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球体世界の観測者 ~見えるだけの少年は、陰陽寮で世界の裏側を知る~  作者: 雅貴
第2章第3節

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第36話:上司の取扱説明書は…はい、ないですよね

家へ帰ると、母さんは時計を見てから俺を見た。

午後八時には、まだ余裕がある。

俺は鞄を下ろし、予定どおり帰ったと伝えた。


「おかえり。先に、手を洗ってきなさい」


外側の話を聞かれると思っていたので、少し拍子抜けした。

洗面所で水を出す。


指先へ、石の粉が少し残っていた。


石の色が、水に混じって薄くなる。指の間を洗うと、何も持っていないのに力が入っていたことに気づいた。

鏡には、いつもの洗面所が映る。壁のタオルと、家族の歯ブラシと、俺の顔。

自分だけ少し変わったような気がしても、映っている眼鏡は同じだった。

こめかみへ触れる。痛むほどではないが、長く通していたあとには重さがある。

今日はもう、使わない。

そう決めて手を拭くと、居間から姉が何か言う声が聞こえた。伝力の音ではなく、テレビへの文句だった。

戻ってきた感じが、そこでやっと強くなった。

袖の擦れたところも見える。


食卓へ戻ると、姉が俺の上着を見た。


「そのインターン、服の修理代出る?」


言い返す前に、母さんも袖を見る。

俺は、怪我はないと先に伝えた。

それから、あったことを全部ではないけれど話した。

助けてもらったこと。

自分で見つけたこと。

怖かったこと。


父は、途中で強くなれたかとは聞かなかった。

帰る道があったか、連絡できたかを聞いた。

俺は返事をしながら、認証具のケースを鞄から出した。

食卓へ置くと、普通の小さなケースだった。

行けるところが増えても、戻るところは変わっていない。


母さんが、空の弁当箱を流しへ置いた。


「食べる時間は、あった?」


「待ってるときに。店で座らせてもらった」


「店?」


俺はリーネさんの修理店を思い出し、灯りや留め具が並ぶ作業台を説明した。全部が日本の道具と同じではないので、たとえる言葉を探す。

姉が、便利そうだねと言った。

俺は頷き、壊れると困るのも同じだったと答えた。

話しながら、失敗だけを家へ持ち帰ろうとしていたことに気づいた。怖かったことのほかにも、今日見て、教えてもらったことがある。

母さんは、怪我がないと聞いても、すぐに全部安心した顔にはならなかった。でも、どこで休み、何を飲んだかを話すと、少し肩が下がった。

どんな人に囲まれて帰ってきたかも、待つ側には必要なのだろう。

父は、神代さんからの連絡が予定どおりだったと教えた。

俺が何も送っていない時間にも、家へ話を渡してくれた人がいる。


「次は、自分でも、戻ったって送る」


言うと、母さんは、先に帰ってくればいいわ、と答えた。


***


第11班へ報告に行った日は、机にいつものマグカップが並んでいた。


その前に寄った学校では、廊下を走らないよう注意されている生徒がいた。教室では、提出する課題の話をしている。

俺は席へ座り、鞄から教科書を出した。認証具のケースが中で少しずれている。

世界の外へ行ける物を持っていても、授業を受ける時間はなくならない。

隣の生徒に週末何をしていたか聞かれ、仕事の手伝いと答えた。嘘ではないが、全部でもない。

それでも、疲れたと言うと、向こうも部活で疲れたと返した。

どちらが大変かを比べる話にはならなかった。

放課後、俺は予定表を見直した。訓練を増やしたい。でも、学校と、家へ戻る時間と、前からある約束を全部消してよいわけではない。

一週間で起動を覚えたときも、誰かの予定を使わせてもらっていた。

今度の練習は、できるだけ先に相談しようと思った。

窓の向こうには、隣のビルがある。

ヴェルネの白い壁とは違う。

俺は、その見慣れた景色を少し長く見ていた。


黒江班長は報告を聞き、俺の図を確かめた。


班長が最初に尋ねたのは、相手の強さの順位ではなかった。誰が止めるよう言い、誰へ引き渡し、どの段階で現地の実務者へ戦いを渡したか。

俺はノートを見ながら答えた。

傭兵が遊んでいたことを話すと、声が少し小さくなった。班長は、その言葉を否定も、大げさな慰めもせず、こちらが何を求められたかを聞いた。


