第20話:コップは無害、お取引は有害
十三日目、杯の資料は、俺が第11班へ着く前に増えていた。
昨日までの輪郭の図に、別の絵が重ねられている。
杯の側面にある細い模様を、拡大したものだった。
古い記録の写しらしい。
文字は、やっぱり読めない。
その横へ、読める言葉で説明がついていた。
「昨日の夕方、ようやく追加が届いた」
神代さんが言った。
俺は、机の前で足を止めた。
「向こうからですか」
「第2班が照会していた先から。使節の持ってきた説明だけでは足りなかったところを、補っている」
同じ外側でも、返事をする人が違えば、出てくる物も違う。
使節の顔だけが、外側全部の顔ではない。
頭では分かっていたが、机の紙が増えるまで、そのことを忘れていた。
ひかりさんが、机へ肘を置いて紙を見た。
「最初に出してくれればいいのに」
「昨日も、同じこと思いました」
俺が返すと、ひかりさんは顔を上げた。
「昨日だけ?」
一日目から、毎日思っていた。
返事の代わりに、俺は小さく笑った。
神代さんは紙の端を揃えた。
「今日は、昨日確かめた品と、この記録を合わせる。運んだ人の確認も来ている」
俺は鞄からノートを出した。
見た杯の形を、少し描いてある。
絵としては、かなり下手だった。
それでも、大きさの感じと、傷の場所は書いた。
見た印象だけが、確認の全部にはならない。
今日も、そこから始まった。
***
資料には、杯が使われた場面の説明があった。
古い集まりの場で、交わされた印のような品だという。
何かの力を放つ道具としての説明は、ない。
保管中の扱いも、特別な起動のためではなく、古い表面と縁を傷めないための注意だった。
「飲むための杯、なんですか」
俺が聞くと、神代さんは資料を見直した。
「形の由来はそうらしい。ただ、今回の品は、使うためというより、出来事を残すために保管されてきたものだね」
何の出来事なのかも、紙には書いてあった。
知らない人の名前と、知らない時代。
読んでも、俺の頭の中に景色はできなかった。
「俺には、ちょっと分からないです」
言うと、神代さんはうなずいた。
「知らない出来事だからね。こちらの古い品も、来歴を知らなければ、そう見えることはある」
俺は家の棚にある物を思い出した。
父が、昔使っていたと説明した小さな道具。
使い方を聞く前には、何の部品か分からなかった。
だからといって、その杯が急に好きになったわけではない。
目の前の写真は、昨日見た古い杯のままだ。
「じゃあ、危ない物じゃない」
「資料の上では、危険な作用を持つ品とは示されていない。現物との照合と、周りの確認も合わせて判断する」
神代さんは、言い切る前に順番を置いた。
俺は、危なくない、と書く手を止めた。
その下に、確認中、と書く。
前へ進んでも、まだ、その二文字が必要だった。
秋庭さんが、運ぶための箱を机へ置いた。
内側へ柔らかい物が敷いてある。
見たことのない道具ではなく、品に合わせて整えた箱だった。
「昨日の大きさと、図の寸法を合わせたの。入れる位置を確かめてから使うわ」
壊さず返せ。
使節の言葉だけ聞けば、注意して持てば済むと思えた。
持つ前にも、置く場所を作る人がいる。
俺は箱の縁へ触れそうになり、手を引いた。
勝手に触らなくてよい物は、まだ多かった。
***
出る前に、神代さんが、今日俺に任せることを確かめた。
見える範囲で、昨日と違うことがないか。
誰がどこへ動いたか。
資料を見た後の思い込みを、そのまま現物へ重ねないこと。
「危なくないと聞いたら、見え方も変わるかもしれないですね」
俺が言うと、神代さんはうなずいた。
「怖いと思って見ると、普通の動きまで大きく見えることはある。逆もあるだろうね」
俺は、ウベリクの顔を思い出した。
俳優みたいだと思った。
それから、怪しいと思った。
実際に能力を使われるまで、同じ手の動きも別に見えていた。
見える力は、思い込みを全部防いでくれるものではなかった。
秋庭さんが、箱を持ち上げた。
俺は手伝おうとして、先に聞いた。
「持つ物、ありますか」
「資料の鞄をお願い。箱の位置は、私が確かめてあるから」
俺は鞄を受け取った。
