第27話:男爵のお財布は別世界でも軽い
外側へ行く朝、母さんが俺へ渡したのは、小さな包みだった。
「食べていい場所を聞いてから開けてね」
遠足ではない、と言いかけて、やめた。
弁当を必要とする仕事だってある。
俺は礼を言い、鞄の空いた場所へ入れた。
認証具は内側のポケットにある。
昨夜から三回確かめたので、今日は一回だけにした。
桐生さんは、待ち合わせの駅で缶の飲み物を持っていた。
俺の鞄を見る。
「増やしたな」
「食べ物です」
「なら、食って減らせ」
神代さんが来て、俺たちは歩き出した。
道路の信号で止まる。
世界の外へ行く日でも、赤信号は赤だった。
信号待ちの間、俺は鞄の紐を持ち直した。歩いている人の顔は、いつもの朝と変わらない。犬を連れた人が角を曲がり、自転車を押す人が少し遅れて来る。
その中で、俺だけが知らない場所へ行こうとしている。そう思ったあと、昨日まで自分も、すれ違う人がどこへ行くか考えていなかったことに気づいた。
神代さんは、俺の鞄へ目を向けた。
「忘れ物より、詰め込みすぎの方が心配かな」
「案内に書いてあった物だけです」
「図を描く物も?」
俺はうなずいた。あの倉庫で、言葉だけでは場所がうまく伝わらなかったことがある。今回は同じ図を持ってきた。説明を最初からやり直すためではなく、違ったところを足すためだ。
信号が変わった。桐生さんが先に歩き出す。俺は後ろへ続きながら、向こうへ着いて最初に言う挨拶を頭の中で一度だけ練習した。
人が通るための施設は、あの倉庫とは別だった。
受付で認証具を出し、名前を答える。
登録を確かめる間、俺は通る場所の図を見た。
行き先の町には、ヴェルネと書かれている。
「帰りも、ここを使う」
神代さんの言葉に、出入口の位置を見た。
来た道を覚えるのは、試験と同じだった。
奥には、二本の柱があった。
担当者の確認が終わると、柱の間にあった壁の色が変わる。
白い石。遠くの屋根。
その隙間に、奥行きが生まれた。
柱の手前の床には、待つ位置を示す線があった。俺はその後ろで、認証具のケースを閉じる。
登録を終えたからといって、勝手に進むわけではない。担当者が一人ずつ名前を呼び、先に出た桐生さんが向こうから返事をする。それを聞いて、俺の呼吸が少し落ち着いた。
こちらへ来る荷物もあるらしく、横には別の通路が用意されていた。箱へ札をつける人と、受け取った数を確かめる人がいる。特別な世界の入口でも、確認する仕事はなくならない。
俺は認証具を一度だけ見た。名前を登録してもらった日の小さな板とは、見た目が違う。同じ伝力の記録を使っても、できることは別だ。
俺は息を止めた。
柱の縁へ沿って、伝力が流れている。
細かく見たくなったが、先に足元を確かめた。
段差がある。
桐生さんが先に跨ぎ、向こうで振り返った。
俺も、足を上げた。
向こうの床へ靴底がつく。
何も落ちなかった。身体の中が裏返ったような感じもしない。
次の足を出すと、神代さんも隣へ来た。俺は背後を振り返る。通ってきた場所の向こうに、さっきの部屋がある。その奥に立つ担当者が、こちらを確かめていた。
「立ち止まるなら、もう少し先だ」
桐生さんに言われて、慌てて道を空けた。人が通る場所だ。入口の真ん中で考え込むのは、こちらでも邪魔になる。
壁際へ寄り、改めて周りを見る。建物の中なのに、窓の向こうの明るさが違った。白い壁から跳ね返る光が、室内へ入っている。見上げると、梁の形も、照明の吊り方も、現世の事務所とは少しずつ違う。
「具合は、どう?」
神代さんが聞いた。
「大丈夫です。たぶん」
「たぶん、のところは、歩いてからまた聞こう」
何か大きく変わったと答えた方が、外側へ来た感じがする気もした。でも、今のところ身体の重さも、眼鏡の位置も変わっていない。分からないところは、そのままにして受付の確認へ進んだ。
***
最初に違うと思ったのは、音だった。
車の走る低い音がない。
代わりに、石の上を転がる車輪と、遠くで金属を叩く音がした。
風は、思っていたより冷たい。
同じ上着を着たままなのに、首の後ろへ入る空気の匂いが違った。
「来ていただいて、ありがとうございます」
エイリクさんが、道具箱を持って待っていた。
