↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
球体世界の観測者 ~見えるだけの少年は、陰陽寮で世界の裏側を知る~  作者: 雅貴
第2章第4節

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
38/53

第38話:直進する前に他人へお尋ねください

靴底が、舗装を削った。


梶浦さんは前へ出しかけた足を斜めに置き、腰を落とした。勢いが消えず、肩が半分回る。

その先に、壁があった。


さっきまで通路に見えていた場所へ、彼女の手がつく。

乾いた音がした。

俺は息を止めた。


「……あるじゃん」


壁を押したまま、彼女が言った。


「ある。壁、ある」


声が少し高かった。

俺も、うん、としか返せない。


ぶつからなかった。

でも、止まった靴のつま先から、壁までほとんど距離がなかった。あの速さで一歩出ていたら、手をつく暇もなかったかもしれない。


梶浦さんが肩越しに振り返った。


「ありがと。今の、危なかった」


返事をする前に、俺は彼女の足元を指した。


「根、来る」


白い先端が足首へ巻きつこうとしていた。

彼女は踵を上げ、根を壁との間に挟まないよう横へ抜いた。そのままこちらへ戻ってくる。

走らなかった。狭い足場を、確かめながら二歩。


花が、根を縮める。

俺たちが離れた分だけ、また一つ開いた。


「あいつ、殴り合いは弱いのかな」


「まだ、当たってないから」


「確かに。それ、言い切れないか」


梶浦さんは唇を結び、上着の袖を引いた。

壁へついた掌を見たが、血は出ていない。俺は何もない手を握り直す。

警告は間に合った。でも、たまたま配管が見えなかったら、俺も通路を通路だと思ったままだった。


眼鏡に伝力を通していても、騙される。


白い花が動く。

根が四方へ開いた。梶浦さんが一歩前へ出ると、そのうち二本が彼女を向き、残りが俺へ寄った。

俺は入口へ下がり、彼女は室外機の手前で止まる。

二人を離そうとしている、と考えかけた。

でも、それが作戦なのか、ただ二つの餌へ伸びているだけなのかは分からなかった。


「こっちへ戻って。入口、越えさせないようにしよう」


梶浦さんがうなずく。

花は路地の曲がり角へ下がった。

今度は壁に出口を作らない。根をまとめ、配管の下を滑るように動いていく。


「逃げる。右!」


梶浦さんが言った。


「左じゃ――」


俺は言いかけ、彼女を見た。

彼女も、足を出さずに俺を見る。


「右に曲がった」


「俺には、左」


二人で路地の奥へ顔を戻した。


花がいない。


左は、壁だった。

右は、建物の裏へ続く細い隙間になっている。ただ、俺が見ていたのと違う高さに、排水管がついていた。

どこを間違えて見ていたのか、順に確認しないと分からない。


「……止まってよかった、でいい?」


梶浦さんが尋ねた。


「たぶん」


「その『たぶん』、怖いなあ」


俺は眼鏡を押し上げた。

間違いだと分かるだけで、さっきまで当然だと思っていた道が崩れる。その代わりに、本当の位置がすぐ分かるわけでもなかった。


路地の入口まで戻る。

店員が、俺たちの顔を見て一歩寄ってきた。


「大丈夫? 何か、いたの?」


「奥へ行かないでください。今、詳しい人が来るので」


俺の説明に、店員は黒板の位置をもう一度直した。

救急の人は男の人を支えて、通りの先へ移動している。付き添っていた従業員が、こちらへ手を上げた。状況は引き継げたらしい。

俺は頭を下げた。


携帯を取り出すと、指先に力が入りすぎていた。

さっきの連絡先へ、見失ったことを送る。逃げた可能性があるのは裏手。位置の見間違いが起きる。甘い匂いがある。

文章を途中まで打ち、電話に切り替えた。


神代さんが出た。


「牧瀬くん。被害に遭った方は?」


「救急の人へ引き継ぎました。店の方にも、路地へ入らないようお願いしてます」


