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球体世界の観測者 ~見えるだけの少年は、陰陽寮で世界の裏側を知る~  作者: 雅貴
第2章第5節

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第42話:修理完了の判定は眼鏡には適用されません

二度目の作業の日、戸田さんは俺の図を見るなり、工具を置いた。


「これ、学校の宿題?」


「こっちの宿題です」


俺は鞄からもう一枚出した。

前は一つだった図が、今は三つに分かれている。外へ流れているとき。端へたまったとき。戻ったとき。

余白には、そのとき自分が眼鏡へどう力を通していたかも書いた。


「器具を直すより先に、俺の見方を変えました」


「いいね。何を変えた?」


「強いところを追いかけない。途中で見えなくなっても、すぐ力を足さない。足したら、足したって言う」


戸田さんは三つ目で笑った。


「そこ、大事。隠して上手にやろうとされると、こっちは困るから」


「前より上手にできるかは、まだ分からないです」


「じゃ、今日分かったところまで。僕もまだ、全部は直せてない」


机には同じ器具が置かれていた。

蓋は外され、横に小さな金具が並んでいる。前の図にはなかった印が、戻しの溝の脇へつけてあった。

俺は椅子へ座る前に、その印を見た。


「ここが悪かったんですか」


「悪そうなところ。見てもらってから調べたら、押さえている金具の当たり方に偏りがあった」


「じゃあ、そこを替えれば」


「直るかもしれない。直らないかもしれない。だから、調べる」


戸田さんは皿の金具へ触れず、図の端を押さえた。


「君がどこを指したか知らなかったら、今日はまだ蓋を外して調べてたかも。そこは進んだよ」


直っていないのに、役に立ったと言ってもらえた。

俺は、ありがとうございますと言いかけてやめた。まだ見ていない。

神代さんが隣へ椅子を置く。


「今日は、作業を始める前に役割を確認しておこうか」


戸田さんが、はいと答えた。


「僕が器具を操作して、調整する。牧瀬くんは見えたことを教える。触ったり、伝力を入れたりはしない」


「俺が疲れたり、見え方が変わったら止める」


俺も続けた。

神代さんはうなずき、時計を机へ置いた。


「帰る時間も決めてある。終わらなかったら、終わらなかったところから次にしよう」


今日は、ひかりさんは別の仕事だった。

神代さんと二人で来たせいか、前より机の上が広く感じる。機械の小さな音が、売場の音と混ざらずに聞こえた。


***


戸田さんは、まず器具を動かさずに待った。


「今、何か見える?」


「残ってる薄いのは、あります。でも、流れてはいないです」


「どこに?」


俺は、中央ではなく外側の溝を指した。

前に見た色よりずっと薄い。見ようとして目を凝らすと、背景の金属の明るさに紛れそうになる。


「近づく?」


戸田さんに聞かれたが、首を振った。


「今のところ、ここで。先に、同じ位置で見てみます」


俺は眼鏡へ通す力を落ち着かせた。

多ければいいわけではない。力を増やしたとき、何が見えなくなったかを、今度は知っている。


「動かすよ」


戸田さんがつまみを回す。

中央に流れが生まれた。目立つ黄緑を横目に置き、外へ向かう薄いところを追う。

途中で色が変わる。


「今、青っぽく」


「青は、何を意味してると思う?」


俺は言いかけ、止まった。


「分かりません。中央のと、感じが違います」


「うん。そのまま教えて。青なら何、と決めつけないで」


戸田さんの手元にも、淡い伝力があった。

器具へ入る前と、溝を通った後では見え方が違う。別の人が途中で力を足しているわけではない。


「道具を通ると、変わるんですね」


「ここでは、そういう働きをさせてる。見える色まで同じになるかは、君に聞かないと分からないけど」


俺は図へ色の違いを言葉で足した。

青、だけでは、次に見たものと比べにくい。前より薄い、緑が混ざる、縁だけ少し濃い。

