第43話:禁煙のお願いで禁煙できたら世話わない
「火を出す人間ですか」
黒江班長の机へ置かれた写真を見て、俺は聞き返した。
壁が黒い。窓の端が溶け、机の上にあったらしい物が、何だったか分からない塊になっている。
「現場の目撃と、残っていた伝力から、そう判断している」
「干衝体じゃなくて」
「人間だ。名前も分かっている。榛名岳志、二十九歳」
班長が、別の写真を重ねた。
無精髭の男だった。少し長い髪が目へかかり、口元が斜めになっている。写真を撮られていることが不満そうな顔だった。
「陰陽寮の人、だったんですか」
「所属したことはない。ただ、以前に相談窓口を利用している。案内も受けたが、入るとは言わなかった」
「入らないまま、使えるんですね」
「使えるだろ」
桐生さんが、隣の椅子を引いた。
「お前だって、入る前から見えてただろうが」
俺は頷いた。
言われてみれば、そのとおりだった。陰陽寮に教わったことが増えるほど、外にも同じ力を扱う人がいることを忘れそうになる。
「無所属だから追っているわけじゃない。そこは、混同しないように」
黒江班長の指が、焼けた壁の写真へ戻った。
「報酬の配分をめぐって口論になり、仲介人へ能力を使った。その人は入院している。止めに入った人にも怪我が出た。榛名は現場から逃走している」
俺は写真を見直した。
壁際に、椅子の脚が一本残っている。
あそこへ座っていた人がいるのだ。
「今も、近くに?」
「古い知り合いのところへ、金と荷物を取りに来る可能性がある。こちらの担当区域だ」
黒江班長は、町の図を開いた。
駅から少し離れた、運送会社や小さな倉庫の並ぶ一角。夕方になると、荷物を運ぶ人と、帰宅する人の動線が重なる。
「桐生と神代が現地を確認する。牧瀬には、外から見える範囲で伝力の確認を頼みたい。相手のいる建物へ入る役目ではない」
「はい」
「炎の出し方や範囲は、まだ分かっていない。資料で知ったことと、現場で確かめたことは分けてくれ」
俺は戸田さんの工房を思い出した。
色が違うと見えたことと、故障の原因が分かったことは別。今度はその区別を、動く人間を前にしてやる。
「見つけても、俺だけで近づかない」
「そう。君がいる分、桐生も君を見る必要がある。それを忘れないこと」
桐生さんが、写真の男を指で叩いた。
「ライター、持ってるそうだな」
「目撃はある。道具かどうかまでは、確定していない」
「了解。まあ、火が出たら分かる」
黒江班長は、桐生さんを見る。
「出させないで済むなら、その方がいい」
「分かってますよ、黒江班長」
分かっている人の返事だった。
少なくとも、言い返しながら出口へ向かう顔は、面倒な書類から逃げるときのものではなかった。
机を離れると、ひかりさんが俺の鞄へ目を向けた。
「人間相手の仕事、緊張してる?」
「顔、出てますか」
「写真、ずっと見てたから」
俺は鞄へ入れた写真の写しを確かめた。
名前と顔がある。それだけで、干衝体の特徴を聞いたときとは違う重さがあった。
「話したら、やめてくれるかもしれないって、思ってます」
「それならいいよね。でも、話してる間も、手は動くよ」
ひかりさんは俺の眼鏡を見た。
「練習で、神代さんと喋ってるうちに、紙を見なくなったことあったでしょ」
「ありました」
「聞くことと、全部信じること、分けて。分かんなかったら桐生さんに言えばいいから」
俺は頷いた。
ひかりさんは自分の予定表へ戻る。今日は別の確認が入っているらしく、俺たちとは違う場所に名前があった。
いつもいる人が、いつも隣にいるわけではない。
「ひかりさんなら、火を出す人は」
「さっき桐生さんに聞いた?」
