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球体世界の観測者 ~見えるだけの少年は、陰陽寮で世界の裏側を知る~  作者: 雅貴
第2章第6節

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第44話:火元がお手元とは限りません

「伏せろ!」


俺が手元と言い終えるより早く、桐生さんの声が飛んだ。

膝を折る。

頭の上を、熱が抜けた。


さっきとは違う。

ライターの火は、榛名の手の中で小さく揺れているだけだった。

炎はその上、肩の外側に浮いた黒い口から出ていた。


荷捌き場の壁へ、橙色が広がる。

短い音がし、壁際のビニールが縮んだ。


俺は息を吸いかけ、口を閉じた。

熱い。喉へ入れたくない空気が、そこにある。


「立てるか」


桐生さんが、俺を見ずに聞いた。


「はい」


「なら、表へ。神代さんの方」


俺は身体を低くしたまま、事務室側へ戻った。

神代さんが作業員を建物の内側へ誘導している。炎を見た人は自分で走っていたが、奥から何事かと出てくる人もいた。


「外へ出ないでください。裏の入口から、担当の人と一緒に!」


俺も声を上げた。

作業服の女性が、こっちは閉める、と叫ぶ。金属扉が引かれ、事務室からの視線が遮られた。

ようやく、榛名の方を見る。


肩の横に、炉の口があった。


黒い金属をひねったような縁。その中に、赤く焼けた面が見える。

煙突も支柱もない。榛名が身体を引くと、肩から少し離れたまま一緒に動いた。

現実の道具なら、あの重さをどう支えるのか考えるはずだった。

でも、それは道具の外へ、伝力で形を取っていた。


「発展だ」


桐生さんが言った。

俺はうなずいた。説明されなければ分からないほど、見た目の差が小さいものではなかった。


「ライターから出るって、さっき」


俺が言うと、桐生さんは刃を持ち直した。


「最初は、そこから出たな」


「じゃあ、俺が見たのは」


「外れてねえ。次も同じだって決めたのが、外れ」


その言い方で、ようやく何を間違えたか分かった。

練習で見たものに似ていた。実際に避けられた。

だから、次も同じものを見ればいいと思った。


榛名は、同じことを続けてくれる相手ではなかった。

俺が慣れたかどうかなんて、待ってくれない。


「次は肩を見ます」


「手も忘れんな。持ち替えたわけじゃねえからな」


俺は手と肩の間を見た。

両方を同じ細かさで見ようとすると、どちらも曖昧になる。

まず、つながりを確かめる。手元で強くなったものが、どこへ行くか。

そうしなければ、大きくなった出口へ目を奪われ、元のライターの動きを見なくなる。


「出る場所、変わりました」


「見りゃ分かる。次、口を見る」


桐生さんが横へ動く。

榛名の肩の炉口が、そちらを向いた。

ライターを握る指が縮む。


「来ます!」


炎が出た。

桐生さんは屋根の柱の陰へ入った。

熱の向こうへ、姿が見えなくなる。


俺は一歩出かけた。


「こっちだ、馬鹿!」


声は、柱の反対側からした。

桐生さんが低い位置へ移っている。

俺が見失って慌てた間も、向こうは動いていた。


榛名は追い撃ちをしなかった。

荷捌き場の奥へ走る。

肩の炉口は消えず、歩幅に合わせて上下した。


神代さんが携帯へ場所を伝えた。

煙が出たところへ、現地の責任者が消火器を持ってくる。

神代さんは、その人が榛名へ近づかない位置を示した。


「ここから先へは入らないで。壁際の火だけ、お願いします。消防への連絡も続けてください」


俺は、その横で息を整えた。

訓練で見えた筋。手元の伝力。

そこだけ分かれば避けられると思っていた。

その手元から離れた場所に、別の出口が作られた。


「牧瀬くん、怪我は?」


「大丈夫です。熱かっただけで」


「袖は見せて」


神代さんに言われ、腕を出した。

焦げた跡はない。息も、普通に吸える。

