第44話:火元がお手元とは限りません
「伏せろ!」
俺が手元と言い終えるより早く、桐生さんの声が飛んだ。
膝を折る。
頭の上を、熱が抜けた。
さっきとは違う。
ライターの火は、榛名の手の中で小さく揺れているだけだった。
炎はその上、肩の外側に浮いた黒い口から出ていた。
荷捌き場の壁へ、橙色が広がる。
短い音がし、壁際のビニールが縮んだ。
俺は息を吸いかけ、口を閉じた。
熱い。喉へ入れたくない空気が、そこにある。
「立てるか」
桐生さんが、俺を見ずに聞いた。
「はい」
「なら、表へ。神代さんの方」
俺は身体を低くしたまま、事務室側へ戻った。
神代さんが作業員を建物の内側へ誘導している。炎を見た人は自分で走っていたが、奥から何事かと出てくる人もいた。
「外へ出ないでください。裏の入口から、担当の人と一緒に!」
俺も声を上げた。
作業服の女性が、こっちは閉める、と叫ぶ。金属扉が引かれ、事務室からの視線が遮られた。
ようやく、榛名の方を見る。
肩の横に、炉の口があった。
黒い金属をひねったような縁。その中に、赤く焼けた面が見える。
煙突も支柱もない。榛名が身体を引くと、肩から少し離れたまま一緒に動いた。
現実の道具なら、あの重さをどう支えるのか考えるはずだった。
でも、それは道具の外へ、伝力で形を取っていた。
「発展だ」
桐生さんが言った。
俺はうなずいた。説明されなければ分からないほど、見た目の差が小さいものではなかった。
「ライターから出るって、さっき」
俺が言うと、桐生さんは刃を持ち直した。
「最初は、そこから出たな」
「じゃあ、俺が見たのは」
「外れてねえ。次も同じだって決めたのが、外れ」
その言い方で、ようやく何を間違えたか分かった。
練習で見たものに似ていた。実際に避けられた。
だから、次も同じものを見ればいいと思った。
榛名は、同じことを続けてくれる相手ではなかった。
俺が慣れたかどうかなんて、待ってくれない。
「次は肩を見ます」
「手も忘れんな。持ち替えたわけじゃねえからな」
俺は手と肩の間を見た。
両方を同じ細かさで見ようとすると、どちらも曖昧になる。
まず、つながりを確かめる。手元で強くなったものが、どこへ行くか。
そうしなければ、大きくなった出口へ目を奪われ、元のライターの動きを見なくなる。
「出る場所、変わりました」
「見りゃ分かる。次、口を見る」
桐生さんが横へ動く。
榛名の肩の炉口が、そちらを向いた。
ライターを握る指が縮む。
「来ます!」
炎が出た。
桐生さんは屋根の柱の陰へ入った。
熱の向こうへ、姿が見えなくなる。
俺は一歩出かけた。
「こっちだ、馬鹿!」
声は、柱の反対側からした。
桐生さんが低い位置へ移っている。
俺が見失って慌てた間も、向こうは動いていた。
榛名は追い撃ちをしなかった。
荷捌き場の奥へ走る。
肩の炉口は消えず、歩幅に合わせて上下した。
神代さんが携帯へ場所を伝えた。
煙が出たところへ、現地の責任者が消火器を持ってくる。
神代さんは、その人が榛名へ近づかない位置を示した。
「ここから先へは入らないで。壁際の火だけ、お願いします。消防への連絡も続けてください」
俺は、その横で息を整えた。
訓練で見えた筋。手元の伝力。
そこだけ分かれば避けられると思っていた。
その手元から離れた場所に、別の出口が作られた。
「牧瀬くん、怪我は?」
「大丈夫です。熱かっただけで」
「袖は見せて」
神代さんに言われ、腕を出した。
焦げた跡はない。息も、普通に吸える。
神代さんは俺の返事だけで済ませず顔を見てから、桐生さんへ視線を向けた。
事務室の扉が細く開いた。
中から顔を出した責任者が、神代さんへ声を掛ける。
「榛名って、あの榛名ですか。裏に、いたんですか」
