第37話:お客様、そちらは通路ではございません
買うものは、消しゴムとノートだけだった。
それなのに、文具店を出たときには、袋の中に替え芯と付箋まで入っていた。眼鏡に伝力を通す練習をしても、財布から金が出ていく流れを止める能力は身につかないらしい。
商店街の時計は、四時を少し回っている。
今日は陰陽寮へ寄る予定がなかった。学校帰りに買い物を済ませて、家で課題をやる。それだけの日にするつもりだった。
制服の袖から出た手が、少し冷たい。
母から、帰りに卵を頼めるかと連絡が来ていた。買える、と返すと、割らないようにね、とすぐ返ってくる。
小学生ではない。
そう打ちかけ、やめた。外側へ出かける許可をもらっていても、家の買い物では信用が増えていないらしい。
文具の袋を鞄へしまい、両手を空ける。
教室では今日、週末の予定を聞かれた。
俺はアルバイトと答えた。それ以上を説明できず、忙しそうだな、とだけ言われて話が終わった。
嘘ばかり言っているつもりはない。でも、話せるところまで話すと、いちばん長くいた場所が丸ごと抜け落ちる。
そんなことを考えながら歩く日にも、駅前の信号は同じ長さで赤になる。
通りの人たちは、上着を買う相談や、夕飯の献立の話をしていた。
外側で見た白い町とは違い、この通りには電柱があり、頭上を配線が渡っていた。歩道の端に自転車が並び、焼き鳥の匂いとバスの排気が混ざっている。
知っている店の看板がある。それだけで、今日は何も起きない気がした。
靴店の前で、店員が黒板を書き替えていた。
入荷、という文字の下に、俺には読み方の分からない名前が並んでいる。隣の店は夕方の仕込み中らしく、裏口から金属のぶつかる音がした。
その音の間に、人の声があった。
「……すみません」
足を止める。
通りで俺を呼ぶ人はいなかった。顔を上げた買い物客も、そのまま駅の方へ歩いていく。
もう一度、かすれた声がした。
文具店と飲食店の間に、人が一人通れる程度の路地がある。表から見えるのは、室外機と、緑色のホースと、積まれた空き箱だった。
その手前に、革靴の先が出ている。
「大丈夫ですか」
声を掛けてから、路地の入口へ寄った。
男の人が、壁にもたれて座っていた。俺の父より少し若く見える。膝の上に仕事用らしい鞄があり、持ち手を握った指だけが白かった。
「すみません。ちょっと、立てなくて」
酔っているような喋り方ではない。
額に汗が浮いているのに、顔はひどく青かった。
「どこか痛いですか。転びました?」
「いや、急に、足が」
近くでしゃがむと、甘い匂いがした。
菓子を焼く匂いとも、店先の芳香剤とも違う。どこかで嗅いだ気がするのに、何の花だったか思い出せない。
「あっちへ、出ようとしたんです」
男の人は、路地の奥を指した。
「出口が、見えたから」
奥には灰色の壁があった。
非常階段の下が暗くなっているだけで、通り抜けられそうな隙間はない。
俺は返事をしかけ、男の人の足元を見た。
細いものが、靴の縁へ絡んでいた。
白い。
紙の切れ端かと思ったそれが、ゆっくりと縮む。
布でも、落ちたコードでもない。曲がるたびに、淡い伝力が表面を走っていた。
胃の辺りが冷たくなった。
俺は男の人の顔へ視線を戻した。膝の上の鞄から手を離そうとしているが、指がなかなか開かない。
足元の白い線から、その人の方へ、さらに細い線が伸びている。流れは逆だった。男の人から、路地の奥へ引かれている。
「少し、こっちへ動けますか」
できるだけ普通に言った。
白い線は、まだ靴から離れない。
鞄を置き、制服の上着の袖を引いた。男の人の肘を支えようとする。自分がいきなり持ち上げればいい、と思いかけてやめた。何が起きているかも分からないのに、無理に動かしていいか判断できない。
