第25話:眼鏡を掛けただけでは資格になりません
「通した」
ひかりさんが言った。
俺は眼鏡へ触れたまま、返事を待った。
「それで?」
「それで、って」
机も、椅子も、入口の神代さんも見えている。
右のつるへ少し多く伝力が寄る。ただ、前より掛け心地がよくなったので、ずれた眼鏡を直す必要はなかった。
ひかりさんは俺の指を見た。
「触ってないと続かない?」
手を離した。
意識が指先へ残り、眼鏡を通っていた細い流れが途切れる。
俺は口を閉じた。
「今のは、通したら終わり。使う間、道具へ渡し続けるところから」
俺は掛け直そうとして、やめた。
せっかく直してもらった物に、いつもの癖で触っている。
神代さんが、机へ三枚の紙を置いた。
端に、薄く伝力を残したもの。中央へ寄せたもの。ほとんど残っていないもの。
どれも、ここから見える。
「普段の見え方は、そのままでいいよ。今日は、どれを見るかを自分で選んでみよう」
「もう、選んでます」
「では、真ん中を見ながら、一枚目の違いも説明できる?」
俺は目を動かした。
ひかりさんの腕にも、神代さんの手にも、伝力がある。
紙の薄さより、そちらが強い。
目を凝らすと全部が一緒に近くなって、説明しようとしていた端が分からなくなった。
「近づいていいですか」
「今は、その位置で」
神代さんの返事に、机までの二歩が遠くなった。
***
最初に習ったのは、よく見ようとして身体全部へ力を回さないことだった。
肩が固くなる。首の後ろが熱くなる。
それを眼鏡のせいにする前に、ひかりさんの指が俺の肩へ当たった。
「そこ、上がってる」
「見ようとすると、つい」
「目の代わりに肩で見ない」
笑いそうになったせいで、少し力が抜けた。
神代さんが紙を一枚持ち上げる。裏へ隠れた伝力は、見えなくなった。
眼鏡を通したままでも同じだ。
「向こうまで見えるようにはならないんですね」
「眼鏡に、壁をなくす仕事はないからね」
神代さんは紙を戻した。
「見えているものを、見分けやすくする。まずは、君の道具ができそうなところを探すんだ」
どんな物でも好きな機能になるわけではない。
眼鏡なら何ができるのか。道具を持つ前から見えていた俺は、その問いにうまく答えられなかった。
普通の文字なら、眼鏡を外すとぼやける。伝力は、ぼやけるのとは違う。
同じ場所にあるものが、重なりすぎる。
俺は真ん中の紙へ目を戻した。
白い机の傷。その上の紙。端へ残った流れ。
全部を濃くしようとせず、紙の上を通る細さだけを追う。
一瞬、ひかりさんの腕の明るさが気にならなくなった。
「あ」
口にした途端、戻った。
窓の外の車の音と一緒に、机も腕も、さっきと同じ強さで入ってくる。
「今の、何?」
ひかりさんに聞かれ、俺は言葉を探した。
「紙のところだけ、見やすくなった感じです」
「じゃあ、もう一度」
同じことをしようとして、できなかった。
左へ多く流せば、近い感じにはなる。
でも、紙の線は濃くなりすぎて、端がかえって分かりにくい。
少なくすると、いつもの見え方へ戻る。
ちょうどよいところを探そうとして、何度も上下した。
「さっきの一回を、丸ごと真似しなくていい」
ひかりさんが言った。
「今、何を変えたか、一個ずつ」
俺は息の長さだけを先に戻した。
次に、右のつるへ寄りすぎていた分を少し減らす。
初めて紙を見たときとは、違うところから近づいている。
できた瞬間の気分を思い出すより、その方が、もう一度試す場所が分かった。
神代さんが時計へ目をやる。
今日は、できるまで続ける日ではなかった。
決めた時間が来ると、机の紙が片づけられた。
俺は、まだ一回しかできていないと言いかける。
「今日見つけた違いを、明日も使ってみよう」
神代さんにそう言われ、椅子から立った。
立つと、足が少し固くなっていた。
力を通すために座っていたのに、身体の方も、ずっと待っていた。
一回の偶然を、身体はそんなに親切に覚えていないらしい。
休憩になると、神代さんは紙を動かし、俺が見ていた角を尋ねた。
俺は机へ近づき、指で丸を作る。
座っていたときより、残る伝力が細かく見えた。
「近いと、こんなに簡単なのに」
「遠くで見分けることも、これから増えるよ。でも、今は距離を伸ばす練習ではない」
神代さんが、俺を元の椅子へ戻した。
