第23話:話を途中であきらめないで
棚の下へ寄った霧を、桐生さんが足で散らした。
その向こうに、もう一ついる。
俺は設備の枠を背にしないよう、一歩横へずれた。
エイリクさんと第5班の担当者が、枠の脇へ膝をついている。
「二つ目、棚の下です。手前へ出ます」
桐生さんが、棚の前へ足を置いた。
こちらを見ない。
俺の言った位置へ腕を伸ばす前に、棚の脚を一度確かめた。
伝力が刃の近くへ集まる。
短い音と一緒に、霧が裂けた。
俺は、その残りを追った。
棚の隙間から出てきたものは、俺の靴の近くで向きを変えた。
反射的に足を引く。
背中が設備へ近づきすぎる前に、桐生さんの空いた手が、俺の肩の前へ入った。
「後ろ、作業してる」
俺は横へ踏み直した。
振り返ると、エイリクさんの道具箱が開いている。細い部品が、蓋の内側へ順番に留められていた。逃げる足でそれを蹴れば、技師の手も止まる。
「すみません」
「謝るの後。見える位置にいろ」
桐生さんは、棚と俺の間に立ったまま言った。
全部の霧へ飛び込んでいくことはしない。こちらへ寄ったものだけを短く散らし、刃を戻す。その足の位置が、設備へ近づいてはいけない線に見えた。
俺は深く息を吐いた。
怖くなくなったわけではない。どちらへ避けるかを、怖くなってから決めずに済んだ。
床へほどけた薄いものが、設備の下へ寄る。
エイリクさんの指が、そちらへ動く。
「まだ触らないでください」
俺が言うと、手が止まった。
桐生さんが、担当者と床の間へ入る。
俺は設備の足を使って、位置を細かく伝えた。
さっきから、どれも同じ所へ寄る。
相手を倒すことと、この場所を止めることは、別だった。
***
搬入口側で、神代さんの声がした。
『道路側、閉めた。作業員を内側の通路へ移す』
坂田さんの返事が入る。
『受けます』
俺は通路へ目を向けた。
白い線の向こうに、作業員が二人いる。
一人は、自分で歩いていた。
もう一人は、棚の近くで、片足を床へつけたまま動けずにいる。
足を、何かで挟んだのかもしれない。
梁から、長い腕が下りた。
ひかりさんが棒を立て、その腕を横へ弾く。
棚の上の箱が揺れた。
何かが、作業員の頭の上へ落ちる。
「棚、上から――」
深町さんが俺を見る。
「分かった。棚の上」
細い金属の筒が、手元へ出た。
そこへ伝力が集まる。
俺は、続きを言おうとした。
棚の上にも霧がいる。
その下へ、作業員が寄っている。
「待って」
坂田さんの声がした。
傘が開く。
布の音が、普通の雨傘より重かった。
「牧瀬くん。下には、誰がいますか」
俺は息を吸った。
「作業員の人、一人。棚の左の脚の近くです。上にいるのは霧で、箱も、落ちそうです」
坂田さんが、傘の向きを変えた。
深町さんの筒が少し下がる。
次の瞬間、箱が落ちた。
傘へ当たった。
布が沈み、坂田さんの腕がわずかに曲がる。
柄から骨へ、骨から傘の面へ、伝力が広がっていた。
どこか一つへ強く寄せるのではなく、受ける場所へ揃える。
ひかりさんが棒の先へ集めるのとは、違う使い方だった。
坂田さんの片足が後ろへ下がる。
床へ、靴底が短く擦れた。
骨は折れなかった。
箱が縁から滑り、誰もいない床へ落ちた。
俺は、喉の奥を詰まらせたまま見ていた。
最後まで言わなければ、下にいる人の位置は渡らない。
「こっちへ。頭、下げて」
坂田さんが作業員へ声をかける。
深町さんは、坂田さんが傘を固定したのを見てから、体を横へ寄せた。
傘の真後ろからは、撃たない。
縁の外へ、筒の先を出す。
小さな光が走った。