「分かった。こちらも向かっている。二人とも、痛いところや、気分の悪さはある?」


俺は梶浦さんへ聞き、手を壁についたことも伝えた。

梶浦さんは俺の携帯に向かって、大丈夫です、と答えたあと、少し考え直した。


「びっくりはしてます。あと、同じ匂いがずっと残ってる感じ」


神代さんは、そこで話を急がせなかった。

俺たちがどこから見ているか、入口の外へ戻れているかを確かめる。


「視界が合わないときは、一人で確かめに行かないで。裏手の様子は、店の方へ聞ける?」


「聞きます」


「位置が分かっても、奥へ追い込まれないこと。通行人へ近づきそうなら、それを先に知らせて」


俺はうなずいてから、電話では見えないと思い直して返事をした。


店員へ尋ねると、路地の奥は別の建物の搬入口へつながっているという。

ただし、そこには従業員が出入りする。


店員は店へ戻り、メモ用紙へ角を二つ描いてくれた。

表の通りと、裏の道路。俺には行き止まりにしか見えなかった場所の脇に、人が通れる細い経路がある。


「この裏側。こっちの壁に沿ってるの。正面からは見えないけど」


俺は図を見直した。

幻惑がなくても、知らない建物の向こう側までは分からない。見えない部分を頭の中で埋めると、そこへ別の間違いが入り込む。

店員の指が、曲がり角へ小さな丸を描いた。


「ここから先、うちの敷地じゃないから、物の位置までは分からないよ」


「分かりました。ありがとうございます」


俺は紙を撮らせてもらい、神代さんへ送った。

自分の見たことと、店員から聞いたことを分けて話す。途中で言い直したが、神代さんは急がせず、地図があると助かる、と答えた。


「荷物を持ってくる人も通るから、閉めちゃうわけにいかなくて」


その言葉を聞いて、俺は通話を続けたまま神代さんへ伝えた。

表の通りを回れば、搬入口を道路側から見られるらしい。

俺たちは、路地を抜けないことを確認した。店員が裏の店へ連絡してくれるというので、黒板を戻さないよう頼む。


靴の紙袋を預けた梶浦さんが、受け取りの札をポケットへしまった。


「すみません。もうちょっと、置かせてください」


「いいけど、本当に無理しないでね」


店員は俺たちを見て言った。

俺たちも制服を着た高校生と、靴を買いに来た女の子にしか見えない。何をするのか分からない二人を、奥へ送りたくない顔だった。


「人が入らないか、外から見てきます」


俺はそう説明した。

言いながら、それ以上を今ここで約束しないようにした。


***


大通りの角を曲がると、梶浦さんが髪を耳へ掛けた。

小さなヘアピンが夕方の光を受ける。


「あたし、梶浦莉緒。さっき、名前まで言ってなかった」


「牧瀬遼悟です」


「遼悟ね。で、敬語は?」


「……癖で」


「じゃ、あとでまた直す」


さっきもそう言われた。

今度は、少し笑えた。


彼女は歩く速さを俺へ合わせていた。

路地で見た一歩とは違う。足音は軽いが、信号のない横断箇所ではきちんと止まるし、ほかの人の間を無理に抜けない。


「どこか、痛くない?」


俺が聞くと、彼女は掌を開いた。


「平気。手より、靴底が気になる」


言ったあと、すぐ俺を見た。


「今見るほどじゃないよ。終わってから」


「あんなに動いたら、靴、大丈夫なの」


「身体だけ強くして靴がもげたら、走れないじゃん」


言われてみれば、そのとおりだった。

彼女は足首を軽く動かす。


「一緒に通してる。でも減る。さっき止まったとこ、絶対削れた」


本気で残念そうな顔だった。

俺は壁の手前で滑った靴底を思い出し、笑っていいのか迷った。


「あれ、助かったから。そこは気にしないで」


先に言われた。

莉緒は前を向いたまま、ポケットへ手を入れかけ、やめる。足元を見たくなるのを我慢したらしい。


「眼鏡、さっき光ってたよね。あれ、見つける用?」


今度は俺が聞かれた。


「見たいところを、絞る練習をしてる。全部、勝手に分かるわけじゃなくて」


「じゃ、隠れられたら?」


