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球体世界の観測者 ~見えるだけの少年は、陰陽寮で世界の裏側を知る~  作者: 雅貴
第2章第6節

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第43話:禁煙のお願いで禁煙できたら世話わない

「火を出す人間ですか」


黒江班長の机へ置かれた写真を見て、俺は聞き返した。

壁が黒い。窓の端が溶け、机の上にあったらしい物が、何だったか分からない塊になっている。


「現場の目撃と、残っていた伝力から、そう判断している」


「干衝体じゃなくて」


「人間だ。名前も分かっている。榛名岳志、二十九歳」


班長が、別の写真を重ねた。

無精髭の男だった。少し長い髪が目へかかり、口元が斜めになっている。写真を撮られていることが不満そうな顔だった。


「陰陽寮の人、だったんですか」


「所属したことはない。ただ、以前に相談窓口を利用している。案内も受けたが、入るとは言わなかった」


「入らないまま、使えるんですね」


「使えるだろ」


桐生さんが、隣の椅子を引いた。


「お前だって、入る前から見えてただろうが」


俺は頷いた。

言われてみれば、そのとおりだった。陰陽寮に教わったことが増えるほど、外にも同じ力を扱う人がいることを忘れそうになる。


「無所属だから追っているわけじゃない。そこは、混同しないように」


黒江班長の指が、焼けた壁の写真へ戻った。


「報酬の配分をめぐって口論になり、仲介人へ能力を使った。その人は入院している。止めに入った人にも怪我が出た。榛名は現場から逃走している」


俺は写真を見直した。

壁際に、椅子の脚が一本残っている。

あそこへ座っていた人がいるのだ。


「今も、近くに?」


「古い知り合いのところへ、金と荷物を取りに来る可能性がある。こちらの担当区域だ」


黒江班長は、町の図を開いた。

駅から少し離れた、運送会社や小さな倉庫の並ぶ一角。夕方になると、荷物を運ぶ人と、帰宅する人の動線が重なる。


「桐生と神代が現地を確認する。牧瀬には、外から見える範囲で伝力の確認を頼みたい。相手のいる建物へ入る役目ではない」


「はい」


「炎の出し方や範囲は、まだ分かっていない。資料で知ったことと、現場で確かめたことは分けてくれ」


俺は戸田さんの工房を思い出した。

色が違うと見えたことと、故障の原因が分かったことは別。今度はその区別を、動く人間を前にしてやる。


「見つけても、俺だけで近づかない」


「そう。君がいる分、桐生も君を見る必要がある。それを忘れないこと」


桐生さんが、写真の男を指で叩いた。


「ライター、持ってるそうだな」


「目撃はある。道具かどうかまでは、確定していない」


「了解。まあ、火が出たら分かる」


黒江班長は、桐生さんを見る。


「出させないで済むなら、その方がいい」


「分かってますよ、黒江班長」


分かっている人の返事だった。

少なくとも、言い返しながら出口へ向かう顔は、面倒な書類から逃げるときのものではなかった。


机を離れると、ひかりさんが俺の鞄へ目を向けた。


「人間相手の仕事、緊張してる?」


「顔、出てますか」


「写真、ずっと見てたから」


俺は鞄へ入れた写真の写しを確かめた。

名前と顔がある。それだけで、干衝体の特徴を聞いたときとは違う重さがあった。


「話したら、やめてくれるかもしれないって、思ってます」


「それならいいよね。でも、話してる間も、手は動くよ」


ひかりさんは俺の眼鏡を見た。


「練習で、神代さんと喋ってるうちに、紙を見なくなったことあったでしょ」


「ありました」


「聞くことと、全部信じること、分けて。分かんなかったら桐生さんに言えばいいから」


俺は頷いた。

