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球体世界の観測者 ~見えるだけの少年は、陰陽寮で世界の裏側を知る~  作者: 雅貴
第2章第1節

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第17話:犯人確保、商品は別配送

十日目の朝、階段を下りると、ふくらはぎが昨日を思い出した。

一段ずつ体重をかけるたび、奥の方が重い。

姉が、下から俺を見上げた。


「変な下り方」


「昨日、走った」


「アルバイトでで?」


「歩くのが、少し速くなっただけ」


姉は、少し速い歩き方で筋肉痛になるのかという顔をした。

なる。というかなった。

昨日みたいな歩き方なら、なる。

俺は途中から手すりを使った。

説明を増やすほど、嘘の形も変になるので、やめた。


朝食の皿を運ぶ母が、俺の足へ目を向けた。


「今日は、休めないの?」


「走る方は、たぶんない」


「たぶんってなによ」


昨日の後半の予定は、誰にも分からなかった。

今日も、何が分かったら終われるのか、俺には分からない。

それでも、学校へ行く時間は決まっている。

靴を履くとき、足首をゆっくり動かした。


春に逃げたときよりは、走れた。

桐生さんには追いつけなかった。

二つとも、同じ体の話だった。


***


放課後、第11班へ着くと、神代さんが机の上を空けていた。

昨日回収した板は、もうそこにはない。

代わりに、袋の写真と、項目の多い用紙が並んでいた。


「認証具は、第2班を通して確認に回しているよ」


神代さんが説明してくれた。

使われた経路の照合と、今後の利用を止めるための確認。

持ち主へ返すためだけの作業ではないらしい。


「じゃあ、もう逃げてこられないんですか」


「少なくとも、回収した物をそのまま使われることはない。登録の方は、先方の確認と合わせる」


神代さんは、できたことと、まだできていないことを分けた。

俺は、昨日使った地図を机へ出す。

男を見つけた場所から、確保した場所まで、線が曲がっていた。

自分で描いたのに、実際の距離が、少し遠く見える。


「足は」


「痛いです。でも、歩けます」


「今日は事務仕事でもしようか」


俺の返事が、予定へちゃんと使われた。

黙って来ていたら、またどこかへ歩くつもりになっていたかもしれない。

神代さんが、昨日の報告を読み直してほしいと紙を渡した。

俺の言葉が、少し整えられている。


『注意が、変です』


その部分は、元のまま残っていた。

恥ずかしくなり、言い直したくなった。

神代さんが俺を見る。


「後から分かったことは、別に書こう。そのとき君が何を知っていたかも、把握しておきたい」


分かった人らしい文章へ直せば、分かっていなかった時間が消える。

消していいものではないのだろう。

俺は、紙の下へ追記した。

触れた物と、本人へ、何かが起きたように見えた。

物理的に消えてはいなかった。

音でも見失うことがあった。

俺だけは大丈夫だった、と書ける部分はなかった。


***


神代さんが見せてくれた記録の中には、俺が聞いていなかった言葉もあった。

取り上げた物を、誰が受け取ったか。

受け取る前と後に、数が合っているか。

本人の名前を、何と照らして確認したか。

昨日、俺は地面へ座っていた。

その間にも、こちらの仕事は続いていた。


「俺のノートには、そこ、ないです」


「君が見ていなかったところだからね。そこまで、自分の記録に入れなくていいよ」


神代さんは、紙を二つに分けた。

俺が確認する部分と、ほかの人が確認する部分。

空欄が減る代わりに、名前が増える。

どの人が、どこを知っているかを、あとからたどれるようにするらしい。


桐生さんが部屋へ入ってきた。

昨日より、靴がきれいだった。

俺は、その靴を見る。


「足、痛くないんですか」


「痛くなるほど走ってねえ」


俺には、十分、走った距離だった。

同じ道でも、体の受け取り方は違う。

桐生さんは、俺の歩き方を一度見た。


「今日、また走ろうとするなよ」


「走らない予定です」


「予定じゃなくて、俺は残せって言ってるんだ」


俺は、自分の膝へ目を落とした。

回復の練習で少し楽にできることはある。

でも、疲れた体を全部、昨日より前へ戻せるわけではない。

気休めのような手当てを、無理のための理由にはしない。