「まだ」
「じゃ、そっちに。今日一緒に動く人と話しなよ」
少し笑って言われた。
俺は、はい、と答え、廊下の先へ声を掛けた。
***
駅を出ると、空が薄く曇っていた。
風に海に近い町の匂いが混じる。幹線道路を一本越えた途端、人の服が、買い物帰りの上着から作業着へ変わった。
軽トラックが歩道へ鼻先を出し、誘導する人が片手を上げる。
道の端には濡れた落ち葉が張りついていた。
桐生さんが俺の前を歩く。
神代さんは少し後ろで連絡を取っていた。
「今日は、桐生さんと組むの、久しぶりな気がします」
「別の班と遊んでたからな」
「仕事です」
「眼鏡の仕事、だっけか」
ひかりさんと同じことを言われた。
どこまで話が回っているのか分からない。
「俺も、座ってました」
「椅子まで仕事してりゃ、豪華だな」
俺は返すのをやめ、歩道の先を見た。
フェンスの向こうで荷台が開き、段ボール箱が順番に下ろされている。人の肩にも、使い込んだ工具にも、薄い伝力が残るものがあった。
どれか一つを見つければ犯人という話ではない。
桐生さんが足を緩めた。
俺が周りを見て、歩く速さを落としていたからだ。
「何かある?」
「薄いものは、いろいろ。工具とか、作業してる人の近くに」
「あいつのだって分かるか」
「まだ。本人を見てもいないので」
「じゃ、今から決めんな。その辺の作業員を全部疑ってたら進まねえ」
歩道の横で、男の人が軍手を外した。
工具袋の縁に淡いものがある。でも、ライターを持った写真の男とは顔も服も違う。
俺は、そこから視線を戻した。
「伝力がある人って、もっと少ないと思ってました」
「濃い薄いはあるだろうが、いるところにはいる。入ってるから見える、入ってねえから見えねえ、じゃねえんだよ」
「桐生さんは、どうやって入ったんですか」
「今日の話か、それ」
俺は口を閉じかけた。
桐生さんは小さく鼻で笑う。
「帰り。覚えてりゃな」
断られたのか、後にしてもらえたのか。
まだ分からなかったが、今日聞く必要のあることがほかにあるのは確かだった。
「火を出す人、相手にしたことありますか」
「ある」
「じゃあ、やっぱり手元とか」
「相手次第」
短かった。
俺が黙ると、桐生さんは横目だけ寄こした。
「手から出すとは聞いてねえ。目撃がライターってだけだ。そこを決めんな」
「はい」
「あと、火が見えたら、出てる先も見ろ」
「先?」
「お前が避けた先じゃない。火が行く先。人間相手だと、向こうもこっちを見て撃つ」
神代さんとの練習が浮かんだ。
俺が先に横へ動くと、紙はその先へ向いた。
「桐生さんと神代さんだけで行った方が、動きやすいんじゃないですか」
思っていたことが口へ出た。
桐生さんは足を止めず、俺を見る。
「お前が見つけられるものがあるから、連れてきてんだろ」
「でも、俺がいたら、見る場所が増えるって」
「増える。だから、どこにいるか言え。勝手に走って見えなくなるな」
神代さんが、こちらへ歩幅を合わせた。
「人が増えれば、できることも、気をつけることも増える。今日は君に、一人で危険なところへ入ってもらう予定はないよ」
「分かりました」
「知らないことが多い相手だ。見つけた後で、やることを変える必要もある。そこは、こちらで判断する」
俺はうなずいた。
黒江班長から言われたことを、もう一度、現場へ行く人の口から聞いた。
役目があることと、一人で何でもしなければいけないことは、違うらしい。
桐生さんが、歩道の車止めを避けた。
俺が後ろへ続くと、肩越しに言う。
「お前、何かあったらすぐ、いない方がよかったって顔すんなよ」
「まだ、何も言ってません」