同じ紙なのに、部屋の灯りが重なって見える。
窓の外を車が通り、机の端へ反射が走った。
普通の光と伝力を、間違えるわけではない。
それでも、何かが動くと目がそちらへ引かれる。
ひかりさんは、窓のブラインドへ手を伸ばしかけて、止めた。
「これ閉めれば、今は楽になる。でも、外で毎回そうはできないから」
俺はうなずき、机へ向き直った。
すぐに紙を見るのではなく、窓と入口を先に確かめる。
どこに何があるか分かってから、紙へ絞る。
それだけで、さっきより短い間なら、戻さずにいられた。
終わったあと、ノートへ『紙の角』と書いた。
何ができたかより、何を見ようとしたかを書いてみる。
隣に、ひかりさんが指で示した肩のことも足した。
伝力を通す話なのに、首や肩の使い方まである。
不思議な力を使う練習は、思っていたより身体の話が多かった。
「力の入れ方を覚えてる間に、別のとこまで固くするからね」
ひかりさんは、俺が書いた文字を見て言った。
「次に同じことしたら、自分で気づく。それだけでも、一回分減る」
俺は肩を下げた。
また、上がっていた。
二人に見られているのが少し恥ずかしかったけれど、今度は言われる前だった。
昼休みに見た試験の案内には、合格という文字があった。
今は、紙を一枚見るのに、何度も失敗している。
***
次の日、桐生さんが練習へ来た。
机の上の紙を見て、俺へ顔を向ける。
「当て物か」
「見分ける方です」
「なら、動かすぞ」
返事の前に、紙が一枚滑った。
俺はそちらを追い、足を出した。
床に置かれた柔らかい棒へ靴が当たる。
「前も見ろ」
「見てます」
「足は見てなかった」
言い返せなかった。
紙が見やすくなった分、紙ばかりを見る。
それで足を取られるなら、倉庫で道具箱を蹴りかけたときと同じだった。
桐生さんは俺を転ばせず、棒を端へ寄せた。
「俺の手。紙。入口。順番に見ろ。全部、同じ濃さにしようとすんな」
言われたとおりにすると、切り替えるたび、眼鏡への流れが乱れた。
桐生さんの手を見る間だけ、紙が分からなくなる。
分からなくなったことが怖くて、また紙へ戻る。
「お前、何を見るために掛けてんだ」
「見落とさないために」
「全部は無理だろ。俺だって、後ろは任せてる」
桐生さんは入口の神代さんを指した。
神代さんが、机から離れた場所でうなずく。
「切り替える間に分からないことがあれば、そう言っていい」
知覚が役に立つと言われてから、分からない場所を減らすことばかり考えていた。
でも、見えている場所から目を離せないのも、困る。
俺は紙から目を上げた。
入口の位置を見て、それから机へ戻る。
さっきの流れが、まだ残っていた。
***
三日目、水城沙羅さんが机の向かいへ座った。
紙を見る前に、俺の眼鏡へ目を向ける。
「音まで静かにしようとしてない?」
「え」
「集中すると、ほかを全部追い出したくなるから」
沙羅さんは窓を少し開けた。
路地の車の音が大きくなる。
遠くで、空き缶を集める音がした。
伝力とは関係ない音も、一緒に入ってくる。
「私も、欲しい音だけ残せたら楽だけど。消せばいいってわけでもないんだよね」
机の端を、指で二度叩く。
俺は紙へ目を向けたまま、その音を聞いた。
「見てるものを細かくするのと、耳をふさぐのは別。後ろの人に呼ばれたら返事できるぐらいにしとこう」
そのあと、沙羅さんは俺の後ろへ回った。
何をするのか気になって振り返ると、笑われた。
「今のは、ちゃんと呼んでから」
紙へ戻る。
眼鏡を通る伝力を細くする。
紙の上の線が、机の明るさから少し離れた。
「牧瀬くん」
「はい」
返事をしてから、紙の線を見た。
消えていなかった。
沙羅さんが、後ろで小さく拍手をした。
「今、返事する前、何をした?」
聞かれ、俺は目を動かす。
紙へ寄せた注意を、全部やめたつもりはなかった。
ただ、呼ばれた方を聞き、答えた。
「声を、聞いたんだと思います」
「うん。そこは、いつもできてる」
沙羅さんは机の前へ戻り、椅子を反対向きに置いた。
背もたれへ腕を乗せる。
「新しくできそうなことがあると、そこへ全部合わせたくなるんだよね。私も、聞こえたものを全部言おうとして、肝心の連絡を聞かなかったことがある」
「沙羅さんでも」
「あるよ。聞こえる数が多い方が偉い、みたいに思ってた頃」
