↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
球体世界の観測者 ~見えるだけの少年は、陰陽寮で世界の裏側を知る~  作者: 雅貴
第2章第2節

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
23/47

第23話:話を途中であきらめないで

棚の下へ寄った霧を、桐生さんが足で散らした。

その向こうに、もう一ついる。

俺は設備の枠を背にしないよう、一歩横へずれた。

エイリクさんと第5班の担当者が、枠の脇へ膝をついている。


「二つ目、棚の下です。手前へ出ます」


桐生さんが、棚の前へ足を置いた。

こちらを見ない。

俺の言った位置へ腕を伸ばす前に、棚の脚を一度確かめた。

伝力が刃の近くへ集まる。

短い音と一緒に、霧が裂けた。


俺は、その残りを追った。


棚の隙間から出てきたものは、俺の靴の近くで向きを変えた。

反射的に足を引く。

背中が設備へ近づきすぎる前に、桐生さんの空いた手が、俺の肩の前へ入った。


「後ろ、作業してる」


俺は横へ踏み直した。

振り返ると、エイリクさんの道具箱が開いている。細い部品が、蓋の内側へ順番に留められていた。逃げる足でそれを蹴れば、技師の手も止まる。


「すみません」


「謝るの後。見える位置にいろ」


桐生さんは、棚と俺の間に立ったまま言った。

全部の霧へ飛び込んでいくことはしない。こちらへ寄ったものだけを短く散らし、刃を戻す。その足の位置が、設備へ近づいてはいけない線に見えた。

俺は深く息を吐いた。

怖くなくなったわけではない。どちらへ避けるかを、怖くなってから決めずに済んだ。

床へほどけた薄いものが、設備の下へ寄る。

エイリクさんの指が、そちらへ動く。


「まだ触らないでください」


俺が言うと、手が止まった。

桐生さんが、担当者と床の間へ入る。

俺は設備の足を使って、位置を細かく伝えた。


さっきから、どれも同じ所へ寄る。

相手を倒すことと、この場所を止めることは、別だった。


***


搬入口側で、神代さんの声がした。


『道路側、閉めた。作業員を内側の通路へ移す』


坂田さんの返事が入る。


『受けます』


俺は通路へ目を向けた。

白い線の向こうに、作業員が二人いる。

一人は、自分で歩いていた。

もう一人は、棚の近くで、片足を床へつけたまま動けずにいる。

足を、何かで挟んだのかもしれない。


梁から、長い腕が下りた。

ひかりさんが棒を立て、その腕を横へ弾く。

棚の上の箱が揺れた。

何かが、作業員の頭の上へ落ちる。


「棚、上から――」


深町さんが俺を見る。


「分かった。棚の上」


細い金属の筒が、手元へ出た。

そこへ伝力が集まる。

俺は、続きを言おうとした。

棚の上にも霧がいる。

その下へ、作業員が寄っている。


「待って」


坂田さんの声がした。

傘が開く。

布の音が、普通の雨傘より重かった。


「牧瀬くん。下には、誰がいますか」


俺は息を吸った。


「作業員の人、一人。棚の左の脚の近くです。上にいるのは霧で、箱も、落ちそうです」


坂田さんが、傘の向きを変えた。

深町さんの筒が少し下がる。

次の瞬間、箱が落ちた。


傘へ当たった。

布が沈み、坂田さんの腕がわずかに曲がる。

柄から骨へ、骨から傘の面へ、伝力が広がっていた。

どこか一つへ強く寄せるのではなく、受ける場所へ揃える。

ひかりさんが棒の先へ集めるのとは、違う使い方だった。

坂田さんの片足が後ろへ下がる。

床へ、靴底が短く擦れた。

骨は折れなかった。

箱が縁から滑り、誰もいない床へ落ちた。


俺は、喉の奥を詰まらせたまま見ていた。