いつもの作業着だった。
それを見て、少し安心した。
男爵と聞いていたので、こちらでは違う格好をしているのかと思っていた。
「道、分かりましたか」
「ここまで、ずっと一緒だったので」
答えてから、隣に神代さんがいることを改めて感じた。
俺だけなら、受付で止まったあと、どこを見ればいいかも迷っただろう。
通りへ出ると、白い壁が続いていた。
窓枠に濃い色の木が使われ、建物の角には、小さな金属の飾りがある。
絵で見た外国の町に似ている。
でも、窓から顔を出した人の耳が細く長かったり、荷物を持つ人の背中へ薄い羽のようなものが見えたりして、見慣れた写真とは違った。
俺は目を向けすぎて、足を止めた。
後ろから台車が来る。
桐生さんが俺の鞄を引き、通りの端へ寄せた。
「景色は逃げねえ。車は来る」
台車を押す人が、手を上げた。
俺も頭を下げる。
外側で最初にしたことが、道を空けることになった。
***
工房は、大通りから一本入ったところにあった。
入口の横へ、修理待ちの品が積まれている。
道具の箱。車輪。枠の外れた小さな灯り。
エイリクさんは、その横を通るたび、手を伸ばして置き方を直した。
「男爵の仕事場、って感じじゃないですね」
口にしてから、失礼だったかと思った。
エイリクさんは扉を押さえたまま笑った。
「広いだけで使えない部屋より、こちらの方が助かります」
中には、低い作業台があった。
壁の工具は、よく使う物だけ手の届くところへ掛けられている。
机の端の皿には、途中まで食べたパンがあった。
俺たちを見ると、エイリクさんは慌てて布を掛けた。
「すみません。少し早く来たので」
「こっちの時間で昼前でも、腹は減りますよね」
神代さんが言った。
男爵でも、仕事の途中で食べるらしい。
それだけのことを、俺は初めて知ったように見ていた。
送り側の設備は、工房の奥へ固定されていた。
倉庫の枠より大きく、壁へ伸びた接続が何本もある。
こちらを現世へ持っていけない理由は、見ただけでも少し分かった。
壁の向こうにまで続いている物を、箱へ入れて運ぶわけにはいかない。
床の周囲には、作業のための空きがあった。道具箱を置く場所と、人が立つ場所を分けてある。俺はエイリクさんに、どこへ立てば邪魔にならないか聞いた。
「最初は、こちらから。見えにくければ、動く前に言ってください」
示された位置から枠を見る。正面は広いが、左の接続は覆いに隠れる。そこだけは、あとで角度を変える必要がありそうだった。
「左が、少し隠れてます」
「では、その確認のときに、こちらを空けましょう」
エイリクさんは、助手の人へ作業台を寄せてもらった。自分が見やすい場所を選ぶだけでは、周りの手が届かなくなる。俺は台車の通る隙間を見てから、足の位置を決めた。
現世の倉庫では、言われてから道具箱へ気づいた。今日は、入る前に聞けた。それぐらいの違いなら、自分でも分かった。
エイリクさんは、俺が倉庫で描いた図を広げた。
「今日は、同じ変化がこちらにも出るかを見たいです。新しい荷物は送りません」
神代さんが範囲を確かめ、桐生さんは入口の位置を見た。
俺は認証具を鞄から出しかけ、必要ないと言われて戻した。
ここへ入ることは確認済みだ。
道具を持っているだけで、全部へ触ってよくなるわけでもなかった。
***
設備が動くと、壁の接続へ伝力が走った。
俺は眼鏡へ細く通す。
枠の下へ目を向けたが、倉庫で見た残り方とは違う。
流れがほどけず、横の部材へ戻る。
「こっちは、足元に溜まってません」
「こちらへは?」
エイリクさんが、壁際の部材を指す。
俺は角度を変えた。
金属の覆いで見えないところがある。
横から見られる位置へ立ってよいか聞くと、机を少し動かしてくれた。
「そこへ、戻ってます。倉庫では、それが下へ残りました」
言葉だけでなく、図へ線を足す。
エイリクさんは二つの図を並べ、部材の番号を確かめた。
俺は、説明の途中で言葉を止めた。戻る、と言っても、枠の中へ引き込まれるように戻るのと、接続の表面を伝って別の場所へ行くのでは違う。
指でなぞる代わりに、紙へ細い線を引く。途中の見えない部分は、つなげずに空けておいた。
「ここは、推測?」