男の人の鞄が、膝から滑った。
本人が慌てて持ち直そうとする。その動きだけで肩が震えた。
「鞄、俺が持ちます。ここへ置きますね」
手の届く入口側へ移すと、少しだけ指の力が抜けた。
鞄には、折れた傘と、昼食の袋らしいものが差してあった。通り過ぎるはずだった誰かの、帰り道の荷物だ。
こんなところで壁にもたれているつもりはなかったのだろう。
俺は自分の鞄も、入口側へ引き寄せた。
眼鏡に力を通すか。携帯を出すか。根を引き離すか。
考えが同時に浮かび、どれも先へ進まない。
前なら、お守りに手を伸ばしていた。今はそれだけでは駄目だと知っている。その分、先に何をするかまで、自分で選ばないといけなかった。
まず、この人を白い根から離す。
そう決めて、差し出した手を引っ込めないようにした。
「入口の方へ。ゆっくりで、いいです」
そのとき、白い線の向きが変わった。
男の人の靴から、するするとほどける。
路地の奥で、何かが開いた。
花に見えた。
白い花弁が幾重にも重なり、その下から細い根が伸びている。花瓶はない。茎も、俺が知っている花のようにはつながっていなかった。
壁と室外機の隙間に縮まっていたものが、根を一本ずつ持ち上げる。
顔があるはずの場所に、花だけがあった。
一歩、近づいてきた。
男の人から離れた根が、俺の足元へ伸びる。
俺は肘を支えたまま、踵を半歩ずらした。根が、さっきまで靴のあった舗装を撫でる。
背中を向けて走れば、俺だけなら表へ戻れる。
その距離は分かった。
でも、支えている肘から手を離したら、この人はまた同じ場所へ座り込む。
俺は鞄を足で入口側へ寄せ、空いた場所へ自分の足を置いた。大きく逃げなくても、触れられなければいい。
訓練で何度も言われた一歩が、今日は知らない人の体重を支える一歩になっていた。
根の先を見て、次に置く場所を探す。
見えている。身体も、まだ動く。
鞄の中に、お守りはある。
でも、それを出して触れさせれば済む相手ではない。
「大丈夫ですか?」
背後から、明るい声がした。
振り向くと、女の子が路地の入口に立っていた。
明るい茶色の髪を小さなピンで留め、薄手の上着に細身のパンツを合わせている。片手には、靴店の大きな紙袋。
袋より先に目に入ったのは、彼女の履いている靴だった。白地に鮮やかな色が入り、紐の結び目がきれいに収まっている。
「おじさん、具合悪いの?」
「そうみたいで。すみません、救急車を――」
そこまで言ったとき、白い根が彼女の方へ曲がった。
俺へ向かっていた先端が、迷うように空中を撫でる。それから紙袋の下、彼女の足首へ伸びた。
花弁が、もう一段大きく開く。
「足元!」
彼女は聞き返さなかった。
靴の底が地面を打ち、身体が横へ抜ける。
速い。
避けたというより、立っていた場所だけを置いていったようだった。
白い根が空振りし、入口の排水溝へ落ちた。
女の子は紙袋を胸へ抱え直し、俺と路地の奥を見比べた。
「……見えてる?」
「はい」
「だよね。今の言い方、そうだよね」
彼女は一度だけ息を吐き、入口の外へ紙袋を置いた。通行人が蹴らないよう、靴店の壁際へ寄せる。
それから、俺の隣へ戻ってきた。
「こっち、肩持てる?」
言いながら男の人へ膝をつき、片側の腕を支えた。
根は男の人へ戻らなかった。花が揺れるたび、俺か、彼女か、どちらかへ先端が向く。
「立たなくていいです。ちょっとずつ、入口へずれましょ」
彼女の声に、男の人がうなずく。
俺たちは歩かせるのではなく、支えながら少しずつ表へ近づいた。男の人は自分で足を動かせたが、体重を預けると膝が震えた。
背中側で、根が舗装をこする音がする。
追いつかれる。
そう思って力を通しかけたとき、女の子が俺を見た。
「そのまま。見といて」
彼女の片足が、短く動いた。