最後まで言わなければ、下にいる人の位置は渡らない。


「こっちへ。頭、下げて」


坂田さんが作業員へ声をかける。

深町さんは、坂田さんが傘を固定したのを見てから、体を横へ寄せた。

傘の真後ろからは、撃たない。

縁の外へ、筒の先を出す。


小さな光が走った。

俺は、その流れを目で追った。

真っ直ぐ棚へ向かったあと、少しだけ上へ曲がる。

箱の隙間にいる霧へ当たり、薄い形が散った。

大きい音は、しなかった。


傘の下で、作業員が息を吐いた。

その人の靴が、金属の枠へまだ挟まっている。

坂田さんは、傘だけ残して手を離すわけにはいかない。

傾ければ、上から来るものが、縁の向こうへ抜ける。


「動けませんか」


坂田さんが聞いた。

作業員が、足元を見てうなずく。

返事は、それ以上出なかった。

坂田さんは、続きを急かさず、足を一度だけ確かめる。


「分かりました。先に、そこを空けます」


深町さんが、筒を下げる。

俺は、まだ棚の上を見ていた。

霧は散ったが、梁から出た腕の動きで、箱がまた揺れる。

坂田さんへ言う位置を、選び直した。


「上です。人の正面じゃなくて、傘の左の縁へ来ます」


坂田さんの足が、動いた。

傘を傾けず、体ごと位置を変える。

次の小さな部品が、傘へ当たった。

作業員へ落ちなかった。

同じ左でも、敵の左なのか、人の左なのかで、動く場所が違う。

俺はいつもの報告を、そのまま渡せないことを知った。


通信機の向こうで、ひかりさんの息が短く聞こえた。

棒が金属へ当たる音がする。棚の奥は見えない。音の方向からひかりさんがいる辺りは分かっても、腕をどちらへ振っているかまでは分からなかった。


「棚の上、残りは?」


深町さんに聞かれ、俺は見える隙間を探した。


「見えるところには、いません。箱の後ろは、分からないです」


「そう。じゃあ、そっちは撃たない」


筒の先が下がった。

見えないところにいない、と言わずに済んだ。深町さんも、それだけで箱の裏へ弾を通そうとはしなかった。

坂田さんの肩の下で、作業員が金属の枠を押している。靴だけを無理に引くと痛いらしく、顔が歪んだ。


「そのまま。今、持ち上げるから」


深町さんが声をかける。

先ほどまで、筒を構えていた手が、今度は足元の形を確かめた。

撃つことをやめても、何もしなくなるわけではない。


深町さんは、俺へ目を向けた。


「下に人がいたんだね」


俺はうなずいた。

謝る言葉は、すぐには来なかった。

ただ、次に筒を持ち上げる前、深町さんは俺の返事を待った。


***


桐生さんが、設備の前から俺を呼んだ。


「戻れ。次、来てる」


俺は白い線まで、二歩戻った。

エイリクさんの足元へ、細いものが向かう。

桐生さんが、短く刃を入れた。

そのまま霧を散らす。

切った先を、追い回さない。

技師を守る線へ戻る。


「残り」


「設備の足の向こう。まとまってません」


桐生さんは刃を下げた。

エイリクさんが、部材へ道具を合わせる。

第5班の担当者が、別の端を押さえた。


「ここを外したら、何が変わりますか」


エイリクさんの声がした。

俺は枠の下を見た。

外す前に、何が変わるかまでは分からない。


「いま、右側へ伸びています。変わったら、言います」


エイリクさんは、うなずいた。

無理に先の答えを求めない。

作業する二人の手の間で、金属の小さな音がした。

薄い流れが、曲がる。

俺はその位置を言った。


通路の方では、坂田さんが動けない作業員へ近づいていた。

傘を少し傾け、棚の上から来るものを受ける。

深町さんはその横で、筒を構えたまま、撃つ先を選んでいる。

俺はそちらを見続けられなかった。

設備の方へ、目を戻す。


全員を一度に見られなくても、返事は来る。

