第16話:見えてるのに探し物です
「どこで切れた」
桐生さんが言った。
俺は人の列を見た。
見直すと、いろんな上着がある。
全部が黒かったわけではない。
それなのに、男がどれと重なったのか、もう思い出せなかった。
「鞄へ触ったところです。あの、茶色の」
指を出しかけて、やめた。
鞄を持った女性は、何も知らずに歩いている。
その人を指さしたら、桐生さんが追いかける相手に見えるかもしれない。
「左の店の前。白い靴の人が持ってる、茶色の鞄です。相手は、その後ろにいました」
桐生さんは、俺が言った場所へ目を向けた。
女の人は、店の扉を開ける。
店の中へ入るまで、鞄は見えていた。
あの男の手が触れたことを、思い出そうとするたび、看板の文字が気になった。
「俺も、そっちを見続けるの、変です」
「無理に顔探すな。周りを見ろ」
桐生さんは、道の反対側へ寄った。
俺も、店先から半歩下がる。
人の流れが、俺たちの間を通る。
見失った直後に動きを止めると、逃がした距離の分だけ焦りが増えた。
通信機へ、神代さんの声が入る。
『ひかり君と、北側から入る。桐生君、位置を変えるなら伝えて。遼悟君は、最後に見たところを動かさずに報告して』
動かさずに。
俺は、自分の頭の中にある男の位置を確かめた。
今頃は駅へ向かったはず。
あの路地へ入ったかもしれない。
全部、まだ見ていない場所だった。
「最後に見たのは、店の入口から二人分ぐらい右です。そのあとは、見えてません」
『分かった』
短い返事が来た。
俺は、人の肩の上を見るのをやめた。
通りの奥。窓。道の端。
風が袋を持ち上げ、誰かの足へ当たる。
自分が何を聞きたいのかを、もう一度絞った。
***
俺は、聞くための準備をしようとして、手を一度開いた。
伝力を外へ出す練習で、秋庭さんに言われた形だった。
そこまでしてから、違う、と気づく。
今、俺が聞いているものは、その練習とは別だった。
周りへ自分の力を広げたから、返ってくる音ではない。
耳に似た感覚へ、先に入ってくる。
丹羽さんなら、別の方法で探せるのかもしれない。
沙羅さんなら、同じ音の中から、俺より細かい違いを拾えるだろうか。
ここにいない人の力を考えても、今の道は変わらない。
俺は、手を握り直した。
通信機へ触れる指を、一本だけ残す。
『声、届いてる?』
神代さんから、短い確認が来た。
「届いてます」
『息が上がっているね。今は、長く話さなくていい』
言われて、喉へ力を入れていたことに気づいた。
見失った理由まで、全部説明しようとしていた。
今聞かれているのは、現在の場所と、見えるものだ。
反省は、走ったあとでもできる。
俺は通りの名前を一つ返し、呼吸を戻した。
靴の音は、たくさんあった。
硬い音も、柔らかい音も、店から出た人が足を揃える音もある。
その中から、さっきの男の音を拾おうとした。
都合よく、ひとつだけ大きく聞こえるわけではない。
走っていたときの音と、歩く音は、同じでもない。
桐生さんが、俺の少し前を歩く。
この人の音は分かる。
近いし、何度も聞いている。
それ以外を、全部相手の音にしてはいけない。
俺は自分の足を止めた。
道の端で、台車が小さく鳴った。
金属の車輪が段差へ当たる音。
その近くへ、薄い擦れ方が混じった。
さっきの上着の縁と、似ている気がする。
「左、台車の近く。何か、薄いのがあります」
「本人か」
「まだ分かりません」
桐生さんは、その場所を正面から見なかった。
先に、そこから出られる道へ回る。
俺は台車へ近づいた。
見える範囲を、一つずつ増やす。
箱を載せた台車の向こうに、黒い上着の裾が見えた。
見た途端、別の店のガラスへ目をやりたくなった。
ガラスには俺が映っている。
そんなものを、今確かめなくていい。
「いました。台車の向こう、壁側」
言ってから、裾を見続けた。
顔へ戻せば、また位置が抜ける気がした。
桐生さんの足が、通りの角で止まる。
男も、それを見た。
台車を引いていた人が、箱へ手を添えた。
男が、その手とぶつからないように肩を引く。
自分を見せないために、人を使っている。
人の背中へ重なれば、俺も桐生さんも手を出せない。
「人、挟んでます」
