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球体世界の観測者 ~見えるだけの少年は、陰陽寮で世界の裏側を知る~  作者: 雅貴
第2章第3節

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第25話:眼鏡を掛けただけでは資格になりません

「通した」


ひかりさんが言った。

俺は眼鏡へ触れたまま、返事を待った。


「それで?」


「それで、って」


机も、椅子も、入口の神代さんも見えている。

右のつるへ少し多く伝力が寄る。ただ、前より掛け心地がよくなったので、ずれた眼鏡を直す必要はなかった。

ひかりさんは俺の指を見た。


「触ってないと続かない?」


手を離した。

意識が指先へ残り、眼鏡を通っていた細い流れが途切れる。

俺は口を閉じた。


「今のは、通したら終わり。使う間、道具へ渡し続けるところから」


俺は掛け直そうとして、やめた。

せっかく直してもらった物に、いつもの癖で触っている。


神代さんが、机へ三枚の紙を置いた。

端に、薄く伝力を残したもの。中央へ寄せたもの。ほとんど残っていないもの。

どれも、ここから見える。


「普段の見え方は、そのままでいいよ。今日は、どれを見るかを自分で選んでみよう」


「もう、選んでます」


「では、真ん中を見ながら、一枚目の違いも説明できる?」


俺は目を動かした。

ひかりさんの腕にも、神代さんの手にも、伝力がある。

紙の薄さより、そちらが強い。

目を凝らすと全部が一緒に近くなって、説明しようとしていた端が分からなくなった。


「近づいていいですか」


「今は、その位置で」


神代さんの返事に、机までの二歩が遠くなった。


***


最初に習ったのは、よく見ようとして身体全部へ力を回さないことだった。

肩が固くなる。首の後ろが熱くなる。

それを眼鏡のせいにする前に、ひかりさんの指が俺の肩へ当たった。


「そこ、上がってる」


「見ようとすると、つい」


「目の代わりに肩で見ない」


笑いそうになったせいで、少し力が抜けた。

神代さんが紙を一枚持ち上げる。裏へ隠れた伝力は、見えなくなった。

眼鏡を通したままでも同じだ。


「向こうまで見えるようにはならないんですね」


「眼鏡に、壁をなくす仕事はないからね」


神代さんは紙を戻した。


「見えているものを、見分けやすくする。まずは、君の道具ができそうなところを探すんだ」


どんな物でも好きな機能になるわけではない。

眼鏡なら何ができるのか。道具を持つ前から見えていた俺は、その問いにうまく答えられなかった。

普通の文字なら、眼鏡を外すとぼやける。伝力は、ぼやけるのとは違う。

同じ場所にあるものが、重なりすぎる。


俺は真ん中の紙へ目を戻した。

白い机の傷。その上の紙。端へ残った流れ。

全部を濃くしようとせず、紙の上を通る細さだけを追う。

一瞬、ひかりさんの腕の明るさが気にならなくなった。


「あ」


口にした途端、戻った。

窓の外の車の音と一緒に、机も腕も、さっきと同じ強さで入ってくる。


「今の、何?」


ひかりさんに聞かれ、俺は言葉を探した。


「紙のところだけ、見やすくなった感じです」


「じゃあ、もう一度」


同じことをしようとして、できなかった。


左へ多く流せば、近い感じにはなる。

でも、紙の線は濃くなりすぎて、端がかえって分かりにくい。

少なくすると、いつもの見え方へ戻る。

ちょうどよいところを探そうとして、何度も上下した。


「さっきの一回を、丸ごと真似しなくていい」


ひかりさんが言った。


「今、何を変えたか、一個ずつ」


俺は息の長さだけを先に戻した。

次に、右のつるへ寄りすぎていた分を少し減らす。

初めて紙を見たときとは、違うところから近づいている。

できた瞬間の気分を思い出すより、その方が、もう一度試す場所が分かった。


神代さんが時計へ目をやる。

今日は、できるまで続ける日ではなかった。

決めた時間が来ると、机の紙が片づけられた。

俺は、まだ一回しかできていないと言いかける。


「今日見つけた違いを、明日も使ってみよう」


神代さんにそう言われ、椅子から立った。

立つと、足が少し固くなっていた。

力を通すために座っていたのに、身体の方も、ずっと待っていた。

一回の偶然を、身体はそんなに親切に覚えていないらしい。


休憩になると、神代さんは紙を動かし、俺が見ていた角を尋ねた。

俺は机へ近づき、指で丸を作る。

座っていたときより、残る伝力が細かく見えた。