俺は通信機へ、設備の前で見ていることを伝えた。


***


――搬入口側。ひかりと神代。


ひかりは、棒を握る右手へ伝力を寄せた。

長い腕が伸び、棒の横へ当たる。

受け止めずに流す。

床の線を越え、リーヴェルの脇へ回った。


打てる。

ただ、その向こうに、棚がある。

棚の下には、まだ作業員がいた。


ひかりは、肩まで入れかけた力を止めた。

棒の先を下げ、相手の腕をもう一度外へ向ける。

倒すなら、一度で済ませられる相手だった。

一度で済ませる場所が、まだない。


神代は、搬入口の扉へ式神を置いた。

「リーヴェル一体。今の戦力で対処する」


通信機へ短く伝える。

支社へ援軍を求める言葉ではなかった。

ひかりの動く場所を、一つずつ空ければよい。

外で立ち止まる人の視線が、扉の向こうへ寄らずに通り過ぎる。

同時に、事務所へ続く通路を確かめた。


「右の棚には、まだ一人いる。坂田君が近づいている」


ひかりは、返事をせずに踏み込んだ。

腕を払う。

リーヴェルの体が、天井の梁へ寄る。

床へ下ろす場所を、少しずつ変える。


「私が止めてる間に、道を空けて」


「しているよ」


神代は作業員へ声をかけ、扉を開ける。

隠形を使っても、人の体を別の場所へ運べるわけではない。

歩ける人を、先に安全な場所へ送る。

動けない人へは、坂田の傘が必要だった。


長い腕が、ひかりの頭を掠めた。

首を引き、足へ伝力を寄せる。

一歩で、相手の正面を外した。

棒の先を腕へ当て、打撃の幅を小さくする。

肩から、肘へ。

肘から、手へ。

集めた力を、通す場所を絞る。


腕が曲がった。

背後の棚は、揺れなかった。


「先に、片側」


ひかりの短い報告を、神代が受け取る。

式神が床を進み、作業員の退避の様子を送る。

ひかりは、相手の残った腕を見た。

次は、逃がさない。

そのために、まだ打たずに待った。


***


――設備側。遼悟。


坂田さんの傘の下へ、作業員が二人入った。

一人は、相手の肩を支えている。

足元に倒れた金属の枠があった。

深町さんが屈み、それを両手で持ち上げる。

腕に伝力が通った。

それでも、軽々とは上がらない。


「足、抜いて。…今」


作業員の靴が、枠から離れた。

深町さんは枠を床へ戻し、息を吐く。

腕の強化を解き、すぐ筒を持ち直した。

坂田さんの傘の縁へ、金属の小さな破片が当たる。

深町さんは身を寄せ、破片が抜けない側へ戻った。


強化も、できる。

ただ、そこで勝負する人ではない。

力を使う場所を、見ていて初めて分かった。


「いまから、右の通路へ移します」


坂田さんの声がした。

俺は通路を見た。

薄いものが、一本横切る。

さっき散らした霧の残りだった。


「床に、まだ細いのがあります。入口の手前、一歩分」


坂田さんは傘を動かさず、深町さんを見た。

深町さんがうなずく。

短い光が床のすぐ上を通り、薄いものを散らす。

道が空いた。


守る人が動くときには、守る場所も変わる。

桐生さんへは、相手のいる場所を言った。

坂田さんへは、これから人が通る場所を言う。

同じ位置の報告でも、使われ方が違っていた。


桐生さんが、俺の前で足を止める。


「見ろ。下、どうなった」


俺は設備へ戻った。

枠の下に溜まった流れが、さっきより濃い。

部材を外した場所へ、二つの細い線が寄っていた。

別の場所へ逃がすはずのものが、また足元へ戻る。


「外したところへ、戻ってます」


エイリクさんが、手を止めた。

道具の線は、さっきまで正常だった。

いまは、灯りが消えている。


「止めても、こちらへ残るのか」


自分へ言うような声だった。

第5班の担当者が、新しい部材を机から持ってくる。