俺は、その流れを目で追った。
真っ直ぐ棚へ向かったあと、少しだけ上へ曲がる。
箱の隙間にいる霧へ当たり、薄い形が散った。
大きい音は、しなかった。
傘の下で、作業員が息を吐いた。
その人の靴が、金属の枠へまだ挟まっている。
坂田さんは、傘だけ残して手を離すわけにはいかない。
傾ければ、上から来るものが、縁の向こうへ抜ける。
「動けませんか」
坂田さんが聞いた。
作業員が、足元を見てうなずく。
返事は、それ以上出なかった。
坂田さんは、続きを急かさず、足を一度だけ確かめる。
「分かりました。先に、そこを空けます」
深町さんが、筒を下げる。
俺は、まだ棚の上を見ていた。
霧は散ったが、梁から出た腕の動きで、箱がまた揺れる。
坂田さんへ言う位置を、選び直した。
「上です。人の正面じゃなくて、傘の左の縁へ来ます」
坂田さんの足が、動いた。
傘を傾けず、体ごと位置を変える。
次の小さな部品が、傘へ当たった。
作業員へ落ちなかった。
同じ左でも、敵の左なのか、人の左なのかで、動く場所が違う。
俺はいつもの報告を、そのまま渡せないことを知った。
通信機の向こうで、ひかりさんの息が短く聞こえた。
棒が金属へ当たる音がする。棚の奥は見えない。音の方向からひかりさんがいる辺りは分かっても、腕をどちらへ振っているかまでは分からなかった。
「棚の上、残りは?」
深町さんに聞かれ、俺は見える隙間を探した。
「見えるところには、いません。箱の後ろは、分からないです」
「そう。じゃあ、そっちは撃たない」
筒の先が下がった。
見えないところにいない、と言わずに済んだ。深町さんも、それだけで箱の裏へ弾を通そうとはしなかった。
坂田さんの肩の下で、作業員が金属の枠を押している。靴だけを無理に引くと痛いらしく、顔が歪んだ。
「そのまま。今、持ち上げるから」
深町さんが声をかける。
先ほどまで、筒を構えていた手が、今度は足元の形を確かめた。
撃つことをやめても、何もしなくなるわけではない。
深町さんは、俺へ目を向けた。
「下に人がいたんだね」
俺はうなずいた。
謝る言葉は、すぐには来なかった。
ただ、次に筒を持ち上げる前、深町さんは俺の返事を待った。
***
桐生さんが、設備の前から俺を呼んだ。
「戻れ。次、来てる」
俺は白い線まで、二歩戻った。
エイリクさんの足元へ、細いものが向かう。
桐生さんが、短く刃を入れた。
そのまま霧を散らす。
切った先を、追い回さない。
技師を守る線へ戻る。
「残り」
「設備の足の向こう。まとまってません」
桐生さんは刃を下げた。
エイリクさんが、部材へ道具を合わせる。
第5班の担当者が、別の端を押さえた。
「ここを外したら、何が変わりますか」
エイリクさんの声がした。
俺は枠の下を見た。
外す前に、何が変わるかまでは分からない。
「いま、右側へ伸びています。変わったら、言います」
エイリクさんは、うなずいた。
無理に先の答えを求めない。
作業する二人の手の間で、金属の小さな音がした。
薄い流れが、曲がる。
俺はその位置を言った。
通路の方では、坂田さんが動けない作業員へ近づいていた。
傘を少し傾け、棚の上から来るものを受ける。
深町さんはその横で、筒を構えたまま、撃つ先を選んでいる。
俺はそちらを見続けられなかった。
設備の方へ、目を戻す。
全員を一度に見られなくても、返事は来る。
俺は通信機へ、設備の前で見ていることを伝えた。
***
――搬入口側。ひかりと神代。
ひかりは、棒を握る右手へ伝力を寄せた。
長い腕が伸び、棒の横へ当たる。