戸田さんはその言い方を訂正せず、器具の設定を隣へ記した。


「同じ色でも、毎回同じ強さとは限らないね」


神代さんが言った。


「はい。色と、濃く見えるかは、別に書きます」


俺が答えると、戸田さんは紙を少し俺へ寄せた。


「そのくらい分けてもらえると、後から聞き直せる。無理に専門用語へ合わせなくていいよ」


外側の流れが、揺れた。

俺は中央へ視線を戻しそうになり、踏みとどまる。

見たいのは、揺れたところだ。


「端に、たまってます」


「変えずに続けるね」


「はい」


端が濃くなる。

すぐには戻らない。その手前で細いものが溝へ伸び、少し遅れて、たまっていた色が同じ道へ流れ込んだ。


「先に細いのが、こっちへ出ます。その後、強い方が戻る」


自分でも驚くほど、順番がはっきりした。

前は戻った瞬間に気づき、その前を思い出そうとしていた。

今は、まだ変わらないところから見ている。


「同じ場所へ?」


「同じ溝に沿ってます。でも、ここで一度、内側へ寄ります」


俺は図の線から少し外れた場所を指した。

戸田さんの顔が変わる。


「今、そこ?」


「はい。見えたのは」


戸田さんは設定を変えず、別の紙へその位置を写した。

そして、もう一回待った。


***


三回目の後で、器具が止まった。

俺は目を閉じ、指で眉の辺りを押さえる。


「痛い?」


神代さんに聞かれ、目を開けた。


「痛くはないです。でも、ずっと同じところを見てて」


「じゃ、休もう。見えるうちに」


戸田さんも立ち上がり、水を取りに行った。

俺は図へ手を伸ばしかけ、神代さんに止められる。


「休憩中に、紙の細かい線を追い続けなくていいよ」


「忘れそうで」


「今、書いた。忘れたときのためにあるでしょう」


椅子へ座り直し、工房の奥を見る。

作業着の人が工具を拭いていた。さっきまで視界へ入っていても、何をしているかまでは気づかなかった。

狭く見ようとすれば、周りは抜ける。

見られるものが増えたのではなく、見たいものへ使う力を選んだのだと思った。


戸田さんが水を置き、俺の向かいへ座る。


「あの内側へ寄るっていうの、普通の目では分からないんだ。隙間がほんの少し違うだけだから」


「それが、原因ですか」


「候補。僕が昨日測ったとき、片側だけ押さえが強かった。君の言ったところと、合ってる」


「同じところを見てるんですね」


「別のものを調べて、同じ場所へ来たんだね」


戸田さんは皿の金具を見た。


「じゃあ、次はそこを直す。ただ、触る前に止めて、確認して、落ち着くまで待つ。君が見てるから、そのままいじれるってわけじゃない」


俺はうなずいた。

自分には色の線に見えている。でも、戸田さんには熱を持つ部品や、傷をつけてはいけない面が見えている。

俺が分かったことだけで、仕事の全部が決まるわけではなかった。


「休んでる間に、できるところまでやる。見ないでいてもらって大丈夫」


「それも、仕事ですか」


「うん。ずっと見させると、最後に見てほしいとき分からなくなるでしょ」


戸田さんは椅子を戻した。

俺は言われたとおり、しばらく窓の外を見た。


作業台で、小さな部品が外された。

戸田さんが指で受け、皿へ置く。金属をこする音がしたが、何を削っているのか、俺の場所からは見えなかった。


「今も、流れって見えますか」


俺が聞くと、戸田さんは手を止めた。


「僕へ聞いてる?」


「あ、違う。止めた後のことも、見た方がいいのかと思って」


「今は部品が重なって、さっきの溝は隠れてる。見えるところで、必要になったら呼ぶよ」


俺は机へ顔を戻しかけ、やめた。

隠れたものの向こうへ、無理に見ようと力を使う必要はない。

窓辺へ移って水を飲んでいると、神代さんが図の余白を指した。


「見えなかった場所も、残そうか。別の角度が必要だった、と分かれば、次は作業する前に机を動かせる」


「力の使い方じゃなくて、椅子の位置で変えられることもあるんですね」