そう教わったことを、思い出した。


「昨日のこと、俺の方で先に言った方がいいですか」


「聞かれたところだけでいい」


桐生さんは答えた。

神代さんも、うなずいた。

俺は椅子を机へ戻した。

今日は、走る代わりに、言葉の順番を確かめる日だった。


***


ウベリクとの話は、別の部屋で行われた。

俺が一人で入ることはない。

神代さんが先に話し、桐生さんは少し離れて座った。

黒江班長が、必要なところだけ俺も確認してよいと言った。

昨日見た変化について、相手の説明と照らすためだという。


ウベリクは、椅子へ深く座っていた。

上着の代わりに、用意された布を肩へ掛けている。

腕を自由に動かすことはできない。

机の上も、余計な物が置かれていなかった。

神代さんの式神が、壁際で静かに止まっている。


「杯の所在を確認します」


神代さんが言う。

ウベリクは、小さく息を吐いた。


「持っていないと、昨日言った」


「今持っていないことと、どこへ渡したかは、別です」


ウベリクは桐生さんを見た。

桐生さんは、机へ指を置いていない。

ただ、相手を見ていた。


「もう、売った」


俺の頭の中で、地図の線が一つ増えた。

相手を捕まえた場所から、知らない場所へ伸びる線だった。


「誰に」


桐生さんが言った。


「買い手の名前まで、私が知っていると思うのか」


「渡した相手なら、知ってるだろ」


ウベリクは顔を逸らした。

神代さんが、日時を尋ねる。

日付の話になると、少し具体的になった。

こちらへ来てから、先に知っている仲介人へ連絡したらしい。

代金は、そこで受け取ったという。


「前にも、同じ相手へ渡しましたか」


少し間が空いた。

机の端で、神代さんがペンを動かす。

ウベリクは、はいとも、いいえとも言わなかった。

その沈黙を、俺は答えにしたくなった。

神代さんは、もう一度、同じことを確かめた。


「小物なら、何度か」


ようやく、そう返ってきた。

昨日の逃げ方だけでなく、こちらへ来てからの動きにも、慣れがあった。

道を選ぶとき、迷っていなかった。

現世へ逃げてきて、偶然、買い手を探し当てたわけではない。


「今回は、前の物と何が違いましたか」


「私には、同じ保管物だ。売れるものを持ってきた」


ウベリクは、口元を曲げた。


「向こうの人たちが、急に大事にし始めたんだろう」


それは、使節の言っていた歴史的な価値へつながるのかもしれない。

でも、相手がそう言っただけで決めるわけにはいかなかった。

神代さんは、過去に渡した物の形と時期を、一つずつ確認した。


***


神代さんは、警備の仕事で何を担当していたかも聞いた。

ウベリクは、保管の場所へ入る人を確かめ、決められた経路を回っていたという。

俺たちが追った街の中とは違って、知っている道を使う仕事だった。


「持ち出すための道も、知っていた」


桐生さんが言うと、ウベリクの口が少し曲がった。


「働いていれば、どこに何があるかは分かる」


知っていることを、守るためではなく、売るために使った。

珍しい能力を持っているのに、言葉にすると、そんな単純な話になった。

この人がもっと強ければ、警備以外の仕事もできたのだろうか。

強くても、同じ物を盗んだのだろうか。

俺には分からない。

分かったのは、自分の仕事の場所を知ることが、そのまま善いことへつながるわけではないということだった。


話の途中、ウベリクが俺へ目を向けた。


「君には、何が見えていた」


質問されたと思って、答えかけた。

神代さんの手が、机の上で少し動く。

俺は口を閉じた。

教えるために来たのではない。


「こちらから、昨日の現場を確認します」


神代さんが言った。


「車の扉へ触れたとき、何をしていましたか」


ウベリクは、しばらく俺を見たあと、神代さんへ顔を戻した。


「目に入っても、気にされないようにした。ただそれだけだ」


「当たった物を、消せるということですか」


「違う」


返事は早かった。

昨日、袖を掴まれたまま逃げられなかった姿を思い出す。

触れられない体ではなかった。

攻撃を受ける前に、狙う人の意識が逸れる。


「本人にも使える」


桐生さんが言った。

ウベリクは、否定しなかった。


「ずっと使っていれば、見つからなかったんじゃないですか」


俺の口から、質問が出た。

すぐ、神代さんを見た。