「近いと、こんなに簡単なのに」


「遠くで見分けることも、これから増えるよ。でも、今は距離を伸ばす練習ではない」


神代さんが、俺を元の椅子へ戻した。

同じ紙なのに、部屋の灯りが重なって見える。

窓の外を車が通り、机の端へ反射が走った。

普通の光と伝力を、間違えるわけではない。

それでも、何かが動くと目がそちらへ引かれる。


ひかりさんは、窓のブラインドへ手を伸ばしかけて、止めた。


「これ閉めれば、今は楽になる。でも、外で毎回そうはできないから」


俺はうなずき、机へ向き直った。

すぐに紙を見るのではなく、窓と入口を先に確かめる。

どこに何があるか分かってから、紙へ絞る。

それだけで、さっきより短い間なら、戻さずにいられた。


終わったあと、ノートへ『紙の角』と書いた。

何ができたかより、何を見ようとしたかを書いてみる。

隣に、ひかりさんが指で示した肩のことも足した。

伝力を通す話なのに、首や肩の使い方まである。

不思議な力を使う練習は、思っていたより身体の話が多かった。


「力の入れ方を覚えてる間に、別のとこまで固くするからね」


ひかりさんは、俺が書いた文字を見て言った。


「次に同じことしたら、自分で気づく。それだけでも、一回分減る」


俺は肩を下げた。

また、上がっていた。

二人に見られているのが少し恥ずかしかったけれど、今度は言われる前だった。


昼休みに見た試験の案内には、合格という文字があった。

今は、紙を一枚見るのに、何度も失敗している。


***


次の日、桐生さんが練習へ来た。

机の上の紙を見て、俺へ顔を向ける。


「当て物か」


「見分ける方です」


「なら、動かすぞ」


返事の前に、紙が一枚滑った。

俺はそちらを追い、足を出した。

床に置かれた柔らかい棒へ靴が当たる。


「前も見ろ」


「見てます」


「足は見てなかった」


言い返せなかった。

紙が見やすくなった分、紙ばかりを見る。

それで足を取られるなら、倉庫で道具箱を蹴りかけたときと同じだった。


桐生さんは俺を転ばせず、棒を端へ寄せた。


「俺の手。紙。入口。順番に見ろ。全部、同じ濃さにしようとすんな」


言われたとおりにすると、切り替えるたび、眼鏡への流れが乱れた。

桐生さんの手を見る間だけ、紙が分からなくなる。

分からなくなったことが怖くて、また紙へ戻る。


「お前、何を見るために掛けてんだ」


「見落とさないために」


「全部は無理だろ。俺だって、後ろは任せてる」


桐生さんは入口の神代さんを指した。

神代さんが、机から離れた場所でうなずく。


「切り替える間に分からないことがあれば、そう言っていい」


知覚が役に立つと言われてから、分からない場所を減らすことばかり考えていた。

でも、見えている場所から目を離せないのも、困る。

俺は紙から目を上げた。

入口の位置を見て、それから机へ戻る。

さっきの流れが、まだ残っていた。


***


三日目、水城沙羅さんが机の向かいへ座った。

紙を見る前に、俺の眼鏡へ目を向ける。


「音まで静かにしようとしてない?」


「え」


「集中すると、ほかを全部追い出したくなるから」


沙羅さんは窓を少し開けた。

路地の車の音が大きくなる。

遠くで、空き缶を集める音がした。

伝力とは関係ない音も、一緒に入ってくる。


「私も、欲しい音だけ残せたら楽だけど。消せばいいってわけでもないんだよね」


机の端を、指で二度叩く。

俺は紙へ目を向けたまま、その音を聞いた。


「見てるものを細かくするのと、耳をふさぐのは別。後ろの人に呼ばれたら返事できるぐらいにしとこう」


そのあと、沙羅さんは俺の後ろへ回った。

何をするのか気になって振り返ると、笑われた。


「今のは、ちゃんと呼んでから」


紙へ戻る。

眼鏡を通る伝力を細くする。

紙の上の線が、机の明るさから少し離れた。


「牧瀬くん」


「はい」


返事をしてから、紙の線を見た。

消えていなかった。

沙羅さんが、後ろで小さく拍手をした。


「今、返事する前、何をした?」


聞かれ、俺は目を動かす。

紙へ寄せた注意を、全部やめたつもりはなかった。

ただ、呼ばれた方を聞き、答えた。


「声を、聞いたんだと思います」


「うん。そこは、いつもできてる」


沙羅さんは机の前へ戻り、椅子を反対向きに置いた。

背もたれへ腕を乗せる。


「新しくできそうなことがあると、そこへ全部合わせたくなるんだよね。私も、聞こえたものを全部言おうとして、肝心の連絡を聞かなかったことがある」


