第38話:直進する前に他人へお尋ねください
靴底が、舗装を削った。
梶浦さんは前へ出しかけた足を斜めに置き、腰を落とした。勢いが消えず、肩が半分回る。
その先に、壁があった。
さっきまで通路に見えていた場所へ、彼女の手がつく。
乾いた音がした。
俺は息を止めた。
「……あるじゃん」
壁を押したまま、彼女が言った。
「ある。壁、ある」
声が少し高かった。
俺も、うん、としか返せない。
ぶつからなかった。
でも、止まった靴のつま先から、壁までほとんど距離がなかった。あの速さで一歩出ていたら、手をつく暇もなかったかもしれない。
梶浦さんが肩越しに振り返った。
「ありがと。今の、危なかった」
返事をする前に、俺は彼女の足元を指した。
「根、来る」
白い先端が足首へ巻きつこうとしていた。
彼女は踵を上げ、根を壁との間に挟まないよう横へ抜いた。そのままこちらへ戻ってくる。
走らなかった。狭い足場を、確かめながら二歩。
花が、根を縮める。
俺たちが離れた分だけ、また一つ開いた。
「あいつ、殴り合いは弱いのかな」
「まだ、当たってないから」
「確かに。それ、言い切れないか」
梶浦さんは唇を結び、上着の袖を引いた。
壁へついた掌を見たが、血は出ていない。俺は何もない手を握り直す。
警告は間に合った。でも、たまたま配管が見えなかったら、俺も通路を通路だと思ったままだった。
眼鏡に伝力を通していても、騙される。
白い花が動く。
根が四方へ開いた。梶浦さんが一歩前へ出ると、そのうち二本が彼女を向き、残りが俺へ寄った。
俺は入口へ下がり、彼女は室外機の手前で止まる。
二人を離そうとしている、と考えかけた。
でも、それが作戦なのか、ただ二つの餌へ伸びているだけなのかは分からなかった。
「こっちへ戻って。入口、越えさせないようにしよう」
梶浦さんがうなずく。
花は路地の曲がり角へ下がった。
今度は壁に出口を作らない。根をまとめ、配管の下を滑るように動いていく。
「逃げる。右!」
梶浦さんが言った。
「左じゃ――」
俺は言いかけ、彼女を見た。
彼女も、足を出さずに俺を見る。
「右に曲がった」
「俺には、左」
二人で路地の奥へ顔を戻した。
花がいない。
左は、壁だった。
右は、建物の裏へ続く細い隙間になっている。ただ、俺が見ていたのと違う高さに、排水管がついていた。
どこを間違えて見ていたのか、順に確認しないと分からない。
「……止まってよかった、でいい?」
梶浦さんが尋ねた。
「たぶん」
「その『たぶん』、怖いなあ」
俺は眼鏡を押し上げた。
間違いだと分かるだけで、さっきまで当然だと思っていた道が崩れる。その代わりに、本当の位置がすぐ分かるわけでもなかった。
路地の入口まで戻る。
店員が、俺たちの顔を見て一歩寄ってきた。
「大丈夫? 何か、いたの?」
「奥へ行かないでください。今、詳しい人が来るので」
俺の説明に、店員は黒板の位置をもう一度直した。
救急の人は男の人を支えて、通りの先へ移動している。付き添っていた従業員が、こちらへ手を上げた。状況は引き継げたらしい。
俺は頭を下げた。
携帯を取り出すと、指先に力が入りすぎていた。
さっきの連絡先へ、見失ったことを送る。逃げた可能性があるのは裏手。位置の見間違いが起きる。甘い匂いがある。
文章を途中まで打ち、電話に切り替えた。
神代さんが出た。
「牧瀬くん。被害に遭った方は?」
「救急の人へ引き継ぎました。店の方にも、路地へ入らないようお願いしてます」
「分かった。こちらも向かっている。二人とも、痛いところや、気分の悪さはある?」
俺は梶浦さんへ聞き、手を壁についたことも伝えた。
梶浦さんは俺の携帯に向かって、大丈夫です、と答えたあと、少し考え直した。
「びっくりはしてます。あと、同じ匂いがずっと残ってる感じ」
