第15話:イケメン、職質からログアウトする
九日目の巡回は、昨日の目撃があった道へ、少し寄せた予定だった。
そこだけを見に行くわけではない。
神代さんから、ほかの班員が確認する道も伝えられていた。
同じ時間に同じ道を全員で歩けば、別の場所を見る人が減る。
俺は地図の角へ、開始の時間を書いた。
桐生さんが、店の窓へ映る俺を見る。
「今日は、止まる場所も先に見とけ」
「休憩ですか」
「何かあったら、どこで連絡するか。道の真ん中で固まるな」
何かあると思って、歩く。
何もなければ、それでいい。
その両方を持って歩くのは、練習用の部屋に入るときより難しかった。
横断歩道を渡り、坂へ近づく。
昨日聞いた時間に近かった。
人が立ち止まっている店と、通り過ぎる店を見分ける。
桐生さんの靴の位置を、時々確かめた。
俺が別の人を見ている間も、この人の動きは見失わないようにする。
九日目の夕方、坂道の角で、俺はその人を見つけた。
最初に思ったのは、たしかに俳優みたいだ、ということだった。
黒い上着の襟から、薄い色の髪が出ている。
少し長い髪の隙間に、耳の先が見えた。
道を曲がってきた女子二人が、その人を見てから、互いに顔を寄せた。
昨日聞いた話と、同じことが目の前で起きていた。
桐生さんは、足を止めなかった。
俺の方へ顔を傾け、小さく言う。
「分かるか」
「顔は、分かりました」
「そっちじゃねえ」
分かっている。
ただ、顔がよすぎると、見る場所がそちらへ寄る。
俺は眼鏡の位置を直し、上着の肩と手元を見た。
普通の光とは別の、薄い線がある。
見つめると、服の縁に近いところで、かすかに形を変えた。
大きな力を出しているようには見えない。
でも、何もない人と同じではなかった。
「薄いですけど、あります。肩と、手の辺り」
桐生さんが、通りの反対側を見る。
俺も見た。
坂の途中には小さな店があり、前に置かれた椅子へ二人の客が座っていた。交差点から車が一台曲がり、歩道の脇をゆっくり上ってくる。
人はいる。
昨日よりは少ない。
「下がってろ。まず話す」
桐生さんが言った。
俺は通信機へ触れた。
神代さんに、場所と外見を送る。
相手が犯人だとは、まだ言わなかった。
似た人物を確認した、と伝える。
桐生さんは、男の進む先へ、斜めに入った。
道を完全に塞がない位置で、止まる。
「少し、いいか」
男は桐生さんを見た。
驚くより先に、目がこちらの制服へ動いた。
俺は少しだけ、足を開いた。
「何の用でしょう」
声も、整っていた。
落ち着いていて、店の前の客にも聞こえるぐらいの大きさだった。
桐生さんの声とは、ずいぶん違う。
「この辺で、見かけない顔だったんでな」
「旅行者なら、毎日いるでしょう」
「旅行か」
男は、微笑んだ。
「そういうことにしておきましょう」
桐生さんの目が、耳へ動いた。
男はそれを見て、笑い方を少し変えた。
気づいた。
この人も、桐生さんが何を確かめているか分かったのだと思う。
***
「ウベリク・ティーヴェンって名前に、覚えはあるか」
桐生さんが言った。
男の指が、一度だけ動いた。
上着の裾ではなく、内側へ入る動きだった。
俺はそこを見た。
「知らない名前ですね」
「認証具の確認もしたい」
男の笑顔が、止まった。
消えたわけではない。
顔だけが同じ形のままになった。
「どこの権限で?」
「陰陽寮だ。話を通してもらう」
桐生さんの声が少し低くなった。
俺は、店の前に座っている客へ目をやった。
こちらを見ている。
喧嘩が始まると思われたかもしれない。
男はその視線にも気づいた。
「失礼ですが、あなた方の所作は、こちらの方々に不安を与えているようですよ」
言われた桐生さんが、半歩だけ位置を変える。
男と客の間へ、自分が入る。
「だから、ここで済む話にしてる」
俺は男の手を見続けた。
指先が、上着の胸へ触れた。
そこから何かが広がった、ように見えた。
ほんの薄い変化だった。
誰かが大きな力を出すときとは違う。
男が、俺へ目を向ける。
「君は、学校帰りかな」
返事をする前に、店の方で椅子が鳴った。
俺の目がそちらへ動いた。
客の一人が立ち上がり、カップを持っている。
