第21話:クエスト報酬は未提出の報告書
十四日目、使節は約束した時間より少し早く来た。
早く来たからといって、机の上の準備が早く終わるわけではない。
俺が第11班へ着いたとき、神代さんは、最後の紙を確かめていた。
使節は奥の椅子へ座り、出された水を飲んでいる。
最初に会った日と、似た景色だった。
俺の方は、少し違う。
足の痛みは薄くなっていた。
ノートには、地図の線と、聞いた名前と、何度も書き直した説明が増えた。
机へ座る前に、鞄の中の学校の課題を、端へ寄せる癖もついた。
今日は全部終わる、とまでは思わなくなっていた。
黒江班長が、使節へ声をかけた。
「回収した品と、記録を確認します」
使節は、すぐ立ち上がった。
その動きだけは、昨日までの話し合いより早かった。
机へ箱が置かれる。
神代さんと秋庭さんが蓋を開け、布を少しずつ外した。
傷のある杯が、また見える。
使節は、上から、横から、縁を見た。
目が、俺たちを見るときより細かく動く。
傷を一つ確かめるたび、指の位置を変える。
杯が、元からどういう姿だったかは、よく知っているらしい。
「ここは」
縁の小さな傷を指した。
神代さんが、受け取る前の写真を示す。
「搬入時の記録と、昨日の回収前の写真にあります」
使節は写真を見比べた。
納得したのか、次の箇所へ目を移す。
そのやり取りが、何度か続いた。
俺は横で、確認された場所を書いた。
誰も、俺たちが何キロ歩いたかは聞かなかった。
***
杯を確かめ終わると、使節は椅子へ戻った。
「取り戻したことは、先方へ伝えておく」
最初に出た言葉は、それだった。
礼を言われるために探したわけではない。
そう思おうとした。
でも、終わった人へ一言何かあるだろう、とは思った。
黒江班長は、次の紙を出した。
「対象者の確保と認証具については、別の記録にしています。引き渡しと登録の確認は、第2班を通して進めます」
使節の眉が、少し動く。
「品が戻った。残りは、こちらで扱えばよい」
「現世での受け渡しと、不正使用の確認が残っています。こちらで得た記録も必要です」
杯が戻れば終わり。
使節の中では、そういう話だったのかもしれない。
俺たちの地図には、仲介の場所と買い手の家が増えた。
その先の物まで、全部安全だと分かったわけではない。
神代さんが、取引の記録を示した。
使節は一度見て、紙を机へ戻す。
「そちらの流通の問題だろう」
今度は、そちら。
探すときは、現地を知っている者の仕事だった。
見つかったあとの面倒は、こちらの問題になる。
俺はノートの端を押さえた。
紙が、少し曲がる。
ひかりさんは、机の向こうを見ていた。
怒っていない顔ではなかった。
今日も、言う人を待っている顔だった。
***
「次回は、最初に正式な窓口へご依頼ください」
黒江班長が言った。
使節は、すぐに返さなかった。
「今回は、区域が分かっていた」
「その区域へ、危険性の分からない品が入りました。地域の情報だけでは、対応は決まりません」
使節は、箱の中の杯へ目をやった。
「危険な物ではなかっただろう」
俺は顔を上げた。
今なら、そう言える。
最初の日にも、この人はそう思っていたのかもしれない。
でも、こちらへ届いたのは、壊さず持ってこい、という言葉だった。
黒江班長の声は変わらなかった。
「確認した結果です。こちらへ必要な資料が届いたのは、回収の直前でした」
神代さんが、照会した日付を示す。
最初の連絡。
追加の確認。
資料が届いた時間。
俺が歩いていた道の線とは、別の、長い記録だった。
「次回、同じように現場へ直接持ち込まれても、必要な確認は省けません」
使節は、不満そうに口を閉じた。
俺たちより上の場所から来た人だ。
顔も服も、何もかも、こちらより立派に見える。
それでも、目の前の記録の順番を、言い方だけで変えることはできなかった。
使節は最後に、現地で動く力はあるようだと言った。
俺も、その言葉の中へ入っているのだろうか。
誉められたのだと、喜べるほど単純ではなかった。
便利に動く人がいると、覚えられた感じがした。
「必要があれば、また連絡する」
黒江班長は、窓口の情報を、もう一度渡した。
