第41話:見えたッ!?(当たるとは言っていない)
「今日は、見えたら避けて」
次の練習の日、ひかりさんは最初にそう言った。
俺は床の目印を見た。細いテープが三本。左右へ一歩ずつ出られる幅があり、その先には物を置いていない。
「簡単そうに聞こえますね」
「言うだけならね」
彼女は練習用の小さな当て物を、俺へ渡した。
胴へつけると、布越しに板の硬さがある。
神代さんが位置を確かめ、留める紐を直した。
「顔は狙わない。強く当てる練習でもない。今日は、どこで判断したかを確かめよう」
「見えなかったら?」
「そのときは止める。分からないまま動き続けないこと」
ひかりさんが、自分の手元を俺へ見せた。
「あと、昨日のは、私がいつもやってる基本の放出。発展の説明を抜き打ちで始めるわけじゃないから」
「ちょっと安心しました」
「安心したところで、まず見てるだけね」
俺は目印の中央へ立った。
向かいの壁には、受け止めるための板が置かれている。ひかりさんはその前で横へ向き、俺とは別の方向へ手を上げた。
伝力が寄る。
手元が強くなり、その先に薄い筋が出た。
次の瞬間、板が小さく鳴る。
「見えた?」
「はい」
「じゃあ、いつなら動けた?」
俺は答えようとして、口を閉じた。
見えたのは確かだった。でも、どこで動くつもりだったかまでは考えていない。
「もう一回、お願いします」
ひかりさんが同じ方向へ手を向ける。
俺は手元を見ず、板との間にある空間へ注意を置いた。
薄い筋。板の音。
「今度は、板へ行く前に分かりました」
「分かった、の中身」
「ここを通る、って」
俺が指で線を引くと、ひかりさんは眉を上げた。
「私、そこを描こうとはしてないけど」
「でも、出てます」
「そう見えるんだ」
彼女は自分の手を見た。
神代さんが俺の隣へ立ち、板との間へ視線を動かす。
「使っている側には、気にしなくてもできる部分がある。君が見ていることと、ひかりさんが意識していることは、同じとは限らないね」
「本人が考えてる先が見える、というわけじゃない?」
「それは、まだ言えない。今は、実際に力が動いていたことを見たんでしょう」
俺はうなずいた。
ひかりさんは手を下ろし、少し笑う。
「じゃあ、私が晩ご飯何食べたいかも分からないわけね」
「それは、普通に聞いてください」
「聞かれたら答える。今、麺」
神代さんが時計を見た。
「夕飯までには帰ろう。その前に、向きを変えて確かめるよ」
***
ひかりさんは、板の左、右、真ん中へ順番に放った。
俺は見えたところを声にする。
「左です」
板が鳴る。
「右」
また鳴る。
三回目、俺は真ん中、と言うのが遅れた。
「今の、音の後」
「手を見てました」
「見る場所を変えた?」
神代さんに聞かれ、はいと答える。
筋が見えるのを待つつもりが、気づけば手元へ力が集まるところを見ていた。
強いところは見つけやすい。戸田さんの器具と同じだった。
「全部、いっぺんに見ようとしない。今日は何を確かめる?」
「手元から、放たれる先へ向かう、薄いところです」
「じゃあ、そこへ戻そう」
やり直す。
眼鏡へ通す力を足さず、手元の強さを追わないようにした。
二回目、板の左を指したつもりが、声は右と言っていた。
「どっち?」
ひかりさんに聞かれ、俺は指を見てから答える。
「左。言い間違えました」
「自分だけ避けるなら足が合ってればいいけど、人に言うときは困るよ」
莉緒が首をかしげた顔が浮かんだ。
見えたことが合っていても、伝えた方向が逆なら、相手を間違った場所へ走らせる。
「声も出して、やっていいですか」
「うん。見えた場所と、言った場所。両方聞いてる」
俺は手を下ろした。
指で示しながら喋ると、指の方を見てしまう。言葉だけにしてみると、今度は方向を決めるのに少し迷った。
身体を動かす前の段階で、まだこんなにできないことがある。