止められなかったので、続きを待つ。


ウベリクは、馬鹿にするような目をした。


「君は、一日中走れるのか」


俺は、朝の階段を思い出した。

相手の言い方が嫌でも、意味は分かった。

能力を使うにも、力が要る。

いつでも同じ強さで出し続けられるわけではない。


「普通に歩けば、普通に通り過ぎる。騒ぎになるのは、君たちが来てからだ」


ウベリクはそう言った。

盗んだ物を持ってくることも、こちらで売ることも、騒ぎには数えていないらしい。

俺は、昨日の女子の声を思い出した。

普通に通り過ぎたつもりの顔が、ちゃんと目撃されていた。


桐生さんが椅子から少し体を起こす。


「その普通で、見つかったな」


ウベリクは、もう笑わなかった。


***


部屋を出ると、膝を伸ばすのに少し時間がかかった。

椅子へ座っていた方が、固まることもあるらしい。

神代さんは扉を閉め、俺へ目を向けた。


「気になることがあったら、先に私へ言ってくれると助かる」


「すみません」


「相手の説明を聞くこと自体は必要だよ。ただ、こちらの能力を確かめたい質問も混じる。何でも、その場で答えなくていい」


俺が知りたいことと、相手が知りたいこと。

会話は、その両方で進む。

教わる部屋なら、分からないことをすぐ聞けばよかった。

今の部屋は、少し違っていた。


桐生さんは、先に廊下を歩いていた。

部屋へ戻ると、黒江班長へ短く話す。


「仲介、たぶん知ってる所だ」


「確認してからにしろ」


「名前が違ってても、住所の辺りは同じだ」


神代さんが、ウベリクの話した場所を地図へ置いた。

事務所のある建物の一画だった。

表には、普通の会社らしい名前が出ているという。


「こういう物を買う人が、いるんですか」


俺は、ノートへ描いた杯の形を見た。

外側から来た物だというだけで、値段がつくのだろうか。


「いる」


桐生さんの返事は短かった。


「使えるから買う奴も、持ってることに価値がある奴も。今回みたいなのを、普通の店に持ち込むわけじゃねえ」


「能力者の、店みたいな?」


「店ってほど、きれいな話ばっかりじゃない」


神代さんが、端末の画面を見た。

別の確認が来たらしい。


「物品を受け渡したという連絡の痕跡は、ほかにもある。場所は、供述だけでなく、そちらとも合わせてみよう」


ウベリクの話が、地図の一点へ近づいていく。

殴って聞けば終わるのだろうかと思っていた俺は、言葉と記録を何度も比べる作業を見ていた。

相手は、嘘をつくかもしれない。

本当のことを言っても、勘違いしているかもしれない。

そのまま、次へ走ればいいわけではない。


***


黒江班長の机へ、先方の追加の説明が届いた。

ウベリクが警備の仕事をしていたことは、使節も言っていた。

保管されている物の近くへ入れる場所にいた。

入ることができるのと、持ち出してよいことは違う。

記録の中では、その間へ穴があった。


「前の品も、なくなってたんですか」


俺は神代さんへ聞いた。


「なくなっていた物と、今回の話を、向こうでも合わせているところだよ。全部がウベリクの持ち出しだったとは、まだ決まっていない」


今回の杯は、古い保管の記録と照らされ、所在が問題になったらしい。

そこで、それ以前の小さな違いも見直された。

前は目立たなかったことが、一つの大きな物のせいで、つながる。

ウベリクの言った、急に大事にし始めた、という話とは、違って聞こえた。


「本人には、同じ物だったんですよね」


「売れる物、という意味なら、そうかもしれない。ただ、相手の言い分で、保管されていた理由までなくなるわけではない」


神代さんは、記録の写しを重ねた。

価値が低い物なら、盗んでよかったのか。

そんなわけはない。

でも、大事な物がなくなるまで、気づいてもらえないこともある。

こちらで探している間に、向こうにも別の穴が見えていた。


使節が部屋へ入ってきたとき、俺たちはその話を止めた。

使節は認証具がどこへ運ばれたかを聞いた。

神代さんが、第2班を通した確認に回していると答える。


「本人へ聞けば、済むこともあるだろう」


「供述と、記録を合わせる必要があります」


使節は、そこから先へ踏み込まなかった。

戻す場所も、物も、最初から自分が決めるつもりだったのかもしれない。

こちらへ来た物を、こちらで確かめる。

黒江班長も、神代さんも、その順番だけは変えなかった。