俺はそこを見ながら、通路の方へ一度だけ目をやった。


坂田さんの傘が、扉へ近づいている。

その奥で、神代さんが作業員を受け取った。


『退避二名。通路、空いた』


通信機の声が、全員へ届いた。

俺の見えない搬入口で、棒を振る音が変わった。

短い擦れた音ではなく、床まで伝わる、硬い一つの音になった。


***


――搬入口側。ひかりと神代。


棒の先が、リーヴェルの胴へ入った。

ひかりは、押し込まずに引いた。

残った腕が、棒を掴もうと伸びる。

そこへ足を入れ、相手の体を、棚から遠い方へ向けた。


神代の式神が、搬入口へ並ぶ。

通る人の注目を外へ逸らしながら、扉の動きを確かめる。

音そのものは、消せない。

近くへ来る配送車には、別の入口を使うよう事前に連絡を回していた。

それでも、不意に人が入る可能性は残る。


「ひかり君。右の床は空いている」


ひかりは目だけを動かした。

人はいない。

棚の脚も、技師の使う設備もない。

そこへ相手を出す。


棒の中央で腕を払い、足へ伝力を通す。

体を半歩沈め、反対側へ踏んだ。

リーヴェルが向きを変える。

膜のようなものが開き、梁へ戻ろうとする。


ひかりは、棒の握る位置を短くした。

大きく振れば、倒せる。

ただ、倒した体が、どこへ行くかまで決めなくてはいけない。

手元から先へ、伝力を絞って通した。


神代は扉から半歩、位置を変えた。

別の通路の入口に、まだ小さな台車があった。

倒した体がそこへ入れば、退避する人の道を塞ぐ。

式神を低く走らせ、事務所側へ連絡する。

台車を動かす人が、危険な床へ入らないよう、動かす方向だけを伝えた。


ひかりは、その返事の間にも動いていた。

相手の腕を外へ向ける。

力を抑え、体の向きを変えるためだけに棒を使う。

右へ出たところで、床の先を一度見る。

台車が、通路の奥へ引かれた。


「空いた」


神代の声がした。

ひかりは、構えを変えた。

小さく打つ時間と、決める時間を、切り替える。


床を蹴る。

棒の先が、体の中央へ当たった。

硬い感触が、一瞬、手首へ返る。

ひかりは左手を添え、角度を下へ変えた。


リーヴェルが床へ落ちた。


ひかりは落下の正面へ残らず、棒を引いて横へ抜けた。

床へ当たった体が滑る。長い腕が最後に伸び、近くの棚ではなく、何もない床を引っ掻いた。

乾いた音とともに、コンクリートの表面へ細い跡が残る。


神代は、その跡より奥にいるひかりへ目を向けた。


「当たったかい」


「当たってない」


返事はすぐだった。ひかりは相手から目を離さず、右足の位置を変える。

もう動かない、と決めて棒を下ろすには早い。

神代も、通信機へ決着の報告を入れながら、搬入口の式神を戻さなかった。

扉の外では、配送車の後ろの扉が閉まる音がした。中の戦いが止まっても、外の仕事は止まっていない。

広い通路の中央で、長い腕が止まる。

ひかりは棒を構えたまま、残る動きを見た。


「倒した。こっちは見る」


神代は返事をし、作業員のいる事務所へ目を向けた。

ひかりの腕が、服の袖を一度引く。

ここまで抑えていた力を、ようやく解いた。


***


――設備側。遼悟。


「実体の方、止まったって」


深町さんが言った。

俺は通信機の返事を聞き、床の振動がなくなったことを確かめた。

見えていなかった相手が、倒れた。

安心しかけて、設備の下へ目を戻す。

こっちは、まだ終わっていない。


エイリクさんが、部材を一つ、枠の外へ置いた。

伸びていた薄いものが、途中で折れる。

床の上へ細く残り、外した部材からは離れた。


「いま、枠から離れました。床へ残ってます」


桐生さんが、その近くへ立つ。

散らそうと手を出しかけた。