「あるね。君が何でも見通せることにしてしまうと、そういう準備を忘れる」


俺は空になったコップを置いた。

近くへ寄っても、金具の下は金具に隠れる。分からないところを、全部自分の未熟さのせいにしなくていい。


***


組み直された器具は、見た目には何も変わっていなかった。

俺は同じ椅子へ座り、同じ位置から眼鏡へ力を通す。

戸田さんが図を並べた。


「前と同じ場所。同じ設定で、まず見てみよう」


中央から外へ、伝力が流れた。

外側の溝で色が変わる。端へ薄いものが伸び、一定の間を置いて、小さく中央へ戻る。


「戻ります」


「うん」


「まだ、戻ってますけど」


戸田さんは、俺を見た。


「戻ること全部が悪いとは、言ってないよ」


俺は図へ視線を落とした。

外側の経路には、戻し、と最初から書かれている。


「……そうでした」


「戻し方をそろえたいんだ。前は、途中で横へ寄ってた。それで、ためるところと戻すところが落ち着かなかった」


俺はもう一度見た。

今も戻る。でも、内側へ外れない。

前に色がたまっていたところが、同じ濃さで止まる。溝をまたぐように伸びた細い筋が、今回は出ていなかった。


「こっちへ、外れなくなりました」


「ありがとう。じゃあ、次の設定」


戸田さんが数値を変えた。

流れが強くなる。俺は反射的に眼鏡へ通す力を足しかけ、手を握った。


「ちょっと待ってください。俺の方も、変えそうになりました」


「分かった。今の状態で止めるね」


待ってもらえる。

前なら、見失ったことを取り返そうとして、何も言わず追っていた。

俺は見たい場所へ注意を戻し、再開を頼んだ。


強い流れでも、戻る経路は同じだった。

色は少し違う。端の濃さも変わる。

でも、目立つところだけを見ていなければ、何が同じかを確かめられる。


「同じ道です。今のところ、横へは出ません」


「はい。僕の方の測定も、揃ってる」


戸田さんは俺の図へ丸をつけず、時刻を書いた。

それから器具を切った。


「最後に一つ、こっちも見てもらえる?」


戸田さんは、透明な箱の横に置いた別の小さな試験具へ切り替えた。

同じ器具の設定は変えない。つなぐ先だけが違うと説明され、俺は図へそのことを書いた。


「戻るところを見ればいいですか」


「先に、何が見えたか。その後で比べよう」


再び動かす。

今度は外側の色が少し強くなり、戻る間隔も短かった。

俺は前の図と同じ絵を描きかけ、止めた。


「前と違います。濃くなるところが、もう少し手前です」


「うん。どうしてだと思う?」


「つないだ先が違うから、ですか。でも、どこが変わったせいかまでは分からないです」


戸田さんは、今度は早くうなずいた。


「そう言ってもらえる方がいい。違うから故障とは限らない。つなぐ先によって違う、正常な動きもあるから」


目立つ変化を見つけたら、悪いところを見つけた気になる。

でも、変わるように作られた物なら、その変化が正しい場合もある。

俺は試験具の名前を聞き、図の上へ書いた。色の説明だけで埋まっていた紙へ、何を見たかがようやく入った。

戸田さんが器具を止めた。

最後の薄い流れが消えるまで見届けてから、俺も眼鏡の力を抜く。


「終わり、ですか」


「今日君に見てもらうところは、ここまで。あとは時間を置いて、測って、温まった後も調べる」


俺は椅子へ座ったまま、少しがっかりしてしまった。

自分が見ている間に、修理完了と言ってもらえる気がしていた。


「君が見たところは、ちゃんと役に立ってるよ」


戸田さんが言った。


「ただ、返す判定はこっち。壊れたとき困る人へ、僕らの名前で返すから」


「はい」


「責任を取らせたくないから黙ってて、じゃない。僕が責任を持って決めるために、見えたことを教えてほしい」


その言葉には、何となく分かる重さがあった。

莉緒が走る前に、俺の合図を待っていたことを思い出す。

言葉の後に、相手が動く。その先を決めるために聞いてくれている。


「見えてる間に、分かるふりしないようにします」