「今、似たようなこと聞いただろうが」
返せなかった。
神代さんは笑わず、俺の方を一度見ただけだった。否定して安心させる代わりに、次にどう動くかを聞いてくれている。
「見えたことは言います。見えないときも、言います」
「それでいい」
桐生さんは前へ向き直った。
今のところ、その二つを同じくらい頼まれているのだと思った。
「避けたから終わり、じゃない」
「そう。よくできました」
言い方は褒めていなかったが、内容まで否定されたわけではなさそうだった。
神代さんが通話を終えた。
「表の道路は、一般の担当者が見てくれている。私たちは奥の通りを確認する。人がいたら、まずこちらから連絡して」
「榛名がいたら?」
「声を掛ける前に位置を共有。逃げる道も、近くにいる人も。確保できても、引き渡しまでが対応だからね」
桐生さんが、はいはいと手を上げた。
神代さんは、それでは返事が足りないと言うように一度だけ目を向ける。
「分かってます」
今度の返事は、俺にも聞き取れた。
***
榛名が来るかもしれないという建物は、古い二階建てだった。
表の窓に、運送と保管、と書いてある。看板の端が日に焼け、下の電話番号だけ色が濃い。
敷地の奥には屋根付きの荷捌き場があった。
一階の事務室では、白い蛍光灯の下に人の頭が見える。
俺たちは、隣の自動販売機の手前で止まった。
裏へ荷物を運ぶ台車が来たので、桐生さんが俺の肩へ指を当てた。
俺も道を空ける。
車輪の一つが段差へ引っかかり、運んでいた人が小さく舌打ちをした。
「手、貸しましょうか」
俺が言いかけると、その人は、平気、と手を上げた。
桐生さんは台車が通り抜けるまで待ち、敷地の地面を見た。
「こういうの、覚えとけ」
「段差ですか」
「慌てて後ろへ下がったとき、足が止まるところ」
何でもない場所に見えた。
舗装を直した境目が、少し盛り上がっているだけだ。
でも、壁へ突っ込みかけた莉緒の靴を思い出すと、その少しが急に大きく見えた。
俺は踵を置く場所をずらした。
強いものを探して遠くを見ると、こういうものが抜ける。
今日は誰かが教えてくれた。次に同じ段差があったとき、自分で気づけるかは別だった。
桐生さんが、道路の向こうを見る。
人、自転車、荷物を積んだ車。
犯人がまだ見つかっていない間にも、あの人は次に動く場所を探していた。
神代さんが事務室へ入り、責任者へ話をしている。
俺と桐生さんは、道路側から見える入口と窓を確かめた。
「見えるか」
「事務室に二人。奥は、壁で」
「じゃ、分かるところまで」
俺は眼鏡へ力を通した。
自販機の灯りを背景へ置き、窓の内側に注意を絞る。
人の伝力は、そこにいた。強くない。俺の方へ何かを広げているようにも見えない。
その奥で、戸が開いた。
誰かが事務室の人へ手を上げる。
外から見えたのは、肘と、上着の裾だけだった。
「もう一人、動きました。顔は見えてないです」
桐生さんが足を止める。
見えたものから先へ、勝手に話を足さない。
窓へ、別の車が映った。
反射の中で人影が動き、俺は視線を上げた。
建物の中ではなく、道路の反対側を歩いている人だった。
「今のは、外の映り込みです」
「聞いてねえけど、了解」
桐生さんが返す。
言わなければ、自分だけ分かっていればいいことかもしれない。
でも俺が急に顔を向けたら、桐生さんは何か見つけたと思う。
短く言えば、それで次の判断から外してもらえる。
仕事で何を伝えるかは、相手といるだけで少しずつ変わるらしかった。
神代さんが事務室から出てきた。
後ろの人が、携帯を持って何かを話している。