迫った根を横から蹴り払い、すぐ同じ位置へ戻る。足首に薄く伝力がまとわり、靴の縁まで途切れずに続いていた。
根が引っ込む。
俺たちはその間に、男の人を入口の明るい場所へ移した。
靴店の店員が、ようやくこちらを見た。
「どうかされました?」
俺は、男の人が動けなくなったことと、救急車を呼びたいことを伝えた。店員は顔色を見ると、すぐ奥から椅子を持ってきた。
男の人を座らせ、電話で場所と様子を答える。通話の向こうから質問されるたび、本人にも確かめた。
店員が、店の前で付き添ってくれると言った。
俺は携帯を持ったまま、路地へ目を戻す。
白い花は、まだ奥にいた。
入口まで出てこない。室外機の影で、根を一本持ち上げている。
袋を持って歩く人たちは、その前を何も知らずに通り過ぎた。
「あそこ、誰も入らないようにできますか。床に、何かあるみたいで」
説明が曖昧になった。
それでも店員は男の人の様子を見て、頷いてくれた。黒板を路地の入口寄りへ動かし、ほかの従業員を呼ぶ。
女の子が俺の横へ並んだ。
「陰陽寮?」
人の通る音に紛れるくらいの声だった。
「第十一班、牧瀬です」
「十二班の梶浦。……じゃあ、話が早いね」
ようやく、彼女が少し笑った。
俺は所属先へ連絡を入れた。場所、動けなくなった被害者が一人、白い花のような実体のある干衝体。第十二班の梶浦さんと一緒にいること。
答えながら、路地の奥に視線を置き続ける。
今は追わず、人を入れないこと。近くの者を向かわせる、と返事があった。
「梶浦さんも、連絡を」
「今する。あと、さんじゃなくていいよ。同じくらいじゃない?」
「高一です」
「一緒。じゃ、あとで直そ」
彼女も携帯を出した。
話す内容は俺と似ていたが、受け取った靴の袋を店へ預けることまで伝えていた。そこまでいるのかと思ったあとで、外出先と所在を確かめているのだと分かった。
救急の人が来るまで、俺たちは入口から離れなかった。
店員が持ってきた上着を膝へ掛けられ、男の人は少しずつ長く話せるようになった。
「変な、匂いがしたんです」
その言葉に、俺は鼻の奥へ残る甘さを意識した。
「こっちにも通れるところがあると思って。会社に遅れるから、近道を」
男の人が指した先には、やっぱり壁しかない。
俺には何かが見えている。でも、その人と同じものを見ていたわけではないらしい。
梶浦さんが路地の奥を睨む。
「あたし、ああいうの初めて」
「俺もです」
「それは、あんまり心強くないなあ」
言いながら、彼女は笑わなかった。
足元に白い根が出ていないか、一度ずつ確かめている。
「それ、靴の新しいやつ?」
俺は入口の外へ置かれた紙袋を見た。
彼女が一瞬、同じ方を向く。
「今日入ったって。取り置きしてもらってた」
「そっか」
その先が続かなかった。
場違いな話をした気がした。でも、彼女は袋の位置を確かめてから、俺へ顔を戻した。
「そっちは学校帰り?」
「うん。ノート、買って」
「お互い、予定と違うね」
俺はうなずいた。
彼女がいつから陰陽寮にいるのか、どんなことができるのかも知らない。同い年で、靴を受け取りに来た。それだけ知ると、隣に立つ相手へ声を掛けやすくなった。
足元で根が動いた。
俺が指さすより先に、彼女も気づく。
二人で同じ場所を見ている。そのつもりでいた。
通りへ救急の人が来て、俺たちは端へ下がった。電話で伝えたことを繰り返し、男の人が倒れていた場所も説明する。
何に襲われたかまで、俺には説明できなかった。ただ、急に力が入らなくなったことは、本人が話してくれた。
店員が目撃した後の状況も引き継いでくれる。
花が、動いた。
路地の奥へ縮む。
逃げるのかと思ったが、根の先は俺たちの方を向いたままだった。手招きのように曲がり、壁の陰へ消える。
その向こうに、夕方の光が見えた。