神代さんは、そこで話を急がせなかった。
俺たちがどこから見ているか、入口の外へ戻れているかを確かめる。
「視界が合わないときは、一人で確かめに行かないで。裏手の様子は、店の方へ聞ける?」
「聞きます」
「位置が分かっても、奥へ追い込まれないこと。通行人へ近づきそうなら、それを先に知らせて」
俺はうなずいてから、電話では見えないと思い直して返事をした。
店員へ尋ねると、路地の奥は別の建物の搬入口へつながっているという。
ただし、そこには従業員が出入りする。
店員は店へ戻り、メモ用紙へ角を二つ描いてくれた。
表の通りと、裏の道路。俺には行き止まりにしか見えなかった場所の脇に、人が通れる細い経路がある。
「この裏側。こっちの壁に沿ってるの。正面からは見えないけど」
俺は図を見直した。
幻惑がなくても、知らない建物の向こう側までは分からない。見えない部分を頭の中で埋めると、そこへ別の間違いが入り込む。
店員の指が、曲がり角へ小さな丸を描いた。
「ここから先、うちの敷地じゃないから、物の位置までは分からないよ」
「分かりました。ありがとうございます」
俺は紙を撮らせてもらい、神代さんへ送った。
自分の見たことと、店員から聞いたことを分けて話す。途中で言い直したが、神代さんは急がせず、地図があると助かる、と答えた。
「荷物を持ってくる人も通るから、閉めちゃうわけにいかなくて」
その言葉を聞いて、俺は通話を続けたまま神代さんへ伝えた。
表の通りを回れば、搬入口を道路側から見られるらしい。
俺たちは、路地を抜けないことを確認した。店員が裏の店へ連絡してくれるというので、黒板を戻さないよう頼む。
靴の紙袋を預けた梶浦さんが、受け取りの札をポケットへしまった。
「すみません。もうちょっと、置かせてください」
「いいけど、本当に無理しないでね」
店員は俺たちを見て言った。
俺たちも制服を着た高校生と、靴を買いに来た女の子にしか見えない。何をするのか分からない二人を、奥へ送りたくない顔だった。
「人が入らないか、外から見てきます」
俺はそう説明した。
言いながら、それ以上を今ここで約束しないようにした。
***
大通りの角を曲がると、梶浦さんが髪を耳へ掛けた。
小さなヘアピンが夕方の光を受ける。
「あたし、梶浦莉緒。さっき、名前まで言ってなかった」
「牧瀬遼悟です」
「遼悟ね。で、敬語は?」
「……癖で」
「じゃ、あとでまた直す」
さっきもそう言われた。
今度は、少し笑えた。
彼女は歩く速さを俺へ合わせていた。
路地で見た一歩とは違う。足音は軽いが、信号のない横断箇所ではきちんと止まるし、ほかの人の間を無理に抜けない。
「どこか、痛くない?」
俺が聞くと、彼女は掌を開いた。
「平気。手より、靴底が気になる」
言ったあと、すぐ俺を見た。
「今見るほどじゃないよ。終わってから」
「あんなに動いたら、靴、大丈夫なの」
「身体だけ強くして靴がもげたら、走れないじゃん」
言われてみれば、そのとおりだった。
彼女は足首を軽く動かす。
「一緒に通してる。でも減る。さっき止まったとこ、絶対削れた」
本気で残念そうな顔だった。
俺は壁の手前で滑った靴底を思い出し、笑っていいのか迷った。
「あれ、助かったから。そこは気にしないで」
先に言われた。
莉緒は前を向いたまま、ポケットへ手を入れかけ、やめる。足元を見たくなるのを我慢したらしい。
「眼鏡、さっき光ってたよね。あれ、見つける用?」
今度は俺が聞かれた。
「見たいところを、絞る練習をしてる。全部、勝手に分かるわけじゃなくて」
「じゃ、隠れられたら?」
「見えない。音で気づくことはあるけど、さっきの換気扇みたいなのがあると、そっちも難しい」
莉緒は振り返らず、一度うなずいた。
