第45話:猫を被るとかの話じゃない
神代さんが入口へ鎖を戻した。
それだけで通行人が全員止まるわけではない。道路側へ身体を向け、近づく人に声を掛ける。
俺も、敷地と道の両方が見える角へ移った。
「自転車の方、戻れました」
俺が言うと、桐生さんが短く頷いた。
「入口は?」
「神代さんが見てます。今、近くに人はいません」
「中の奥」
「塞がった扉まで、見えるところに人はいません。架台の裏は、ここからじゃ」
「いい。見えたところまでだ」
桐生さんは榛名から目を離さなかった。
榛名は肩の炉口を桐生さんへ向け、ライターの蓋を指で弾いている。
小さな金属音が、川沿いの風の中へ混じった。
「まだやんのかよ。こっちは、帰りてえんだけど」
「帰る前に、手を空にしろ」
「それで殴るんだろ。知ってるよ、お前らみたいな奴」
桐生さんは笑わなかった。
「じゃ、知ってること増やせ。人が引いた。さっきと同じにはやれねえぞ」
榛名の肩の炉口が、一度、大きく開いた。
中で橙色が強くなる。
俺は手元ではなく、その縁と、先の空間を見る。
熱の揺れとは別の、薄い伝力が伸びかけた。
「桐生さん、前!」
言った後で、前では足りないと思った。
だが、桐生さんの足はもう横へ出ていた。
炎がさっきまで立っていた場所を抜ける。
その後で、桐生さんが踏み込んだ。
足元から、伝力が上がった。
身体を覆うように広がるのではない。踵から膝、腰へ通り、刃を握る腕へ集まる。
その外側で、輪郭が生まれた。
獣だった。
桐生さんの背中から、分厚い首と肩がせり出す。
頭が低く下がり、前脚が二本、身体の外へ伸びる。
毛並みに見えた縁は、細い伝力の重なりだった。透けた輪郭の向こうに、フェンスも建物の壁も見える。
犬に似ている。
でも、前脚の太さと、肩の盛り上がりは、俺が知っている犬のものではなかった。
口が開いた。
牙が見える。
俺はそこへ目を奪われ、すぐに視線を戻した。
違う。
力が集まっているのは、口ではない。
桐生さんが刃を下ろす。
同時に、獣の前脚が振り下ろされた。
爪の一本が、桐生さんの刃と重なった。
二つが並んでいるのではない。
獣の爪がある位置に、握った刃がある。
桐生さんの一歩と、獣の踏み下ろしと、その刃の向きが、一瞬、同じ動きになった。
音がした。
金属を打ったような、硬い音だった。
榛名の肩の炉口が、横へ弾かれた。
黒い縁の一部が欠け、橙色の光が乱れる。
榛名が叫んだ。
「何だよ、それ!」
身体を引く。
桐生さんは刃を戻し、追いすぎず足を置き直した。
獣の爪も、刃と同じ位置へ戻る。
俺は息をするのを忘れた。
あれが、桐生さんの発展。
見せてもらっていなかったものが、目の前にある。
「牧瀬」
呼ばれた。
「そっちじゃねえ。あいつ」
俺は慌てて榛名へ目を戻した。
肩の炉口は残っている。欠けた縁へ伝力が集まり、輪郭をつなごうとしていた。
そこへ、手元から細いものが上がる。
「口が、戻りかけてます」
「どこに出す」
「まだ。形を、作り直してるみたいです」
「そこまででいい」
桐生さんが一歩出る。
榛名は短く炎を放った。
乱れた炉口から斜めに伸び、地面を舐める。
桐生さんは足を止め、刃を出さなかった。
獣も止まった。
別の生き物なら、主人が止まっても前へ行くかもしれない。
でも、あの爪は、桐生さんが刃を置いた場所から動かない。
呼び出して戦わせているのではなかった。
桐生さんの動きそのものに、形がついている。
榛名も、同じところを見ていたらしい。
「足、止めたら終わりかよ」
肩の炉口が、低くなった。
桐生さんの胸ではなく、足元へ向けられる。
踏み込んでくるところへ、炎を置くつもりなのかもしれない。
俺は床の目印を思い出し、ここには安全な一歩を教えてくれるテープがないことに気づいた。
「桐生さん、足元へ向けてます」
「見えてる。お前の方、余裕は」
