第39話:連絡先の交換は業務に含まれますか
莉緒の一歩は、短かった。
大きく振りかぶらず、地面を押す。
靴底から伝力が立ち上がり、踵を支え、身体を前へ送った。俺が言った二歩の距離が、一息で縮まる。
白い花が、右へずれた。
「そっちは像! 低い方!」
俺は声を張った。
花弁を見ない。根が集まる場所を見続ける。
莉緒は視線だけで追わなかった。
踏み込んだ足を軸にして、もう片方を低く振る。浮いた根の下を抜けるような蹴りが、台車の脇へ入った。
鈍い音がした。
白いものが、地面へ押しつぶされる。
花弁が裏返り、その下に縮んでいた根の束がほどけた。台車がわずかに揺れる。
莉緒は蹴った足を戻し、身体を流さず踏みとどまった。
「当たった!」
声が弾む。
俺も返事をしかけた。
花の下で、一本だけ根が動いた。
「まだ、足元!」
莉緒が足を引く。
根は靴へ届かず、舗装の上を弱く撫でた。それでも放っておけば、また巻きつくかもしれない。
花弁の向こうに、細い通路が開いた。
さっきまで閉まっていた搬入口の横から、別の道が見えている。
「そこ、壁のまま」
俺が言うと、莉緒はうなずいた。
「うん。もう行かない」
地面を確かめ、小さく身体を寄せる。
最後の蹴りは、高くも速くもなかった。起き上がろうとした根の束へ靴底が入り、白い花が内側へ折れた。
淡い流れが、ほどけた。
花弁の輪郭が薄くなる。
重なっていた白が、灰色の舗装を透かして見せた。根は地面へ染み込むように崩れ、あとには細い白さだけが残った。
俺はすぐに眼鏡から力を抜かなかった。
車輪の下。箱の脇。莉緒の足首。
見えるところを、一つずつ確かめる。
見えないところまで、何もいないとは言えない。
「……動いてるのは、今、見えない」
それだけ伝えた。
莉緒はゆっくりと後ろへ下がった。
俺も、一緒に下がる。
二人で同じ方向を向き、扉の前から少し離れた。
換気扇の音が聞こえた。
どこかで台車の車輪が鳴る。
さっきまで聞こえていなかったのか、聞く余裕がなかっただけなのか、分からない。
「終わった?」
莉緒に聞かれ、俺は携帯を出した。
「倒れた。動かなくなった。……そう報告する」
「そっか。勝ったって言うには、確認いるんだ」
そう言って、彼女は壁へもたれかけた。
でも、触れる直前で手を止める。
「これ、本当に壁?」
俺は一歩寄って、同じ場所へ手をついた。
冷たい塗装の感触がある。
「壁」
「よし」
彼女は背中を預けた。
その様子を見ていたら、急に膝から力が抜けそうになった。俺も、座り込まずに済む位置へ移る。
甘い匂いは、まだ残っていた。
視界がまっすぐになった気はする。
でも、本当に戻ったのか、自分だけで決めるのは怖かった。
電話に出た神代さんへ、場所と、干衝体の動きが止まったことを伝える。
再び近づかず、風の通るところで待つように言われた。
搬入口の人へも、もう少し扉の内側にいてもらうよう頼む。
莉緒は、しゃがんで片足を持ち上げていた。
「どうしたの」
「靴底」
言いながら、縁を指でなぞる。
さっき壁の手前で止まったところが、白く擦れていた。俺にはそれ以上分からなかったが、彼女は片側だけを何度も見比べている。
「あー。やっぱ、ここ」
「ごめん。もっと早く言えたら」
莉緒が顔を上げた。
「違う違う。止まれたから、これで済んだの」
靴を戻して立ち上がる。
「ほっといたら、上も下も駄目になってたでしょ」
上というのは、俺のことではないらしい。
自分の肩と、膝を順に指した。
「なら、そっちを先に心配してよ」
「してるよ。痛くないの確認したから、次、靴」
順番は守っているらしい。
俺は何と言えばいいか分からず、笑ってしまった。
莉緒も笑った。
戦っている間に見た顔と、少し違う。
俺も、さっきまで歯を食いしばっていたことに、そのとき気づいた。