「なら、見えるところへ出せばいいんだ」
簡単に言う。
でも、俺にもっと頑張って見ろと言うのではなく、自分が動く余地を探しているらしかった。
俺も彼女の足元を見た。どこまでなら安全に動けるのか、まだ何も知らない。
俺が見えるかどうかと、彼女が行けるかどうかは、別だった。
「走るのはできるんだけどね。どこにいるか、ああいうの探すの苦手」
「俺は見えるけど、間に合わないことがある」
「じゃ、言って。あたしが動くから」
あまりに簡単に言う。
でも、俺が壁を壁だと判断したのは、彼女が踏み込む直前だった。
「ちゃんと伝えられるか、分からない」
「じゃあ、何て言うか決めよ」
彼女はそこで、俺を見た。
「『下、左』って言われたとき、あたしの左か、そっちの左か、一瞬迷った」
胸が縮んだ。
警告できたことに安心していた。聞いた側がどこを向いているかまで、考えていなかった。
「ごめん」
「今、直せばよくない?」
莉緒は責める顔をしていなかった。
俺も前を見た。二人とも同じものを見ているとは限らない。言葉まで曖昧なら、さっきの壁へ何度でも走らせてしまう。
「まず、止まってって言う。危ないときは、それだけ」
「うん」
「動いてほしいときは、莉緒から見て、どっちか。それから、何歩までか」
名前を口にしたあとで、自分で気づいた。
彼女は何も言わず、うなずいた。
「速い一歩と、普通の一歩、同じじゃないからね」
「普通の方。最初から、全部走ってもらうんじゃなくて」
「了解」
歩きながら決めたことは、それだけだった。
完璧な作戦には見えなかった。でも、さっきの俺たちには、その程度の確認すらなかった。
***
裏手の道路は、大通りよりずっと静かだった。
搬入口の上に庇があり、壁際に台車が二台置かれている。向かいは小さな駐車スペースで、白い線の上へ落ち葉がたまっていた。
その先は細い通路になっているが、角の向こうは見えない。
飲食店の人が、扉の内側からこちらへ手を振った。
靴店から連絡をもらったという。
「裏の路地、今は通らないでください。具合を悪くされた人がいて」
俺が言うと、その人は足元を見て、扉を少し閉めた。
配送の人には別の入口へ回ってもらえるらしい。全部を封鎖することはできないが、目の前の出入りは減らせた。
莉緒が、俺の上着を軽く引いた。
「あれ」
白い花が、見えた。
台車の向こう。壁へ寄せた空の箱の隙間に、花弁の端が出ている。
俺はすぐ動かず、眼鏡へ伝力を通した。
根は、どこへ続いている。
花の下に集まっているように見える。でも、箱の側面を伝っている線が一本だけ、別の方へ折れた。
「いる、と思う。でも、まだ待って」
莉緒の足が止まる。
たったそれだけで、見比べる時間ができた。
風が庇の下を抜けた。
甘い匂いが薄れ、代わりに濡れた段ボールの匂いがする。
箱の向こうの白い花が、ほんの少し動いた。
その動きと、地面に見える根の動きが合わない。
「花だけ、ずれて見えてるかもしれない」
「本当は?」
「まだ、分からない」
言ってから、俺は壁へ寄りすぎない位置へ移った。
横から見れば、箱に隠れていた部分が見えるかもしれない。
莉緒も反対側へ一歩動く。俺たちの間が開きかけたところで、白い根が持ち上がった。
花は、箱の向こうではなかった。
台車の車輪のすぐ脇に、低く縮まっている。
気づいた瞬間、見えていた白い花が一つになった。
莉緒にも伝える。
彼女は箱と車輪を見比べ、小さく舌を鳴らした。
「それ、今言われるまで箱にいると思ってた」
根が俺へ伸びる。
後ろへ下がろうとして、踵が何かへ触れた。
壁。
さっきまで、俺の後ろは空いていたはずだった。
振り返ると、灰色の面がすぐそこにある。袋小路に入った、と思った瞬間、呼吸が速くなった。
「遼悟、後ろ、台車! 壁じゃない!」