「榛名さんは、昨日、私物を引き取る連絡をしているそうだ。今日はまだ見ていないと言っている」
「奥に、誰かいます」
俺が伝えると、神代さんはすぐ振り返った。
事務室の人へ尋ねる。
「荷物、運んでもらってる人です。今日だけ、応援で」
窓から声がした。
顔を出した人は俺たちを見て、困ったように続けた。
「勝手に帰られると、荷台の確認が」
そのとき、裏の金属扉が鳴った。
桐生さんが、俺へ手を出した。
前へ出るな、という合図だった。
俺は建物の角へ目を向けた。
上着の男が出てくる。
写真の男だった。
実物は、写真よりも痩せて見えた。
片手に小さなバッグを持ち、もう片方は上着のポケットに入れている。
男は神代さんを見た。それから、俺の制服へ視線を移す。
「何だよ。見学か」
「榛名岳志さんですね」
神代さんが名前を呼ぶ。
男は答えず、桐生さんを見た。
「こいつも高校生?」
「違えよ。人の顔見る余裕があるなら、手ぇ出せ」
桐生さんの口調が変わった。
榛名は片頬を上げ、バッグを持つ手へ力を入れた。
「先に話くらい聞けよ。あっちが金を抜いたんだ。俺だけ悪いみたいに」
「その話は聞きます。怪我をした人がいる。まず、道具から手を離してください」
神代さんが言った。
榛名はポケットへ入れたままの手を、少し動かす。
「ライターも持てねえのか。うるせえな」
「持っていることだけで言っているんじゃありません」
事務室の人が扉へ出かけた。
神代さんが片手を向け、下がるように伝える。
榛名の視線が、その動きへ向いた。
俺は手元を見た。
ポケットの中で、伝力が寄る。
「桐生さん、手に」
蓋の開く音がした。
榛名がライターを出す。
小さな火が灯った。その先に、薄い線が伸びる。
見えた。
俺は右へ一歩出た。
火が、さっきまで胸のあった場所を抜けた。
熱い空気が制服の袖を撫でる。
「下がれ!」
桐生さんの声。
俺は横へ出た足を戻さず、そのまま後ろへ下がった。
炎は長く続かず、空中で薄くなった。地面に落ちた枯れ葉の端だけが黒くなっていた。
心臓が速い。
避けた。
練習と同じではない。本当に熱かった。
「今の、見えたのか」
桐生さんが聞いた。
「はい。先に、筋が」
「分かった。で、後ろ」
振り返る。
俺が右へ出た先の歩道に、荷物を持った作業員がいた。立ち止まり、何が起きたか分からない顔でこちらを見ている。
俺は避けた。でも、その人はまだ同じ場所にいた。
「離れてください!」
声を出したときには、桐生さんが榛名との間へ入っていた。
「子供を撃っておいて、話聞けかよ」
「当たってねえだろうが!」
榛名が言い返す。
バッグが地面へ落ちた。
ライターを持った手は、閉じない。
神代さんが作業員へ下がるよう声を掛け、携帯へ短く場所を伝えた。
俺も、自分の後ろを確かめる。
見えた。動けた。
その二つで喜ぶには、まだ周りに人が多すぎた。
榛名が荷捌き場へ足を引く。
桐生さんは追わず、事務室の扉から離れる方へ、身体の向きを変えた。
「牧瀬。俺の後ろへ入るな。見えるところにいろ」
「でも」
「見えなくなったら言え。追って埋めんな」
俺は頷き、フェンス沿いへ動いた。
路地で壁を通路だと思ったときと違う。今日は見えるものが嘘なのではない。見えたことの先へ、自分で勝手な答えを置きそうになる。
榛名の手へ、また伝力が集まった。
今度はさっきより濃い。
俺は肩を固めかけ、膝へ力を戻した。
「もう一度、来ます」
「どこから」
桐生さんに聞かれ、俺はライターを指した。
「手の――」
榛名の肩の横で、何かが開いた。
黒い縁。
その奥に、橙色の光。
手元にある小さな火よりも高い場所で、空気が熱に揺れた。