受け止めずに流す。
床の線を越え、リーヴェルの脇へ回った。
打てる。
ただ、その向こうに、棚がある。
棚の下には、まだ作業員がいた。
ひかりは、肩まで入れかけた力を止めた。
棒の先を下げ、相手の腕をもう一度外へ向ける。
倒すなら、一度で済ませられる相手だった。
一度で済ませる場所が、まだない。
神代は、搬入口の扉へ式神を置いた。
「リーヴェル一体。今の戦力で対処する」
通信機へ短く伝える。
支社へ援軍を求める言葉ではなかった。
ひかりの動く場所を、一つずつ空ければよい。
外で立ち止まる人の視線が、扉の向こうへ寄らずに通り過ぎる。
同時に、事務所へ続く通路を確かめた。
「右の棚には、まだ一人いる。坂田君が近づいている」
ひかりは、返事をせずに踏み込んだ。
腕を払う。
リーヴェルの体が、天井の梁へ寄る。
床へ下ろす場所を、少しずつ変える。
「私が止めてる間に、道を空けて」
「しているよ」
神代は作業員へ声をかけ、扉を開ける。
隠形を使っても、人の体を別の場所へ運べるわけではない。
歩ける人を、先に安全な場所へ送る。
動けない人へは、坂田の傘が必要だった。
長い腕が、ひかりの頭を掠めた。
首を引き、足へ伝力を寄せる。
一歩で、相手の正面を外した。
棒の先を腕へ当て、打撃の幅を小さくする。
肩から、肘へ。
肘から、手へ。
集めた力を、通す場所を絞る。
腕が曲がった。
背後の棚は、揺れなかった。
「先に、片側」
ひかりの短い報告を、神代が受け取る。
式神が床を進み、作業員の退避の様子を送る。
ひかりは、相手の残った腕を見た。
次は、逃がさない。
そのために、まだ打たずに待った。
***
――設備側。遼悟。
坂田さんの傘の下へ、作業員が二人入った。
一人は、相手の肩を支えている。
足元に倒れた金属の枠があった。
深町さんが屈み、それを両手で持ち上げる。
腕に伝力が通った。
それでも、軽々とは上がらない。
「足、抜いて。…今」
作業員の靴が、枠から離れた。
深町さんは枠を床へ戻し、息を吐く。
腕の強化を解き、すぐ筒を持ち直した。
坂田さんの傘の縁へ、金属の小さな破片が当たる。
深町さんは身を寄せ、破片が抜けない側へ戻った。
強化も、できる。
ただ、そこで勝負する人ではない。
力を使う場所を、見ていて初めて分かった。
「いまから、右の通路へ移します」
坂田さんの声がした。
俺は通路を見た。
薄いものが、一本横切る。
さっき散らした霧の残りだった。
「床に、まだ細いのがあります。入口の手前、一歩分」
坂田さんは傘を動かさず、深町さんを見た。
深町さんがうなずく。
短い光が床のすぐ上を通り、薄いものを散らす。
道が空いた。
守る人が動くときには、守る場所も変わる。
桐生さんへは、相手のいる場所を言った。
坂田さんへは、これから人が通る場所を言う。
同じ位置の報告でも、使われ方が違っていた。
桐生さんが、俺の前で足を止める。
「見ろ。下、どうなった」
俺は設備へ戻った。
枠の下に溜まった流れが、さっきより濃い。
部材を外した場所へ、二つの細い線が寄っていた。
別の場所へ逃がすはずのものが、また足元へ戻る。
「外したところへ、戻ってます」
エイリクさんが、手を止めた。
道具の線は、さっきまで正常だった。
いまは、灯りが消えている。
「止めても、こちらへ残るのか」
自分へ言うような声だった。
第5班の担当者が、新しい部材を机から持ってくる。
俺はそこを見ながら、通路の方へ一度だけ目をやった。
坂田さんの傘が、扉へ近づいている。
その奥で、神代さんが作業員を受け取った。