ただ、それだけだった。
すぐ戻したつもりの視線の中で、男の位置が少し遠くなっていた。
歩いたのだろうか。
一歩分か、二歩分。
見逃すほど大きな動きではなかったはずなのに。
「動くな」
桐生さんが手を伸ばした。
掴む先に、男の肩があった。
あったはずだった。
指が上着の端へ触れる前に、桐生さんの目が、道路へ向く。
車が通った。
そのライトが、俺の視界へ入った。
次に男を見たとき、桐生さんの腕は、誰もいない場所を掴んでいた。
男は、その隣にいた。
物理的に消えてはいない。
黒い上着も、灰色の髪も、はっきり見える。
ただ、そこへ目を戻すまでに、俺は一度、道の看板を読んでいた。
読む必要なんて、なかった。
「何か、使ってます」
俺は通信機ではなく、桐生さんへ言った。
桐生さんの舌打ちが聞こえる。
「分かってる」
男が片足を引く。
俺は、その靴を見た。
道路の傷の上にあった踵が、次の瞬間、傷の向こうへ移る。
足音が一つ。
軽い音だった。
「右へ、二歩」
俺が言うと、桐生さんの肩が動いた。
男は笑顔をやめ、坂の下へ体を向ける。
その顔を追おうとしたとき、俺はなぜか、道路に落ちている葉を見た。
何をしている。
葉なんか、どうでもいい。
顔を上げる。
男が走り出していた。
***
「追うぞ」
桐生さんが坂を下った。
俺も続いた。
最初から全速力にはできない。
制服の裾が膝へ当たり、鞄のひもが肩からずれる。
前の二人は、もう交差点へ近づいていた。
俺は通信機を押す。
「対象、逃走しました。坂を下って、商店街の方へ。注意が、変です。見えてるのに、外れます」
神代さんから、場所を確認する声が来た。
俺は角の店の名前を読んだ。
読む間に、相手を見失った。
今度は、何が原因か分からなかった。
報告へ気を取られたのか、能力に引っ張られたのか。
桐生さんの背中が、一度、右へ向く。
俺はその先を見た。
男は店の前の自転車を避け、狭い道へ入っていた。
前輪が少し回っている。
男の手が、ハンドルへ触れたところだけ見えた。
「自転車、寄せた」
俺が言ったとき、桐生さんの足が止まった。
男の後ろへ伸びかけた腕が、横の自転車へ当たりそうになっていた。
桐生さんはそれを避け、壁へ手をついて向きを変えた。
隙間を抜ける。
男は、また少し遠くなっていた。
俺が同じ場所へ来たとき、自転車は普通に見えた。
白い前かご。赤い鍵。倒れそうな角度。
でも、避けようと思った瞬間、その存在が頭の中から抜けた。
つま先が車輪へ触れ、金属の音が鳴る。
俺は咄嗟に壁へ手を置いた。
倒れなかった。
前かごの中から、空の袋が落ちた。
店の人が顔を出す。
「すみません」
袋を戻す間に、前の二人の姿がなくなった。
俺は通信機へ、足が遅れたと伝える。
自分が遅れたことまで、能力のせいにはできなかった。
神代さんの声が来る。
『桐生君の位置も確認する。見えないところへ、当てで走らないで』
俺は狭い道の入口で、足を止めた。
止まる方が、怖かった。
走れば追いつくかもしれないと思える。
止まると、見失ったことがはっきりする。
角の向こうから、二つの足音が聞こえた。
一つは、桐生さんの重い靴。
もう一つは、細くて速い音だった。
普通の足音と別に、薄い擦れる感じが重なる。
俺は目を閉じかけて、やめた。
音を聞くために、足元まで捨てなくていい。
「角の向こう、左へ動いてます。まだ、近いです」
見えていないことも、付け加えた。
神代さんが受け取った、と返す。
俺は角まで進み、そこから先を確かめた。
桐生さんの肩が、通りの向こうへ消えるところだった。
***
角の先には、小さな駐車場があった。
車は二台だけで、入口へ低い鎖が張られている。
男は、その鎖を跨いだ。
桐生さんが同じ線へ入る。
俺は鎖の前で一度止まった。
さっき自転車へ当たりかけたばかりだった。
男が鎖へ触れたかどうかは、見ていない。
見ていないのに、鎖を見ると、別の場所を確かめたくなる。
全部が能力のせいなのか。
全部、俺が慌てているだけなのか。
分ける時間がなかった。
「低い鎖があります。入口、膝より下です」
桐生さんへ言う。
桐生さんは、その線を避けるために、足の置き方を変えた。