「見えない。音で気づくことはあるけど、さっきの換気扇みたいなのがあると、そっちも難しい」


莉緒は振り返らず、一度うなずいた。


「なら、見えるところへ出せばいいんだ」


簡単に言う。

でも、俺にもっと頑張って見ろと言うのではなく、自分が動く余地を探しているらしかった。

俺も彼女の足元を見た。どこまでなら安全に動けるのか、まだ何も知らない。

俺が見えるかどうかと、彼女が行けるかどうかは、別だった。


「走るのはできるんだけどね。どこにいるか、ああいうの探すの苦手」


「俺は見えるけど、間に合わないことがある」


「じゃ、言って。あたしが動くから」


あまりに簡単に言う。

でも、俺が壁を壁だと判断したのは、彼女が踏み込む直前だった。


「ちゃんと伝えられるか、分からない」


「じゃあ、何て言うか決めよ」


彼女はそこで、俺を見た。


「『下、左』って言われたとき、あたしの左か、そっちの左か、一瞬迷った」


胸が縮んだ。

警告できたことに安心していた。聞いた側がどこを向いているかまで、考えていなかった。


「ごめん」


「今、直せばよくない?」


莉緒は責める顔をしていなかった。

俺も前を見た。二人とも同じものを見ているとは限らない。言葉まで曖昧なら、さっきの壁へ何度でも走らせてしまう。


「まず、止まってって言う。危ないときは、それだけ」


「うん」


「動いてほしいときは、莉緒から見て、どっちか。それから、何歩までか」


名前を口にしたあとで、自分で気づいた。

彼女は何も言わず、うなずいた。


「速い一歩と、普通の一歩、同じじゃないからね」


「普通の方。最初から、全部走ってもらうんじゃなくて」


「了解」


歩きながら決めたことは、それだけだった。

完璧な作戦には見えなかった。でも、さっきの俺たちには、その程度の確認すらなかった。


***


裏手の道路は、大通りよりずっと静かだった。

搬入口の上に庇があり、壁際に台車が二台置かれている。向かいは小さな駐車スペースで、白い線の上へ落ち葉がたまっていた。

その先は細い通路になっているが、角の向こうは見えない。


飲食店の人が、扉の内側からこちらへ手を振った。

靴店から連絡をもらったという。


「裏の路地、今は通らないでください。具合を悪くされた人がいて」


俺が言うと、その人は足元を見て、扉を少し閉めた。

配送の人には別の入口へ回ってもらえるらしい。全部を封鎖することはできないが、目の前の出入りは減らせた。


莉緒が、俺の上着を軽く引いた。


「あれ」


白い花が、見えた。

台車の向こう。壁へ寄せた空の箱の隙間に、花弁の端が出ている。


俺はすぐ動かず、眼鏡へ伝力を通した。

根は、どこへ続いている。

花の下に集まっているように見える。でも、箱の側面を伝っている線が一本だけ、別の方へ折れた。


「いる、と思う。でも、まだ待って」


莉緒の足が止まる。

たったそれだけで、見比べる時間ができた。


風が庇の下を抜けた。

甘い匂いが薄れ、代わりに濡れた段ボールの匂いがする。

箱の向こうの白い花が、ほんの少し動いた。

その動きと、地面に見える根の動きが合わない。


「花だけ、ずれて見えてるかもしれない」


「本当は?」


「まだ、分からない」


言ってから、俺は壁へ寄りすぎない位置へ移った。

横から見れば、箱に隠れていた部分が見えるかもしれない。

莉緒も反対側へ一歩動く。俺たちの間が開きかけたところで、白い根が持ち上がった。


花は、箱の向こうではなかった。

台車の車輪のすぐ脇に、低く縮まっている。


気づいた瞬間、見えていた白い花が一つになった。

莉緒にも伝える。

彼女は箱と車輪を見比べ、小さく舌を鳴らした。


「それ、今言われるまで箱にいると思ってた」


根が俺へ伸びる。

後ろへ下がろうとして、踵が何かへ触れた。


壁。


さっきまで、俺の後ろは空いていたはずだった。

振り返ると、灰色の面がすぐそこにある。袋小路に入った、と思った瞬間、呼吸が速くなった。


「遼悟、後ろ、台車! 壁じゃない!」