***
「二人とも、そこにいて」
聞き慣れた声がした。
道路側から、ひかりさんと神代さんが来る。
ひかりさんはまず俺たちの足元を見て、それから白い残りへ視線を移した。
「追いかけてこなかった?」
「動かなくなってからは、来てません」
「分かった。じゃあ、確認する」
彼女は俺たちを前へ出さず、台車との間へ入った。
神代さんは搬入口の人へ声を掛け、俺たちが待っている場所と出入口の位置を見比べた。折った紙を壁際へ置く。
周りの気配が、少し遠のくような感じがした。
消えたわけではない。道路を歩いてきた人が一度こちらを見て、別の店の入口へ目を戻す。
「今から隠す分で、さっきのことまでなくなるわけではないからね」
俺の視線に気づいて、神代さんが言った。
「お店の方への説明も、こちらで続ける。何を話したか、あとで教えて」
俺はうなずいた。
勝ったら終わり、と思っていたわけではない。それでも、店員にどんな言い方をしたかまで、もう記憶が怪しくなっていた。
莉緒が姿勢を正す。
「第十二班の梶浦莉緒です。買い物に来てて、牧瀬くんが人を助けてるところに」
「十一班の天城ひかり。こっちは神代さん」
ひかりさんは確認を終え、こちらへ戻ってきた。
「怪我は?」
「大きいのはないです。壁に手をついたくらいで」
「その手、見せて」
莉緒が両手を出した。
ひかりさんは本人の言う無事だけで済ませず、掌と袖を確かめる。俺も裾へ触れられたことを伝え、どのくらいの間だったか聞かれた。
質問に答えているうち、足の震えは少し収まった。
神代さんが、救急へ引き継いだ男性について確認が取れたと言った。
詳しい容体はこれからだが、運ばれるときには受け答えができていたらしい。俺たちが見つけた時刻と、動けなくなった場所も、向こうへ伝えるという。
「お二人とも、まずはよく助けてくれた」
俺は、ようやく長く息を吐いた。
男の人の手が、鞄の持ち手から離れなかったことを思い出す。
今は、誰かがそばにいる。それが分かっただけで、壁際の男の人をずっと頭に置いていたことに気づいた。
「それで。どんなふうに見えた?」
ひかりさんが聞いた。
莉緒と俺は、顔を見合わせた。
最初の白い根。出口に見えた壁。蹴ったはずの花が横へずれたこと。
二人で左右が違って見え、一度逃げられたこと。
話す順番を間違えかけ、神代さんに、救助の後からでいいよ、と戻してもらった。
「匂い、甘かったでしょ」
ひかりさんが言った。
「知ってるんですか」
「同じ姿のやつかは分からない。でも、見え方をいじるのなら何度か相手にしたことある」
俺は足元の白い跡を見た。
「リーヴェルでも、ああいうことするんですね」
「する。殴るとか噛むとかが多いけど、それだけじゃない。こういうのは珍しい方」
ひかりさんは手で、路地の方を示した。
「狭いところで相手の位置を間違えたら、それだけで当たらない。壁を壁だと思えなくても危ない。力が弱そうだからって、楽とは限らないよ」
莉緒が、深くうなずいた。
「本当にそれでした」
「走れる子には、特に嫌だよね」
ひかりさんの視線が、彼女の靴へ落ちた。
その一言で、莉緒の肩から少し力が抜けた。
速いなら避けられただろう、と言われなかったからかもしれない。
「ひかりさんなら、どうするんですか」
俺が聞くと、彼女はすぐに答えなかった。
搬入口の扉を見て、台車を見て、最後に俺たちを見る。
「まず、人を離す。姿がずれるなら、見えた場所へ一発で決めようとしない。匂いが怪しいなら、ずっと同じ場所で吸わないようにする」
「鼻、塞ぐとか?」
莉緒が片手を上げた。
「やるならやる。でも、それで全部防げるって決めて飛び込むのは嫌。もう効いてる分がどうなるか、分からないし」
ひかりさんは俺へ顔を向けた。