それだけで筋が鮮明になる、というほど簡単ではない。ひかりさんの肩が動くと、そちらへ目が寄る。
見つけたと思ったときには、板が鳴った。
「今日は調子悪いです」
俺が言うと、ひかりさんが首をかしげた。
「今日から始めたのに?」
「……そうでした」
「できてたことが急にできなくなった、みたいな顔しなくていいじゃん」
神代さんも笑った。
俺は息を吐き、足の裏を床へつけ直した。
一回分かったことを、もう何度でもできるつもりになっていた。
次は、見えたところを指さすのをやめた。
声だけで短く言う。
三回続けて、板が鳴る前に答えられた。
「じゃ、避ける方へ移ろうか」
神代さんが床の目印を指した。
ひかりさんが俺の正面へ来る。
さっきまで横から見ていた手が、自分の胴へ向いた。
「真ん中へ、一回だけ。合図してからやる。どっちへ避ける?」
「右へ」
「自分で決めた方へ、一歩。大きく跳ばなくていい」
彼女が、いくよ、と言った。
手元が強くなる。
薄い筋が、俺へ伸びた。
見えた。
身体を右へ動かそうとする。
胸の当て物が、軽く鳴った。
「はい、一発」
ひかりさんの声がする。
俺は右へ出しかけた足を止めた。
「見えてました」
「当たってたね」
「見えて、右へ行こうと」
「うん。右へ行く前に当たった」
痛くはなかった。
でも、その言い方は痛かった。
神代さんが、俺の足元へ視線を落とす。
「何をしてから、動こうとした?」
「見て、来ると思って、右へ」
「その間、息を止めていたね。膝も固まっている」
ひかりさんが、俺の立ち方を真似した。
両足を踏ん張り、上半身だけ傾ける。
「これだと、足がついてこない。避ける方向、知ってたでしょ」
「知ってました」
「じゃあ、行く前に一回立ち止まらない」
言われたとおり、膝を固めない位置へ戻す。
予兆を見抜けば勝手に避けられる、という便利な話ではなかった。
通り道が分かっても、そこに自分が残っていれば当たる。
三回目で、ようやく当て物の端をかすめるだけになった。
五回目には、横を抜けた。
「避けた!」
声が出た。
「うん。今のは、よかった」
ひかりさんがうなずく。
俺は元の位置へ戻り、もう一回と頼みかけた。
「休憩」
神代さんに止められた。
椅子へ座ると、ひかりさんが隣の床へしゃがんだ。
「私の手、ずっと見てた?」
「途中から、あんまり。先に伸びる方を」
「足は?」
「ひかりさんの、ですか。見てなかったです」
彼女はうなずき、立ち上がった。
手元へ力を集めず、ただ一歩、俺の方へ寄る。
俺は椅子の上で反射的に後ろへ引きかけた。
「放出が来ると思って、ここだけ見てたら、歩いてこられるよ」
神代さんが、俺の当て物を確かめながら言う。
「だから今日は、放出だけの練習。相手が全部を使う戦闘とは分けている」
「これが見えるようになっても、全部避けられるわけじゃない」
「うん。絞って見れば、ほかへ向ける注意は減る。何を見る時間なのかを、自分で知っておこう」
俺は窓の外へ目を向けた。
遠くにいる人へ注意を移すと、ひかりさんの靴から目が離れる。眼鏡を強くしたら両方が全部分かる、とはならない。
前へ進んだ先で、別の穴も見つかるらしかった。
「今、何がよかったか話せるうちに止めよう。続けすぎると、当たらなかったことしか覚えていなくなる」
俺は当て物を押さえた。
さっきより早く脚を動かした。それだけでは、次に同じことができる説明にならない。
***
休憩の後、神代さんが紙を一枚持った。
小さく折られ、先だけ少し開いている。
「今度は私。紙を飛ばすけれど、途中で曲げたり、追いかけさせたりはしない。これも、まず見ているだけで」
「式神ですか」
「紙を使うけれど、今日は複雑な仕事をさせない。力を通して送り出すところだけ。さっきの放出と、同じ見え方になるとは限らないよ」