男が駐車場の奥へ向かう。
袋を持った女性が、車の横から出てきた。
男がその人の近くを通る。
女性は、相手の顔を見る。
驚いて、足が止まった。
能力を使っていないときなら、やっぱり目立つ。
そんなことを考える余裕が、一瞬だけあった。
次の瞬間、女性の袋が、俺の注意を持っていった。
男が肩へ触れたかもしれない。
見えたのは、上着の袖が、袋の近くを通ったところだけだった。
「人、出てきました」
俺が言うと、桐生さんは追う線を外へ寄せた。
女性へぶつかる方向へ、踏み込まない。
男はその隙間を抜け、車の間へ入った。
黒い上着の半分が、車の屋根の下へ隠れる。
見えない部分を、頭の中で補おうとした。
さっき、この方向だった。
だから今も、この辺りにいるはず。
桐生さんへ言おうとしたとき、男の靴が、反対側へ出た。
違った。
思い込んだ場所には、いなかった。
「車の右です。靴だけ見えました」
桐生さんが、方向を変える。
俺の言葉を、まだ出していなかったのが救いだった。
当てで言っていたら、また別の場所を掴ませていた。
男が駐車場の奥の扉へ手を伸ばした。
扉は閉まっていた。
押しても動かず、男が一度振り返る。
俺と、目が合った。
さっきの落ち着いた笑顔とは違う。
困っている。
予定の通り、何でもできるわけではない。
その顔へ気を取られて、俺の足が前へ出かけた。
「そこまでだ」
桐生さんが、低く言った。
俺は止まった。
俺が出れば、逃げる男の近くへ、守る相手が増える。
分かっていても、今なら何かできると思った。
男は、扉から離れた。
体を小さくして車の間を抜け、横の開いた道へ入る。
「奥の扉は通ってません。横へ出ました」
報告してから、俺も空いた道へ向かった。
鎖を越えたところで、鞄が腰へ当たった。
ひもを短くし直す。
何も見えなくなる瞬間に、転ぶ原因まで増やしたくなかった。
細い道を抜けると、荷物を運ぶ車が停まっていた。
後ろの扉が開き、積まれた箱が見える。
男はその脇を通り、運転席の方へ走った。
桐生さんは、車の反対側へ回る。
挟むつもりだ。
俺は車の後ろで止まった。
箱を下ろしていた人が、驚いて顔を上げる。
自分の走る道を確かめ、その人から離れる。
二人の動きだけを見ればいいわけではない。
桐生さんが、運転席の前へ出た。
男は急に速度を落とした。
腕を伸ばし、車の扉へ触れる。
俺はその指を見た。
何かを使った。
それなのに、すぐ次の瞬間、扉から目を逸らしたくなった。
桐生さんの踏み込みが、浅くなる。
男を掴むはずの手が、車の縁に近づいた。
「扉、あります」
俺は叫んだ。
当たり前の報告だった。
扉は、最初からそこにある。
桐生さんも見ているはずだ。
でも、桐生さんの手は、俺の声で止まった。
靴が地面を擦り、体の向きが変わる。
男が反対側へ抜けた。
回り込もうとする桐生さんの先へ、箱を抱えた人が出てくる。
桐生さんは、そこで追撃を切った。
「下がって」
箱を持った人へ、短く言う。
その一拍で、男が道路へ出た。
強いのは桐生さんだった。
腕の動きも、走る速さも、男より強く見える。
それなのに、追いつく寸前で別の物へ引っ掛かる。
男は消えない。
殴られても平気な体になっているわけでもない。
届くはずの手が、届く場所を間違える。
桐生さんは、握り直した手を下ろした。
もう一度大きく踏めば、相手へ届くかもしれない。
その前へ、人がいる。
男はその人の横を選んでいた。
速さで追いつけないというより、追いつく場所を、こちらに選ばせない。
「車の先、通る人がいます。相手、その近くです」
俺が言うと、桐生さんが首を少し動かした。
「そっちへ寄せんな」
神代さんへ伝えるための言葉でもあった。
俺は位置を加え、通信機へ入れる。
追う人のためだけに、逃げる先を言えばいいわけではない。
次に誰が入ってくるかも、その人が巻き込まれる場所も、できる範囲で渡す。
男が一度、こちらへ顔を向けた。
俺が何を言ったか、聞こえたかもしれない。
男は、別の道へ体を寄せた。
それを見て、俺も次の位置を言いかける。
立つ場所を言う前に、人がいるかどうかを確かめた。
報告の順番も、さっきまでの霧を相手にしたものとは違っていた。