見ているだけではなく、普通に持って運ぶ仕事もある。
中の紙は、杯よりずっと多い。
今回ここまで来るのに増えた物の重さが、持ち手から手へ伝わった。
欲宮さんの家へ行くと、昨日と同じ人が迎えてくれた。
今日は、秋庭さんも一緒だった。
箱と資料を持ち、展示室へ向かう。
階段を上る必要はなく、廊下をまっすぐ歩けばよかった。
昨日迷った扉の位置を、俺はもう覚えていた。
欲宮さんは、展示室の入口で待っていた。
服は昨日と違う。
似た色の、似たように上質な服だった。
「どうだったかね」
最初に聞いたのは、それだった。
安全かどうかを尋ねたのか。
価値の説明が正しかったかを尋ねたのか。
欲宮さんの目は、杯の台へ向いていた。
神代さんは、昨日の位置が保たれていることを確認した。
周囲に置いた目印も、変わっていない。
搬入に関わった人の状態を聞き、回答の記録を合わせる。
資料の模様と、杯の側面。
図の傷と、現物の縁。
ひとつの違いで別の品にならないか、慎重に見ていた。
俺は、入口寄りから見た感じを伝えた。
昨日と比べて、分かる変化はない。
強い伝力の流れも、拾えない。
それが証明ではないことも、前へ付け加えた。
神代さんは、同じように記録した。
秋庭さんが、小さな道具を台の近くへ置く。
俺が習ったものとは少し違った。
何を確かめるためかは、短く説明されたが、自分で扱えるとは思わなかった。
見ている人の仕事が、全部、見ることだけで済むわけではない。
欲宮さんは、その手順の間、何度か時計を見た。
予定があるらしい。
俺たちにも学校や仕事の予定があるということを、この人は気にしているだろうか。
思ってから、自分も時計を見た。
足が痛いから、早く終わってほしい。
その気持ちだけなら、俺にもある。
***
照合が終わり、神代さんが連絡を入れた。
黒江班長へ、ここまでの結果を伝える。
第2班で確認した資料とも、内容が合っていた。
会話のあと、神代さんが俺たちへ向き直る。
「今回の品は、危険な作用を持つ道具ではなく、歴史的な記念品として扱います。運ぶ際は、破損を避けるための手順で進めます」
俺は杯を見た。
同じ物だった。
昨日、危ないかもしれないと見た杯が、今日は、古い記念品になる。
変わったのは、杯ではなく、こちらが持っている情報だ。
「では、展示していても問題ないということだね」
欲宮さんが言った。
神代さんは、すぐ首を振った。
「安全性の確認と、所有の経路は別です。今回の品は回収します」
欲宮さんの笑顔が、今度は戻るまで少し時間をかけた。
「買った代金の話は」
「売り手との取引については、記録を分けて確認します。ただ、この品を返さずに置く理由にはなりません」
声は、大きくならなかった。
だからこそ、欲宮さんが言葉を選んでいるのが分かった。
支払った金額の大きさと、目の前からなくなる物。
この人にとって、損をする話だった。
「私も、説明を受けて買っただけだ」
欲宮さんは、机に置かれた購入の紙へ手を向けた。
神代さんは、その紙を見た。
「昨日、経路に問題がある可能性を認識されていたと伺っています。その点も記録してます」
俺は昨日の返事を思い出した。
何も知らなかったとは言わない。
欲宮さんも、忘れていない顔だった。
丁寧な口調で話しても、昨日言ったことは、今日の机へ残る。
***
杯を動かすのは、秋庭さんだった。
神代さんが手順を確認し、ひかりさんが周りの位置を見る。
俺は入口の近くで、誰がどこを動いたか記録した。
強い能力を使う場面は、なかった。
布を重ね、傾けずに持ち上げ、箱へ移す。
そのひとつずつに、確認の声がある。
台から離れた杯は、昨日より小さく見えた。
立派な灯りも、台も、後ろの絵も、ついてこない。
傷のある物が、柔らかい布へ沈んだ。
片手で持つには大きく、両手で扱えば余裕がある。
どちらの印象も、間違ってはいなかった。
空いた台が、展示室に残る。
欲宮さんはそこを見ていた。
思い出の品を失う人の顔ではなかった。
用意した場所に、見せる物がなくなる顔だった。
俺には、そう見えた。
神代さんは、受け取った状態を欲宮さんと確認した。
欠けていないか。
傷は、元からどこにあったか。