俺は床の線へ戻った。
神代さんの手元を見る。
紙へ、伝力が寄る。
ひかりさんよりも、細い。折り目に沿って巡ったあと、先端にたまった。
次だ。
俺は右へ足を出した。
紙は、まだ手の中にあった。
「牧瀬くん」
神代さんが俺の顔を見る。
「見ているだけ、だったね」
隣で、ひかりさんが吹き出した。
俺は元の場所へ戻る。
「すみません。来ると思って」
「どこへ?」
「俺の方へ」
「今、君を狙う話もしていないよ」
そうだった。
身体を動かせと言われたばかりで、動かないことを忘れていた。
「力が集まったので、次に飛ぶのかと」
「準備して、まだ持っていることもある。ひかりさんの手からすぐ出たからといって、同じとは限らない」
神代さんは手の中を見せた。
紙の先端には、まだ淡い色があった。
「それ、色が違うから、違う能力って分かるんですかね」
俺は紙と、ひかりさんの手を見比べた。
ひかりさんが自分の掌を開く。
「今、私の方は何もしてないから、比べるなら後で」
「あ、そうですね」
神代さんは紙を下ろし、俺が続きを聞けるように少し待った。
「これ、出そうとして、やめたら?」
俺が聞くと、神代さんは紙を持ち直した。
折り目へ薄い色が巡る。俺は外へ伸びるところを待った。
でも、先にたまったものが、手元へほどけて戻った。
紙は飛ばない。
「今のは、準備をやめたんですね」
「うん。始まったら必ず最後まで出す、とは限らない」
さっきの筋を覚えれば、次も決まった順番で起きると思っていた。
途中で変わるところまで見なければ、また早く動いてしまう。
「これも、何回か見ておきたいです」
「いいよ。今日は見比べるだけ。避けるときの条件は、まだ増やさないでおこう」
俺はうなずいた。
新しい違いを一つ見つけるたび、分かることと、練習することが同じだけ増えていく。
「同じ紙へ、同じように力を通したつもりでも、仕事を変えれば動きが変わる。色だけで名前を当てるより、何をしたときにどう見えたかを覚える方がいいんじゃないかな」
「じゃあ、手品みたいに、一回見て全部分かるのは」
「私には、そんなに簡単に分かってほしくはないけどね」
冗談めかして言われ、俺も笑った。
神代さんが普段やっている仕事は、紙をまっすぐ飛ばすだけではない。その人の一部を練習で見せてもらったからといって、神代さんの能力を理解したことにはならない。
「君には、ここから先の違いがまだ分からない。そこを、今から確かめよう」
俺はうなずいた。
自分に見えるものの意味を、一つ覚えただけで他にも当てはめようとしていた。
今度は、紙から目を離さない。
折り目へ力が通る。先へ集まる。そのまま止まる。
神代さんが何かを変えた。
薄い線が、紙の先から板へ向かった。
「今!」
紙が飛んだ。
板の手前で勢いを失い、ひらひらと床へ落ちる。
「一つ、違いが見えた?」
「はい。でも、何を変えたかは分からないです」
「それでいい。分かった部分と、まだ分からない部分を分けておこう」
神代さんは紙を拾い、俺から離れた位置へ戻った。
床に落ちる前から、ひかりさんは二枚目を持っている。
気づいて視線を向けると、彼女はひらひら振ってみせた。
「増やさない。今は一枚」
俺が警戒した顔をしたらしい。
神代さんまで笑った。
***
避ける練習になると、今度は早く動きすぎた。
紙を送り出す前に横へ出てしまい、その動いた先へ神代さんの手が向く。
「あ」
紙が、当て物へ触れた。
さっきのひかりさんの放出より、ずっと遅い。なのに、正面から受けてしまった。
「途中で曲げないって」
俺が言うと、神代さんは手の中を見せた。
「送り出した後は、まっすぐだったよ」
ひかりさんが、両手を小さく動かした。
「先に避けたから、そっちへ向けられたの」
分かっていたつもりなのに、納得できるまで少し時間がかかった。
俺は、自分が最初にいた場所を見た。