声は軽かったけれど、笑い話だけではなさそうだった。
俺は入口の通信機を見る。
聞こえていても、返事をする順番を選べなければ、連絡してきた人は困る。
倉庫で、設備を見ながら通路の声も聞いていた時間を思い出した。
全部を同じように説明する必要はなかった。
「沙羅さんは、今どうやって」
「相手が何を待ってるか、先に聞く。こっちで勝手に決めてからだと、違ったときに二度やるから」
俺はノートを引き寄せた。
何が見えるかだけでなく、何を求められたか。
その下へ、聞き返してもいい、と書きかけた。
「今日は、書くより一回やろう」
沙羅さんに言われ、筆記具を置いた。
教えてもらったことを全部持ち帰ろうとして、目の前の練習まで遅くしていたらしい。
俺は笑いそうになり、また線を見失った。
「喜ぶと切れるんだ」
「そこも、練習します」
二人で笑ったあと、もう一度やった。
***
四日目には、俺の方から失敗する条件を言えるようになった。
急に顔を動かすと切れる。強い伝力を見て驚くと、そちらへ全部寄る。
息を止めると、長く続かない。
ひかりさんは聞き終えると、袋から棒を出した。
「じゃあ、驚く方も少し」
棒の表面に、伝力が寄った。
俺は先端へ目を向ける。
最初に見たときより、どこへ寄せているかが分かる。
足。腰。手首。棒。
流れを順に追っている間に、先端が俺の鼻の前で止まった。
「遅い」
俺は思わず後ろへ下がった。
ひかりさんが棒を引く。
「見えるのと、間に合うのは別だからね」
その言葉が、額へ当たるより残った。
「今の、起動ですか」
「今のは、普通に使っただけ」
「発展って、もっと違うんですか」
ひかりさんは神代さんを見た。
神代さんが、今日は説明まで、と言う。
「私も、桐生さんも、神代さんも使えるよ」
俺は三人の顔を見た。
「そんな話、聞いてないです」
「今、聞いたでしょ」
「そういう意味じゃなくて」
ひかりさんは、少しだけ眉を寄せた。
「使い方も分からないうちに、あれもこれも試そうとするから。先に、持ってる道具をちゃんと使えるようにする」
不満は残った。
でも、自分の眼鏡へ通していた流れが、その会話だけで切れていることにも気づいた。
桐生さんは、俺の顔を見て笑わなかった。
「順番。俺らの手の内を全部知ったら、お前の足が速くなるわけじゃねえ」
俺は眼鏡を指で押しかけ、手を下ろした。
***
練習を終えて廊下へ出ると、桐生さんが壁へ背を預けていた。
「怒ってんのか」
「何がですか」
「知らなかった方」
俺は返事に迷った。
発展という言葉は知ったばかりだ。何ができるかも分からない。
それでも、何か起きるたびに一緒に動いていた三人が、俺の知らない物を持っていた。
「危ないとき、使わなかったこともあるんですか」
「ある」
桐生さんは、すぐに答えた。
「使わなくて済んだこともある。使う場所じゃなかったこともな」
ひかりさんが棚を揺らさず、棒を小さく当てていた倉庫を思い出す。
俺は全部を見ていない。音を聞いていただけのところもあった。
強いことをすれば、早く終わると思っていた。
早く終わらせるために、壊していい物ばかりではない。
「聞けば、教えてもらえますか」
「必要な分はな。けど、お前が今できねえことを並べて、焦らせたいわけじゃねえんだよ」
桐生さんは、俺の肩を軽く押して歩き出した。
「明日は、自分で戻すところまで。見えやすいのが気持ちよくなって、ずっと通してんなよ」
俺は、さっきまで少し痛かったこめかみへ触れた。
言っていなかったのに、気づかれていた。
***
五日目は、学校で小テストがあった。
問題を読んでいる間に、机の端の傷を見てしまう。
眼鏡へ力を通しかけて、やめた。
数学の問題は、細かい伝力が見えても解けない。
放課後の練習で、その話をすると、ひかりさんは声を出して笑った。
「答案まで代わりに見てくれると思った?」
「思ってないです」
「じゃあ、手を動かして」
今日は、部屋の入口から机まで歩いた。
途中に椅子がある。床へ置いた箱がある。
紙の位置は、毎回違う。
歩きながら、見るものを絞り、足元へ戻し、もう一度紙を見る。
すぐにできる日は来なかった。
ただ、最初から全部やり直す失敗は、少し減った。
帰りの電車では、眼鏡へ伝力を通さなかった。
窓に映った自分の顔と、向こうの線路が重なる。