「壁際に一歩、下がれます」
「そっちは入るな。水、たまってる」
俺は踵を置きかけた場所を見た。
浅い水たまりだった。表面の薄い油膜のようなものに、夕方の光が浮いている。
眼鏡で細い伝力を追っていた分、地面の光り方まで見ていなかった。
「分かりました。今の場所にいます」
桐生さんの爪が、少し引いた。
刃の角度も変わる。
獣の大きな肩が上がったので、榛名は慌てて炉口を上へ戻した。
その瞬間、桐生さんが低く動いた。
獣が別の方向から噛みつくのではない。
本人の腰が落ち、腕が下がり、そこへ重なっていた前脚の形も低くなる。
俺が大きな姿へ気を取られたように、榛名も肩の輪郭を見てしまったらしかった。
「っ、ふざけんな!」
炉口が下を向き直る。
桐生さんは踏み切らず、足を止めた。
刃が下がり、爪の輪郭が淡くなる。
炎が、二人の間の地面へ出た。
桐生さんはその場へ力を叩き込まなかった。
引いた足で身体を支え、熱が抜けた後、別の位置へ移る。
大きな獣を出したのに、最後まで振り下ろさない。
俺には、せっかく集めたものを捨てたように見えた。
榛名が、そこで一歩出た。
自分の火の残った場所を挟んで、桐生さんを押し返そうとする。
炉口の向きを合わせるのに、身体ごと寄ったのだ。
桐生さんの獣が、さらに薄くなる。
俺は後退するのだと思った。
違った。
桐生さんは短く身体を寄せ、刃を上げず、空いた腕で榛名の手元を押した。
ライターの向きが逸れる。
榛名が慌てて引き、炉口も横を向いた。
桐生さんはそれ以上つかまず、半歩戻る。
「踏まなきゃ、何もできねえと思ったか」
桐生さんが言った。
「面倒くせえな、お前!」
榛名が吐き捨てる。
俺は二人の足を見た。
獣が濃くない間も、桐生さんは近づき、押し、距離を変える。
発展の動作だけを覚えた人ではない。そこで踏み込むために、それ以外の動きをずっと使っていた。
「今の、普通に」
俺が呟くと、桐生さんの声がした。
「普通の方が速いところは、普通にやる」
戸田さんの器具で、目立つ中央ばかりを見ていた自分が浮かんだ。
大きく変わったところは、見つけやすい。
でも、あの人の強さまで、そこだけで分かったつもりになってはいけないのだと思った。
「さっき、振り下ろすの止めたんですか」
聞くと、桐生さんは榛名を見たまま答えた。
「当てる先、なくなっただろ」
「力、もったいなくないですか」
「踏んでから転ぶ方が、もったいねえ」
隠れた爪ではなく、本人の靴が地面を確かめる。
伝力が寄る場所だけでは、どの足を出すかまでは分からない。
大きな力を持っていても、床へ置く一歩は本人が選ぶらしかった。
榛名が、一度だけ咳をした。
自分の放った熱気が、風に押し返されたのかもしれない。
目を細め、上着の首元を引く。
肩の炉口の縁へ、また伝力が集まった。
「金もらって、人の前に立ってたんだろ」
桐生さんが言った。
「それが何だ」
「そいつらの方へも、そうやって撃ってたのか」
「関係ねえだろ。仕事の話は、今してねえ」
「さっきから金の話しかしてねえのは、お前だろうが」
榛名が歯を見せた。
笑ったのか、怒ったのか分からない。
手元の火を一度かばい、肩の炉口を身体の外へずらす。
俺には、その間がさっきより長く感じられた。
「口の下、欠けたままです。つながりきってません」
俺が伝えると、桐生さんは頷いた。
「出る方は」
「前へ、さっきより低いかも。でも、まだ確かじゃ」
「了解」
返事が短い。
聞いていないのではなく、その先を待っている。
俺は言い直すために目を離さず、炉口の奥を見続けた。
榛名がライターを握り、指をこすった。
肩へ寄っていた流れの一部が、手元へ戻る。
「手にも戻りました。二つ、分かれてます」
「両方あり得るってことか」
「はい」
桐生さんは無理に詰めず、少しずつ角度を変えた。