俺は通信機へ、そのまま伝えた。
何という能力なのか、分からない。
分からない名前を探すより、今起きたことを言った。
『接触した物にも注意して。触れたところを見たなら、位置ごと伝えて』
神代さんの声だった。
俺は、さっきの自転車と車の扉を思い返した。
どちらにも、男の手が触れている。
自分の胸へ触れたあと、男自身を見るのも難しくなった。
触れたもの。
俺はその言葉を、頭の中で繰り返した。
分かったつもりになった瞬間にも、相手は動く。
***
道を渡った先で、男が歩道の端へ寄った。
桐生さんが追いつく。
今度は、手が上着へ近づいたところを見ていた。
届く。
そう思った瞬間、俺は男の袖のボタンへ目を止めた。
光っている。
丸い。
そんなことは、どうでもよかった。
桐生さんの手が、相手の肩ではなく、少し上へ動く。
男は体を沈め、腕の下を抜けた。
速いというより、こちらの狙う場所がずれた分だけ、余裕があった。
「今の、肩、そこにありました」
俺の声が、変な大きさになった。
桐生さんは、手を握り直す。
「だから、当たらねえんだよ」
苛立っている。
相手にも、自分の手にも、たぶん苛立っている。
俺は、次の位置を見ようとした。
顔を見つめれば、そこから別の物へ逸れる。
足だけ見れば、上半身が何をしたか分からない。
一人で全部を追う方法は、見つからなかった。
「俺、見続けるのは無理です。一つずつなら、位置は言えます」
桐生さんが、こちらを一度見た。
怒った顔のまま、うなずいた。
できることを減らして言うのは、怖かった。
でも、できないことまで渡したら、この人の手が、また間違える。
商店街の手前で、桐生さんが一度、俺の方を向いた。
男は、数軒先の角へ入ったばかりだった。
「走れるか」
「はい」
「速さじゃねえ。見て、言えるか」
俺は息を吐いた。
喉の奥が痛い。
まだ、足は動く。
目は、何度も変なものへ向く。
「短い距離なら。見失ったら、言います」
桐生さんがうなずいた。
「それでいい。無理に追いつこうとするな」
普段なら、その返事で安心したと思う。
今は、俺も桐生さんも、同じ相手を見続けられない。
俺が報告を間違えたら、桐生さんの手がまた空を掴む。
男が、角の先で一度振り返った。
その目が俺へ止まる。
笑っていなかった。
さっきまでの、話せば済みそうな顔は消えている。
俺たちが何を見ているか、相手も確かめていた。
「制服の君」
男の声がした。
「その人の後ろにいるだけなら、安全だと思っているのかな」
返事をする前に、桐生さんが動いた。
道の端へ入り、俺と男の間に立つ。
その瞬間、男は角を曲がった。
挑発だった。
足を止めるための言葉だったのかもしれない。
俺は、自分の握った通信機を見た。
守られる位置にいる。
それでも、安全だから黙っていればいいわけではない。
今、見たことを渡す。
「角の先へ。上着の左側に、薄い感じが残ってます」
桐生さんは俺を振り返らず、角を曲がった。
俺も続いた。
店のガラスへ、二人の姿が映る。
俺の眼鏡は、少し傾いていた。
直すのは、立ち止まったあとにした。
通りの先に、人の列があった。
駅へ向かう人。買い物を終えた人。店の前で待っている人。
男はその間へ入り、歩く速さまで落とした。
黒い上着が、別の黒い上着へ重なる。
灰色の髪が、看板の光へ混じる。
見えている。
まだ、見えている。
そう思うたび、別の顔が俺の目の中へ入った。
男が、誰かの鞄へ手を添えた。
鞄を持った人は、それに気づいていない。
俺はその手を追った。
次に顔へ戻そうとしたとき、そこにいたのは、知らない女性だった。
後ろにいたはずの男のことを、俺は一拍、忘れた。
息が詰まる。
本当に、忘れた。
いま追いかけていたものが、何だったのかを。
「見失いました」
俺は言った。
桐生さんが、前へ伸ばしていた手を下ろす。
人の列の中へ、無理に踏み込まなかった。
商店街のスピーカーから、売り出しの案内が流れた。
俺たちの焦りと関係なく、明るい声が通りへ広がる。
さっきまで、誰もが振り返る顔だった。
その顔だけが、人混みのどこにも見つからなくなっていた。