連絡を断るのではなく、連絡する場所を示す。
使節はそれを受け取り、杯の箱へ目を戻した。
***
使節が帰ったあと、部屋の空気が少し緩んだ。
誰かが大きく笑ったわけではない。
空いたコップが集められ、椅子が机へ戻される。
特別な客のために広げた場所が、いつもの第11班へ戻っていく。
桐生さんが、壁から体を離した。
今日も、使節へ直接言い返さずにいた。
そこだけは、最初の日より少し変わっていた。
「終わったな」
桐生さんが言った。
神代さんが、机の紙へ目を向ける。
「返還はね。報告は、これからだ」
桐生さんの顔が、露骨に嫌そうになった。
俺は、その顔を見て、嫌な予感がした。
予感は、すぐ当たった。
「遼悟、昨日の分と合わせとけ。追った所、分かるだろ」
「俺が見た分は、書きますけど」
桐生さんは、上着を取った。
言葉を最後まで聞いているのか、分からなかった。
「道、同じだ」
「俺が見えなかったところも、あります」
桐生さんの手が止まる。
少しだけ、俺を見た。
それから、神代さんへ顔を向けた。
「あとで連絡する」
神代さんは、腕時計を見た。
「確認する項目を送る。君の分を、彼へ全部渡すことはできないよ」
桐生さんは返事を短くして、扉へ向かった。
夕方の別の仕事があるとも、ないとも言わなかった。
扉が閉まる。
俺はその音を聞き、机へ目を戻した。
戦うときは、信頼できる。
でも、同じ人へ、同じだけ別の仕事を任せられるわけではないらしかった。
***
俺の机へ、紙が三枚置かれた。
一枚目は、最初に相手を見た場所。
二枚目は、追っている間の動き。
三枚目は、確保したあとの確認。
桐生さんがいなかった時間はない。
俺が見ていない時間は、ある。
「ここ、俺には分からないです」
神代さんへ言うと、紙を覗き込んだ。
「分からない、と残していい。桐生君へ確認する」
「でも、あの人、あとでって」
「あとで、も期限を決める必要があるね」
神代さんは、携帯へ短い連絡を入れた。
返事がすぐ来なかったので、別の項目へ進む。
俺を座らせたまま、桐生さんの記憶が届くまで待つつもりではなかった。
「君が見たことだけを、まず揃えよう。責任の判断や、正式な記録は、大人がまとめる」
大人。
神代さんが自分のことを、そう言った。
俺は、少し安心した。
安心してから、これまで見ていた机の仕事の量を思い出した。
大人だから簡単なのではない。
大人が、引き受けてくれている。
紙へ、見失った、と書いた。
そのあと、台車の近くで気づいた。
車の向こうでは、位置までは分からなかった。
ひかりさんの到着。
神代さんの式神。
桐生さんが袖を掴んだ。
順番を確かめると、一人分の話にはならなかった。
***
書き終わったと思った紙へ、秋庭さんが指を置いた。
「この言葉、昨日の記録と違っているわね」
俺は覗き込んだ。
昨日は、薄い感じ。
今日は、伝力の残り。
同じつもりで書いたのに、意味が少し違っている。
「残りだったかは、分からないです」
「じゃあ、そう書きましょう。分かったあとに使える言葉も、あるもの」
俺は、薄い感じへ戻した。
自分が見たものへ、後から詳しい名前をつけると、最初からそれだと知っていたようになる。
文章を整える仕事なのに、格好のいい言葉を外すこともある。
ひかりさんが、空いた椅子へ座った。
俺の紙を見て、少し眉を寄せる。
「そこ、私が来たの、そのあと」
順番が、一つ違っていた。
俺は直した。
走っているときは、声と姿のどちらが先だったか曖昧だった。
俺が見たことへ、ほかの人の見たことを合わせる。
捜索の地図でやった作業が、今度は紙の上で続く。
「これ、終わったんですよね」
俺は言った。
ひかりさんが、俺を見る。
「杯は戻った」
「はい」
「ウベリクは捕まった」
「はい」
「それで、今回の大きいところは終わり」
大きいところ。
小さいところへ、まだ紙が山になっている。
俺は机を見た。
使節が置いていった紙より、こちらで作った紙の方が多かった。
***
神代さんが、俺の紙の上へ、別の小さな紙を載せた。
桐生さんからの返事だった。
短い。