俺には正面から見えなかった炉口の内側が、その動きで見えるようになる。
相手が桐生さんを追って、向きを変えたのだ。
「今、そっちから見えるか」
聞かれた。
「見えます。中まで」
「じゃ、そこにいろ」
桐生さんは俺の方へ引き寄せなかった。
俺が見える位置を残し、自分の方を動かしている。
ずっと追いつくので精一杯だった人が、俺の視界まで戦いへ入れていた。
炉口の奥で、色が濃くなる。
俺は声を出す。
「肩、前へ!」
桐生さんが横へ出る。
その先へ榛名が向きを変えようとしたが、炎は先に出ていた。
空の架台をかすめ、奥のコンクリートへ当たる。
桐生さんは熱の抜けた側へ一歩戻り、そこから距離を詰めた。
俺は、また獣を見そうになるのを我慢した。
今見ていてほしいと言われたのは、そちらではなかった。
***
榛名が空の台車を蹴った。
車輪が鳴り、桐生さんとの間へ入る。
桐生さんはそれを切らず、横へ回った。
「派手なの出しといて、止まるのかよ」
榛名が笑った。
「そいつ、勝手に噛みついてくれるわけじゃねえんだな」
「試すか」
「近づくなっつってんだろ!」
笑いが切れ、炉口がこちらを向いた。
俺はその奥を見る。
さっきまでと色が違う。薄くなったところへ、ライターから伝力が足されている。
直すためなのか、次の炎の準備なのか、まだ分からない。
「今、手から強くなってます。でも、撃つかどうかは」
「分かんねえなら、それでいい」
桐生さんが言った。
榛名は俺へ目を向けた。
「お前、口出すなよ。見学じゃなかったのか」
俺の制服が目に入っているらしい。
返事をしようとしたが、やめた。
何か言い返せば、その間、見るべきところを見なくなる。
炉口が回った。
桐生さんではなく、俺を向く。
俺は神代さんのいる道路を背中に置かないよう、敷地の端へ半歩移った。
背後は高いコンクリートの壁。少なくとも、今見える範囲では人はいない。
「神代さん、少し中へ寄ります。入口の右側」
「分かった。その壁より奥へ行かないで」
返事が来る。
俺は足元を確かめた。台車の車輪も、落ちた金具もない。
手元から肩へ、伝力が流れる。
炉口の奥が濃くなる。
その先へ、筋が伸びた。
右へ出たい。
でも、そちらは入口だ。
俺は左へ、短く動いた。
炎が、壁へ当たった。
乾いた熱が背中の横を抜ける。
避けたあとも立ち止まらず、元の場所から少しずれた位置へ戻る。
神代さんとの紙の練習で、戻る途中へ当てられたことを思い出した。
「撃った後、口の奥が薄くなりました!」
桐生さんは、その言葉の途中で距離を詰めた。
榛名が炉口を回す。
桐生さんは刃を上げかけ、そこで止まった。
獣の前脚も、半ばまで下りて止まる。
炎が来ると思った。
だが、まだ出ない。
榛名がライターを強く握り、手元の色を濃くする。
「まだ、外へは伸びてません!」
俺が言った。
桐生さんがさらに踏み込む。
榛名は焦ったように上体を引き、短く火を出した。
桐生さんの袖が、熱の縁をかすめた。
「桐生さん!」
「見てろ!」
刃が、炉口の下側へ入った。
獣の爪が、同じところへ重なる。
今度は縁だけではなく、丸い口の形そのものがひしゃげた。
橙色が閉じる。
榛名が肩を押さえ、後ろへ下がった。
肩には、血が出ていなかった。
刃が入ったのは、身体から離れた具象物の方だった。
それでも榛名は、その肩を何度も確かめている。
黒い欠片のようなものが地面へ落ち、途中で輪郭を失った。
桐生さんの背後の獣が、薄くなる。
「消えた」
俺が言うと、桐生さんは息を吐いた。
「出しっぱなしにする用じゃねえんだよ」
靴を一度踏み直す。
刃は、まだ手の中にあった。
大きな姿が消えても、握り方は変わらない。
榛名が、桐生さんの顔を見た。
今まで俺を見ていたときとは、目の細め方が違う。
「そこまで出せるなら、もっと割のいい仕事あるだろ」
「今の仕事が、それだ」