ひかりさんは自分の予定表へ戻る。今日は別の確認が入っているらしく、俺たちとは違う場所に名前があった。

いつもいる人が、いつも隣にいるわけではない。


「ひかりさんなら、火を出す人は」


「さっき桐生さんに聞いた?」


「まだ」


「じゃ、そっちに。今日一緒に動く人と話しなよ」


少し笑って言われた。

俺は、はい、と答え、廊下の先へ声を掛けた。


***


駅を出ると、空が薄く曇っていた。

風に海に近い町の匂いが混じる。幹線道路を一本越えた途端、人の服が、買い物帰りの上着から作業着へ変わった。

軽トラックが歩道へ鼻先を出し、誘導する人が片手を上げる。

道の端には濡れた落ち葉が張りついていた。


桐生さんが俺の前を歩く。

神代さんは少し後ろで連絡を取っていた。


「今日は、桐生さんと組むの、久しぶりな気がします」


「別の班と遊んでたからな」


「仕事です」


「眼鏡の仕事、だっけか」


ひかりさんと同じことを言われた。

どこまで話が回っているのか分からない。


「俺も、座ってました」


「椅子まで仕事してりゃ、豪華だな」


俺は返すのをやめ、歩道の先を見た。

フェンスの向こうで荷台が開き、段ボール箱が順番に下ろされている。人の肩にも、使い込んだ工具にも、薄い伝力が残るものがあった。

どれか一つを見つければ犯人という話ではない。


桐生さんが足を緩めた。

俺が周りを見て、歩く速さを落としていたからだ。


「何かある?」


「薄いものは、いろいろ。工具とか、作業してる人の近くに」


「あいつのだって分かるか」


「まだ。本人を見てもいないので」


「じゃ、今から決めんな。その辺の作業員を全部疑ってたら進まねえ」


歩道の横で、男の人が軍手を外した。

工具袋の縁に淡いものがある。でも、ライターを持った写真の男とは顔も服も違う。

俺は、そこから視線を戻した。


「伝力がある人って、もっと少ないと思ってました」


「濃い薄いはあるだろうが、いるところにはいる。入ってるから見える、入ってねえから見えねえ、じゃねえんだよ」


「桐生さんは、どうやって入ったんですか」


「今日の話か、それ」


俺は口を閉じかけた。

桐生さんは小さく鼻で笑う。


「帰り。覚えてりゃな」


断られたのか、後にしてもらえたのか。

まだ分からなかったが、今日聞く必要のあることがほかにあるのは確かだった。


「火を出す人、相手にしたことありますか」


「ある」


「じゃあ、やっぱり手元とか」


「相手次第」


短かった。

俺が黙ると、桐生さんは横目だけ寄こした。


「手から出すとは聞いてねえ。目撃がライターってだけだ。そこを決めんな」


「はい」


「あと、火が見えたら、出てる先も見ろ」


「先?」


「お前が避けた先じゃない。火が行く先。人間相手だと、向こうもこっちを見て撃つ」


神代さんとの練習が浮かんだ。

俺が先に横へ動くと、紙はその先へ向いた。


「桐生さんと神代さんだけで行った方が、動きやすいんじゃないですか」


思っていたことが口へ出た。

桐生さんは足を止めず、俺を見る。


「お前が見つけられるものがあるから、連れてきてんだろ」


「でも、俺がいたら、見る場所が増えるって」


「増える。だから、どこにいるか言え。勝手に走って見えなくなるな」


神代さんが、こちらへ歩幅を合わせた。


「人が増えれば、できることも、気をつけることも増える。今日は君に、一人で危険なところへ入ってもらう予定はないよ」


「分かりました」


「知らないことが多い相手だ。見つけた後で、やることを変える必要もある。そこは、こちらで判断する」


俺はうなずいた。

黒江班長から言われたことを、もう一度、現場へ行く人の口から聞いた。

役目があることと、一人で何でもしなければいけないことは、違うらしい。


桐生さんが、歩道の車止めを避けた。

俺が後ろへ続くと、肩越しに言う。