通った場所と、空振りした向きと、俺が見ていない間に相手が使った物。
それぞれが、短い言葉で並んでいた。
「ちゃんと来ましたね」
俺が言うと、神代さんは笑いかけて、やめた。
「来たところは、使おう。まだ足りないところもある」
返事をしただけで、全部済ませたことにはならない。
桐生さんが書いた、車の横、という言葉へ、神代さんは、どちらの横かと問いを返した。
俺にも覚えのある聞かれ方だった。
「現場なら、それで分かることもありますよね」
「その場に同じ物を見ている人がいるからね。記録には、後から読む人もいる」
俺は、扉があります、と叫んだ場所へ、店の位置を足した。
あのときには、それで桐生さんの足が止まった。
あとから読む人には、どの扉かが必要になる。
同じことを、別の人へ渡すために、言葉が増える。
俺が短くなったと褒められた報告も、ここでは長く直す部分があった。
ひかりさんが、携帯へ届いた桐生さんの連絡を見せた。
彼女にも、確認が来たらしい。
「こっちで覚えてるだろ、だって」
俺は、ひかりさんの顔を見た。
返事を打つ指が、速い。
「自分で覚えてる分、先に出せ、って送った」
俺には、まだそこまで言えない。
ただ、その返事を聞いて、少し気が晴れた。
強い人の雑さを、仕方ないで全部引き受ける人ばかりではなかった。
途中、神代さんへ別の連絡が入った。
第2班からだった。
認証具の扱いと、記録の照合が進んだという。
ウベリクの引き渡しも、その確認と合わせて行われる。
俺には、手続の細部は全部説明されなかった。
ただ、杯を返したら、犯人も何もなかったように外へ出ていく、という話ではないことは分かった。
仲介の取引記録は、別に残る。
欲宮さんへの注意も、今回の経路も残る。
一緒に買われたほかの物があるか、確認の続く部分もある。
全部に同じ答えが出たわけではない。
「外側から来た物って、そんなに入ってるんですか」
聞くと、神代さんは考えた。
「見つかった物より、まだ分からない物がある可能性は、考えておく必要があるね」
杯のような物。
もっと危ない物。
それを、力のある人が買う。
陰陽寮へ入る以外の場所で、力を使う人もいる。
俺が研修のときに見た部屋の中だけが、この世界の全部ではなかった。
「今回、あの事務所をなくせば、よかったんじゃないですか」
言ってから、自分でも、簡単すぎると思った。
神代さんは、すぐ叱らなかった。
「なくす、の中には、何をするかがいくつも入る。今回確認したことを、次の担当へ渡す必要もある。一度行ったから、全部こちらで決められるわけではない」
事務所の看板を思い出す。
あそこへ物を渡す人がいて、買う人がいる。
部屋を一つ空にしても、その人たちまで消えるわけではない。
俺は、言いかけた続きを、ノートの下へ書いた。
今度は質問として、残しておいた。
***
書く手を止めたとき、俺は、最初の使節の言葉を思い出した。
必要があれば、また連絡する。
黒江班長は、窓口を渡した。
それでも、次に直接来ないとは、限らない。
「次も、こうなりますか」
神代さんへ聞くと、何の次かを確かめられた。
俺は外側からの依頼だと答えた。
「同じ人が同じやり方で来る可能性はある。ただ、外側から来る人が、全員同じ依頼をするわけではないよ」
追加の資料を送った人を、思い出した。
直接会っていない。
顔を見ていないのに、その人の仕事が机へ届いていた。
「ちゃんと話す人も、いるんですよね」
「いるよ。こちらへ来る手続を気にする人も、現場の人の負担を考える人もいる」
俺は、使節の座っていた椅子を見た。
外側を知ったつもりになるには、会った人が少なすぎた。
ただ、初めてに近い相手が、あの人だったことだけは、運が悪い気がした。
ひかりさんが、俺の表情を見た。
「最初に変なの当たると、全部そう見えるよね」
「ひかりさんも、そうでした?」
「今の話に、私の昔まで足すと、帰るの遅くなる」
俺は時計を見た。
たしかに、聞きたいことは、今日終わる量ではない。
ひかりさんは、俺のノートの端を指した。
「残しとけば。次に、ちゃんとしてる人へ会ったとき、比べられるでしょ」
俺は、外側の依頼、と一行書いた。