「今、そちらへ戻らないでください。ほかに外へ出ている人は?」
「一人、荷物を……あ、向こうにいる。さっき奥にいた応援も、その人です」
責任者が指す先へ、作業員が手を上げた。
俺が窓から見た肘と上着は、榛名ではなかったらしい。
顔の見えない人へ勝手に名前をつけていたら、報告まで違っていた。
「榛名は、ここで仕事を?」
「昔、何度か。荷物を置いたままで、それを取りに来るって。でも今日、こっちの入口には」
声が途切れた。
神代さんは、見ていなかったことを責めなかった。
「分かりました。通った場所は後で確かめます。今は全員、内側の安全なところへ。荷物はそのままでいいです」
「でも、車の鍵が」
「取りに戻らないで。必要なら、担当の人へ場所を伝えてください」
責任者は頷き、扉を閉めた。
火の出る相手から逃げるときでも、鍵や荷物が気になる。
被害者の鞄を持った指を見たときと、同じだった。
俺たちが危ないと思ったことと、本人が今困っていることは、いつも同じではない。
「奥は、管理通路につながっているそうだ。出入口を確認してもらっている」
「逃がすと、次どこで撃つか分からねえ」
「分かっている。だから二人だけで奥へ入らない。道路へ出られる位置を知らせて」
榛名は、通路の入口へ届いていた。
桐生さんが一歩出ると、炉口をこちらへ向ける。
「来んなよ! そっちが来なきゃ、誰も怪我しねえんだ!」
その声の後ろで、古い扉が揺れた。
荷物を取りに来たらしい人が、内側から開けようとしている。
榛名の炉口は、扉のすぐ横を向いていた。
俺は考えるより先に声を出した。
「開けないで! 中にいてください!」
扉が止まる。
榛名がこちらを向いた。
「うるせえな、お前」
炉口の奥が明るくなる。
桐生さんが俺の前へ来た。
「下がるぞ。あいつの言うことじゃねえ。俺に合わせろ」
俺は一歩下がった。
榛名は、俺たちを退かせるだけの短い炎を放ち、その間に扉から離れた。
桐生さんは追いすぎず、神代さんへ通路の位置を伝えた。
神代さんが、責任者へ扉の内側の人を頼む。
向こうから返事があった。
扉が開かないことを確かめたところで、ようやく俺もその前から離れられた。
***
表の道へ回ると、榛名の背中が一度だけ見えた。
古い上着。右肩の外側の、黒い口。
建物の角で消える。
「道路へ出ました。角、右」
俺が伝えると、桐生さんがその場で神代さんへ位置を送った。
自分だけ走っていかなかった。
「どこまで見える」
「角まで。その先は、見えません」
「なら、そこまでだ」
桐生さんは歩幅を広げたが、走って角を飛び出したりはしなかった。
俺も、向こう側が見える位置まで移る。
路肩の水たまりに、街灯の白が映っていた。
榛名の姿はない。
代わりに、溶けた落ち葉の近くへ、薄い伝力が残っていた。
白い花の根を追ったときとは違う。目の前で動いている線ではない。
残った薄さが、壁へ近い方へ散っている。
薄い線は、排水溝のところで途切れた。
水のせいか、もともとそこまでしか残っていないのか、俺には分からない。
線の先を知っているつもりで目を動かすと、別の傷まで流れに見えそうだった。
「消えました。今は、続きが分かりません」
桐生さんが振り返る。
「何もねえのか、見えねえのか」
「見えない方です。ここからは、分からない」
「了解」
その返事の後、桐生さんは道路の左右を見た。
俺も眼鏡へ力を足さず、顔を上げる。
流れだけ追っていれば何とかなる、という時間はもう終わっていた。
見つけるには、普通に周りを見ることも必要だった。
「こっちに、残ってます。でも、それでどこへ行ったかまでは」
「足跡みてえには、ならねえか」
「ずっと続いてるわけじゃないです」