神代さんは俺の返事だけで済ませず顔を見てから、桐生さんへ視線を向けた。


事務室の扉が細く開いた。

中から顔を出した責任者が、神代さんへ声を掛ける。


「榛名って、あの榛名ですか。裏に、いたんですか」


「今、そちらへ戻らないでください。ほかに外へ出ている人は?」


「一人、荷物を……あ、向こうにいる。さっき奥にいた応援も、その人です」


責任者が指す先へ、作業員が手を上げた。

俺が窓から見た肘と上着は、榛名ではなかったらしい。

顔の見えない人へ勝手に名前をつけていたら、報告まで違っていた。


「榛名は、ここで仕事を?」


「昔、何度か。荷物を置いたままで、それを取りに来るって。でも今日、こっちの入口には」


声が途切れた。

神代さんは、見ていなかったことを責めなかった。


「分かりました。通った場所は後で確かめます。今は全員、内側の安全なところへ。荷物はそのままでいいです」


「でも、車の鍵が」


「取りに戻らないで。必要なら、担当の人へ場所を伝えてください」


責任者は頷き、扉を閉めた。

火の出る相手から逃げるときでも、鍵や荷物が気になる。

被害者の鞄を持った指を見たときと、同じだった。

俺たちが危ないと思ったことと、本人が今困っていることは、いつも同じではない。


「奥は、管理通路につながっているそうだ。出入口を確認してもらっている」


「逃がすと、次どこで撃つか分からねえ」


「分かっている。だから二人だけで奥へ入らない。道路へ出られる位置を知らせて」


榛名は、通路の入口へ届いていた。

桐生さんが一歩出ると、炉口をこちらへ向ける。


「来んなよ! そっちが来なきゃ、誰も怪我しねえんだ!」


その声の後ろで、古い扉が揺れた。

荷物を取りに来たらしい人が、内側から開けようとしている。

榛名の炉口は、扉のすぐ横を向いていた。


俺は考えるより先に声を出した。


「開けないで! 中にいてください!」


扉が止まる。

榛名がこちらを向いた。


「うるせえな、お前」


炉口の奥が明るくなる。

桐生さんが俺の前へ来た。


「下がるぞ。あいつの言うことじゃねえ。俺に合わせろ」


俺は一歩下がった。

榛名は、俺たちを退かせるだけの短い炎を放ち、その間に扉から離れた。

桐生さんは追いすぎず、神代さんへ通路の位置を伝えた。


神代さんが、責任者へ扉の内側の人を頼む。

向こうから返事があった。

扉が開かないことを確かめたところで、ようやく俺もその前から離れられた。


***


表の道へ回ると、榛名の背中が一度だけ見えた。

古い上着。右肩の外側の、黒い口。

建物の角で消える。


「道路へ出ました。角、右」


俺が伝えると、桐生さんがその場で神代さんへ位置を送った。

自分だけ走っていかなかった。


「どこまで見える」


「角まで。その先は、見えません」


「なら、そこまでだ」


桐生さんは歩幅を広げたが、走って角を飛び出したりはしなかった。

俺も、向こう側が見える位置まで移る。

路肩の水たまりに、街灯の白が映っていた。

榛名の姿はない。


代わりに、溶けた落ち葉の近くへ、薄い伝力が残っていた。

白い花の根を追ったときとは違う。目の前で動いている線ではない。

残った薄さが、壁へ近い方へ散っている。


薄い線は、排水溝のところで途切れた。

水のせいか、もともとそこまでしか残っていないのか、俺には分からない。

線の先を知っているつもりで目を動かすと、別の傷まで流れに見えそうだった。


「消えました。今は、続きが分かりません」


桐生さんが振り返る。


「何もねえのか、見えねえのか」


「見えない方です。ここからは、分からない」


「了解」


その返事の後、桐生さんは道路の左右を見た。

俺も眼鏡へ力を足さず、顔を上げる。

流れだけ追っていれば何とかなる、という時間はもう終わっていた。

見つけるには、普通に周りを見ることも必要だった。


「こっちに、残ってます。でも、それでどこへ行ったかまでは」


