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球体世界の観測者 ~見えるだけの少年は、陰陽寮で世界の裏側を知る~  作者: 雅貴
第2章第1節

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第16話:見えてるのに探し物です

「どこで切れた」


桐生さんが言った。

俺は人の列を見た。

見直すと、いろんな上着がある。

全部が黒かったわけではない。

それなのに、男がどれと重なったのか、もう思い出せなかった。


「鞄へ触ったところです。あの、茶色の」


指を出しかけて、やめた。

鞄を持った女性は、何も知らずに歩いている。

その人を指さしたら、桐生さんが追いかける相手に見えるかもしれない。


「左の店の前。白い靴の人が持ってる、茶色の鞄です。相手は、その後ろにいました」


桐生さんは、俺が言った場所へ目を向けた。

女の人は、店の扉を開ける。

店の中へ入るまで、鞄は見えていた。

あの男の手が触れたことを、思い出そうとするたび、看板の文字が気になった。


「俺も、そっちを見続けるの、変です」


「無理に顔探すな。周りを見ろ」


桐生さんは、道の反対側へ寄った。

俺も、店先から半歩下がる。

人の流れが、俺たちの間を通る。

見失った直後に動きを止めると、逃がした距離の分だけ焦りが増えた。


通信機へ、神代さんの声が入る。


『ひかり君と、北側から入る。桐生君、位置を変えるなら伝えて。遼悟君は、最後に見たところを動かさずに報告して』


動かさずに。

俺は、自分の頭の中にある男の位置を確かめた。

今頃は駅へ向かったはず。

あの路地へ入ったかもしれない。

全部、まだ見ていない場所だった。


「最後に見たのは、店の入口から二人分ぐらい右です。そのあとは、見えてません」


『分かった』


短い返事が来た。

俺は、人の肩の上を見るのをやめた。

通りの奥。窓。道の端。

風が袋を持ち上げ、誰かの足へ当たる。

自分が何を聞きたいのかを、もう一度絞った。


***


俺は、聞くための準備をしようとして、手を一度開いた。

伝力を外へ出す練習で、秋庭さんに言われた形だった。

そこまでしてから、違う、と気づく。

今、俺が聞いているものは、その練習とは別だった。

周りへ自分の力を広げたから、返ってくる音ではない。

耳に似た感覚へ、先に入ってくる。


丹羽さんなら、別の方法で探せるのかもしれない。

沙羅さんなら、同じ音の中から、俺より細かい違いを拾えるだろうか。

ここにいない人の力を考えても、今の道は変わらない。

俺は、手を握り直した。

通信機へ触れる指を、一本だけ残す。


『声、届いてる?』


神代さんから、短い確認が来た。


「届いてます」


『息が上がっているね。今は、長く話さなくていい』


言われて、喉へ力を入れていたことに気づいた。

見失った理由まで、全部説明しようとしていた。

今聞かれているのは、現在の場所と、見えるものだ。

反省は、走ったあとでもできる。

俺は通りの名前を一つ返し、呼吸を戻した。


靴の音は、たくさんあった。

硬い音も、柔らかい音も、店から出た人が足を揃える音もある。

その中から、さっきの男の音を拾おうとした。

都合よく、ひとつだけ大きく聞こえるわけではない。

走っていたときの音と、歩く音は、同じでもない。


桐生さんが、俺の少し前を歩く。

この人の音は分かる。

近いし、何度も聞いている。

それ以外を、全部相手の音にしてはいけない。


俺は自分の足を止めた。

道の端で、台車が小さく鳴った。

金属の車輪が段差へ当たる音。

その近くへ、薄い擦れ方が混じった。

さっきの上着の縁と、似ている気がする。


「左、台車の近く。何か、薄いのがあります」


「本人か」


「まだ分かりません」


桐生さんは、その場所を正面から見なかった。

先に、そこから出られる道へ回る。

俺は台車へ近づいた。

見える範囲を、一つずつ増やす。


箱を載せた台車の向こうに、黒い上着の裾が見えた。

見た途端、別の店のガラスへ目をやりたくなった。

ガラスには俺が映っている。

そんなものを、今確かめなくていい。


「いました。台車の向こう、壁側」


言ってから、裾を見続けた。

顔へ戻せば、また位置が抜ける気がした。

桐生さんの足が、通りの角で止まる。

男も、それを見た。