「待ってください。それ、さっきの霧とは違います」


俺の声で、手が止まる。

動くものなら、向かってくる。

今の薄い線は、床へ張りついたままだった。

霧を引き寄せていた方だ。

同じように消せばよいとは、まだ分からない。


エイリクさんが、短い棒を床の近くへ置いた。

第5班の担当者が、布のような物を広げる。

二人の道具の間で、細いものが、ゆっくり形を変えた。


「向きは」


「右へ。いま、少しだけ」


俺は、言うための目印を探した。

床の継ぎ目が、途中で棚の影へ隠れている。

坂田さんが、白い線の手前まで戻ってきた。

俺の隣には立たず、少し低い位置から見ようとする。


「牧瀬くん、どこを見ていますか」


俺は指した。

坂田さんは、布の角へ目を移す。


「あの角から、どちらへ動いたかで言えます?」


動かない目印ができた。

俺は、もう一度見た。


「角の左へ、指一本ぐらい。そこから、奥へ戻ってます」


エイリクさんの手が、止まる。

道具の向きを変えた。

線が、細くなる。


坂田さんは、そこで続きを急かさなかった。

俺が見た変化を、最後まで待ってくれた。


***


調整は、一度では済まなかった。

細くなったものが、布の下へ戻る。

そのたびに、俺は位置を言う。

第5班の担当者が、道具の置き方を少し変える。

エイリクさんは、計測の板を使わなかった。


「そっちは、見ないんですか」


俺が聞くと、板を横へ置いたまま答えた。


「確認のために流す伝力が、いま見ているものへ混じるようです。それで、正常に見えていた可能性があります」


俺は最初の計測を思い出した。

道具を使うと、細いものが枠へ寄った。

止めると伸びた。

その間を、俺は何も放出せずに見ていた。


「俺は、ただ見てるだけです」


エイリクさんは、こちらを見た。


「それが、今は助かります」


強い攻撃ができるわけではない。

設備を直す手も、俺にはない。

何もしていないように思う時間に、作業する人の手が動く。

坂田さんはその横で、技師たちが使う場所を傘で守っていた。

深町さんが、残った霧へ筒を向ける。

もう一つ、短い光が走った。


「通路、残りなし」


深町さんの報告が入る。

俺は目を上げなかった。

今、自分が言う位置は、目の前にあった。


やがて、薄い線が一本だけになる。

それが、布の下へ寄る。

エイリクさんが道具の向きを保ち、担当者が、枠から最後の部材を離した。


「いま、広がってません」


言うと、二人の手が止まった。

少し待つ。

俺も、そのまま見ていた。


伸びない。

戻らない。

あの場所へ寄る、嫌な細さがなくなっていた。


「さっきの感じは、なくなりました」


エイリクさんが、大きく息を吐いた。

すぐに設備を動かそうとはしなかった。

枠へ、停止中を示す札を掛ける。

書かれた文字の下に、こちらの言葉の表示も足された。


担当者が、その札を少し引いて、落ちないことを確かめた。

俺はそこで初めて、固くしていた膝を伸ばした。

しゃがんでいる間に、靴の横へ小さな砂がついていた。倉庫の床は滑らかに見えていたけれど、近づくと、台車の跡や古い傷がいくつもある。


「まだ、何か見えますか」


エイリクさんが聞いた。


「少しは。でも、さっきみたいに同じ場所へ戻ってはいないです」


「分かりました。今日は、ここで止めます」


第5班の担当者も、外した部材を元へ戻さなかった。空いた接続部分へ覆いを掛け、道具箱とは別の容器へ部材を収める。

俺の目に変なものがなくなったから、機械まで直った、とは言えないらしい。


「これ、また使えるんですか」


「使えるようにする。そのために、向こう側も調べたい」


担当者は蓋を閉じ、立ち上がった。

