第40話:眼鏡の持ち主も調整対象に含まれませんか
「牧瀬くんに、仕事の依頼が来ている」
黒江班長に呼ばれて、俺は椅子へ座り直した。
机の上に封筒がある。俺の名前が書いてあった。
「俺に、ですか」
「そう言った」
「ひかりさんたちに、俺がついていくんじゃなくて?」
「君に見てもらいたい物があるそうだ。ただ、受けるかどうかは内容を確かめてからにする」
黒江班長は封筒から一枚出し、こちらへ向けた。
依頼元は第5班。俺の眼鏡を調整してもらった店だった。
「壊してませんよ」
「誰も修理代の話はしていない」
隣で、ひかりさんが笑った。
班長に呼ばれる用事は、報告の不足か、今後の予定か、何かの注意だと思っていた。名前だけ書かれた封筒を見て、まず心配した自分が少し情けない。
「検査用の道具の調整補助。専門の修理を任せる話じゃない。君が見たものを、担当者へ伝える仕事だ」
「でも、どうして俺なんですか」
「外側へ行ったときの報告が、向こうの技術者経由で伝わったらしい」
ヴェルネの灯りを思い出した。
流れが途中で細くなるところを指し、図に描いた。部品の名前も、何を直せばいいかも分からなかった。
「俺、直してないです」
「そこは分かってる」
ひかりさんが、俺の顔を覗いた。
「見たことまで、なかったことにしなくていいんじゃない」
俺は紙へ目を落とした。
希望する日時と、対象の器具と、作業を行う場所が書かれている。予定を空けて待つ人がいるらしかった。
「授業のある時間には入れない。向こうにも、できることとできないことを説明する」
黒江班長の指が、時間の欄へ置かれた。
「断ってもいいんですか」
「内容を聞いた後でも、無理ならそう言えばいい。分からないものを分かったと言う方が困る」
それは、できないと言っても怒られないというだけの話ではなかった。
できるふりをしたら、次の誰かが間違える。
「行ってみたいです」
俺は答えた。
「じゃあ、まずは相談から。神代に日程を合わせてもらう」
ひかりさんが紙へ身を寄せた。
「眼鏡、ちゃんと拭いて行きなよ」
「いつも拭いてます」
「じゃあ、そのままで」
何でもないことのように返され、俺は眼鏡を直しかけた手を下ろした。
封筒を持って帰る。普通の授業の後に、別の班へ仕事をしに行く予定ができた。
***
第5班の店は、前に来たときより、入口に並ぶ軍手が増えていた。
棚の上には季節の掃除用品。修理受付の小さな札の前で、年配の女性が電気ポットについて相談している。
俺と神代さんは、その人が話し終えるまで待った。
「今日は、こっちの修理じゃないんだよね」
神代さんが俺の眼鏡を見る。
「班長にも、そう言われました」
「そんな顔をしていた?」
「してたかもしれません」
神代さんは笑い、売場の人へ用件を伝えた。
レジの横で、別の客が修理に掛かる日数を聞いていた。
受付の女性は伝票を確かめ、部品が届く日と、作業できる日が違うと説明している。
「届いたら、その日に直るんじゃないの」
客に聞かれ、女性は首を振った。
「届いた物の確認と、組み付けた後の確認がありますので」
俺は自分の眼鏡を思い出した。
前は、その場で掛けやすくなった。あれが店の仕事の全部ではない。
客は少し考えてから伝票を受け取り、いつ電話すればいいかを聞いた。女性は日付を書き、気をつけてお帰りくださいと送り出す。
俺たちを呼ぶ内線も、その後だった。
「特別扱いで先に通す場所ではないんですね」
小さな声で言うと、神代さんが売場へ目を向けた。
「ここを使う人には、それぞれ困っていることがあるからね。私たちも、頼んだ時間を守ろう」
俺は時計を確かめた。
約束の時刻より、少し早い。呼ばれるまで、受付票の棚の前を塞がない場所で待った。