「沙羅さんでも」


「あるよ。聞こえる数が多い方が偉い、みたいに思ってた頃」


声は軽かったけれど、笑い話だけではなさそうだった。

俺は入口の通信機を見る。

聞こえていても、返事をする順番を選べなければ、連絡してきた人は困る。

倉庫で、設備を見ながら通路の声も聞いていた時間を思い出した。

全部を同じように説明する必要はなかった。


「沙羅さんは、今どうやって」


「相手が何を待ってるか、先に聞く。こっちで勝手に決めてからだと、違ったときに二度やるから」


俺はノートを引き寄せた。

何が見えるかだけでなく、何を求められたか。

その下へ、聞き返してもいい、と書きかけた。


「今日は、書くより一回やろう」


沙羅さんに言われ、筆記具を置いた。

教えてもらったことを全部持ち帰ろうとして、目の前の練習まで遅くしていたらしい。

俺は笑いそうになり、また線を見失った。


「喜ぶと切れるんだ」


「そこも、練習します」


二人で笑ったあと、もう一度やった。


***


四日目には、俺の方から失敗する条件を言えるようになった。

急に顔を動かすと切れる。強い伝力を見て驚くと、そちらへ全部寄る。

息を止めると、長く続かない。


ひかりさんは聞き終えると、袋から棒を出した。


「じゃあ、驚く方も少し」


棒の表面に、伝力が寄った。

俺は先端へ目を向ける。

最初に見たときより、どこへ寄せているかが分かる。

足。腰。手首。棒。

流れを順に追っている間に、先端が俺の鼻の前で止まった。


「遅い」


俺は思わず後ろへ下がった。

ひかりさんが棒を引く。


「見えるのと、間に合うのは別だからね」


その言葉が、額へ当たるより残った。


「今の、起動ですか」


「今のは、普通に使っただけ」


「発展って、もっと違うんですか」


ひかりさんは神代さんを見た。

神代さんが、今日は説明まで、と言う。


「私も、桐生さんも、神代さんも使えるよ」


俺は三人の顔を見た。


「そんな話、聞いてないです」


「今、聞いたでしょ」


「そういう意味じゃなくて」


ひかりさんは、少しだけ眉を寄せた。


「使い方も分からないうちに、あれもこれも試そうとするから。先に、持ってる道具をちゃんと使えるようにする」


不満は残った。

でも、自分の眼鏡へ通していた流れが、その会話だけで切れていることにも気づいた。

桐生さんは、俺の顔を見て笑わなかった。


「順番。俺らの手の内を全部知ったら、お前の足が速くなるわけじゃねえ」


俺は眼鏡を指で押しかけ、手を下ろした。


***


練習を終えて廊下へ出ると、桐生さんが壁へ背を預けていた。


「怒ってんのか」


「何がですか」


「知らなかった方」


俺は返事に迷った。

発展という言葉は知ったばかりだ。何ができるかも分からない。

それでも、何か起きるたびに一緒に動いていた三人が、俺の知らない物を持っていた。


「危ないとき、使わなかったこともあるんですか」


「ある」


桐生さんは、すぐに答えた。


「使わなくて済んだこともある。使う場所じゃなかったこともな」


ひかりさんが棚を揺らさず、棒を小さく当てていた倉庫を思い出す。

俺は全部を見ていない。音を聞いていただけのところもあった。

強いことをすれば、早く終わると思っていた。

早く終わらせるために、壊していい物ばかりではない。


「聞けば、教えてもらえますか」


「必要な分はな。けど、お前が今できねえことを並べて、焦らせたいわけじゃねえんだよ」


桐生さんは、俺の肩を軽く押して歩き出した。


「明日は、自分で戻すところまで。見えやすいのが気持ちよくなって、ずっと通してんなよ」


俺は、さっきまで少し痛かったこめかみへ触れた。

言っていなかったのに、気づかれていた。


***


五日目は、学校で小テストがあった。

問題を読んでいる間に、机の端の傷を見てしまう。

眼鏡へ力を通しかけて、やめた。

数学の問題は、細かい伝力が見えても解けない。


放課後の練習で、その話をすると、ひかりさんは声を出して笑った。


「答案まで代わりに見てくれると思った?」


「思ってないです」


「じゃあ、手を動かして」


今日は、部屋の入口から机まで歩いた。

途中に椅子がある。床へ置いた箱がある。

紙の位置は、毎回違う。

歩きながら、見るものを絞り、足元へ戻し、もう一度紙を見る。

すぐにできる日は来なかった。

ただ、最初から全部やり直す失敗は、少し減った。


帰りの電車では、眼鏡へ伝力を通さなかった。

窓に映った自分の顔と、向こうの線路が重なる。