「実務者が相手を引き受けて、奥を止めろと」


「それは、できたか」


「止めました。桐生さんたちと」


班長は頷いた。俺は、騎士に勝てなかった話だけで報告を終えようとしていたのかもしれない。

求められた役目を果たしたかと、自分が納得できたかは、違う問いだった。

起動を使えた場所と、使っても間に合わなかった場所。

全部を成功の話へ直さずに伝えた。


「帰還の条件は守った。現地への引き渡しも済ませた。次に直すことは、指導の中で扱おう」


班長は、俺を合格や不合格の一言にはしなかった。

俺も、すぐに分かりましたと言わず、門で止まった理由をもう少し話した。


「見えることが増えると、選べないことも増えました」


「なら、選ぶ練習だな」


短い返事だった。

図を机へ戻し、俺の顔を見る。


「他の人が判断するために渡す情報と、自分が動くために必要な情報を、混ぜるな」


まだ完全には分からない。


班長は、俺の図の端へ指を置いた。剣の先を描いた線が、途中で途切れている。


「ここは、言おうとして止まった?」


「見えたんですけど、ひかりさんが、もう動いてて」


「なら、見たことと、誰に必要だったかを、別に思い出そう」


俺はノートを戻し、聞いた声を書いた。ひかりさんは、離れてと言った。桐生さんは、残りを見るよう言った。神代さんは、門の外へ呼んだ。

俺が細かい流れを説明しようとした間に、三人とも別のことを求めていた。


「全部、答えようとしてました」


「答えられないときもある。先に、今できないと渡せば、相手が変えられることもある」


班長は、図へ何かの正解を書き足さなかった。次の訓練で確かめる箇所だけを、俺へ示した。

できないところが多い紙だと思っていたのに、部屋へ持っていく用途ができた。

でも、桐生さんが荷車の足元を見ろと言ったときのことは思い出せた。

見る場所が決まると、次にすることが一つになった。


***


報告のあと、俺は黒江班長へ聞いた。


「班長は、発展で何ができるんですか」


机へ置かれた手が止まる。

怒られたのかと思った。

班長は、俺のノートを一度見た。


「今の訓練に、必要なところから説明する」


それだけだった。

紙も、道具も見せてもらえない。

俺は、お願いしますと答えた。


秋庭さんは、横の机で紙を揃えていた。

その手元へ目を向けると、こちらを見た。


「気になるのね」


「秋庭さんも、発展を」


「私は、紙を使うわ」


あまりに普通の答えで、俺は机へ並ぶ紙を見た。薄い物も、少し厚い物もある。表へ文字を書いてあるかどうかは、この位置から全部は分からない。

札を投げるのだろうか。結界の線を描くのだろうか。

どちらも、俺が知っている使い方から考えたことだった。

秋庭さんは、その考えている顔まで面白そうに見ている。


「何か、思いついた?」


聞かれ、俺は、まだ分からないと答えた。

彼女は、そうね、と笑った。違うとも、正しいとも言わない。

教えないために意地悪をしている感じではなかった。でも、何を見せてよいかは、自分で決めている人だった。


紙。

札なのだろうか。

神代さんの式神とは違うのか。

聞きたいことがいくつも浮かぶ。

秋庭さんは、俺の顔を見て少し笑った。


「何が気になったのかしら」


そのとき、桐生さんが俺の椅子の背へ手を置いた。


「続きは、練習の方」


「まだ、聞いて」


「そっち系の話、秋庭副班長には、思いつきで持ってくな」


いつもより、声が低かった。

神代さんもこちらを見ている。

秋庭さんだけが、少し残念そうに紙へ戻った。


彼女の手元には、書きかけの紙と、何も書いていない紙があった。俺が眼鏡を掛け直すと、視線が一瞬そちらへ動く。


「どんなときに、見やすくなったの?」


聞かれ、答えかけた。

桐生さんが、今は報告のあとだと言う。神代さんも、起動の確認は日を合わせようと続けた。

秋庭さんは、無理に引き止めなかった。


「ええ。落ち着いてから、見せてね」


柔らかい言い方だった。それなのに、桐生さんは俺を廊下へ出してから、ようやく肩の力を抜いた。

教えてもらうことと、何かを見せることが、この人たちには別の重さを持っているらしい。

俺は聞きたかったが、彼の顔を見て、今はやめた。


俺は、二人の顔を見比べた。

知らない話をしているのは分かる。

誰も、続きを説明してくれない。