今の不満が、次に誰かを見たときの決めつけにならないようにしたい。
そこまで立派な気持ちで、書いたわけではない。
次は、もう少しまともな仕事であってほしい。
その願いを、質問の形にした。
紙の束が、少し薄くなった頃、黒江班長が俺へ声をかけた。
「今日は、ここまでだ」
俺は時計を見た。
家へ伝えた帰宅時間に、余裕はあまりなかった。
秋庭さんが、残った紙を分ける。
神代さんは、桐生さんから届いた短い返事へ、さらに問いを返していた。
ひかりさんは、自分の現場の記録へ戻っている。
俺だけ、帰っていいのだろうか。
そう思うと、黒江班長が鞄を指した。
「明日の学校まで、この机へ置いていくなよ」
鞄の中には、課題があった。
机の端へ寄せたまま、忘れかけていた。
俺は紙をしまい、立ち上がった。
「俺の分、足りなかったら、連絡ください」
神代さんが顔を上げた。
「明日で間に合うことは、明日聞くよ。今日は、帰って食べて、寝よう」
いつもの大人の言葉だった。
その中に、自分の予定へ戻っていいという許可があった。
俺は頭を下げた。
「お疲れさまでした」
返ってきた声は、いくつか重なった。
使節から、欲しかった言葉かもしれない。
ここでは、普通に言われる言葉だった。
***
外へ出ると、町は変わっていなかった。
店の前に自転車があり、バス停に列ができている。
惣菜店では、残った揚げ物を詰めた袋が売られていた。
二週間前にも、同じような景色を見た。
途中で雨が降り、少し気温が下がった。
それ以外は、俺が勝手にいろんな意味を増やしただけなのかもしれない。
男を追って曲がった角を、通った。
台車はなかった。
別の人が、植木の鉢を少し寄せていた。
床には何も残っていない。
あのとき、足が止まった場所も、掴む手が空を切った場所も、普通の道へ戻っていた。
俺は、買い物袋を持った人へ道を空けた。
その人は会釈して通り過ぎた。
何も知らない。
知らなくて済んだ。
その二つを、同じように思えるほどには、まだ慣れていなかった。
杯は、外側へ戻る。
欲宮さんの展示室には、ほかの物が残っている。
事務所の看板も、まだある。
俺たちは、その間を走った。
何のためだったのかと聞かれたら、答えられる。
危ない物かどうかを確かめるため。
盗まれた物を戻すため。
逃げた相手を確保するため。
答えられることと、気持ちが片づくことは、違った。
***
駅の売店で、いつも買う飲み物を手に取った。
冷たい方へ手を伸ばしかけて、温かい方へ変える。
この二週間で、指を温める飲み物をよく買った。
そんな小さいことだけ、体の方が覚えていた。
電車の窓へ、俺の顔が映る。
眼鏡は、ずれていなかった。
ウベリクみたいな顔ではない。
見つけるために、顔より別のものを見ようとした。
それでも、見失った。
見失ったと、言えた。
次は、もう少し早く言えるだろうか。
携帯へ、母から連絡が来た。
夕食を温めてあるという。
姉からは、明日の朝使う充電器を借りる、と来ていた。
貸すと返すの違いは、うちの中でも、ときどき曖昧になる。
俺は、戻しておいて、と返した。
鞄の底で、お守りの袋が、ノートの角へ触れていた。
前は、それがあれば何とかなると思った。
今は、何とかならない相手も知っている。
その代わり、困ったときに連絡する人の名前が増えた。
今回も、一人で追っていたら、途中で全部分からなくなっていた。
電車が動き始める。
町の明かりが、窓の外を流れた。
上を見ても、外側の景色は見えない。
あの使節が戻る場所も、杯が保管される場所も、俺にはまだ知らない景色だった。
いつか、行くことになるのだろうか。
そう思ってから、明日の課題を思い出した。
俺は鞄を開け、学校のノートを出した。
ページの隅に、鉛筆で小さな線が残っていた。
いつの間にか、捜索の地図の続きを描いていたらしい。
消しゴムを出し、その線だけを消す。
答えを出す場所は、今は、こちらだった。
二週間の仕事は、大きいところでは終わった。
その言い方に、まだ少し腹が立っている。
でも、学校の問題まで、同じように残すわけにはいかない。
窓へ背を預け、俺は問三の続きを書いた。