「お前、何かあったらすぐ、いない方がよかったって顔すんなよ」


「まだ、何も言ってません」


「今、似たようなこと聞いただろうが」


返せなかった。

神代さんは笑わず、俺の方を一度見ただけだった。否定して安心させる代わりに、次にどう動くかを聞いてくれている。


「見えたことは言います。見えないときも、言います」


「それでいい」


桐生さんは前へ向き直った。

今のところ、その二つを同じくらい頼まれているのだと思った。



「避けたから終わり、じゃない」


「そう。よくできました」


言い方は褒めていなかったが、内容まで否定されたわけではなさそうだった。


神代さんが通話を終えた。


「表の道路は、一般の担当者が見てくれている。私たちは奥の通りを確認する。人がいたら、まずこちらから連絡して」


「榛名がいたら?」


「声を掛ける前に位置を共有。逃げる道も、近くにいる人も。確保できても、引き渡しまでが対応だからね」


桐生さんが、はいはいと手を上げた。

神代さんは、それでは返事が足りないと言うように一度だけ目を向ける。


「分かってます」


今度の返事は、俺にも聞き取れた。


***


榛名が来るかもしれないという建物は、古い二階建てだった。

表の窓に、運送と保管、と書いてある。看板の端が日に焼け、下の電話番号だけ色が濃い。

敷地の奥には屋根付きの荷捌き場があった。

一階の事務室では、白い蛍光灯の下に人の頭が見える。


俺たちは、隣の自動販売機の手前で止まった。

裏へ荷物を運ぶ台車が来たので、桐生さんが俺の肩へ指を当てた。

俺も道を空ける。

車輪の一つが段差へ引っかかり、運んでいた人が小さく舌打ちをした。


「手、貸しましょうか」


俺が言いかけると、その人は、平気、と手を上げた。

桐生さんは台車が通り抜けるまで待ち、敷地の地面を見た。


「こういうの、覚えとけ」


「段差ですか」


「慌てて後ろへ下がったとき、足が止まるところ」


何でもない場所に見えた。

舗装を直した境目が、少し盛り上がっているだけだ。

でも、壁へ突っ込みかけた莉緒の靴を思い出すと、その少しが急に大きく見えた。


俺は踵を置く場所をずらした。

強いものを探して遠くを見ると、こういうものが抜ける。

今日は誰かが教えてくれた。次に同じ段差があったとき、自分で気づけるかは別だった。


桐生さんが、道路の向こうを見る。

人、自転車、荷物を積んだ車。

犯人がまだ見つかっていない間にも、あの人は次に動く場所を探していた。

神代さんが事務室へ入り、責任者へ話をしている。

俺と桐生さんは、道路側から見える入口と窓を確かめた。


「見えるか」


「事務室に二人。奥は、壁で」


「じゃ、分かるところまで」


俺は眼鏡へ力を通した。

自販機の灯りを背景へ置き、窓の内側に注意を絞る。

人の伝力は、そこにいた。強くない。俺の方へ何かを広げているようにも見えない。


その奥で、戸が開いた。

誰かが事務室の人へ手を上げる。

外から見えたのは、肘と、上着の裾だけだった。


「もう一人、動きました。顔は見えてないです」


桐生さんが足を止める。

見えたものから先へ、勝手に話を足さない。


窓へ、別の車が映った。

反射の中で人影が動き、俺は視線を上げた。

建物の中ではなく、道路の反対側を歩いている人だった。


「今のは、外の映り込みです」


「聞いてねえけど、了解」


桐生さんが返す。

言わなければ、自分だけ分かっていればいいことかもしれない。

でも俺が急に顔を向けたら、桐生さんは何か見つけたと思う。

短く言えば、それで次の判断から外してもらえる。

仕事で何を伝えるかは、相手といるだけで少しずつ変わるらしかった。



神代さんが事務室から出てきた。

後ろの人が、携帯を持って何かを話している。


「榛名さんは、昨日、私物を引き取る連絡をしているそうだ。今日はまだ見ていないと言っている」