『退避二名。通路、空いた』
通信機の声が、全員へ届いた。
俺の見えない搬入口で、棒を振る音が変わった。
短い擦れた音ではなく、床まで伝わる、硬い一つの音になった。
***
――搬入口側。ひかりと神代。
棒の先が、リーヴェルの胴へ入った。
ひかりは、押し込まずに引いた。
残った腕が、棒を掴もうと伸びる。
そこへ足を入れ、相手の体を、棚から遠い方へ向けた。
神代の式神が、搬入口へ並ぶ。
通る人の注目を外へ逸らしながら、扉の動きを確かめる。
音そのものは、消せない。
近くへ来る配送車には、別の入口を使うよう事前に連絡を回していた。
それでも、不意に人が入る可能性は残る。
「ひかり君。右の床は空いている」
ひかりは目だけを動かした。
人はいない。
棚の脚も、技師の使う設備もない。
そこへ相手を出す。
棒の中央で腕を払い、足へ伝力を通す。
体を半歩沈め、反対側へ踏んだ。
リーヴェルが向きを変える。
膜のようなものが開き、梁へ戻ろうとする。
ひかりは、棒の握る位置を短くした。
大きく振れば、倒せる。
ただ、倒した体が、どこへ行くかまで決めなくてはいけない。
手元から先へ、伝力を絞って通した。
神代は扉から半歩、位置を変えた。
別の通路の入口に、まだ小さな台車があった。
倒した体がそこへ入れば、退避する人の道を塞ぐ。
式神を低く走らせ、事務所側へ連絡する。
台車を動かす人が、危険な床へ入らないよう、動かす方向だけを伝えた。
ひかりは、その返事の間にも動いていた。
相手の腕を外へ向ける。
力を抑え、体の向きを変えるためだけに棒を使う。
右へ出たところで、床の先を一度見る。
台車が、通路の奥へ引かれた。
「空いた」
神代の声がした。
ひかりは、構えを変えた。
小さく打つ時間と、決める時間を、切り替える。
床を蹴る。
棒の先が、体の中央へ当たった。
硬い感触が、一瞬、手首へ返る。
ひかりは左手を添え、角度を下へ変えた。
リーヴェルが床へ落ちた。
ひかりは落下の正面へ残らず、棒を引いて横へ抜けた。
床へ当たった体が滑る。長い腕が最後に伸び、近くの棚ではなく、何もない床を引っ掻いた。
乾いた音とともに、コンクリートの表面へ細い跡が残る。
神代は、その跡より奥にいるひかりへ目を向けた。
「当たったかい」
「当たってない」
返事はすぐだった。ひかりは相手から目を離さず、右足の位置を変える。
もう動かない、と決めて棒を下ろすには早い。
神代も、通信機へ決着の報告を入れながら、搬入口の式神を戻さなかった。
扉の外では、配送車の後ろの扉が閉まる音がした。中の戦いが止まっても、外の仕事は止まっていない。
広い通路の中央で、長い腕が止まる。
ひかりは棒を構えたまま、残る動きを見た。
「倒した。こっちは見る」
神代は返事をし、作業員のいる事務所へ目を向けた。
ひかりの腕が、服の袖を一度引く。
ここまで抑えていた力を、ようやく解いた。
***
――設備側。遼悟。
「実体の方、止まったって」
深町さんが言った。
俺は通信機の返事を聞き、床の振動がなくなったことを確かめた。
見えていなかった相手が、倒れた。
安心しかけて、設備の下へ目を戻す。
こっちは、まだ終わっていない。
エイリクさんが、部材を一つ、枠の外へ置いた。
伸びていた薄いものが、途中で折れる。
床の上へ細く残り、外した部材からは離れた。
「いま、枠から離れました。床へ残ってます」
桐生さんが、その近くへ立つ。
散らそうと手を出しかけた。
「待ってください。それ、さっきの霧とは違います」