俺は薄いものから目を離し、道路の奥を見た。
軒下へ入った人が、買い物袋を持ち直している。
交差点の向こうで、自転車が曲がる。
そのさらに先、柵の切れ目で、橙色が動いた。
人の肩の高さ。
ただの看板かもしれない。
「奥、柵のところ。まだ、確かじゃないです」
桐生さんは俺を置いていかず、二人で見える位置へ進んだ。
黒い縁が見えた。
その下に、榛名の横顔がある。
「いました」
「よし。見つかったのと、追いついたのは別だ。焦んな」
焦るなと言う人の声が、少し楽しそうだった。
俺には、まだ楽しむ余裕はない。
神代さんから連絡が来た。
榛名の進む先は、川沿いへ抜ける古い管理用の敷地。工事の関係で、片側の出入口が閉められている。
周囲の担当者にも場所を伝えたので、道路側へ出す場合はすぐ知らせるように、という。
「神代さんは」
「こっちへ来る。お前の仕事、何だ」
「見えた位置と、周りにいる人を伝える」
「分かってんなら、そっちをやれ」
桐生さんが、道具を持ち直した。
入口の近くで、通行人が俺たちを見た。
煙の匂いに気づいたらしく、道路の向こうを指す。
「あっち、火事?」
「確認してもらっています。近づかないでください」
俺が言うと、その人は携帯を持ち上げかけた。
神代さんの姿は、まだ角の向こうだった。
隠形がなければ、見られる。あっても、見た後のことまでなくなるわけではない。
「こっちへ来ると危ないので、向こう側をお願いします」
場所を指して伝えると、ようやく歩いてくれた。
俺はそれを神代さんへ送り、現在地も添えた。
「全部、目を逸らせばいいんじゃないんですね」
小さく言うと、桐生さんが顔を向けた。
「危ないところに気づかなくなったら、入ってくるだろ」
「そうか」
「見せねえことだけが仕事じゃねえよ。あの人のやってるの、ちゃんと見とけ」
俺は振り返らず、携帯の画面を閉じた。
神代さんから、伝えた迂回路を使ってもらっている、と返事が来た。
俺たちの知らない人が、知らないまま危ない場所を離れる。
それは、何もなかったことにするのとは違っていた。
「榛名は、隠れる気がないんですかね」
「人をどかして逃げるのが、いつも通るんだろうな」
「見つからない方が、逃げやすそうなのに」
「こっちも、どかない相手は初めてじゃねえ。あいつがどこまで覚えてるかだ」
桐生さんは管理敷地の入口を見た。
俺も顔を上げる。
目立つものを出しているから雑魚なのではない。その力で周りを退かせてきた人なのだと、今なら少し分かった。
短い刃物だった。俺へ向かないよう、身体の外側へ下げている。
それを見てようやく、この人が次に何をするか、少し分かった。
***
榛名は、管理用の敷地へ入っていた。
入口に黄色い鎖があったが、その端が外されている。
中には、使っていない鋼材の架台と、空の台車。奥の扉は板で塞がれていた。
逃げ道だと思って入った先が、閉じていたらしい。
「クソ。前、開いてただろうが」
榛名の声がした。
肩の炉口が向きを変える。
火で扉を開けるつもりなのかと思ったが、炉口はすぐこちらへ戻った。
「そこで止まれ。今なら、まだ話できるぞ」
桐生さんが言った。
「さっきから話してんだろ。金を抜かれたって」
「それで、止めに入った奴まで焼いたのかよ」
「邪魔したからだろ!」
榛名の声が大きくなる。
俺は入口の鎖を越えず、道路側と中の両方が見える位置で止まった。
桐生さんも中へ深く入らない。
「お前、若えのに、そっちで飼われてんのか」
榛名が桐生さんへ顎を向けた。
「報告、連絡、時間守れって。そんなもんやってりゃ、偉くなった気がするか」
「別に」
「なら、何で追ってくる」
「人を焼いて逃げた奴が、目の前でまた撃ってるからだろ」