奥から出てきたのは、袖をまくった若い男の人だった。片手に部品の入った皿を持ち、俺たちを見ると、慌てて別の机へ置く。
「第十一班の牧瀬くん? ありがとう、来てくれて。第五班の戸田晴です」
「牧瀬遼悟です。よろしくお願いします」
「神代です。今日は、作業の範囲を確認するところからで」
「はい。もちろん。あ、眼鏡はそのままで。今日はこっちが見てほしい方」
戸田さんは扉を開け、俺たちを工房へ通した。
前に眼鏡を直してくれた人は、外の修理へ出ているらしい。戸田さんはその人から、掛けた状態でずれにくくしたことも聞いていた。
「あの後、鼻のところは大丈夫?」
「はい。走っても、前ほど落ちなくて」
「よかった。そこがずれると、見たい場所もずれるからね」
壁際の作業台には、弁当箱くらいの器具が置いてあった。
灰色の箱に、丸い蓋。脇から細い管が二本出ている。その先が透明な小箱へつながっていた。
横には、検査中、と書かれた札がある。
「これは、微量の伝力を決まった形で送り出すための検査器。第六班で使ってる」
「診療所の?」
「そう。回復を補助する道具を調べるとき、その道具に流す力をそろえたいんだ。人によって毎回違うと、どっちが悪いか分からなくなるから」
俺は透明な箱を見た。
中に置かれた薄い板へ、淡い線が入っている。
「これを、人に使うんですか」
「こっちは検査用。今日は、患者さんも、治療する道具もつながないよ」
戸田さんが、透明な箱の蓋を指した。
「中身も練習用の負荷だけ。君に診断してもらう話じゃない」
そこで、神代さんの手帳に線が一本増えた。
俺は机の前へ座る。椅子の高さを合わせてもらうと、器具の蓋が目の少し下へ来た。
「エイリクさんから、細い流れをそのまま見られる子がいるって聞いて。普通は、確認用の力を入れて返り方を調べたりもするんだけど」
「それだと、分からないんですか」
「分かるところもある。でもこいつは、弱いところを見たいのに、調べる力を足すと調子がよくなるんだ」
戸田さんは、嫌そうな顔で箱を見た。
「人が見に来たときだけ、ちゃんとする?」
「……学校のパソコンみたいですね」
思わず言うと、戸田さんが顔を上げた。
「そう、それ。詳しい先生が来ると直るやつ」
神代さんも、そういうのはありますね、と笑った。
器具の故障が少し身近になったところで、戸田さんが小さな図を広げた。
「ただし、これは本当に直ったわけじゃない。弱いまま動かしたときの記録だけ、たまにずれる。そこを見たい」
「俺が、そこへ力を出さなければいいんですね」
「出して探さなくても見えるならね。眼鏡へ流すのは別。でも、器具へ触ったり、試しに流したりはしないで」
「分かりました」
「あと、見えないときは見えないでいい。こっちが聞きたいことへ、答えを寄せないで」
戸田さんは、図の端を重しで押さえた。
その言い方が真剣だったので、俺も頷くだけで済ませず、はいと答えた。
***
蓋を開けると、器具の中は丸い板が二枚重なったようになっていた。
細い溝がある。中央から外側へ向かい、途中で枝分かれし、また戻ってくる。
戸田さんが使うつまみを示すと、神代さんが椅子を半歩引いた。
「俺も離れた方がいいですか」
「最初は、その位置で見られるか試そう。近づけばいいとは限らないから」
戸田さんの返事を聞き、眼鏡へ伝力を通した。
流れが見える。
中央に薄い黄緑のような色があり、外へ進むところで、青を含んだ淡い色になる。色が何を意味しているかまでは分からなかった。
「見えました」
「どこが?」
「真ん中から、外へ」
「図の上で言える?」
俺は紙を指した。
戸田さんは器具ではなく、指した場所を見た。
「ありがとう。じゃあ、まだ何も変えない。変わったら言って」
俺は待った。
工房の奥で、何かを削る音がする。売場の呼び鈴が鳴った。時計の秒針が一周する間、中央の流れは同じだった。