戸田さんは一瞬きょとんとし、それから笑った。


「それ、僕も。数値が出ると分かった気になること、あるからね」


神代さんも笑った。

俺は図へ最後の一行を書き足した。

直った、ではなく、何が変わったかを書いた。


***


帰る前、戸田さんは作業記録を二人で読み合わせた。

俺が見ていない時間のことは、俺の欄へ書かない。

器具がどう変わったかは、担当者の欄へ。

自分が見失ったところまで残るのは少し恥ずかしかったが、戸田さんは消そうとしなかった。


「次に同じことがあったら、ここで止められるって分かるから」


「俺の失敗集みたいで」


「僕の記録は、部品を逆につけたところから始まってるよ」


「それ、残してるんですか」


「残す。もうやりたくないから」


笑って言うので、俺も自分の欄を消さずに頷けた。

特別な仕事を頼まれたと思っていた。でも、実際には詳しい人の横で分からないことを聞き、見えなくなったら待ってもらう時間の方が長い。

それでも、次に来るときの座る場所ができた気がした。


外へ出ると、通りの灯りがついていた。

神代さんが帰りの時間を確かめ、俺も家へ連絡を入れた。

駅まで歩く間、眼鏡へ力は通さなかった。看板の文字が、ただの文字として見える。


「今も見ようと思えば、見える?」


神代さんが聞いた。


「見えると思います。でも、ちょっと休みたいです」


「それが分かるなら、今日はもう休もう」


俺は携帯へ、莉緒から来ていた連絡を開いた。

前に擦れた靴を、きれいに拭いた写真だった。

横に短く、ちゃんと履ける、と書いてある。

俺は、よかった、と返してから、少し迷ってもう一文足した。


『こっちは眼鏡の使い方で、宿題増えた』


駅へ着く前に、返事が来た。


『眼鏡も走る前に確認?』


俺は笑ってしまった。

神代さんにどうしたのと聞かれ、見せるか迷ったが、やめておいた。


「練習の話です」


「じゃあ、増えた友達も、練習の助けになるね」


友達、と言われて、俺は画面を見直した。

同じ仕事をした相手。連絡先を交換した相手。

その二つをまとめて呼ぶ言葉に、まだ少し慣れない。


『次に走ってもらうときは、もう少し分かりやすく言う』


そう返した。

何が変わったかを言葉にする仕事は、工房の机だけで終わるわけではなさそうだった。


***


後日、戸田さんから第十一班へ連絡が来た。

検査を終えた器具を、第六班へ返したという。

俺宛てには、あの内側へ寄った線の位置で部品を調べ直せた、と書いてあった。


黒江班長へ渡す報告には、俺が直したとは書かなかった。

見えたところ。担当者へ伝えたところ。自分では判断できなかったところ。

神代さんに一度読んでもらい、作業した日と返却された日が混ざっていた箇所を直す。


「日付、そこまで要りますか」


「君が帰った後にも、確認してくれた人がいるからね」


俺は戸田さんの机に積まれた記録を思い出した。

自分が見つけた瞬間だけを書けば、器具が返るまでの間が消えてしまう。

俺は一行空け、完了の連絡を受けた日を書いた。

誰かの作業を全部説明するのは無理でも、自分が見ていない続きを、なかったことにはしないでおこうと思った。


「返せたそうですよ」


俺が言うと、ひかりさんが椅子から顔を上げた。


「よかったじゃん。眼鏡の仕事」


「俺も、座ってました」


「知ってる。で、今日は避ける方ね」


彼女が床へ目印を置く。

神代さんが紙を用意した。前と同じ折り方、前と同じ距離。

条件を変えずに、もう一度。


俺は眼鏡へ伝力を通した。

濃いところだけを追わない。薄い動きの後に、何が続くかを確かめる。

そして、足を止めたままにしない。


「いくよ」


ひかりさんの声に、返事をした。

見慣れた準備が始まる。

今日も全部が分かるわけではない。それでも、分からなかったことを一つずつ、教わりながら増やしていける。

俺は次の一歩を、床へ用意した。


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