エイリクさんが聞いた。
「見えてないので、まだ描いてません。横から見たら、つながるかもしれないです」
彼は紙を近づけ、空白の手前の部材を示した。
「ここまで分かれば、次に外す場所を絞れます。全部つながっている図より、助かることもありますからね」
分からないところを空けた図は、未完成に見えた。でも、仕事に使う人には、どこをまだ確かめていないかも必要らしい。
助手の人が覆いを開ける準備を始めた。俺はその手が届くまで少し下がり、許可を待ってから、横へ回った。
「同じ仕様のはずなのに」
担当の人が、古い作業票を持ってくる。
交換した部材の記載はある。
俺には、その番号が何を意味するのか分からない。
ただ、正常に動く方は、変化が戻る。
向こうで困っていた方は、残る。
その違いを、今日初めて同じ形で言えた。
何度か動かし、止める。
俺はそのたびに眼鏡への流れを切った。
ずっと見る必要はない。
動かす前に位置を確かめ、変わるところを追い、終わったら戻す。
エイリクさんは、報告を聞いてから次の操作をした。
こちらの言葉を待つ手が、今日は少し頼もしく見えた。
最後に、現世側へ送られた部材の記録を別へ寄せる。
修理の結論は、まだ出ない。
同じ仕様の品が、本当に同じかを調べる必要があると言われた。
「今日は、ここまでにしましょう」
神代さんが時計を見た。
作業台の時計とは違い、こちらから持ってきた時刻を見ていた。
帰るまでの時間は、変わらない。
***
昼食は、工房の隅の机を借りた。
助手の人が、椅子を一つ余計に運んできた。作業のときは立ったままなので、人数分が近くにないらしい。
俺は自分で受け取って置く。床が石なので、脚を引くと音が大きかった。
隣の窓から、焼いた物の匂いが入る。リーネさんの店とは反対側に、小さな食べ物の店があるという。
桐生さんがそちらへ顔を向けた。
「現世の金は、使えねえよな」
エイリクさんが、支払いにはこちらの用意が必要だと答えた。
「工房の食事なら、今日は私が出せます」
「あんまり、出すって言わない方がいいですよ」
神代さんが笑った。桐生さんは聞こえないふりをして、自分の包みを開く。
俺は鞄の中の包みを確かめた。食べてよい場所を聞くまでは、まだ開けない。
エイリクさんは、卵焼きを見て調理法を聞いた。答えようとして、俺は詳しく作り方を知らないことに気づく。
毎日見ている物なら、全部分かっているわけでもなかった。
包みを開いてよいか聞くと、エイリクさんは場所を空けてくれた。
隣では、神代さんも飲み物の容器を置く。
桐生さんは先に一口食べ、入口へ目を向けていた。
「いつも、ここで食べるんですか」
「仕事が終わらない日は。終われば、もう少し落ち着いて食べたいんですが」
エイリクさんは皿のパンを取り、笑った。
作業台へ一枚の請求書が置かれている。
数字は読めなくても、ため息の意味は分かった。
「機械が止まると、修理代だけでは済みませんからね」
そのとき、表から声がした。
若い女性が、小さな灯りを抱えて入ってくる。
髪を後ろでまとめ、袖を肘まで折っていた。
綺麗な顔なのに、目の下が少し疲れている。
「また、戻ってきた」
女性は灯りを置き、息を吐いた。
エイリクさんがこちらを見て、紹介してくれる。
「リーネさん。近くで、道具の修理をしている人です」
女性は俺たちへ会釈した。
「お客さん? ごめんなさい。あとで」
「置いていって構いません。直した物ですか」
「二度目。部材を替えたのに、灯りが続かない。私の直し方が悪いって」
リーネさんは、自分の指へ目を向けた。
爪の端へ、小さな傷がある。
俺はその灯りを見た。
灯りは、俺が部屋で使う卓上の物と形が似ていた。ただ、こちらには電源の線がない。置く場所を変えても、そのまま使えるのだろうか。
リーネさんが作業台の端へ布を敷く。壊れた物でも、傷が増えないようにしていた。
「お客さんの物なんです」
彼女は俺の目線へ気づいて言った。
「新しいのに替えればって言う人もいるけど、これじゃないと手元が合わない人もいるから」
俺は自分の眼鏡へ触れかけた。合う物を使うことと、新しい物を持つことは同じではない。こちらへ来て初めて見る道具なのに、困り方だけは少し想像できた。