「足跡みてえには、ならねえか」


「ずっと続いてるわけじゃないです」


俺は薄いものから目を離し、道路の奥を見た。

軒下へ入った人が、買い物袋を持ち直している。

交差点の向こうで、自転車が曲がる。

そのさらに先、柵の切れ目で、橙色が動いた。


人の肩の高さ。

ただの看板かもしれない。


「奥、柵のところ。まだ、確かじゃないです」


桐生さんは俺を置いていかず、二人で見える位置へ進んだ。

黒い縁が見えた。

その下に、榛名の横顔がある。


「いました」


「よし。見つかったのと、追いついたのは別だ。焦んな」


焦るなと言う人の声が、少し楽しそうだった。

俺には、まだ楽しむ余裕はない。


神代さんから連絡が来た。

榛名の進む先は、川沿いへ抜ける古い管理用の敷地。工事の関係で、片側の出入口が閉められている。

周囲の担当者にも場所を伝えたので、道路側へ出す場合はすぐ知らせるように、という。


「神代さんは」


「こっちへ来る。お前の仕事、何だ」


「見えた位置と、周りにいる人を伝える」


「分かってんなら、そっちをやれ」


桐生さんが、道具を持ち直した。


入口の近くで、通行人が俺たちを見た。

煙の匂いに気づいたらしく、道路の向こうを指す。


「あっち、火事?」


「確認してもらっています。近づかないでください」


俺が言うと、その人は携帯を持ち上げかけた。

神代さんの姿は、まだ角の向こうだった。

隠形がなければ、見られる。あっても、見た後のことまでなくなるわけではない。


「こっちへ来ると危ないので、向こう側をお願いします」


場所を指して伝えると、ようやく歩いてくれた。

俺はそれを神代さんへ送り、現在地も添えた。


「全部、目を逸らせばいいんじゃないんですね」


小さく言うと、桐生さんが顔を向けた。


「危ないところに気づかなくなったら、入ってくるだろ」


「そうか」


「見せねえことだけが仕事じゃねえよ。あの人のやってるの、ちゃんと見とけ」


俺は振り返らず、携帯の画面を閉じた。

神代さんから、伝えた迂回路を使ってもらっている、と返事が来た。

俺たちの知らない人が、知らないまま危ない場所を離れる。

それは、何もなかったことにするのとは違っていた。


「榛名は、隠れる気がないんですかね」


「人をどかして逃げるのが、いつも通るんだろうな」


「見つからない方が、逃げやすそうなのに」


「こっちも、どかない相手は初めてじゃねえ。あいつがどこまで覚えてるかだ」


桐生さんは管理敷地の入口を見た。

俺も顔を上げる。

目立つものを出しているから雑魚なのではない。その力で周りを退かせてきた人なのだと、今なら少し分かった。


短い刃物だった。俺へ向かないよう、身体の外側へ下げている。

それを見てようやく、この人が次に何をするか、少し分かった。


***


榛名は、管理用の敷地へ入っていた。

入口に黄色い鎖があったが、その端が外されている。

中には、使っていない鋼材の架台と、空の台車。奥の扉は板で塞がれていた。

逃げ道だと思って入った先が、閉じていたらしい。


「クソ。前、開いてただろうが」


榛名の声がした。

肩の炉口が向きを変える。

火で扉を開けるつもりなのかと思ったが、炉口はすぐこちらへ戻った。


「そこで止まれ。今なら、まだ話できるぞ」


桐生さんが言った。


「さっきから話してんだろ。金を抜かれたって」


「それで、止めに入った奴まで焼いたのかよ」


「邪魔したからだろ!」


榛名の声が大きくなる。

俺は入口の鎖を越えず、道路側と中の両方が見える位置で止まった。

桐生さんも中へ深く入らない。


「お前、若えのに、そっちで飼われてんのか」


榛名が桐生さんへ顎を向けた。


「報告、連絡、時間守れって。そんなもんやってりゃ、偉くなった気がするか」


「別に」


「なら、何で追ってくる」


「人を焼いて逃げた奴が、目の前でまた撃ってるからだろ」