後から、新しく壊したと言われないためでもあるのだろう。
箱の蓋が閉まった。
「こちらのほかの物についても、経路を確認しておいてください」
神代さんが言った。
欲宮さんは、ゆっくりうなずいた。
同意したのか、聞いたというだけなのか、俺には分からない。
「今後、同じ経路での入手を続けることは、問題があると認識してください。今回の件は、注意だけで記録がなくなるものではありません」
欲宮さんは、もう、若いねとは言わなかった。
俺の制服にも、目を向けなかった。
会話は、神代さんと、この家の持ち主の間にあった。
俺は空いた台の下を見た。
そこへ、また別の物が置かれるのだろうか。
***
帰る準備を始めても、ほかの展示品は残った。
細い植物みたいな置物も、小さな短い刃も、見たことのない器もある。
全部が盗まれた物かどうかは、分からない。
全部が無事に扱える物かどうかも、分からない。
俺は、ひかりさんへ目を向けた。
ひかりさんは箱の方へ寄り、周囲を確認していた。
物をもっと持ち出すつもりはない。
「これだけ、なんですか」
声が、小さく出た。
神代さんが聞き取って、俺を見る。
欲宮さんも、顔を上げた。
言う場所を、間違えたかもしれない。
「今回、確認して回収するのは、この品だよ」
神代さんは、まずそれだけ答えた。
俺は、ほかの台を見ないようにした。
見ないようにすると、余計、そこに残るものが気になった。
欲宮さんが、少し笑った。
「ここへある物全部を、持ち帰るわけにはいかないだろう」
分かっている。
分かっていないと言われたようで、腹が立った。
俺は、返事をしなかった。
神代さんが、こちらへ少し寄る。
「必要な確認は、別に続けます。それと、今日ここで一括して押収することは同じではありません」
欲宮さんへの言葉だった。
俺にも、聞こえる言葉だった。
今回は、この杯を追っている。
違う品の話へ広げるなら、それぞれに確かめることがある。
後ろ暗そうだから全部、と決める権限を、陰陽寮が持っているわけではない。
それを教わっていても、空いた台の周りに残る物へ、気持ちは追いつかなかった。
***
玄関へ戻る途中、ひかりさんが俺へ歩く速さを合わせた。
箱は、神代さんが持っている。
俺が持ってきた資料の鞄は、帰りも同じ重さだった。
回収した分だけ、こちらの荷物が増えていた。
「まだ、見てる」
ひかりさんが言った。
俺は、後ろへ向けていた顔を戻した。
展示室の扉は、もう閉まっている。
「全部、怪しく見えたんです」
「怪しく見える物が、全部今回の物にはならない」
「はい」
「気にするのと、勝手に取るのは違う」
俺は、欲宮さんの笑顔を思い出した。
こちらが手を出せない範囲を、知っている笑い方だった。
知らない自分が、子供へ戻されたような気がした。
「分かってて、買ってるんですよね。なのに、こんな普通に」
言葉が、途中で止まった。
どうなれば普通ではなくなるのか、俺自身、考えていなかった。
神代さんに、全部取り上げてもらうのか。
家の中を、空にするのか。
その先を考えると、欲宮さんの物と、そこで働く人の物まで、俺には分からない。
ひかりさんは、俺を見た。
「ちゃんと嫌だと思っていい。でも、やることは、別で決める」
短い言葉だった。
使節へ腹を立てながら、黒江班長の話を待っていた人の言葉だった。
俺は、制服の袖を見た。
いろんな場所で、手を出す前に止められた。
臆病だから止まったときもある。
役割を知って、止まるべきときもある。
同じ止まり方ではなかった。
秋庭さんが、玄関の人へ、今後の連絡先を渡した。
杯に触れた人へ、あとで気になることがあれば知らせてほしいという。
欲宮さんだけではなく、運んだ人も、確認した相手だった。
俺はその紙を受け取る手を見た。
物の持ち主が話を終えても、その人の生活は続く。
安全だと分かったあとにも、聞ける場所を残す。
俺が全部、と言いかけた中には、その手の人まで入っていた。
「俺、今日の記録、ちゃんと書きます」
ひかりさんに言うと、少し眉を上げた。
「今日は、って言うんだ」
「今日も、です」
言い直すと、ひかりさんの口元が少し緩んだ。
すぐ納得できなくても、今日の場所と、今日の返事は残せる。