「今回は、二人で違うって言えたんでしょ」
「はい。俺も、台車が壁に見えて」
「じゃあ、一人だけ正しいつもりにならなかったのはよかった」
褒められたのか確かめる前に、彼女は言葉を続けた。
「ただ、止める声はもっと早く。間に合ったならいい、で毎回済むわけじゃないから」
「……はい」
隣で莉緒も、はい、と答えた。
「あたしも、走る前に確認します」
「うん。で、最後は?」
俺が位置と足場を伝え、莉緒が短く加速したことを話す。
ひかりさんは途中で遮らず、聞いた。
「それなら、次も覚えとけば。速い人に、見つけたこと全部を一度に言っても動けないから」
俺は莉緒を見た。
彼女が先に、小さくうなずく。
あのとき『足場は』と聞かれなければ、俺は花の場所だけを言っていた。
「二人で直したんです」
言うと、ひかりさんの口元が少し緩んだ。
「うん。それは、よかった」
***
神代さんへ経緯を伝え、必要な確認が終わるまで、俺たちは表の通りへ戻らなかった。
時刻を確かめると、まだ五時前だった。
もっと長くいた気がする。壁の手前で足を止めた数秒は、授業の一時間より長かった。
店の人へ説明するのは神代さんが引き受けてくれた。
俺たちは入口を塞いでもらったことへの礼を言い、今後の連絡先は大人へつなぐ。片づけの担当へ渡す内容も、神代さんがその場で確認していた。
誰かの困り事を全部解決したような顔は、とてもできなかった。
ただ、搬入口の人が安心して扉を開けたときには、俺も少しだけ肩を下ろせた。
靴店へ戻ると、店員が紙袋を出してくれた。
「お友達、もう平気なの?」
「友達っていうか、さっき会ったところで」
莉緒が俺を見た。
「でも、平気です。ありがとうございます」
そう言って、袋を受け取る。
店員が中の箱を確かめようかと聞いたが、彼女は首を振った。
「受け取るとき、見せてもらったので。大事に履きます」
新品の靴を見る顔を、俺は初めて見た。
さっき履いている靴の擦れを見ていた顔とも、違っていた。
店を離れてから、彼女は紙袋の持ち手を一度そろえ直した。
「それ、今日から履けばよかったね」
俺が言うと、莉緒は大きく首を振った。
「無理無理。まだ全然、馴染んでない」
「サイズ、違う?」
「サイズは合ってる。そうじゃなくて、こっちの力に」
彼女は履いている靴を、つま先だけ前へ出した。
「これ、何回も履いてるし。どこで曲がるかも、滑りやすいところも分かってる。新しいのは、まず普通に歩いてから」
適性と、親和性。
教わった言葉が頭へ浮かんだ。
でも彼女は、その二つを説明するために靴を出したわけではない。
「集めてるんだ」
「好きなの見つけると、ついね。でも、ちゃんと履くよ。置いとくだけじゃ、歩けないし」
言いながら、自分で少し笑う。
「同じのばっかり酷使しないように、順番に。帰ったら、今日のは拭く」
「靴の世話まで入れて、一日なんだ」
「そう。今日、仕事増えた」
俺が謝る前に、彼女は続けた。
「でも、来てよかったとは思ってる」
男の人の方を振り返るように、通りを見る。
もう救急の人たちはいない。黒板が元の位置へ戻され、店員が書きかけの文字を直していた。
ひかりさんが神代さんと話している間、俺たちは店先から少し離れた場所で待った。
莉緒の携帯が震える。所属先からの連絡に返事を打ち、これから戻ることを伝えていた。
「松岡さんに、あとで詳しく聞かれる」
「怒られる?」
「心配、かな。ちゃんと話す」
彼女は画面を閉じた。
それから、思い出したようにもう一度開く。
「ね、連絡先、交換しない?」
俺は一拍遅れて、顔を上げた。
「俺と?」
「ほかに誰がいるの」
言われて周囲を見そうになり、やめた。
ひかりさんと神代さんは少し離れたところにいる。確かに、俺に言っている。