そこには、何も飛んでいない。
「じゃあ、動かなかったら」
「そのまま君へ向けたと思う」
「どっちにしても、来るじゃないですか」
「だから、いつ動くかを練習してる」
ひかりさんに言われ、俺は黙った。
神代さんは紙を拾いながら、声を少し柔らかくした。
「見えることは助けになる。でも、相手も君を見て動く。君が考えている間、相手だけ止まるわけじゃないんだ」
ヴェルネの剣を思い出した。
筋が見えても、次が分からなかった。
今の紙でさえ、俺が先に動けば向きを変えられる。
「まず、この紙の、この送り方を覚えるところからですね」
「うん。全部の放出を読めたことにはしない。見慣れた一つを増やそう」
俺は眼鏡を外した。
曇ってはいない。布で軽く拭き、掛け直す。
ひかりさんが床へ落ちた紙を拾った。
折り目を壊さないよう、先を持たずに神代さんへ返す。
「紙、替えると変わるんですか」
俺が聞くと、神代さんは二枚を並べた。
「紙が湿ったり折れ方が違ったりすれば、飛び方も変わる。今日はそこを増やしたくないから、状態を確かめている」
戸田さんの作業台が浮かんだ。
俺が見ている間、器具を変えずに待ってくれた。あれと同じで、教える側が条件をそろえてくれているから、一つずつ比べられる。
「俺、今、相当やりやすくしてもらってるんですね」
「うん。最初から何でも混ぜたら、何で当たったか分からないでしょ」
ひかりさんは紙を置き、床の目印を直した。
俺も立ち上がる。
手加減されているのが悔しい、と思う前に、その手加減の中で覚えられることが山ほどあると分かった。
目を休めると、さっきまで強く見ようとしていた場所が、少し離れて感じられた。
「次、いけます」
「あと三回。その後は記録を見よう」
神代さんが回数を決めた。
ひかりさんは横で、俺の足へ視線を置く。
最初は、早すぎた。
二回目は、予兆を見つけるのに遅れた。
三回目。折り目の先にあった流れが、手から離れる直前、外へ伸びた。
俺は一歩、横へ出た。
紙が制服の脇を抜ける。
当て物は鳴らなかった。
「今のは?」
神代さんに聞かれた。
「先に集まるところじゃなくて、その後。外へ伸びるところを待ちました」
「足は」
ひかりさんが聞く。
「固めないで、動けるように」
二人がうなずいた。
俺は息を吐いた。三回のうち一回。できたと言うには少ないけれど、何を変えたかは言える。
***
片づけをしながら、俺は戸田さんの器具の図を開いた。
濃くなったところ。戻る前。戻った後。
前は一つの絵に矢印を足していたが、今日は順番に分けて描いた。
ひかりさんが横から見る。
「敵の攻略図?」
「仕事の方です」
「あ、それもあったね」
俺は図の端へ、眼鏡、と書いた。
強くしすぎたときに見失ったもの。見たい場所を変えたときに分からなくなったもの。
器具の動きだけではなく、自分がしたことも並べる。
「これなら、同じにできたかどうか聞けそうです」
神代さんが、紙を覗いた。
「戸田さんに見てもらおう。ただ、君が良く見えたと思ったことと、器具が正しく動いたことは別だからね」
「はい。直ったって、勝手に言いません」
ひかりさんが床のテープを剥がす。
俺も当て物を外し、借りた物を戻した。
「次は、もう少し速くても」
言いかけると、ひかりさんはすぐ顔を上げた。
「できたの、最後の一回でしょ」
「そうですけど」
「じゃ、次も同じ速さ。たまたまじゃなくなってから」
返す言葉がなかった。
神代さんが手帳を閉じる。
「見る仕事へ行って、動く練習が増えたね」
「仕事の依頼って、宿題もついてくるんですね」
「全部がそうとは限らないよ。でも、次に使えるものが残る仕事だといいね」
俺は図を鞄へしまった。
眼鏡を掛けていても当たる。掛けているから気づけることもある。
どちらも今日、自分で確かめたことだった。