「奥に、誰かいます」


俺が伝えると、神代さんはすぐ振り返った。

事務室の人へ尋ねる。


「荷物、運んでもらってる人です。今日だけ、応援で」


窓から声がした。

顔を出した人は俺たちを見て、困ったように続けた。


「勝手に帰られると、荷台の確認が」


そのとき、裏の金属扉が鳴った。


桐生さんが、俺へ手を出した。

前へ出るな、という合図だった。


俺は建物の角へ目を向けた。

上着の男が出てくる。

写真の男だった。


実物は、写真よりも痩せて見えた。

片手に小さなバッグを持ち、もう片方は上着のポケットに入れている。

男は神代さんを見た。それから、俺の制服へ視線を移す。


「何だよ。見学か」


「榛名岳志さんですね」


神代さんが名前を呼ぶ。

男は答えず、桐生さんを見た。


「こいつも高校生?」


「違えよ。人の顔見る余裕があるなら、手ぇ出せ」


桐生さんの口調が変わった。

榛名は片頬を上げ、バッグを持つ手へ力を入れた。


「先に話くらい聞けよ。あっちが金を抜いたんだ。俺だけ悪いみたいに」


「その話は聞きます。怪我をした人がいる。まず、道具から手を離してください」


神代さんが言った。

榛名はポケットへ入れたままの手を、少し動かす。


「ライターも持てねえのか。うるせえな」


「持っていることだけで言っているんじゃありません」


事務室の人が扉へ出かけた。

神代さんが片手を向け、下がるように伝える。

榛名の視線が、その動きへ向いた。


俺は手元を見た。

ポケットの中で、伝力が寄る。


「桐生さん、手に」


蓋の開く音がした。

榛名がライターを出す。

小さな火が灯った。その先に、薄い線が伸びる。


見えた。


俺は右へ一歩出た。

火が、さっきまで胸のあった場所を抜けた。

熱い空気が制服の袖を撫でる。


「下がれ!」


桐生さんの声。

俺は横へ出た足を戻さず、そのまま後ろへ下がった。

炎は長く続かず、空中で薄くなった。地面に落ちた枯れ葉の端だけが黒くなっていた。


心臓が速い。

避けた。

練習と同じではない。本当に熱かった。


「今の、見えたのか」


桐生さんが聞いた。


「はい。先に、筋が」


「分かった。で、後ろ」


振り返る。

俺が右へ出た先の歩道に、荷物を持った作業員がいた。立ち止まり、何が起きたか分からない顔でこちらを見ている。

俺は避けた。でも、その人はまだ同じ場所にいた。


「離れてください!」


声を出したときには、桐生さんが榛名との間へ入っていた。


「子供を撃っておいて、話聞けかよ」


「当たってねえだろうが!」


榛名が言い返す。

バッグが地面へ落ちた。

ライターを持った手は、閉じない。


神代さんが作業員へ下がるよう声を掛け、携帯へ短く場所を伝えた。

俺も、自分の後ろを確かめる。

見えた。動けた。

その二つで喜ぶには、まだ周りに人が多すぎた。


榛名が荷捌き場へ足を引く。

桐生さんは追わず、事務室の扉から離れる方へ、身体の向きを変えた。


「牧瀬。俺の後ろへ入るな。見えるところにいろ」


「でも」


「見えなくなったら言え。追って埋めんな」


俺は頷き、フェンス沿いへ動いた。

路地で壁を通路だと思ったときと違う。今日は見えるものが嘘なのではない。見えたことの先へ、自分で勝手な答えを置きそうになる。


榛名の手へ、また伝力が集まった。

今度はさっきより濃い。

俺は肩を固めかけ、膝へ力を戻した。


「もう一度、来ます」


「どこから」


桐生さんに聞かれ、俺はライターを指した。


「手の――」


榛名の肩の横で、何かが開いた。


黒い縁。

その奥に、橙色の光。

手元にある小さな火よりも高い場所で、空気が熱に揺れた。


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