伝力は、ある。
でも、光へ変わる前に、細いところで途切れていた。
俺が見ているのに気づき、リーネさんが少し灯りを寄せた。
「見てもいいけど、触ると熱いところがあるよ」
俺は手を引いた。
見えるからといって、使い方まで知っているわけではなかった。
***
帰る前、工房の近くを少し歩いた。
許可された道を、エイリクさんと一緒に行く。
白い壁は、遠くから見ると綺麗だった。
近づくと、閉めた窓や、使われていない作業台が見える。
通りの飾りは磨かれているのに、店の奥は静かだった。
リーネさんの店には、直した品が並んでいた。
取っ手のある湯沸かし。小さな運搬具。作業場で使う灯り。
どれも、俺には名前も用途も半分しか分からない。
「こういうのも、伝力で使うんですね」
「力があるだけじゃ動かないけど。使う物が違っても、壊れたら困るのは同じでしょう」
リーネさんが、灯りのつまみを回す。
明るくなり、すぐに弱くなった。
「これがつかないと、細かい仕事ができない人がいる。作業が遅れると、また怒られる」
俺はその横の、返された品の札を見た。
同じ時期のものが、いくつか重なっている。
リーネさんは、札を見られたことに気づいて、裏へ返した。
責めるつもりではなかったのに、何か悪いことをしたような気持ちになった。
神代さんは、エイリクさんへ交換部材の記録を確認してもらいたいと伝えた。
その場で町全部を調べるとは言わない。
リーネさんの品を、勝手に持ち出すこともしなかった。
「必要なら、こちらから正式に相談します」
エイリクさんの返事に、俺は一度だけうなずいた。
今日、自分たちが来た目的は終わっている。
気になるものが増えたからといって、帰りの時間まで増えるわけではない。
***
帰還の施設へ戻る途中、エイリクさんが立ち止まった。
表の通りへ、警備の人が二人立っている。
片方は、建物の壁へ貼られた紙を見ていた。
「少し、注意が出ています。名前を聞いたら、近づかないでください」
紙に書かれた名を、エイリクさんが読んだ。
シグリーネ・エイラ・ヴェルハイム。
「信徒を連れた人です。別の土地で、施設や古い物を壊したと。詳しいことは、私も全部は」
エイリクさんは、その先を断定しなかった。
桐生さんは紙を見たが、立ち止まり続けなかった。
「今日は、こっちだ」
俺も通行の入口へ向かった。
名前だけが、少し耳に残った。
綺麗な町に来ても、心配することがなくなるわけではない。
帰りの確認を終え、柱の間を通った。
現世の車の音が戻った。
俺は携帯の時刻を見た。
家へ帰るまで、余裕がある。
神代さんへそう言うと、安心したようにうなずいた。
「家にも、予定どおりと伝えておくね」
駅へ向かいながら、俺は鞄の中の図を触った。
外側の仕組みを知りたくて来た。
持って帰るのは、設備の図と、灯りの消える店のことだった。
ひかりさんから、短い連絡が来た。
『どうだった?』
俺は、きれいだった、と打ちかけた。
道の端に立って、最初に工房へ入ったところから思い出す。白い壁、車輪の音、食べかけのパン、戻ってきた灯り。
全部を書くと長くなる。けれど、景色だけを送ると、あそこで働いている人のことが抜ける。
俺は、男爵も作業着で昼を食べていた、と打った。
少し待って、『そりゃ食べるでしょ』と返ってくる。
言われれば、そうだ。
俺は笑い、そのあとで灯りのことも送った。
ひかりさんはすぐに励ます言葉を返さず、『戻ったら図を見せて』と送ってきた。
その方が、今は説明しやすかった。
電車の窓には、現世の建物が流れていた。似た形の屋根でも、向こうの道とは違う。
俺は写真を撮らなかった場所を思い出す。撮る前に聞こうとして、仕事の話が始まり、結局、目で見ただけになった場所だ。
でも、何も残っていないわけではない。鞄には図があり、名前を知った人がいる。
次に会ったら何を聞きたいかを、携帯のメモへ一つだけ残した。
『動いているときの使い方』
壊れているところを見てほしいと言われて行ったのに、正常なところを先に知りたくなった。
それが、今日いちばん変わったことかもしれなかった。
窓に映る自分の顔を見て、携帯を鞄へ戻した。