「分かってる」
桐生さんの腕が下がったままだった。
男は台車の柄へ指を置き、空いた道へ体を向ける。
俺の目が、その指から、箱の送り状へ逸れた。
数字を読んだ。
読む必要なんて、なかった。
「台車に触りました」
俺は、数字を読みかけたまま言った。
桐生さんがそこへ踏み込まず、手前で止まる。
台車を引く人が通りへ出て、男の前が空く。
男が走った。
今度は、見ていた。
見ていたはずなのに、足が動く方向より先に、店の暖簾が気になった。
俺は歯を食いしばった。
意識すれば勝てる、という話ではない。
一つのものへ集めた注意が、そのまま剥がされる。
追うために、別の手掛かりを渡すしかなかった。
***
「細い道へ入りました。右。赤い看板の横」
桐生さんが走り、俺は少し遅れて角へ来た。
先は暗かった。
店の裏口が並び、室外機が低い音を出している。
段ボールが紐で束ねられ、壁へ立てかけてあった。
突き当たりには、次の通りへ出る小さな階段がある。
男が段ボールへ触れた。
何も倒れなかった。
それでも、桐生さんの足がそちらへ寄りかける。
「左、段ボール。触ってます」
俺の声で、桐生さんが逆へ体を寄せた。
自分の進む線を変えるために、壁へ手をつく。
男はその間に階段へ足をかける。
蹴り上げるように、二段ずつ上っていった。
俺は、一段ずつ上った。
足へ伝力を通す。
研修で覚えた、最低限の補助だった。
速くなるために入れすぎれば、着いた足がずれる。
一度ずれたら、報告どころではなくなる。
息と、足と、目を、同時に全部強くできない。
「階段の先です。まだ、姿は見えてます」
通信機へ言った。
自分でも、声が細くなっているのが分かった。
桐生さんの背中が、上で一度振り返る。
「足、残せ」
言われる前に、俺は止まるべきだったかもしれない。
上まで来ると、膝が少し笑った。
男は通りの向こうへ渡るところだった。
横から来た自転車に、俺の視線が寄る。
次に男を見ようとしたとき、上着が、停まっている車の向こうへ隠れた。
見えない。
音は、まだ近い。
でも、車の反対側のどこにいるかまでは分からなかった。
「車の向こう。いま、見えません。近くにいる感じだけです」
『そこで位置を保って。こちらから回る』
神代さんの声がした。
俺は足を止め、車の縁を見た。
壁の向こうは、目で見えない。
今だけ見えればいいのに、と思った。
思っても、車は透けなかった。
***
車の前へ、小さな白いものが滑り出た。
紙を折ったような形だった。
俺がよく見る、神代さんの式神。
低い位置を進み、通りの反対へ消える。
そこに誰がいるかは、俺には分からない。
でも、こちらだけで探しているわけではなくなった。
『車の先、右の通り。桐生君は、そちらへ。遼悟君、まだ階段の上だね』
「はい」
『ひかり君が向かう。追い越そうとしなくていい』
俺は車の窓へ映った自分を見た。
髪が乱れ、口を開けて息をしている。
格好いい追跡とは、ずいぶん違う。
それでも、ここで位置を答えられることは、無意味ではなかった。
桐生さんが車の先へ回る。
俺は、その後ろから見えるところだけを確かめた。
男の肩が、次の通りへ出る。
その先へ、ひかりさんが立っていた。
走ってきたようには見えなかった。
ただ、上着の裾が少し動いている。
男も、ひかりさんを見た。
一度止まり、後ろの桐生さんへ振り返る。
「今度は、増えたか」
男が言った。
最初の丁寧な声は、もうなかった。
ひかりさんは答えず、道の横へ目を向けた。
そこには店の勝手口があった。
扉が開き、袋を持った人が顔を出す。
「すみません。少し、こちらへ」
神代さんが、その人へ声をかけた。
普通の通行人へ話す声だった。
式神の白い紙が、扉の脇で止まる。
周囲の視線が、俺たちを素通りした。
隠形だ。
俺自身の力ではない。
通りを歩いてきた人が、足を緩めず角を曲がる。
全員が急に消えるわけではない。
男が逃げるために使っていた人の流れから、危険な場所だけが少しずつ離された。
***
男は、ひかりさんと桐生さんの位置を見比べた。
俺の方へも、目をやる。
その視線が来たとき、体が先に固くなった。
制服の君、と呼ばれた声を思い出す。