「また一緒になったら、助かるし。さっきの続きも聞けるじゃん」
「続き?」
「どう見えてたのか、とか。あたし、まだよく分かってないもん」
俺だって、分からない。
でも、分からなかったことをあとから聞ける相手が増えるのは、悪くないと思った。
携帯を出して、連絡先を交換する。
画面に、梶浦莉緒、と出た。
漢字を確かめるため尋ねると、彼女は俺の画面を覗いて、一文字ずつ教えてくれた。
「遼悟も、それで合ってる?」
彼女の画面には、俺の名前があった。
俺はうなずいた。
「じゃあ、帰ったら一回送る。届くか確認」
「分かった」
今度は敬語にならなかった。
莉緒は気づいたらしく、少しだけ笑った。
***
駅へ向かう道は、途中まで一緒だった。
神代さんが先に第十二班へ状況を伝えてくれ、莉緒も自分から連絡済みだと答えた。
別れる角で、彼女が紙袋を持っていない方の手を振る。
「じゃ、またね。ひかりさん、神代さんも、ありがとうございました」
ひかりさんが手を上げ、神代さんが気をつけてと返した。
俺も手を上げる。
莉緒は信号で止まり、青へ変わるのを待ってから向こう側へ歩いていった。
今度は、追いかけてくる白い根はいなかった。
「同い年なんだって?」
ひかりさんに聞かれ、はい、と答える。
「よかったね。こっち、大人ばっかりだから」
「ひかりさんも、一つしか違わないですけど」
「その一つが違うの」
神代さんが、隣で小さく笑った。
それ以上、からかわれることはなかった。
ひかりさんは俺の足元を見て、帰ってから痛みが出たら連絡するよう言った。
「あと、今日の指示。次の練習でもやろう」
「誰かに、動いてもらう方ですか」
「うん。私、言われたとおり動いてあげるから」
それは、失敗すると困る練習だった。
でも、今日の莉緒は本当に俺の声で止まって、走った。
次の一歩を誰かに任せてもらうとは、そういうことなのだと思った。
駅の手前で、母からの連絡を思い出した。
「……卵」
口にすると、ひかりさんが振り返った。
「買い物?」
「頼まれてたの、忘れてました」
神代さんに少し待ってもらい、携帯を見る。母へ、少し遅れたがこれから買って帰る、と送った。
詳しいことは、帰ってから話す。
返信には、怪我はないのか、とあった。普段の買い物で聞かれることではない。
ない、と返すと、それなら卵は明日でもいい、と続いた。
「買ってきます。まだ、店開いてるし」
誰へ言うでもなく呟く。
ひかりさんは店の看板を見て、じゃあ寄ろう、と言った。
今度は路地へ入らず、照明のついた入口を通る。卵の棚の前では、見たものを疑わずに値札を読めた。
袋を両手で持つと、ひかりさんが、そっちはゆっくり歩きなよ、と笑った。
家へ着くと、文具の袋の中で消しゴムの箱が潰れていた。
使う分には問題ない。ノートも無事だった。
今日の買い物を机へ出していると、携帯が震える。
莉緒からだった。
『帰った! そっちは大丈夫?』
俺は、家へ着いたことと、今のところ痛いところはないことを返した。
少しして、写真が届く。
玄関にそろえられた靴が二足。今日履いていたものと、箱から出したばかりらしい新しい一足だった。
『こっちは手入れ待ち。新入りは明日から』
俺は写真を拡大した。
靴底の端に、擦れた跡が見える。
そこへ目が止まっていると、次の文が届いた。
『ちゃんと止まれた跡ってことで』
俺は少し考えてから、返した。
『次は、もっと手前で言う』
すぐに返事が来た。
『じゃ、あたしも聞いてから走る』
携帯を机へ置く。
買ってきたノートを開き、今日のことを書き始めた。
相手がどこにいたか。そのとき自分に何が見えていたか。
そこまで書いてから、もう一行足した。
何を、どう伝えたか。
窓の外を車が通る。
夕飯を呼ぶ母の声がした。
俺はノートを閉じ、椅子を引いた。