俺の声で、手が止まる。
動くものなら、向かってくる。
今の薄い線は、床へ張りついたままだった。
霧を引き寄せていた方だ。
同じように消せばよいとは、まだ分からない。
エイリクさんが、短い棒を床の近くへ置いた。
第5班の担当者が、布のような物を広げる。
二人の道具の間で、細いものが、ゆっくり形を変えた。
「向きは」
「右へ。いま、少しだけ」
俺は、言うための目印を探した。
床の継ぎ目が、途中で棚の影へ隠れている。
坂田さんが、白い線の手前まで戻ってきた。
俺の隣には立たず、少し低い位置から見ようとする。
「牧瀬くん、どこを見ていますか」
俺は指した。
坂田さんは、布の角へ目を移す。
「あの角から、どちらへ動いたかで言えます?」
動かない目印ができた。
俺は、もう一度見た。
「角の左へ、指一本ぐらい。そこから、奥へ戻ってます」
エイリクさんの手が、止まる。
道具の向きを変えた。
線が、細くなる。
坂田さんは、そこで続きを急かさなかった。
俺が見た変化を、最後まで待ってくれた。
***
調整は、一度では済まなかった。
細くなったものが、布の下へ戻る。
そのたびに、俺は位置を言う。
第5班の担当者が、道具の置き方を少し変える。
エイリクさんは、計測の板を使わなかった。
「そっちは、見ないんですか」
俺が聞くと、板を横へ置いたまま答えた。
「確認のために流す伝力が、いま見ているものへ混じるようです。それで、正常に見えていた可能性があります」
俺は最初の計測を思い出した。
道具を使うと、細いものが枠へ寄った。
止めると伸びた。
その間を、俺は何も放出せずに見ていた。
「俺は、ただ見てるだけです」
エイリクさんは、こちらを見た。
「それが、今は助かります」
強い攻撃ができるわけではない。
設備を直す手も、俺にはない。
何もしていないように思う時間に、作業する人の手が動く。
坂田さんはその横で、技師たちが使う場所を傘で守っていた。
深町さんが、残った霧へ筒を向ける。
もう一つ、短い光が走った。
「通路、残りなし」
深町さんの報告が入る。
俺は目を上げなかった。
今、自分が言う位置は、目の前にあった。
やがて、薄い線が一本だけになる。
それが、布の下へ寄る。
エイリクさんが道具の向きを保ち、担当者が、枠から最後の部材を離した。
「いま、広がってません」
言うと、二人の手が止まった。
少し待つ。
俺も、そのまま見ていた。
伸びない。
戻らない。
あの場所へ寄る、嫌な細さがなくなっていた。
「さっきの感じは、なくなりました」
エイリクさんが、大きく息を吐いた。
すぐに設備を動かそうとはしなかった。
枠へ、停止中を示す札を掛ける。
書かれた文字の下に、こちらの言葉の表示も足された。
担当者が、その札を少し引いて、落ちないことを確かめた。
俺はそこで初めて、固くしていた膝を伸ばした。
しゃがんでいる間に、靴の横へ小さな砂がついていた。倉庫の床は滑らかに見えていたけれど、近づくと、台車の跡や古い傷がいくつもある。
「まだ、何か見えますか」
エイリクさんが聞いた。
「少しは。でも、さっきみたいに同じ場所へ戻ってはいないです」
「分かりました。今日は、ここで止めます」
第5班の担当者も、外した部材を元へ戻さなかった。空いた接続部分へ覆いを掛け、道具箱とは別の容器へ部材を収める。
俺の目に変なものがなくなったから、機械まで直った、とは言えないらしい。
「これ、また使えるんですか」
「使えるようにする。そのために、向こう側も調べたい」
担当者は蓋を閉じ、立ち上がった。