桐生さんの答えは短かった。

所属しているから偉い、とも、組織に従うのが正しい、とも言わなかった。


榛名が舌打ちをし、ライターの蓋を鳴らした。

小さな火は、まだ消えない。

その手元から肩へ、細い伝力が続いていた。


俺は、そこを見る。

初めて見たときには、手で強くなるところを追っていた。

今度は、その先があると知っている。

でも、何を変えると炎が出るかまでは、まだ分からない。


榛名がライターを振った。

手元の色が短く揺れる。

俺は声を出しかけたが、炉口の奥は変わらなかった。


「何だよ、びくびくして。見るだけか」


榛名が笑う。

俺が反応するか、試しているのかもしれない。

手を動かしたら必ず撃つわけではない。神代さんの紙も、準備したまま止まることがあった。


桐生さんが、道具の先を榛名へ向けた。


「話すなら、道具置け」


「置いたら、お前がそれで来るだろうが」


「撃つのやめたら、その先は聞く」


榛名は背後の扉を見た。

取っ手の前に、工事用の板がある。炎を向ければ燃えるかもしれないが、その先へ何があるかは見えない。

肩が迷うように回り、またこちらへ戻った。

人を退かせるときほど、動きが速くない。

逃げ先を選んでいる。その間にも、炉口は力を使っているように見えた。


俺はそのことを、分かった仕組みとしてではなく、見えた変化として伝えた。


「撃ってない間も、肩へ流れてます。手元の色は、さっきより濃いです」


「残り、分かるか」


「分かりません。量まで、ちゃんとは」


「いい。あと何発だとか言われるより、そっちが使える」


桐生さんは短く答えた。

分からないと言うたび、役に立っていない気がしていた。

でも、ここで俺が勝手な回数を言えば、桐生さんはその数を計算へ入れてしまう。

それは黙るより、ずっと怖いことだった。


「桐生さん。手から、肩へつながってます」


「どっちに出る」


「まだ、向きは。口が動いてから」


言っている途中に、炉口が横を向いた。

奥で、橙色が寄る。


「そっち!」


桐生さんは既に動いていた。

炎が空の架台の横を抜ける。地面の水が小さく跳ねた。

止まると、榛名の肩がわずかに下がる。

炉口の色が暗くなり、すぐにまた明るさを戻した。


「今、止まった後、いったん薄く」


俺が言うと、桐生さんが息を吐いた。


「いい。続き、見てろ」


攻撃を避けた後まで見る。

どこで準備し、いつ出し、出した後にどう変わるか。

器具を前にして覚えた順番が、ようやくここへつながりかけた。


だが、榛名は俺を見た。


「眼鏡。お前、何見てんだよ」


炉口が俺へ向く。

俺は先に飛び出さず、肩の先を見る。

薄い線が伸びた。


「来る――」


横へ出た。

炎は、俺の身体には当たらなかった。


その先で、自転車のブレーキが鳴った。


道路を抜けようとした配達の人が、片足を地面へついている。

俺は避けた場所から、顔を上げた。

入口の外は、まだ普通の道路だった。


「下がって! そこ、通らないでください!」


俺は手を振った。

配達の人は戸惑いながら、自転車を引いて戻る。

そこへ、神代さんが道路の向こうから声を掛けた。


「こちらへ。今、この入口は使えません」


見えた。避けた。

それでも、また誰かが射線に入った。

俺は、何度同じことをしそうになるのだろう。


「牧瀬」


桐生さんに呼ばれた。


「お前が悪い顔して止まると、そこの道が空く。そっち見ろ」


俺は道路へ向き直った。

立ち止まって落ち込んでいる場合ではなかった。

神代さんに合図し、通行人の方へ手を向ける。


中で、榛名が笑った。


「人がいると困るんだろ。だったら帰れよ」


桐生さんは答えなかった。

刃を持つ手を少し下げ、足を置き直す。

その踵から、腰、腕へ。

今までと違う濃さで、伝力が集まり始めた。


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