***


廊下へ出ると、ひかりさんが壁へ寄りかかっていた。

俺は、さっきの話をした。

班長は教えてくれなかった。

秋庭さんは、紙を使うとだけ言った。


「戦う方じゃ、ないんですかね」


言い終える前に、頭へ軽く手が当たった。

痛いというより、驚いた。


「話さないのと、できないのを、一緒にしない」


ひかりさんが言った。


「あの二人、主要戦力だから。手の内、誰にでも説明するわけないでしょ」


「俺も、班員ですけど」


「だから、必要なところからって言われたんでしょ」


俺は、班長の返事を思い出す。

今の訓練に必要なところ。

拒否されたと思っていたが、順番を示されたのかもしれない。


桐生さんと神代さんが、後ろから来た。

ひかりさんが秋庭さんのことを聞くと、二人が一瞬だけ顔を合わせた。


「紙、って説明したのか」


桐生さんが言う。

神代さんは、そう聞いたと答えた。


「まあ、間違ってはいないね」


それ以上は、言わなかった。

俺は、その返事の方が気になった。


神代さんは、俺が何を聞きたいのか気づいている顔だった。


「いま分かっている範囲で、秋庭さんへ何を頼めるかは、指導の中でも確かめられる。能力の全部を聞くのとは、少し違うね」


俺は、外側の店で、リーネさんへ仕事を教わったときのことを思い出した。彼女の能力を全部聞かなくても、何をしているかは見せてもらえた。

ここでも同じなのかもしれない。

でも、桐生さんの止め方には、それだけではない感じもあった。


「桐生さんは、知ってるんですね」


聞くと、彼は視線を外した。


「知ってりゃ、全部しゃべっていいわけじゃねえだろ」


それはそうだ。そうなのに、言い方がいつもより早い。

ひかりさんが、俺の腕を軽く引いた。今聞いても返事は増えない、と顔に書いてある。

俺はノートへ『紙』と書きかけ、やめた。まだ、それだけで分類するのは、早い。


「昔から、そうなんですか」


桐生さんが、俺を見た。


「お前は、先に自分の眼鏡」


逃げられた気がした。

ひかりさんは、二人の表情を見てから、俺の肩を押す。


「知りたいなら、長く働いて。今、全部聞かなくてもいい」


***


練習の部屋では、紙の代わりに、床の目印が置かれた。

ひかりさんが棒を持つ。

俺は、眼鏡へ通そうとして止めた。


「最初は、通さない」


彼女が言った。


「足。避ける方から」


棒はゆっくり来た。

俺は伝力より、肩と腕の位置を見た。

一歩、横へ出る。

次は足が遅れ、柔らかい先が袖へ当たった。


当たった場所を、ひかりさんが指で示す。


「今の、先に頭だけ逃がした。足が残ってるから、次が来ると詰まる」


俺は、足の位置を戻した。横へ出たつもりで、膝だけ曲げていた。

もう一度。今度は足が出る。でも、出す方を見すぎて、棒の戻る先を見ていなかった。


「次に避ける場所まで、なくさない」


ひかりさんは、棒を止めて待ってくれた。

敵なら待たない。門の前の傭兵は、俺が考えている時間を使って遊んでいた。

その差を思い出すと、先に動こうとして足が速くなる。


「急いだ」


言われた。

俺は、自分で頷いた。悔しいから速くやるのと、間に合う動きを覚えるのは、同じではなかった。

休憩を挟み、今度は目印まで一歩出るだけにする。小さすぎる練習に思えても、その一歩が、あの門でできなかった。


「今の、見てから悩んだ」


「はい」


「じゃあ、もう一回」


外側でできなかったことは、今日もすぐにはできない。

一度習得した起動があっても、床のテープに足を取られる。

俺は少し笑ってしまった。

ひかりさんが、どうしたのと聞く。


「試験に通ったら、もっとできると思ってました」


「できたでしょ。足りないところも、分かっただけ」


彼女は棒を戻した。

俺も、足の位置を戻す。

それだけの動作を、今度は急がずにした。


休憩の間、リーネさんから技師を通した伝言が届いた。


俺は椅子へ座り、練習で当たったところを確かめた。痛むほどではない。でも、避けたと思ったのに触れた感触が、まだ残っている。

ひかりさんは棒を壁へ寄せ、自分も水を飲んだ。


「全部、起動で見ようとしなくていいからね」


「使わない練習も、いるんですね」


「うん。見えてるものを選ぶ前に、身体が動けば間に合うところもある」


彼女は床の目印を指した。そこへ一歩出れば、棒の先から離れられる。