作業が終わった音が、鍵の小さな音だったことを、俺は少し意外に思った。
***
事務所へ戻ると、作業員が二人、椅子へ座っていた。
一人の袖が破れ、もう一人は靴を脱いでいる。
神代さんが状態を聞き、診療所へ向かう車を手配していた。
倉庫の仕事の責任者が、運ぶ荷物の予定を変えている。
一般商品の車は、まだ外にあった。
俺はその脇で、眼鏡を外した。
ずれていなかった。
鼻のところを押し続けずに済んだぶん、今日は最後まで見られた気がする。
道具の調整で、世界が急に広くなったわけではない。
困るものが、一つ減った。
深町さんが、俺の前で足を止めた。
「棚のところ。先に切っちゃったね」
俺は顔を上げた。
「報告の、ですか」
「そう。人の位置、あとだった」
深町さんは、目を少し外した。
「次は、そこも聞く」
俺はうなずいた。
長い謝り方ではなかった。
それでも、最初の引継ぎでは来なかった言葉だった。
坂田さんは、傘を閉じていた。
表面についた小さな傷を確かめ、布を畳む位置を少し変える。
「後で、縁も見ておきます」
深町さんがうなずいた。
「あそこ、私からも見えた。部品、あるか聞こう」
二人の会話が、次の手入れへ進む。
相棒の道具を、相棒も見ている。
俺は、傘の縁にある傷を見た。
今日、そこへ当たるはずだったものの下には、人がいた。
***
外側の技師が、帰る前に俺へ声をかけた。
足元に置いた道具を片づけ、こちらの作業を邪魔しない場所で待っている。
「あの変化を、向こうでも見てもらうことはできますか」
俺は、返事がすぐ出なかった。
向こう。
さっきまで、倉庫の反対側を指していた言葉だった。
今は、違う。
「外側、ですか」
エイリクさんは、うなずいた。
「送り側は、こちらへ運べません。同じ確認をしても、私には、あなたが見た境目が同じようには見えていない。向こうで起きる変化と、今日のものを比べたい」
神代さんが、横へ来た。
俺に代わって、すぐ行けるとは言わなかった。
「正式に、調査の目的と場所を送ってください。本人の予定と、同行する人員を合わせます」
「もちろんです。こちらで手配を頼みます」
エイリクさんは、言い直すように俺を見る。
「来てもらえたら、助かります。今日は、本当にありがとうございました」
俺は、眼鏡のケースを持ったまま頭を下げた。
その言葉は、杯を返した使節の声とは違っていた。
嬉しいと思った。
思ったあとで、外側へ行くという言葉の大きさが来た。
桐生さんが、事務所から出てきた。
「話、来たか」
「まだ、決まってないです」
「なら、帰るぞ。今日は、こっちを終わらせてからだ」
俺は倉庫の中を振り返った。
神代さんは作業員の車を待っている。
ひかりさんは、搬入口の担当者へ壊れた場所を示している。
深町さんと坂田さんは、道を確認している。
誰も、倒した相手だけを見ていなかった。
神代さんが、第4班へ引き継ぐ場所を示した。
落ちた箱。歪んだ棚。散った部品。
普通の荷物を下ろしていた人から、物音がしたという連絡も来ている。
誰が何を見たかは、あとから確認するという。
隠形を使ったから、割れた物まで元へ戻るわけではない。
倉庫の担当者は、壊れた荷物を別の場所へまとめ、数を確かめ始めた。
作業員の一人が、俺たちへ頭を下げた。
坂田さんは、返事より先に、車へ乗る足元を見ている。
深町さんが扉を押さえた。
救出した人がここから出るまで、二人の仕事は続いていた。
俺も、ケースを鞄へ戻した。
外側のことを考えるのは、今日の帰り道が決まってからにした。