作業が終わった音が、鍵の小さな音だったことを、俺は少し意外に思った。


***


事務所へ戻ると、作業員が二人、椅子へ座っていた。

一人の袖が破れ、もう一人は靴を脱いでいる。

神代さんが状態を聞き、診療所へ向かう車を手配していた。

倉庫の仕事の責任者が、運ぶ荷物の予定を変えている。

一般商品の車は、まだ外にあった。


俺はその脇で、眼鏡を外した。

ずれていなかった。

鼻のところを押し続けずに済んだぶん、今日は最後まで見られた気がする。

道具の調整で、世界が急に広くなったわけではない。

困るものが、一つ減った。


深町さんが、俺の前で足を止めた。


「棚のところ。先に切っちゃったね」


俺は顔を上げた。


「報告の、ですか」


「そう。人の位置、あとだった」


深町さんは、目を少し外した。


「次は、そこも聞く」


俺はうなずいた。

長い謝り方ではなかった。

それでも、最初の引継ぎでは来なかった言葉だった。

坂田さんは、傘を閉じていた。

表面についた小さな傷を確かめ、布を畳む位置を少し変える。


「後で、縁も見ておきます」


深町さんがうなずいた。


「あそこ、私からも見えた。部品、あるか聞こう」


二人の会話が、次の手入れへ進む。

相棒の道具を、相棒も見ている。

俺は、傘の縁にある傷を見た。

今日、そこへ当たるはずだったものの下には、人がいた。


***


外側の技師が、帰る前に俺へ声をかけた。

足元に置いた道具を片づけ、こちらの作業を邪魔しない場所で待っている。


「あの変化を、向こうでも見てもらうことはできますか」


俺は、返事がすぐ出なかった。

向こう。

さっきまで、倉庫の反対側を指していた言葉だった。

今は、違う。


「外側、ですか」


エイリクさんは、うなずいた。


「送り側は、こちらへ運べません。同じ確認をしても、私には、あなたが見た境目が同じようには見えていない。向こうで起きる変化と、今日のものを比べたい」


神代さんが、横へ来た。

俺に代わって、すぐ行けるとは言わなかった。


「正式に、調査の目的と場所を送ってください。本人の予定と、同行する人員を合わせます」


「もちろんです。こちらで手配を頼みます」


エイリクさんは、言い直すように俺を見る。


「来てもらえたら、助かります。今日は、本当にありがとうございました」


俺は、眼鏡のケースを持ったまま頭を下げた。

その言葉は、杯を返した使節の声とは違っていた。

嬉しいと思った。

思ったあとで、外側へ行くという言葉の大きさが来た。


桐生さんが、事務所から出てきた。


「話、来たか」


「まだ、決まってないです」


「なら、帰るぞ。今日は、こっちを終わらせてからだ」


俺は倉庫の中を振り返った。

神代さんは作業員の車を待っている。

ひかりさんは、搬入口の担当者へ壊れた場所を示している。

深町さんと坂田さんは、道を確認している。

誰も、倒した相手だけを見ていなかった。


神代さんが、第4班へ引き継ぐ場所を示した。

落ちた箱。歪んだ棚。散った部品。

普通の荷物を下ろしていた人から、物音がしたという連絡も来ている。

誰が何を見たかは、あとから確認するという。

隠形を使ったから、割れた物まで元へ戻るわけではない。

倉庫の担当者は、壊れた荷物を別の場所へまとめ、数を確かめ始めた。


作業員の一人が、俺たちへ頭を下げた。

坂田さんは、返事より先に、車へ乗る足元を見ている。

深町さんが扉を押さえた。

救出した人がここから出るまで、二人の仕事は続いていた。


俺も、ケースを鞄へ戻した。

外側のことを考えるのは、今日の帰り道が決まってからにした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。