式や理屈を覚えたからといって、その一歩が自動で出るわけではない。

俺は立ち、力を通さず一度だけ足を出して戻した。

さっきより小さく動けた。それを見て、ひかりさんが、今の、と言った。

俺は、今日直すものが一つ見つかっただけで、少し息がしやすくなった。

確認を終えた道具で、再開できた仕事があるという。

神代さんが、その文を読んでくれる。

写真はなかった。

俺は、店の窓が開くところを思い浮かべた。


勝てなかった人の顔も、そこへ残っている。


俺は携帯を持ち、返事を書いた。よかったです、だけでは少し足りない。

今度は動いているところを教えてほしいと、伝えてもらうよう頼んだ。

ひかりさんが横から、また行く気なんだ、と言う。


「次は、もう少し動けるようになってから」


「じゃあ、予定を組まないとね」


彼女は床へ戻り、目印の位置を少し変えた。

俺は返信を終え、携帯を鞄へしまう。帰る時間まで、まだ練習できる。

認証具をもらったら知らない世界へ行けた。でも、その世界で分からないことが増え、帰ってから見る床まで少し違った。

今日も同じ一歩をやる。今度は、何のために出す足かを知っていた。


休憩が終わると、机の時計をひかりさんが少し寄せた。帰るまでの時間が、二人とも見える位置になる。

俺は一度頷き、目印へ戻った。今日は、門の前へ戻るのではない。

ここでできる速さから、次へ使う足を覚える。

棒が動く。俺は、見てから横へ出た。

袖へ触れなかった。

ひかりさんは、それだけで大げさに褒めず、もう一度同じ速さで動かした。

俺も、同じ場所へ戻った。

感謝してくれた人の顔も、残っていた。

両方を、次に持って行けばいいのかもしれない。


***


――数日後、ヴェルネ。


リーネは、店先へ道具を一つ並べた。

動作を確かめた灯りが、夕方の机を照らしている。

客が、修理の相談をしに来た。

今度は、戻ってきた品を押しつけるためではなかった。


通りでは、閉めていた窓が一つ開いた。

荷車の音がする。

職人が、次の納期を話していた。

全部が元どおりになったわけではない。

それでも、明日の仕事を話す声があった。


そこへ、上品な服の男が歩いてきた。

長い旅のあとにも見えない、落ち着いた足取りだった。

リーネの灯りを見て、少しだけ目を細める。


「いい町ですね」


男が言った。

リーネは、警戒する理由を見つけられなかった。

通りを尋ねられ、工房の並ぶ方を教える。


「お名前を、伺っても」


「アーヴェル・ヴァレンティン・アヴ・リンドホルム」


男は、急がずに名乗った。

聞き取れたかを確かめるように、リーネの顔を見る。


「アーヴェルで、構いませんよ」


彼はそう言い、白い通りへ歩き出した。

遠くで、作業の音が続いている。

男はその音の方ではなく、荷物を抱えて帰る女性たちへ目を向けた。


リーネは店へ戻り、明日の修理の札を書いた。


客から戻った道具は、使えなかったときの札を外し、確認した日をつけ直してある。明日来る人へ説明するため、古い札も一つ残した。

通りの向こうで、誰かが笑った。仕事を終えた者たちが、夕食の店を相談している。

リーネは窓を少し開け、奥の作業台から風を通した。

あの現世の少年は、もう家へ着いただろうか。

彼は顔を上げて帰ったが、途中で何度か目を伏せていた。何があったか、全部は聞かなかった。次に来たら、止まった物ばかりではなく、ちゃんと動く道具の話をしようと思った。

机の灯りは、弱くならずについている。

彼女は明日の札を一枚書き終え、乾くまで端へ置いた。

その夜の町には、まだ、いつもの帰り道があった。


灯りを見せてもらった客が、通りの向こうで手を上げた。リーネも返す。男はその動きを見て、同じ方角へ顔を向けた。

誰がどの家へ戻るか、道具をどこへ運ぶか。彼が何を見ていたのかを、リーネは考えなかった。

店の奥で、湯が沸く音がする。今日の片づけと、明日の準備が残っていた。

彼女は外の灯りを少し寄せ、暗くなった机の端まで照らした。

通りへ出たアーヴェルは、急がなかった。紹介された工房とは違う角へ入り、賑わいの少ない側へ歩いていく。

まだ、誰も道を空けて逃げたりはしない。

上品な旅人が来た、とだけ思われる夕方だった。


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