車内の人からも、薄い伝力が見える。全部を細かく追う必要はない。
降りる駅の案内が流れた。
俺は鞄を持ち直し、前に立つ人へ声をかけた。
家へ帰ると、姉が居間の机へ課題を広げていた。
俺の席へ、開いた問題集が半分はみ出していた。端へ寄せようとすると、姉が、まだそこやってる、と言う。
「隣、使っていい?」
「いいけど、消しゴム取って」
取って渡す。姉は礼を言わず、すぐに一行消した。
部屋で誰かの手元を見ることに慣れたせいか、書き直す前にどこで止まるかが気になった。
もちろん、答えは見えない。
自分の問題集を開くと、こちらも一行目から止まった。
眼鏡を外し、布で拭く。姉が、眼鏡の練習って何、とまた聞いた。
「長く使うと、目が疲れるから」
「普通じゃん」
その返事で、少し笑った。俺にとっては大きく変わりそうな一週間でも、机の上では、課題に困る弟のままだった。
俺のノートを見て、何の勉強かと聞く。
「眼鏡の使い方」
「今さら?」
説明が足りなかった。
隣へ座って学校の問題集を出すと、姉はそれ以上聞かなかった。
分からない問題へ印をつける。
伝力を通さない鉛筆でも、答えを考える役には立つ。
一週間で何かを身につけることばかり考えていたけれど、その間も、やることは一つではなかった。
***
六日目、神代さんが紙を裏返した。
目的の流れが見えない。
俺は机へ近づかず、横へ回った。
端から見える部分を確かめ、それでも分からないと伝えた。
「開けて確かめてもいいですか」
「はい。今なら大丈夫」
許可をもらい、紙をめくる。
違う紙だった。
「あれ」
「見えないのに、前と同じだと思わなかったね」
神代さんが言った。
褒められたのは、見つけたからではなかった。
***
七日目、机へ置かれたのは、倉庫で描いた俺の図だった。
紙の上に新しい伝力はない。
その横の、別の紙へ薄く残っている。
俺は眼鏡へ通し、視線を動かした。
「左の紙。図じゃない方です」
「どの辺?」
「角から、ここまで」
指を近づける前に、位置を言った。
神代さんが紙を持ち上げる。
見えなくなる。
俺は、その向こうを見ようとせず、足を止めた。
「今は、隠れてます」
ひかりさんが俺の横で歩いた。
足音は聞こえる。
見たいものへ絞っても、部屋全部がなくなるわけではない。
紙が戻る。
俺はもう一度、線を追った。
「続いてます」
言うと、神代さんが机の時計を見た。
俺は時間を聞きかけ、やめた。
まだ通っている。
嬉しくなっても、今日は切れなかった。
「いったん、戻そう」
眼鏡への流れを止める。
紙も、人も、いつもの見え方へ戻った。
少しだけ、こめかみが重い。
ひかりさんが椅子を引いた。
「座って。できたから、今日は倍やるとか言わない」
俺は腰を下ろした。
神代さんが、試験の案内を机へ置く。
日付が入っていた。
「起動の確認は受けられる。あとは、捜索と、安全に戻るところまでを見てもらおう」
受かったとは言われなかった。
それでも、先週まで空いていた場所に、自分で進めた分がある。
俺は眼鏡を外し、ケースへ収めた。
練習の部屋を出る前、ひかりさんが、最後に一つ聞いた。
「今、使わずに歩ける?」
俺は入口まで歩いた。窓から入る明るさも、床のテープも、普通に見える。力を使わなければ何もできない身体へ、変わったわけではなかった。
「大丈夫です」
「じゃあ、明日も普通に学校へ行く。試験の前だからって、夜中まで通さない」
俺は、家でも少しやろうと思っていたことを、言えなくなった。
神代さんが、片づけながら笑った。
「見え方が重いままだと、試験で何ができたかも分かりにくいからね」
窓の外は暗くなり始めていた。自分が遅くまで残れば、教える人も、帰りを確認する人も残る。
一人で頑張っているつもりでも、この一週間は、誰かの予定を使わせてもらっていた。
「ありがとうございました」
いつもの挨拶より、少し頭を下げた。
ひかりさんは、試験が終わったわけじゃない、と言った。でも、顔はさっきほど厳しくなかった。
部屋の灯りが消える前に、俺は鞄を持った。
第5班で掛け方を直してもらった眼鏡だ。
強い武器には見えない。
でも今は、何のために使うのか、一つだけ答えられた。
見えるものを、必要なときに見分けるため。
そのために掛け直す手は、最初の日より少し落ち着いていた。