「ガキ連れて、俺を捕まえるのが?」
「お前、手が空いてねえぞ。話すなら、先に置け」
榛名はライターを胸へ寄せたまま、続けた。
「俺、仕事は持ってる。今のところが面倒なら、そっちの倍くらいは話つけてやるよ」
桐生さんは、わずかに首をかしげた。
「取り分で揉めて人焼いた奴の、金の話か」
「だから、あっちが悪いんだって言ってるだろうが」
「その倍ってやつ、どこから出すんだよ」
榛名の顔が歪む。
肩を動かしたが、そこに炉口はなかった。空いた場所を見て、またライターを握り直す。
俺は手元と、その先を見続けた。
「お前、一人なら、とっくに来てるんだろ」
榛名が、俺へ顎を向けた。
「そいつ、何ができんの。逃げて、喋ってるだけじゃねえか」
胸の辺りが冷えた。
見えているところから、目を逸らしたくなる。
それでも、ライターの火を見た。
榛名が俺を挑発する間、その指にも伝力は残っている。
「お前が見てねえところ、見てる」
桐生さんが言った。
「そりゃ、楽でいいな」
「楽かどうかは、俺が決める。で、手は」
また同じ言葉へ戻す。
榛名が置かない限り、話だけを進めるつもりはないらしかった。
俺は、桐生さんの背中を見なかった。
今、見たら、言われた言葉だけで頭がいっぱいになる。
相手が何を始めるか。そのために自分がここにいるのなら、そちらを確かめる方が先だった。
榛名の指が、ライターの角をなぞった。
手元へ寄った力が、肩の外側へ薄く伸びる。
まだ、円にはならない。
「桐生さん。肩の方へ、また薄いのが出てます」
「了解」
榛名の目が俺へ向いた。
嫌そうな顔だった。
逃げて喋っているだけの子供が、何を見ているか。少しずつ分かりかけたのかもしれない。
桐生さんの刃が、低い位置へ戻る。
大きな姿がなくても、次に動く足は準備されていた。
***
「まだ、終わってないですね」
俺が言うと、桐生さんは榛名を見たまま頷いた。
「道具、持ってるだろ」
ライターは残っていた。
榛名が指を動かす。小さな火は消えていたが、蓋は開いたままだった。
「手を空にしろ。そいつを地面へ置け」
桐生さんが言った。
「近づくな。これ、壊したら」
「壊さなくて済むうちに置けって言ってんだ」
榛名は、ライターを胸へ引いた。
ほかの荷物は捨てても、それは離さない。
使い込まれた金属の角が、丸く光っている。
何年も指が触れたところだけ、色が違って見えた。
「それ、大事なら」
俺は言いかけ、榛名に睨まれた。
「お前に何が分かる」
何も分からない。
どこで手に入れ、どう使ってきたのか。
俺の眼鏡を、ただの眼鏡だと言われたら嫌だろう。それと同じかもしれないと、一瞬だけ思った。
「分かりません。でも、それで人を撃ったのは見ました」
言うと、榛名の口元が引きつった。
「撃ったんじゃねえ。来るなって言ったろ」
「来る前に怪我した人もいます」
「あいつが金を――」
「牧瀬。そこまで」
桐生さんに止められた。
言い返すためにここへ来たわけではない。
俺は口を閉じ、ライターへ目を戻した。
神代さんが、入口側から声を掛けた。
「榛名さん。報酬については、相手側にも話を聞きます。けれど、今ここで放出を続ければ、さらに被害が出る」
「だから、帰らせろよ」
「このまま一人で帰すことはできません。火を止め、道具から手を離してください」
榛名は答えなかった。
奥の塞がった扉を見て、入口を見て、それから俺を見た。
肩の外側へ、薄い輪が生まれた。
俺は息を吸った。
炉口を、また作ろうとしている。
さっき壊れたから、もう出せないわけではない。
「肩、もう一度です」
桐生さんの足が動く。
榛名が、ライターをこちらへ向けた。
小さな火種。
肩へ向かう流れとは別に、手元へ強いものが寄る。
「手からも、来る!」
俺は声を上げた。
大きな炉口が消えた後も、元の火は残っていた。