俺が任された仕事を、嫌な気分のまま雑にしたくはなかった。
門を出る前、欲宮さんは神代さんへ名刺を渡した。
俺が最初に受け取った陰陽寮の名刺とは、紙の厚さが違って見えた。
「何か、こちらで協力できることがあれば、連絡をもらって構わない」
神代さんは、受け取って礼を言った。
何かの見返りを、その場で約束はしなかった。
俺は、名刺を渡す手を見た。
仕事の電話を受けたとき、この人は、できることを先に分けていた。
物を運ぶための車。
待てる場所。
動かせる人。
たしかに、協力できることは多いのかもしれない。
それでも、今日、その言葉を聞いて、ありがたいとは思えなかった。
盗まれた物を買っておいて、今度は協力する側へ回れる。
そんなことが、簡単にできてしまうのか。
坂へ出ると、秋庭さんが俺を見た。
「言いたいことが、まだある顔ね」
俺はうなずいた。
家の前では言えなかったことが、門を出ると増える。
「あの人、また買うかもしれないですよね」
「その可能性も含めて、今回の説明と注意を残すわ」
「残すだけで、やめるんですか」
秋庭さんは、すぐには答えなかった。
坂の下で、車が曲がる。
箱を持っている神代さんが、歩く速さを落とした。
「一つ記録したら、人が必ず変わるとは言えないわ。でも、今回のことがなかった形へ戻してしまうのも、違うでしょう」
俺は、空いた台を思い出した。
杯はなくなった。
取引の紙は残った。
欲宮さんの話した言葉も、残った。
それで全部を止められるわけではない。
何もできなかったわけでもない。
真ん中の、気持ちの収まりが悪いところへ立っていた。
***
支社へ戻り、箱を所定の場所へ置く。
第2班へ、回収と確認の結果を送る。
使節へも、連絡が入った。
返還は、翌日になった。
俺は椅子へ座り、今日の記録を書いた。
杯の安全性を確認した。
回収した。
買い手へ、経路について説明した。
ほかの品は、残った。
最後の行を見て、少し迷った。
残った、と書くと、取り忘れたみたいになる。
神代さんへ聞くと、確認した範囲をまず書こうと言われた。
俺は、今日の対象は杯、と書き直した。
横へ、自分が気になったことも別に残す。
分かった事実と、納得できない気持ちは、同じ文へ混ぜない。
黒江班長は、回収の記録を見たあと、俺の質問の行も読んだ。
ほかの品は、残った。
言葉を直した下にも、疑問は残っている。
「ここ、確認する先へ渡す。今日お前が感じたことも、消さなくていい」
俺は、少し驚いた。
子供っぽいと、言われると思った。
「ただ、全部を一つの判断にするな。今回確かめた物と、まだ見ていない物は、分けておけ」
「はい」
黒江班長は、紙を神代さんへ返した。
俺の納得を、一言で作ってくれるわけではない。
分からない部分を、大人へ預けても、気にしなくてよくなるわけではない。
それでも、質問を机の上へ置いてよいのは、少し助かった。
帰り際に、欲宮さんの家から連絡があった。
搬入を担当した人が、確認の返事を追加したらしい。
神代さんが受け取り、記録の横へ置く。
あの家の中にも、決めた時間に返事をする人がいる。
欲宮さんへ腹が立ったからといって、家の中の人を全部同じ顔にしていたら、その返事を見落とす。
俺は、今日会った人の位置を、もう一行書き足した。
ひかりさんが、俺の隣へ座った。
「あれ、古いだけだったね」
「はい」
「それなら、それでよかった」
俺は、返事を少し遅らせた。
危ない物ではなかった。
触った人も、今の確認では困っていない。
それは、よかったことだ。
よかったことのはずだ。
「だったら、最初からそう言ってくれればよかったのに、とは思います」
ひかりさんは、背もたれへ体を預けた。
「それは、思っていい」
慰めるための声ではなかった。
同じ道を何度も歩いてきた人の、短い返事だった。
俺はノートを閉じた。
あの杯に力がなかったことより、力があるかどうかを教えてもらうのに、こんなに時間がかかったことが、腹立たしかった。
箱は、机の向こうにあった。
薄い傷も、透ける縁も、今は見えない。
明日には、ここから出ていく。
出ていかないものの方が、俺の頭の中には多く残っていた。