「外側が、少し暗く」
「どっち側?」
「俺から見て、右です」
「ここね」
戸田さんが図へ印をつけた。
俺がもう一度目を戻すと、さっき暗くなった流れは元に戻っていた。
「直りました」
「僕は何もしてないよ」
「じゃ、直ったというか、見え方が」
俺は眼鏡へ少し強く力を通した。
中央が明るくなる。
溝が何本も重なり、さっき指した場所がどこだったか、一瞬分からなくなった。
「今、また見えなくなりました」
「器具は動いてる。何を変えた?」
「よく見ようとして、眼鏡に」
「力を足した?」
俺がうなずくと、戸田さんはつまみから手を離した。
「一回、止めよう」
器具の光が薄くなる。
俺も力を抜いた。
見えると言ったばかりなのに、仕事を止めてしまった。
「すみません」
「ううん。止めるために言ってもらってる。黙って適当に続けられる方が困る」
戸田さんは新しい紙を出し、俺の前へ置いた。
「最初、何を見た?」
「真ん中から外へ、流れてるところです」
「どこがいちばん強かった?」
「真ん中」
「じゃあ、見たいのはそこ?」
俺は答えられなかった。
強いところは、見つけやすい。それを見つけてから薄いものを追う癖がついていた。
外側が変わった気がすると、もっとよく見ようとして、目立つ中央まで強くしてしまう。
「見る場所を選ぶ練習は、したんです」
俺は言った。
「紙にある伝力とか、ほかの人の強いのに埋もれないように。だから、できると思って」
戸田さんは図を俺へ向けた。
「見つけるところまでは、できてるじゃない。今度は、変わる物を同じ条件で見続けたいんだ」
「選んだつもりで、選び直してる?」
「かもしれない。君が変わったところへ目を向けたとき、力の通し方まで変えていないか、そこも知りたい」
神代さんが、前に使った紙の練習の話をした。
止まった薄い伝力を選ぶことと、次々変わる流れを追うこと。俺の中では、同じ『見る』だった。
器具が細くなると、もっとよく見ようとする。そのたび、最初に選んだところからずれていたのかもしれない。
「じゃ、前の練習が駄目だったんじゃなくて」
「使う場所が増えたんだね」
神代さんの言葉に、少し息がしやすくなった。
最初からやり直すのではない。できたことの先で、別の困り方をしている。
「小さい文字を読むとき、紙全部を眩しくしたい?」
「したくないです」
「でも今、それに近いことになってるかもしれない」
戸田さんは、俺の眼鏡へ手を伸ばさなかった。
「眼鏡の方が分かるって言いたいんじゃないよ。君に何が見えてるか、僕には見えない。ただ、器具を変えたときと、君が変えたときの区別がつかない」
「俺が、見え方を変えてるから」
「そう。一緒に変えると、どっちのせいか分からない」
神代さんが机へ肘を置いた。
「前に、眼鏡の掛かり方を直してもらったね。あれで困ることが一つ減った。今は、使っている最中の話かな」
俺は鼻の位置を確かめた。
ずれていない。
道具がずれるせいにできないところで、自分がやっていることが揺れていた。
***
戸田さんは、もう一度だけ器具を動かした。
俺は力を足さず、外側の溝を見る。
「今、どっちへ流れてる?」
「右から……左?」
「断定しなくていい。どっちに見えたかで」
「一瞬、戻ったように見えました」
戸田さんは俺の言葉をそのまま書いた。
神代さんが、図へ時刻を添える。
「器具は止めないでください。もう一回、同じところを見たいです」
言ってから、勝手に頼んでいいのか心配になった。
戸田さんは頷いた。
「今の条件なら続けられる。でも、疲れたら言って。君を長く見させるための調整じゃないから」
外側の淡い流れを見た。
一度だけ、溝の端に色がたまる。
そのあと、中央の方へ細い筋が戻った。
「来ました。外から中へ、一瞬」