台車を引いていた人が、箱へ手を添えた。

男が、その手とぶつからないように肩を引く。

自分を見せないために、人を使っている。

人の背中へ重なれば、俺も桐生さんも手を出せない。


「人、挟んでます」


「分かってる」


桐生さんの腕が下がったままだった。

男は台車の柄へ指を置き、空いた道へ体を向ける。

俺の目が、その指から、箱の送り状へ逸れた。

数字を読んだ。

読む必要なんて、なかった。


「台車に触りました」


俺は、数字を読みかけたまま言った。

桐生さんがそこへ踏み込まず、手前で止まる。

台車を引く人が通りへ出て、男の前が空く。

男が走った。


今度は、見ていた。

見ていたはずなのに、足が動く方向より先に、店の暖簾が気になった。

俺は歯を食いしばった。

意識すれば勝てる、という話ではない。

一つのものへ集めた注意が、そのまま剥がされる。

追うために、別の手掛かりを渡すしかなかった。


***


「細い道へ入りました。右。赤い看板の横」


桐生さんが走り、俺は少し遅れて角へ来た。

先は暗かった。

店の裏口が並び、室外機が低い音を出している。

段ボールが紐で束ねられ、壁へ立てかけてあった。

突き当たりには、次の通りへ出る小さな階段がある。


男が段ボールへ触れた。

何も倒れなかった。

それでも、桐生さんの足がそちらへ寄りかける。


「左、段ボール。触ってます」


俺の声で、桐生さんが逆へ体を寄せた。

自分の進む線を変えるために、壁へ手をつく。

男はその間に階段へ足をかける。

蹴り上げるように、二段ずつ上っていった。


俺は、一段ずつ上った。

足へ伝力を通す。

研修で覚えた、最低限の補助だった。

速くなるために入れすぎれば、着いた足がずれる。

一度ずれたら、報告どころではなくなる。

息と、足と、目を、同時に全部強くできない。


「階段の先です。まだ、姿は見えてます」


通信機へ言った。

自分でも、声が細くなっているのが分かった。

桐生さんの背中が、上で一度振り返る。


「足、残せ」


言われる前に、俺は止まるべきだったかもしれない。

上まで来ると、膝が少し笑った。

男は通りの向こうへ渡るところだった。

横から来た自転車に、俺の視線が寄る。

次に男を見ようとしたとき、上着が、停まっている車の向こうへ隠れた。


見えない。

音は、まだ近い。

でも、車の反対側のどこにいるかまでは分からなかった。


「車の向こう。いま、見えません。近くにいる感じだけです」


『そこで位置を保って。こちらから回る』


神代さんの声がした。

俺は足を止め、車の縁を見た。

壁の向こうは、目で見えない。

今だけ見えればいいのに、と思った。

思っても、車は透けなかった。


***


車の前へ、小さな白いものが滑り出た。

紙を折ったような形だった。

俺がよく見る、神代さんの式神。

低い位置を進み、通りの反対へ消える。

そこに誰がいるかは、俺には分からない。

でも、こちらだけで探しているわけではなくなった。


『車の先、右の通り。桐生君は、そちらへ。遼悟君、まだ階段の上だね』


「はい」


『ひかり君が向かう。追い越そうとしなくていい』


俺は車の窓へ映った自分を見た。

髪が乱れ、口を開けて息をしている。

格好いい追跡とは、ずいぶん違う。

それでも、ここで位置を答えられることは、無意味ではなかった。


桐生さんが車の先へ回る。

俺は、その後ろから見えるところだけを確かめた。

男の肩が、次の通りへ出る。

その先へ、ひかりさんが立っていた。


走ってきたようには見えなかった。

ただ、上着の裾が少し動いている。

男も、ひかりさんを見た。

一度止まり、後ろの桐生さんへ振り返る。


「今度は、増えたか」


男が言った。

最初の丁寧な声は、もうなかった。

ひかりさんは答えず、道の横へ目を向けた。

そこには店の勝手口があった。

扉が開き、袋を持った人が顔を出す。


「すみません。少し、こちらへ」


神代さんが、その人へ声をかけた。

普通の通行人へ話す声だった。

式神の白い紙が、扉の脇で止まる。

周囲の視線が、俺たちを素通りした。

隠形だ。

俺自身の力ではない。


通りを歩いてきた人が、足を緩めず角を曲がる。

全員が急に消えるわけではない。

男が逃げるために使っていた人の流れから、危険な場所だけが少しずつ離された。


***


男は、ひかりさんと桐生さんの位置を見比べた。