莉緒の声がした。
灰色の面が、平らな荷台へ戻る。
踵が触れたのは、車輪止めだった。
俺は足を引き、横へ出た。
白い根が制服の裾をかすめる。そこへ一瞬まとわりついた伝力の流れを見て、急いで身体を離した。
接触が続く前に、莉緒が根を弾く。
「俺も、変に見えた」
「うん。言えば戻るっぽいね」
戻ったから大丈夫、ではなかった。
鼻の奥には、甘さが残っている。
入口で感じたより、今の方が景色を見落としやすい。花を探していたはずなのに、台車と壁の違いすら確かめなかった。
「吸ってると、増えるのかも」
「匂い?」
「たぶん。最初、あの人もそう言ってた。近くにいるほど、変に見えるところが増えてる」
莉緒は顔を背け、風の来る方へ一歩ずれた。
俺も並ぶ。
それでもすぐには晴れない。遠くの窓に映る自分の肩が、一瞬、知らない人のものに見えた。
携帯を出し、神代さんへ今の位置を送った。
匂いを吸うほど見間違いが増える気がすること。二人とも声を掛けると気づけること。搬入口の人には下がってもらったこと。
短く打つつもりが長くなり、途中でやめた。
莉緒が俺の前へ立っている。
俺が画面を見ている間、彼女だけが花を見ていた。
「送った」
「じゃ、見てて。こっちだけじゃ当たんない」
俺は携帯をしまった。
花が、搬入口の扉へ向きを変える。向こうには人がいる。
莉緒が横へ動くと、その足の方へ根が曲がった。こちらの方が欲しい。そんな動きに見えた。
「来たら、下がれる?」
俺が聞くと、莉緒は後ろを見た。
「この白い線までなら。向こう、段差あるから、それ以上は嫌」
指さされた先には、雨水を逃がす浅い溝があった。
俺は花の位置ばかり見ていて、そこを見ていなかった。
莉緒は線の手前へ踵を置き、もう一度前を向く。根が近づくと、小さく足を引いた。
引き寄せるつもりで動いたのではないかもしれない。それでも、根が伸びた分だけ、付け根が台車の陰からずれる。
「そこ、もう一回できる?」
「何が見えた?」
「根の集まってるところ。隠れてたところが、ちょっと」
「分かった。でも、飛び込むのは待ってね」
俺はうなずいた。
彼女が位置を作り、俺が確かめる。その順番なら、声を掛ける前に置いていかれずに済んだ。
逃げたはずなのに、遠くへは行かなかった。
俺たちから離れきらず、また触れられる場所で止まっている。
俺は白い根を見た。
花弁より低いところ。舗装に沿って移る線。車輪へ触れ、避け、同じ付け根へ戻っていく。
その付け根を箱が隠したら見えなくなる。だから、今見えている間に伝える。
「莉緒から見て、左。台車の手前に、本体がいる」
彼女はすぐ走らなかった。
「足場は?」
俺は地面へ目を落とした。
駐車の白線。その脇の落ち葉。浮いた舗装の縁。目だけで通れると決めず、自分の足を一度置く。
「俺の右の白線まで、普通に二歩。そこなら、前が見える」
莉緒が移った。
根がその動きを追い、花の位置がまた揺れる。
俺は一度瞬きをし、根の付け根を見直した。
「今のは、ずれた。花は追わないで」
「見てない。そっち聞いてる」
彼女の身体は、前へ出られる角度になっていた。
俺の声が遅れれば、それだけ足を止めて待たせることになる。
急いで言うのと、確かめずに言うのは違う。
白い花の膜が、ひときわ大きく開いた。
甘さが濃くなる。
台車の向こうが、一瞬、長い廊下に見えた。
「奥は通路じゃない。扉までしかない」
俺は、まず自分へ聞かせた。
莉緒が扉の取っ手を指す。その位置を見直すと、廊下は消えた。
次に、足元を見る。
根が前へ出る。避けるために引いた先で、付け根が台車の陰から現れた。
そこだ。
「そのまま二歩先。低く、左足側!」
莉緒の靴へ、伝力が集まった。
今度は長く走らない。
彼女は俺へ一度だけうなずき、地面を蹴った。