相手が俺へ向かえば、追う側の二人は、止まる。
俺は通りの端へ、もう半歩寄った。
「近づいたら、下がります」
神代さんへ言った。
神代さんは、俺の後ろの位置を見る。
式神が、店の入口から離れた。
誰かをその辺りへ入れないように、配置を変えたらしい。
「そこは、後ろに扉がある。開いたら、横へ」
俺は振り返った。
取っ手があった。
壁だと思っていた場所が、扉だった。
相手の能力がなくても、自分に見えていないものはある。
背中を預ける前に、場所を変えた。
男は、道の出口をもう一度見た。
人のいる方へ出たいのだと思う。
こちらだけの場所になれば、注意を逸らせても、動く方向は少ない。
男が腕を伸ばし、店の看板へ触れかけた。
ひかりさんが一歩入る。
男の手は、看板へ届かなかった。
止められたわけではなく、そのまま伸ばせば腕を取られる位置になった。
触れさせない。
何でも壊して勝つのではなく、相手が使える物を増やさせない。
俺は、その手の位置を報告した。
ひかりさんは俺を見ず、うなずいた。
「そこから動かないで」
ひかりさんが言った。
男は片手を胸へ置いた。
俺の目が、扉の取っ手へ向く。
また、外れた。
顔へ戻したときには、男の体が半歩ずれている。
「右へ、寄りました」
言うのが少し遅かった。
ひかりさんの踏み込みも、一度、手前で切れた。
男の肩を狙った手が、その隣を通る。
無理に押し切れば、壁へ当たったかもしれない。
ひかりさんは、空振りした腕をすぐ戻した。
怒った顔にはなっていない。
ただ、口の端が少し下がる。
「面倒なことする」
男は反対側へ走った。
そこに桐生さんがいる。
男の手が、壁際のごみ箱へ触れる。
桐生さんの足が、ごみ箱へ近づいた。
「箱、右足の前です」
俺は顔ではなく、靴の位置を言った。
桐生さんが片足を引き、箱を避ける。
その分、男の通る隙間が広がる。
男は、そこへ入った。
ひかりさんが後ろから詰める。
俺は、男の上着だけを見ようとした。
見続けることができず、壁の傷へ目が動く。
音を拾い直す。
右足が止まった。
次は、左へ踏む。
「桐生さんの左側へ。近いです」
声を聞いた桐生さんが、腕を開く。
男はその腕を避けようとして、体を引いた。
ひかりさんが、そこへ入った。
それでも、すぐには掴めなかった。
ひかりさんの目が、一瞬だけ別の場所へ動く。
男の肩が、手の届く外へ逃げる。
強い力があれば、無視できるというものではない。
俺は、逃げた肩ではなく、床の上へ降りた靴を見た。
足がそこにある。
体を動かすためには、その足が要る。
「止まりました。桐生さんの正面、一歩右。壁まで、ほとんどありません」
男の指が、もう一度胸へ触れた。
俺の注意が外れる。
それでも、言った位置は消えない。
桐生さんの腕が、その場所へ伸びた。
上着の袖を掴む。
男の顔が歪んだ。
掴まれたものは、実際にそこにある。
注意を逸らしても、握った手の力までなくなるわけではなかった。
男が手首をひねる。
桐生さんは引き寄せすぎず、動く線を止める。
ひかりさんが、もう片方の腕を取った。
壁へぶつける寸前で、肩の向きを変える。
男の膝が、地面へついた。
「手、動かすな」
桐生さんの声がした。
男は一度足を突っ張った。
起き上がれなかった。
ひかりさんが、腕の位置を保っている。
俺の目はまだ、別のところへ動きたがった。
拘束されたからといって、急に能力の影響がなくなるわけではないらしい。
「遼悟。少し下がって」
神代さんが言った。
俺は一歩下がった。
もう一歩下がり、ようやく息を吸った。
***
ひかりさんが、男の腕を押さえたまま、俺を一度見た。
俺は、親指を立てようとして、指がうまく開かないことに気づいた。
握り続けた通信機から、手を離す。
掌に跡が残っていた。
「大丈夫です」
声で返すと、ひかりさんが、今度は神代さんへ目を向けた。
俺の大丈夫だけで、確認を終えるつもりはないらしい。
走り続けていない人なら、何でも普通に見えるわけではなかった。
ひかりさんの息も、少し速い。
上着の袖に、壁を擦った跡がある。
片手間で済ませた霧のときとは、違っていた。
「ひかりさん、腕」