俺の方へも、目をやる。

その視線が来たとき、体が先に固くなった。

制服の君、と呼ばれた声を思い出す。

相手が俺へ向かえば、追う側の二人は、止まる。

俺は通りの端へ、もう半歩寄った。


「近づいたら、下がります」


神代さんへ言った。

神代さんは、俺の後ろの位置を見る。

式神が、店の入口から離れた。

誰かをその辺りへ入れないように、配置を変えたらしい。


「そこは、後ろに扉がある。開いたら、横へ」


俺は振り返った。

取っ手があった。

壁だと思っていた場所が、扉だった。

相手の能力がなくても、自分に見えていないものはある。

背中を預ける前に、場所を変えた。


男は、道の出口をもう一度見た。

人のいる方へ出たいのだと思う。

こちらだけの場所になれば、注意を逸らせても、動く方向は少ない。

男が腕を伸ばし、店の看板へ触れかけた。

ひかりさんが一歩入る。

男の手は、看板へ届かなかった。

止められたわけではなく、そのまま伸ばせば腕を取られる位置になった。


触れさせない。

何でも壊して勝つのではなく、相手が使える物を増やさせない。

俺は、その手の位置を報告した。

ひかりさんは俺を見ず、うなずいた。


「そこから動かないで」


ひかりさんが言った。

男は片手を胸へ置いた。

俺の目が、扉の取っ手へ向く。

また、外れた。

顔へ戻したときには、男の体が半歩ずれている。


「右へ、寄りました」


言うのが少し遅かった。

ひかりさんの踏み込みも、一度、手前で切れた。

男の肩を狙った手が、その隣を通る。

無理に押し切れば、壁へ当たったかもしれない。


ひかりさんは、空振りした腕をすぐ戻した。

怒った顔にはなっていない。

ただ、口の端が少し下がる。


「面倒なことする」


男は反対側へ走った。

そこに桐生さんがいる。

男の手が、壁際のごみ箱へ触れる。

桐生さんの足が、ごみ箱へ近づいた。


「箱、右足の前です」


俺は顔ではなく、靴の位置を言った。

桐生さんが片足を引き、箱を避ける。

その分、男の通る隙間が広がる。

男は、そこへ入った。


ひかりさんが後ろから詰める。

俺は、男の上着だけを見ようとした。

見続けることができず、壁の傷へ目が動く。

音を拾い直す。

右足が止まった。

次は、左へ踏む。


「桐生さんの左側へ。近いです」


声を聞いた桐生さんが、腕を開く。

男はその腕を避けようとして、体を引いた。

ひかりさんが、そこへ入った。


それでも、すぐには掴めなかった。

ひかりさんの目が、一瞬だけ別の場所へ動く。

男の肩が、手の届く外へ逃げる。

強い力があれば、無視できるというものではない。


俺は、逃げた肩ではなく、床の上へ降りた靴を見た。

足がそこにある。

体を動かすためには、その足が要る。


「止まりました。桐生さんの正面、一歩右。壁まで、ほとんどありません」


男の指が、もう一度胸へ触れた。

俺の注意が外れる。

それでも、言った位置は消えない。

桐生さんの腕が、その場所へ伸びた。

上着の袖を掴む。


男の顔が歪んだ。

掴まれたものは、実際にそこにある。

注意を逸らしても、握った手の力までなくなるわけではなかった。


男が手首をひねる。

桐生さんは引き寄せすぎず、動く線を止める。

ひかりさんが、もう片方の腕を取った。

壁へぶつける寸前で、肩の向きを変える。

男の膝が、地面へついた。


「手、動かすな」


桐生さんの声がした。

男は一度足を突っ張った。

起き上がれなかった。

ひかりさんが、腕の位置を保っている。

俺の目はまだ、別のところへ動きたがった。

拘束されたからといって、急に能力の影響がなくなるわけではないらしい。


「遼悟。少し下がって」


神代さんが言った。

俺は一歩下がった。

もう一歩下がり、ようやく息を吸った。


***


ひかりさんが、男の腕を押さえたまま、俺を一度見た。

俺は、親指を立てようとして、指がうまく開かないことに気づいた。

握り続けた通信機から、手を離す。

掌に跡が残っていた。


「大丈夫です」


声で返すと、ひかりさんが、今度は神代さんへ目を向けた。

俺の大丈夫だけで、確認を終えるつもりはないらしい。

走り続けていない人なら、何でも普通に見えるわけではなかった。

ひかりさんの息も、少し速い。

上着の袖に、壁を擦った跡がある。

片手間で済ませた霧のときとは、違っていた。


「ひかりさん、腕」


