。


「桐生のもそう。獣が格好いいから強いんじゃないでしょ。何してるか、見たんじゃないの」


足場を作る。

踏み込む。

刃を重ねる。

あの人が何度も選び直した位置を思い出し、俺はうなずいた。


「俺は、何を伸ばせばいいんでしょう」


「そこは私に聞かれても」


ひかりさんは、あっさり言った。


「殴れるようにするなら、見れるけど。眼鏡の気持ちは分かんない」


「道具に気持ちがある前提ですか」


「あんたが一番よく使ってるでしょ、ってこと」


言い直した声には、さっきほどのからかいはなかった。


***


「じゃあ、私の方も少し見てみようか」


神代さんが、胸ポケットから紙を取り出した。

折り目のある小さな紙が、指先を離れて浮く。

見慣れた式神だった。


「最初に頼む仕事は、あの台まで行って戻ること」


紙は床へ落ちずに進み、台の端で向きを変えた。

俺の近くを通って、神代さんの手へ戻る。


「今のが起動ですか」


「うん。この紙を動かして、決めた仕事をさせる。今日は分かりやすく、行って戻るだけだね」


もう一度、紙が離れる。

今度は、その周囲に薄い翼が現れた。

紙の芯を残したまま、鳥の形がかぶさる。

羽の端は半ば透け、壁の傷が向こうに見えた。


鳥は、神代さんからひかりさんの手元へ向かった。

彼女が指を出すと、そこへ軽く止まる。


「伝える相手を決めて、届ける。見た目だけ鳥にしたんじゃない」


「今、何を伝えたんですか」


ひかりさんが、こちらを見た。


「水飲ませろって」


「休憩を挟もう、と送ったつもりなんだけど」


「同じでしょ」


鳥が戻り、紙の周囲の翼が消えた。

神代さんは、同じ形を続けて何体も並べようとはしなかった。

一度紙を確かめ、折り目を指で直してから、台へ置く。


「役割によって、外へまとわせる形も変わる。意識をそらすときの狐や、防ぐための亀もそうだ。ただ、形を変えれば何でもできる、というわけではないよ」


「犬なら噛む。亀なら守る、ですか」


「私が、その仕事のために使っている。だから、その姿が合う。逆から全部決めると、できない仕事まで増やしたくなるんだ」


俺は台の上の紙を見た。

普通の紙より少し丈夫そうに見えるが、それだけだった。

そこから鳥の翼が出てきたことより、鳥になる前から、誰へ何を届けるかが決まっていたことが気になった。


「神代さんは、最初からこうしたかったんですか」


「最初から、うまく分かっていたわけじゃない。紙を増やして、一度に頼めば便利だと思ったこともある」


「便利そうです」


「便利だよ。私が全部、見失わなければね」


ひかりさんが、ふっと鼻を鳴らした。


「何かしたんですか」


俺が聞くと、神代さんは彼女の方を一度見た。


「その話は、今日の練習に必要かな」


「急に先生っぽくするじゃん」


ひかりさんが楽しそうだったので、俺は少しだけ安心した。

最初から、全部できる二人がここにいたわけではないらしい。


***


神代さんが、もう一枚の紙を指に挟んだ。


「もう一つだけ。さっき、紙の核が見えたね」


「はい。鳥の中に、折ったところが残ってました」


「そこを見ていて。姿が出ているところと、まだ紙だけのところを」


紙の縁に、小さな亀の甲羅が重なった。

台の上に置かれた白い芯を、淡い曲面が覆っている。

神代さんが台をわずかに傾けると、紙とその周囲の形が、一緒に位置を変えた。

俺はしゃがみ、台の側面から見た。

上に飾りを乗せたのではなく、紙から続いたものが外へまとまっている。


「これ、俺が触っても」


「今日は触らずに見よう。ひかりの拳も、私の式神も、触れた感じを先に確かめる必要はないから」


伸ばしかけた手を戻す。

便利そうだと思うと、すぐに自分で動かしたくなる。

その前に見ることがある、と何度も言われているのに、目の前に形が出ると忘れそうになった。


神代さんは台を戻し、甲羅を消した。


「いま、形のどこを見た?」


「外側と、紙から続くところです」


「自分の眼鏡を見るときも、外へ出たものだけを探さないようにね」


俺はうなずき、かけている眼鏡のつるに触れた。

ずっと使っているものなのに、他人の道具より、自分の方が見えづらかった。

外して眺めるだけでは、使っているときと違ってしまう。

それも、誰かに見てもらわなければ分からないのかもしれない。


試しに、俺も眼鏡へ伝力を通した。

普段より多く、というつもりだった。

両耳の近くから、つるをたどって前へ。

レンズの縁に集まった光を、外へ広げようとする。


視界の端が白くなった。

ひかりさんの腕の流れまで明るくなり、床の線がその向こうで薄くなる。

眼鏡を外しかけて、やめた。

供給を減らす。

やっと、部屋の奥行きが戻った。


「……見づらくなりました」


「前にも、そこは練習したよね」


神代さんに言われ、俺はうなずいた。

第五班で気づいたばかりだった。

見たいものを選ばずに強くしても、全部がうるさくなる。

分かっていたのに、大きな手甲を見た後では、何かを足さなければと思ってしまった。


「量が足りないのかと」


「量を足して、何をしてほしかった?」


眼鏡のつるへ触れたまま、俺は止まった。

大きくなれ、としか考えていなかった。

その大きさで何を見るのか、決めていない。


ひかりさんが、俺の前にペットボトルを置いた。


「桐生と同じもの欲しがっても、あんた眼鏡で斬らないでしょ」


「斬れたら、それはそれで」


「まず割れるわよ」


現実的な返事だった。

俺は水を一口飲んだ。

冷たさが喉を通り、目の奥の熱が少し引いた。


「榛名さんの手を見てたとき、肩にできたものに気づくのが遅れました」


二人が、黙って聞いてくれた。


「肩を見たら、次は手元を見落としそうになって。見えるものは増えたのに、見てる場所を変えるたび、一つ前がなくなる感じで」


神代さんは、すぐには説明しなかった。

代わりに、台の紙を裏返す。


「それを、沙羅さんに話してみよう。前に、聞き分ける話をしていたね」


「はい。でも、また最初から聞くみたいで」


「今の話なら、前とは違うことを聞けると思うよ」


ひかりさんが、空になった自分のボトルを握りつぶした。

ぱき、と薄い音がした。


「今日まで気づかなかったこと、あるんでしょ。だったら無駄じゃないじゃん」


俺は、持ってきたノートを開いた。

爪と眼鏡の並んだ頁の下に、一行だけ足す。


『次を見たとき、前はどうなっているか』


発展の形は、まだ描けない。

でも、質問するための言葉は、さっきより具体的になっていた。


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