通り抜けられる。
反射的にそう思い、俺は一歩出しかけた。
「そこ、さっき壁だったよね」
梶浦さんの声に、足が止まる。
見えていた夕日が、灰色の壁へ戻った。
俺はまばたきをした。
何かを破った手応えはない。ただ、言われれば当然だった。路地の形がそんなに急に変わるわけがない。
なのに、言われるまで変だと思わなかった。
「今、出口に見えた」
「あたしも。でも、あのおじさんも同じこと言ってたし」
梶浦さんは、指で自分の鼻の下をこすった。
「甘くない?」
「甘いです」
二人で一度、表の空気へ顔を向けた。
焼き鳥の煙の方が、今はずっと安心できる匂いだった。
携帯が震えた。
応援が向かっている。被害者を引き継いだなら入口を確保し、見失った場合は無理に踏み込まないように、とある。
俺は今見えたものを追加で送った。
その最中、白い根が入口へ走った。
靴店の黒板の下を抜け、通りへ出かける。
近くには、救急の人の様子を見ようと立ち止まった買い物客がいた。
「来る!」
梶浦さんが一歩で前へ出た。
根を踏みつけるのではなく、靴の側面で路地の方へ弾く。乾いた音がし、白いものが空き箱へぶつかった。
人の視線がこちらへ向く。
通りを歩いていた若い男の人が、足を止めた。
「何? 蛇?」
何が見えたのか、俺には分からなかった。
首を伸ばして奥を覗こうとする。その後ろには、手をつないだ親子がいた。
俺は路地の正面ではなく、通行人から中が見えにくい方へ立ち直した。
危ないと言うだけで、みんながすぐ離れるわけではない。何が危ないのか確かめようとして、寄ってくる人もいる。
「中へ入らないでください。具合が悪くなった人がいて、確認してるので」
店員が黒板の前へ立ってくれた。
若い男の人はようやく足を戻し、親子も歩道の反対側へ寄る。
俺一人で入口を見ながら、路地の奥まで確かめるのは無理だった。
隣の女の子が前にいる。それを当てにしている自分に気づいた。
「危ないので、少し離れてください!」
俺は入口の外へ手を広げた。
店員も声を掛けてくれる。梶浦さんが奥へ一歩入ると、花が大きく振れた。
こちらを見ている。
目はないのに、それだけは分かった。
「表に出すの、まずいね」
「はい」
「あたしが止める。入口、見てて」
梶浦さんは壁と室外機の間へ身体を入れた。
狭い。足を振り回す余裕もないはずなのに、前へ置く足の向きを少し変え、靴の裏を地面へ押しつけている。
伝力が、踵からつま先へ移った。
彼女が踏み出す。
大きく跳んだようには見えなかった。それでも、一度の踏み込みで花のすぐ手前へ届いていた。
蹴りが、白い花を横から捉える。
はずだった。
靴の先には何もなかった。
花が、横へずれる。
その下の根が遅れて動き、梶浦さんの軸足へ伸びた。
「下、左!」
彼女は膝を引き、室外機の横へ着地した。
袖が配管に触れる。金属の小さな音がした。
「今、そこにいたじゃん!」
いた。
俺にも、そう見えた。
眼鏡へ伝力を通す。
見たいものを絞る。花弁の白さではなく、根の付け根に続く流れ。
でも、室外機の向こうへ隠れれば見えない。見えた流れと、花の位置が合っているか、確かめる前に彼女が次の足を置く。
「ちょっと、待って」
俺の声と、換気扇の音が重なった。
花が奥へ下がる。
梶浦さんの前に、細い通路が開いた。
人一人なら抜けられる。俺はその先を見て、背中が冷えた。
通路の真ん中を、赤茶色の配管が横切っている。
その配管を支える金具が、何もない空中についていた。
違う。
金具があるなら、そこには――。
梶浦さんの靴が光った。
止めなければ、次の一歩で届いてしまう。
「止まって! そこ、壁!」
彼女の肩が揺れた。
俺は声を張ったまま、踏み出しかけた足を地面へ戻せなかった。