俺が言うと、ひかりさんは袖を見た。


「服だけ。あとで見る」


今は、相手の腕を離さないことが先だ。

俺は余計な心配を、言葉にせず戻した。

できる仕事を、人へ渡す。

今、あの人の手を代わりに取ることは、俺にはできない。

自分の位置を守ることなら、できる。

それだけを、もう一度確かめた。


男の手元へ、神代さんが布を重ねた。

見慣れない留め具を使い、ひかりさんと位置を確かめる。

俺には、拘束の道具がどう働いているかまでは分からなかった。

ただ、勝手に触れてよい物を、周りから離している。


「お名前を確認します」


神代さんの声は、店員へ話すときと変わらなかった。

男は答えない。

桐生さんが掴んだ袖の下で、肩だけが動いた。


「ウベリク・ティーヴェン。認証具を所持していますね」


男の目が、神代さんへ向いた。

今度は、その名前から逃げなかった。


「返すなら、穏便にしてもらえるのか」


「現場の安全を確かめるのが先です」


神代さんは、答えを約束しなかった。

男の上着の内側から、小さな硬い板が出てきた。

触れた瞬間、俺はそれを見落としかけた。

神代さんが布の上へ置き、数を声に出して確認する。


認証具。

名前だけ書いた物が、初めて目の前へ現れた。

それより大きい品は、見当たらなかった。

鞄も、ない。


「杯は、どこですか」


俺が言うと、神代さんがこちらを見た。

先に聞く担当を決めていたわけではなかった。

思ったことが、口から出た。


ウベリクは、俺の制服へ目を落とした。

次に、顔を上げる。

最初に話しかけたときより、ずっと疲れて見えた。

それでも、整った顔なのが腹立たしかった。


「持っていない」


それだけ言った。

俺は、地面へついた膝と、空いた両手を見た。

捕まえた。

みんなで追いかけて、捕まえた。

その実感が来る前に、次の分からないことが置かれた。


神代さんが通信機へ、確保したことを伝えた。

ひかりさんは男の腕を離していない。

桐生さんが、俺の顔を見た。


「座れ。足、震えてる」


俺は通りの端へ腰を落とした。

今になって、膝の下が頼りなかった。

走っている間は、気づかなかった。


神代さんが、俺の隣へ低く座った。

男の方を確かめながら、こちらも見る。


「手は痛まない?」


俺は、壁へついた手を見た。

掌へ小さな擦れがある。

今になって、少しひりついた。


「少し。でも、転んではいません」


神代さんは、小さな袋から拭くための物を出した。

俺へ渡し、まず汚れを落とそうと言う。

ひかりさんたちが相手を押さえている間に、こんなことをしていていいのだろうか。

神代さんは、俺が男の方を見るのに気づいた。


「そちらは、二人が見ている。君まで、ずっと見続けなくていい」


俺は、掌を拭いた。

薄い汚れがつく。

さっきまで、見ることをやめたら全部なくなるような気がしていた。

今は、人の腕へ別の人の腕が重なっている。

式神が通りへ置かれている。

通信機の向こうにも、返事をする人がいる。


手を離していい場所が、できていた。

俺は息を吐いた。

少し長く吐くと、体の奥が震えた。

安心したのか、怖さが遅れてきたのか、分からなかった。


お守りへ、手を伸ばしかけた。

鞄の中にある。

昔なら、今みたいな相手にも、近くへ出せば何とかなると思ったかもしれない。

今日は一度も、それで済むとは思わなかった。

代わりに、通信機を握っていた。

使い方を知っている物が、一つだけではなくなった。


「さっき、音も間違えそうになりました」


神代さんへ言うと、うなずいた。


「そこも、あとで聞かせて」


今すぐ、正しくできたことへ変えなくてよかった。

その返事だけで、少し楽になった。


壁の向こうから、買い物袋の擦れる音が聞こえる。

誰かが、夕飯の話をしていた。

俺たちのいる場所だけが、その声から少し離れている。

隠形の中で、息を整えた。


一人では、見つけ続けることさえできなかった。

それでも、見た場所を言えたことは、何度かあった。

桐生さんの手が空を掴んだあと、袖を掴むまで。

そこに、俺の短い言葉も入っていた。


認証具は、布の上にある。

杯は、まだ、この街のどこかにある。

座ったまま、俺は鞄からノートを出した。

書く文字が、いつもより少し揺れた。


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