戸田さんの手が止まった。
「その前、何かあった?」
「少し、端が濃くなって」
「戻った後は?」
「細くなりました」
今度は、変化を順番に言えた。
戸田さんは器具を切り、透明な箱の数値を見た。それから図の同じ場所を何度か指でなぞる。
「このへん、調べる理由はできた。ありがとう」
「壊れてるところ、ですか」
「それは、これから。君が戻ったように見たのと、僕が故障だと判断するのは、別の話」
俺はうなずいた。
何でも分かった顔で、ここが悪いと言わなくてよかった。
「次までに、俺、何をすればいいですか」
戸田さんは工具を持ちかけ、そのまま置いた。
「君の眼鏡の使い方を、同じにできると助かる。僕が器具を変える間、君まで変わると比べられないから」
「力を、同じ量に?」
「それだけで済むかは、僕には分からない。何を見るかまで変わってるかもしれないし。そこは、いつも練習を見ている人にも聞いてみて」
神代さんが、俺を見た。
「やってみようか」
それは仕事の途中で宿題を出されたような気分だった。
でも、何のためにやるかは分かる。
帰る前、戸田さんが器具へ札を戻した。
検査中。使用不可。
「まだ、返せないんですね」
「うん。動いたから大丈夫、とは言えない。第六班には別の器具を回してるけど、それもいつまでもじゃ困る」
奥の机には、別の修理品も並んでいた。
戸田さんの内線が鳴った。
俺たちは椅子を引いて待つ。戸田さんは紙を一枚確認し、今日は返せないことと、代わりに回している器具の確認日を伝えた。
電話を置くと、少しだけ肩を回す。
「急ぎなんですね」
「うん。でも、急いでるのと、急に直せるのは違うから」
「俺のせいで遅れた分も」
「違う。分からないところを調べる予定で呼んだんだ。初めて来た人が何でも見つける前提で、返す日を決めたりしないよ」
戸田さんは、俺の図を記録の束へ重ねた。
「できるか分からないことを頼んだのは、こっち。今日見えたところを使って、続きは僕らが進める」
その束には、俺が来る前の日付もあった。
自分が呼ばれたところから始まった仕事ではない。まだ直っていないからといって、今日が全部失敗だったわけでもないらしかった。
俺が次の練習へ行っている間、この人たちは他の仕事をする。
それでも次の予定を空け、もう一度俺の報告を待ってくれる。
「今度は、何を変えたか、ちゃんと言います」
「それ、助かる。分からなかったら、分からなくなったところもね」
戸田さんはそう言い、今度は工具を持ち上げた。
***
第十一班へ戻ると、ひかりさんが椅子の背にもたれていた。
「どうだった?」
「眼鏡より、俺の使い方の調整になりました」
「いいじゃん。そこは買い替えなくて済むし」
「簡単に言いますけど」
俺は図を机へ広げた。
強いところを見てしまうこと。力を足すと、細いところを見失うこと。外へ流れた後、一瞬だけ戻るものがあったこと。
神代さんが、足りない順番だけ補ってくれた。
ひかりさんは図を見てから、片手を持ち上げた。
「じゃ、これも見る?」
彼女が伝力を寄せる。
手元が強くなる。その先に、薄い筋が一瞬伸びた。
俺が目を向けたときには、練習用の小さな板が軽く鳴っていた。
「今、先に出た」
「何が?」
「当たる前に、細いのが。そっちへ」
ひかりさんが、神代さんを見た。
神代さんは、まず道具を片づけよう、と言ってから立ち上がる。
「本当に見えたのか、何度か確かめよう。今の一回だけでは分からないから」
俺は頷いた。
外へ流れたものが戻る。起こるより前に、薄いものが伸びる。
別々のことなのに、同じ見落としをしていた気がした。
机を空ける俺の横で、ひかりさんが笑う。
「避ける方も、宿題に入れとく?」
俺は眼鏡へ触れた。
その向こうにいる人は、俺が答えるより前に、練習の場所を考えていた。