桐生さんの答えは短かった。
所属しているから偉い、とも、組織に従うのが正しい、とも言わなかった。
榛名が舌打ちをし、ライターの蓋を鳴らした。
小さな火は、まだ消えない。
その手元から肩へ、細い伝力が続いていた。
俺は、そこを見る。
初めて見たときには、手で強くなるところを追っていた。
今度は、その先があると知っている。
でも、何を変えると炎が出るかまでは、まだ分からない。
榛名がライターを振った。
手元の色が短く揺れる。
俺は声を出しかけたが、炉口の奥は変わらなかった。
「何だよ、びくびくして。見るだけか」
榛名が笑う。
俺が反応するか、試しているのかもしれない。
手を動かしたら必ず撃つわけではない。神代さんの紙も、準備したまま止まることがあった。
桐生さんが、道具の先を榛名へ向けた。
「話すなら、道具置け」
「置いたら、お前がそれで来るだろうが」
「撃つのやめたら、その先は聞く」
榛名は背後の扉を見た。
取っ手の前に、工事用の板がある。炎を向ければ燃えるかもしれないが、その先へ何があるかは見えない。
肩が迷うように回り、またこちらへ戻った。
人を退かせるときほど、動きが速くない。
逃げ先を選んでいる。その間にも、炉口は力を使っているように見えた。
俺はそのことを、分かった仕組みとしてではなく、見えた変化として伝えた。
「撃ってない間も、肩へ流れてます。手元の色は、さっきより濃いです」
「残り、分かるか」
「分かりません。量まで、ちゃんとは」
「いい。あと何発だとか言われるより、そっちが使える」
桐生さんは短く答えた。
分からないと言うたび、役に立っていない気がしていた。
でも、ここで俺が勝手な回数を言えば、桐生さんはその数を計算へ入れてしまう。
それは黙るより、ずっと怖いことだった。
「桐生さん。手から、肩へつながってます」
「どっちに出る」
「まだ、向きは。口が動いてから」
言っている途中に、炉口が横を向いた。
奥で、橙色が寄る。
「そっち!」
桐生さんは既に動いていた。
炎が空の架台の横を抜ける。地面の水が小さく跳ねた。
止まると、榛名の肩がわずかに下がる。
炉口の色が暗くなり、すぐにまた明るさを戻した。
「今、止まった後、いったん薄く」
俺が言うと、桐生さんが息を吐いた。
「いい。続き、見てろ」
攻撃を避けた後まで見る。
どこで準備し、いつ出し、出した後にどう変わるか。
器具を前にして覚えた順番が、ようやくここへつながりかけた。
だが、榛名は俺を見た。
「眼鏡。お前、何見てんだよ」
炉口が俺へ向く。
俺は先に飛び出さず、肩の先を見る。
薄い線が伸びた。
「来る――」
横へ出た。
炎は、俺の身体には当たらなかった。
その先で、自転車のブレーキが鳴った。
道路を抜けようとした配達の人が、片足を地面へついている。
俺は避けた場所から、顔を上げた。
入口の外は、まだ普通の道路だった。
「下がって! そこ、通らないでください!」
俺は手を振った。
配達の人は戸惑いながら、自転車を引いて戻る。
そこへ、神代さんが道路の向こうから声を掛けた。
「こちらへ。今、この入口は使えません」
見えた。避けた。
それでも、また誰かが射線に入った。
俺は、何度同じことをしそうになるのだろう。
「牧瀬」
桐生さんに呼ばれた。
「お前が悪い顔して止まると、そこの道が空く。そっち見ろ」
俺は道路へ向き直った。
立ち止まって落ち込んでいる場合ではなかった。
神代さんに合図し、通行人の方へ手を向ける。
中で、榛名が笑った。
「人がいると困るんだろ。だったら帰れよ」
桐生さんは答えなかった。
刃を持つ手を少し下げ、足を置き直す。
その踵から、腰、腕へ。
今までと違う濃さで、伝力が集まり始めた。