使節が去ると、俺は、いま書いた言葉をもう一度見た。

確認中。

同じ二文字が、ノートの何ページにもある。

ウベリクを捕まえたことで、分からないことまで捕まえられたわけではない。


「長いですね」


俺が言うと、神代さんは少し笑った。


「現場の数分を、あとから何時間も確認することはあるよ」


その数分に、自分の声も残っている。

適当なことを言わないための練習は、走っているときだけではなかった。


***


夕方、秋庭さんが温かい飲み物を置いてくれた。

俺は机で、昨日の自分の道を描き直していた。

記憶だけで曲がり角を描くと、何本か足りない。

地図と見比べ、分かるところへ店の位置を足す。


「そこ、変えるなら、元も残しておきましょう」


秋庭さんが言った。

俺は新しい紙を使った。

古い紙の方には、自分が勘違いした方向が残る。


「昨日、桐生さんが空振りしたのも、あの能力のせいですよね」


「影響はあると思うわ。ただ、相手の説明だけで、何が何回起きたかまで決まるわけではないの」


俺は、扉の前で叫んだ声を思い出した。

扉があります。

とても強い人へ言うには、情けない言葉だった。

でも、あのときは必要だった。


「俺も、見えたものを全部覚えてるわけじゃないです」


「だから、そこも大事ね。後から正しそうに整えるより、そのときの違和感を残す方が、役に立つことがあるわ」


紙へ、分からない、と書いた。

変なことが起きて、変だと思った場所。

それを、分かっていたことへ直さない。

研修を終えても、分からないことを書く練習は続いていた。


隣でひかりさんが、机へ何かの袋を置いた。

小さな焼き菓子だった。


「それ、食べる?」


「いいんですか」


「昨日、走ったんでしょ」


走った人は、ひかりさんも同じだ。

でも、俺の足の痛さは、見れば分かるらしい。

袋を開けると、甘い匂いがした。


「最初、俺、顔ばっかり見てました」


「分かる。あっちは、だいたい顔がうるさい」


顔がうるさい。

桐生さんとは違う言い方で、同じような不満が出た。

俺は少し笑った。


「ひかりさんも、十分目立ちますけど」


ひかりさんの手が止まる。

俺は、言ったあとで意味が増えたことに気づいた。

目立つというのは、強さの話ではなかった。


「そういうの、いま言う?」


「いや、昨日の話の、流れで」


「食べるなら食べて。考える時間、増やさないで」


俺は菓子を食べた。

口を動かしていれば、それ以上言わずに済んだ。


***


夜になる前に、次の行き先が決まった。

ウベリクの示した住所と、連絡の記録が合っていた。

品を渡した日は、捜索が始まるより前だった。

俺たちが街を歩いていた間に、その品は、もう別の人の手へ移った可能性がある。


桐生さんが、建物の写真を見る。

看板より、入口の位置を確かめていた。


「明日、聞きに行く」


「先にこちらから連絡する。黒江班長へ、予定を上げてからだ」


神代さんが言った。

桐生さんは、露骨に面倒そうな顔をした。


「連絡したら、いないって言うぞ」


「それも記録になる。君だけで行って、また話が変わる方が困る」


また、という言葉に、俺は顔を上げた。

桐生さんは返事をしない。

過去にも、行ったことがある場所なのだろう。

しかも、静かに済んだ話ではなさそうだった。


黒江班長が、こちらへ来た。

写真と記録を見てから、神代さんの説明を聞く。


「目的は、渡した品と、その後の行き先の確認だ。今回、確認できた物について話す。ほかを全部、ここで終わらせようとするな」


桐生さんがうなずいた。

俺も、うなずく。

全部終わらせたい気持ちは、俺にもあった。

犯人を捕まえたのに、仕事が減らない。

品を売る相手がいて、その先に買う人がいる。

追いかける線が、街の中へまた伸びる。


「遼悟君の役割は、観察と報告。相手へ一人で近づかない」


神代さんの言葉へ、俺は返事をした。

明日の帰宅時間も、確認する。

高校生だからと、何も知らず帰されるわけではない。

高校生へ、何でも任せるわけでもない。

その間にある、自分の立つ場所を確かめた。


机の端で、地図を畳む。

昨日は、人混みへ紛れた相手を探した。

明日は、表に看板を出している相手から話を聞く。

どちらの方が難しいのか、俺にはまだ分からなかった。


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