莉緒の声がした。

灰色の面が、平らな荷台へ戻る。

踵が触れたのは、車輪止めだった。


俺は足を引き、横へ出た。

白い根が制服の裾をかすめる。そこへ一瞬まとわりついた伝力の流れを見て、急いで身体を離した。

接触が続く前に、莉緒が根を弾く。


「俺も、変に見えた」


「うん。言えば戻るっぽいね」


戻ったから大丈夫、ではなかった。

鼻の奥には、甘さが残っている。

入口で感じたより、今の方が景色を見落としやすい。花を探していたはずなのに、台車と壁の違いすら確かめなかった。


「吸ってると、増えるのかも」


「匂い?」


「たぶん。最初、あの人もそう言ってた。近くにいるほど、変に見えるところが増えてる」


莉緒は顔を背け、風の来る方へ一歩ずれた。

俺も並ぶ。

それでもすぐには晴れない。遠くの窓に映る自分の肩が、一瞬、知らない人のものに見えた。


携帯を出し、神代さんへ今の位置を送った。

匂いを吸うほど見間違いが増える気がすること。二人とも声を掛けると気づけること。搬入口の人には下がってもらったこと。

短く打つつもりが長くなり、途中でやめた。


莉緒が俺の前へ立っている。

俺が画面を見ている間、彼女だけが花を見ていた。


「送った」


「じゃ、見てて。こっちだけじゃ当たんない」


俺は携帯をしまった。

花が、搬入口の扉へ向きを変える。向こうには人がいる。

莉緒が横へ動くと、その足の方へ根が曲がった。こちらの方が欲しい。そんな動きに見えた。


「来たら、下がれる?」


俺が聞くと、莉緒は後ろを見た。


「この白い線までなら。向こう、段差あるから、それ以上は嫌」


指さされた先には、雨水を逃がす浅い溝があった。

俺は花の位置ばかり見ていて、そこを見ていなかった。

莉緒は線の手前へ踵を置き、もう一度前を向く。根が近づくと、小さく足を引いた。

引き寄せるつもりで動いたのではないかもしれない。それでも、根が伸びた分だけ、付け根が台車の陰からずれる。


「そこ、もう一回できる?」


「何が見えた?」


「根の集まってるところ。隠れてたところが、ちょっと」


「分かった。でも、飛び込むのは待ってね」


俺はうなずいた。

彼女が位置を作り、俺が確かめる。その順番なら、声を掛ける前に置いていかれずに済んだ。


逃げたはずなのに、遠くへは行かなかった。

俺たちから離れきらず、また触れられる場所で止まっている。


俺は白い根を見た。

花弁より低いところ。舗装に沿って移る線。車輪へ触れ、避け、同じ付け根へ戻っていく。

その付け根を箱が隠したら見えなくなる。だから、今見えている間に伝える。


「莉緒から見て、左。台車の手前に、本体がいる」


彼女はすぐ走らなかった。


「足場は?」


俺は地面へ目を落とした。

駐車の白線。その脇の落ち葉。浮いた舗装の縁。目だけで通れると決めず、自分の足を一度置く。


「俺の右の白線まで、普通に二歩。そこなら、前が見える」


莉緒が移った。

根がその動きを追い、花の位置がまた揺れる。

俺は一度瞬きをし、根の付け根を見直した。


「今のは、ずれた。花は追わないで」


「見てない。そっち聞いてる」


彼女の身体は、前へ出られる角度になっていた。

俺の声が遅れれば、それだけ足を止めて待たせることになる。

急いで言うのと、確かめずに言うのは違う。


白い花の膜が、ひときわ大きく開いた。

甘さが濃くなる。

台車の向こうが、一瞬、長い廊下に見えた。


「奥は通路じゃない。扉までしかない」


俺は、まず自分へ聞かせた。

莉緒が扉の取っ手を指す。その位置を見直すと、廊下は消えた。


次に、足元を見る。

根が前へ出る。避けるために引いた先で、付け根が台車の陰から現れた。


そこだ。


「そのまま二歩先。低く、左足側!」


莉緒の靴へ、伝力が集まった。

今度は長く走らない。

彼女は俺へ一度だけうなずき、地面を蹴った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。