俺が言うと、ひかりさんは袖を見た。
「服だけ。あとで見る」
今は、相手の腕を離さないことが先だ。
俺は余計な心配を、言葉にせず戻した。
できる仕事を、人へ渡す。
今、あの人の手を代わりに取ることは、俺にはできない。
自分の位置を守ることなら、できる。
それだけを、もう一度確かめた。
男の手元へ、神代さんが布を重ねた。
見慣れない留め具を使い、ひかりさんと位置を確かめる。
俺には、拘束の道具がどう働いているかまでは分からなかった。
ただ、勝手に触れてよい物を、周りから離している。
「お名前を確認します」
神代さんの声は、店員へ話すときと変わらなかった。
男は答えない。
桐生さんが掴んだ袖の下で、肩だけが動いた。
「ウベリク・ティーヴェン。認証具を所持していますね」
男の目が、神代さんへ向いた。
今度は、その名前から逃げなかった。
「返すなら、穏便にしてもらえるのか」
「現場の安全を確かめるのが先です」
神代さんは、答えを約束しなかった。
男の上着の内側から、小さな硬い板が出てきた。
触れた瞬間、俺はそれを見落としかけた。
神代さんが布の上へ置き、数を声に出して確認する。
認証具。
名前だけ書いた物が、初めて目の前へ現れた。
それより大きい品は、見当たらなかった。
鞄も、ない。
「杯は、どこですか」
俺が言うと、神代さんがこちらを見た。
先に聞く担当を決めていたわけではなかった。
思ったことが、口から出た。
ウベリクは、俺の制服へ目を落とした。
次に、顔を上げる。
最初に話しかけたときより、ずっと疲れて見えた。
それでも、整った顔なのが腹立たしかった。
「持っていない」
それだけ言った。
俺は、地面へついた膝と、空いた両手を見た。
捕まえた。
みんなで追いかけて、捕まえた。
その実感が来る前に、次の分からないことが置かれた。
神代さんが通信機へ、確保したことを伝えた。
ひかりさんは男の腕を離していない。
桐生さんが、俺の顔を見た。
「座れ。足、震えてる」
俺は通りの端へ腰を落とした。
今になって、膝の下が頼りなかった。
走っている間は、気づかなかった。
神代さんが、俺の隣へ低く座った。
男の方を確かめながら、こちらも見る。
「手は痛まない?」
俺は、壁へついた手を見た。
掌へ小さな擦れがある。
今になって、少しひりついた。
「少し。でも、転んではいません」
神代さんは、小さな袋から拭くための物を出した。
俺へ渡し、まず汚れを落とそうと言う。
ひかりさんたちが相手を押さえている間に、こんなことをしていていいのだろうか。
神代さんは、俺が男の方を見るのに気づいた。
「そちらは、二人が見ている。君まで、ずっと見続けなくていい」
俺は、掌を拭いた。
薄い汚れがつく。
さっきまで、見ることをやめたら全部なくなるような気がしていた。
今は、人の腕へ別の人の腕が重なっている。
式神が通りへ置かれている。
通信機の向こうにも、返事をする人がいる。
手を離していい場所が、できていた。
俺は息を吐いた。
少し長く吐くと、体の奥が震えた。
安心したのか、怖さが遅れてきたのか、分からなかった。
お守りへ、手を伸ばしかけた。
鞄の中にある。
昔なら、今みたいな相手にも、近くへ出せば何とかなると思ったかもしれない。
今日は一度も、それで済むとは思わなかった。
代わりに、通信機を握っていた。
使い方を知っている物が、一つだけではなくなった。
「さっき、音も間違えそうになりました」
神代さんへ言うと、うなずいた。
「そこも、あとで聞かせて」
今すぐ、正しくできたことへ変えなくてよかった。
その返事だけで、少し楽になった。
壁の向こうから、買い物袋の擦れる音が聞こえる。
誰かが、夕飯の話をしていた。
俺たちのいる場所だけが、その声から少し離れている。
隠形の中で、息を整えた。
一人では、見つけ続けることさえできなかった。
それでも、見た場所を言えたことは、何度かあった。
桐生さんの手が空を掴んだあと、袖を掴むまで。
そこに、俺の短い言葉も入っていた。
認証具は、布の上にある。
杯は、まだ、この街のどこかにある。
座ったまま、俺は鞄からノートを出した。
書く文字が、いつもより少し揺れた。