車内の人からも、薄い伝力が見える。全部を細かく追う必要はない。

降りる駅の案内が流れた。

俺は鞄を持ち直し、前に立つ人へ声をかけた。


家へ帰ると、姉が居間の机へ課題を広げていた。


俺の席へ、開いた問題集が半分はみ出していた。端へ寄せようとすると、姉が、まだそこやってる、と言う。


「隣、使っていい?」


「いいけど、消しゴム取って」


取って渡す。姉は礼を言わず、すぐに一行消した。

部屋で誰かの手元を見ることに慣れたせいか、書き直す前にどこで止まるかが気になった。

もちろん、答えは見えない。

自分の問題集を開くと、こちらも一行目から止まった。

眼鏡を外し、布で拭く。姉が、眼鏡の練習って何、とまた聞いた。


「長く使うと、目が疲れるから」


「普通じゃん」


その返事で、少し笑った。俺にとっては大きく変わりそうな一週間でも、机の上では、課題に困る弟のままだった。

俺のノートを見て、何の勉強かと聞く。


「眼鏡の使い方」


「今さら?」


説明が足りなかった。

隣へ座って学校の問題集を出すと、姉はそれ以上聞かなかった。

分からない問題へ印をつける。

伝力を通さない鉛筆でも、答えを考える役には立つ。

一週間で何かを身につけることばかり考えていたけれど、その間も、やることは一つではなかった。


***


六日目、神代さんが紙を裏返した。

目的の流れが見えない。

俺は机へ近づかず、横へ回った。

端から見える部分を確かめ、それでも分からないと伝えた。


「開けて確かめてもいいですか」


「はい。今なら大丈夫」


許可をもらい、紙をめくる。

違う紙だった。


「あれ」


「見えないのに、前と同じだと思わなかったね」


神代さんが言った。

褒められたのは、見つけたからではなかった。


***


七日目、机へ置かれたのは、倉庫で描いた俺の図だった。

紙の上に新しい伝力はない。

その横の、別の紙へ薄く残っている。

俺は眼鏡へ通し、視線を動かした。


「左の紙。図じゃない方です」


「どの辺?」


「角から、ここまで」


指を近づける前に、位置を言った。

神代さんが紙を持ち上げる。

見えなくなる。

俺は、その向こうを見ようとせず、足を止めた。


「今は、隠れてます」


ひかりさんが俺の横で歩いた。

足音は聞こえる。

見たいものへ絞っても、部屋全部がなくなるわけではない。

紙が戻る。

俺はもう一度、線を追った。


「続いてます」


言うと、神代さんが机の時計を見た。

俺は時間を聞きかけ、やめた。

まだ通っている。

嬉しくなっても、今日は切れなかった。


「いったん、戻そう」


眼鏡への流れを止める。

紙も、人も、いつもの見え方へ戻った。

少しだけ、こめかみが重い。

ひかりさんが椅子を引いた。


「座って。できたから、今日は倍やるとか言わない」


俺は腰を下ろした。

神代さんが、試験の案内を机へ置く。

日付が入っていた。


「起動の確認は受けられる。あとは、捜索と、安全に戻るところまでを見てもらおう」


受かったとは言われなかった。

それでも、先週まで空いていた場所に、自分で進めた分がある。


俺は眼鏡を外し、ケースへ収めた。


練習の部屋を出る前、ひかりさんが、最後に一つ聞いた。


「今、使わずに歩ける?」


俺は入口まで歩いた。窓から入る明るさも、床のテープも、普通に見える。力を使わなければ何もできない身体へ、変わったわけではなかった。


「大丈夫です」


「じゃあ、明日も普通に学校へ行く。試験の前だからって、夜中まで通さない」


俺は、家でも少しやろうと思っていたことを、言えなくなった。

神代さんが、片づけながら笑った。


「見え方が重いままだと、試験で何ができたかも分かりにくいからね」


窓の外は暗くなり始めていた。自分が遅くまで残れば、教える人も、帰りを確認する人も残る。

一人で頑張っているつもりでも、この一週間は、誰かの予定を使わせてもらっていた。


「ありがとうございました」


いつもの挨拶より、少し頭を下げた。

ひかりさんは、試験が終わったわけじゃない、と言った。でも、顔はさっきほど厳しくなかった。

部屋の灯りが消える前に、俺は鞄を持った。

第5班で掛け方を直してもらった眼鏡だ。

強い武器には見えない。

でも今は、何のために使うのか、一つだけ答えられた。


見えるものを、必要なときに見分けるため。

そのために掛け直す手は、最初の日より少し落ち着いていた。


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