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球体世界の観測者 ~見えるだけの少年は、陰陽寮で世界の裏側を知る~  作者: 雅貴
第2章第1節

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第13話:依頼主が説明を放棄してきた

翌日の放課後、俺は第11班のドアを開ける前に、鞄の中を確かめた。

教科書。課題のプリント。ノート。通信機。

昨日までと、入っているものは変わっていない。

変わったのは、そのノートへ書くことだった。


ウベリク・ティーヴェン。杯。認証具。


駅へ向かう途中、外国人らしい人を三人見かけた。背の高い人を見るたび、足が少し遅くなった。

それで見つかるなら、誰も困っていない。

自分でも分かっているのに、昨日聞いた名前が街のあちこちへ引っ掛かっていた。


「入っていいわよ」


ノックすると、秋庭さんの声がした。

中では、いつもの机のほかに折り畳みの机が出されていた。紙が広げられ、端をマグカップで押さえてある。

ひかりさんは椅子を後ろ向きに使い、背もたれへ腕を載せていた。

桐生さんの姿はない。


「桐生さん、もう出てるんですか」


「巡回。何も知らないまま探しに行ったわけじゃないから、安心して」


俺の顔に何か出ていたらしい。

ひかりさんが口元を曲げた。


「行きそうだと思った?」


「少し」


「本人に言ってみなよ」


言ったあとのことまで想像できたので、やめておいた。

秋庭さんが空いた椅子を引いてくれる。机の隅には、人数より多いコップが並んでいた。

今日は、誰かが来る。


「第2班の人と話すの。牧瀬くんも、現場で関係するところは聞いておきましょう」


部屋の奥で、神代さんがノート型の端末を机へ置いた。

画面が明るくなり、こちらとは別の部屋が映る。机の向こうに座る人は、こちらを確認して軽く頭を下げた。

胸元の小さな札に第2班と書いてある。

神代さんが端末の角度を変えた。


「黒江班長は、向こうの担当と引き続き話しています。こちらから、昨日の聞き取りを送ってあります」


画面の人は、何枚かの紙をめくった。


「まず、人物と品を分けます」


最初の言葉は、それだった。

俺はノートを開く。

犯人が品を持っているのだから、一緒に探すのだと思っていた。


「ウベリクが現世へ来たことは、先方の記録にもあるそうです。ただ、移動の記録から、現在地までは決まりません。昨日示された区域は、こちら側で確認された最後の地点を基にしたものです」


神代さんが地図を指した。

駅から南へ、商店街と住宅地が続いている。

そのさらに先は、俺が普段歩かない場所だった。


「杯を持ったままなのか、どこかへ預けたのかも、まだ分かりません」


秋庭さんが横へ小さな紙を置く。

一枚には人物。もう一枚には品。

同じ線でつなぐ代わりに、間を空けて置かれた。


「見つけた相手を押さえても、それで全部終わるとは限らないのよ」


そう言われて、ノートに引いた一本の線を消した。

鉛筆の跡が薄く残る。

間違えた線を消すところから、捜索が始まった。


***


画面の人が、昨日の板を写した画像を表示した。

俺には読めない線が、拡大される。

その横に、こちらの言葉へ置き換えた項目が並んだ。


「認証具は、行き来する際の登録を扱う道具です。持っていれば、どこからでも好きに出入りできるというものではありません」


「通行証みたいなものですか」


聞くと、神代さんは少し考えた。


「それに近い役割もあるね。ただ、物を通すための情報も関係する。道具だけを取り上げれば、記録まで全部なくなるというわけではない」


俺は、通行証、と書きかけた手を止めた。

身分証を盗んで、知らない国へ逃げた。

そういう話へ置き換えれば分かりやすいと思ったけれど、分かりやすくするたび何かが落ちる。


「今回は、どこを通したかの照合と、今後の不正使用を止めるための確認を、先方へ求めています。必要な情報が、まだ揃っていません」


画面の人は続けた。

声は平らだったが、同じ項目を昨日から何度も尋ねていることだけは、分かった。


「それ、向こうが止めればいいんじゃないですか」


ひかりさんが俺を見る。

間違ったことを言っただろうか。

神代さんは、端末の画面へ目を戻した。


「止められる部分は、止めてもらう。ただ、こちらに入った人と物は、こちらにも残っている。向こうの手続が済むのを待つだけでは、危険があるかどうか分からないままだ」


認証具を止める。

逃げた相手を探す。

杯を探す。

同じ事件の中に、別々に進めなくてはいけない仕事がある。

俺は紙の空いているところへ、三つに分けて書いた。


「勝手に行き来する抜け道とかは、ないんですか」


「そういう経路を知っている人もいる。ただ、正規の経路と同じように使えるとは限らないね。危険もあるし、運べるものにも違いがある」


それ以上は、今は説明されなかった。

世界の外へ出る話だ。

もっと驚くはずなのに、目の前の紙が増えていくせいで、遠足の計画より面倒そうに聞こえる。

ひかりさんが椅子を前へ戻した。


「逃げるには使えても、何度も商売するなら別の話、ってこと」


商売。

その言葉だけ、妙に現実的だった。


***


打ち合わせの途中で、廊下の足音が止まった。

黒江班長が入ってくる。その後ろには、昨日の使節がいた。

今日も服に折り目がついていない。

俺の制服は、電車で座ったせいで裾が少し曲がっていた。


使節は画面を一度見て、空いた椅子へ座った。

コップを置いた秋庭さんへ、顔を向けることもない。


「これだけ人数を集めて、まだ探し始めていないのか」


黒江班長は机の地図を寄せた。


「通常の巡回と並行して、確認しています。これから、捜索の範囲と対応を決めます」


「範囲は伝えた」


「広い範囲です。人員をどこへ置くか、判断が必要です」


俺は地図へ目を落とした。

ここからここまで、と線を引くだけなら、数秒で終わる。

歩く側には、その数秒で囲まれた道が全部ある。


画面の人が、人物の画像を求めた。

使節は、そんなものは用意していないと言った。髪の色と背丈なら昨日話したはずだ、と。

黒江班長が、画像の代わりになる記録でもよいと伝える。

返事が来るまで、時計の針の音が聞こえた。


「灰に近い髪。私より、少し低い。耳の形は似ている。顔に、特に特徴はない」


俺は使節の顔を見た。

この人の顔を、特徴がないと言われたら困る。

昨日の桐生さんの表情を思い出す。

あのとき、何か言いかけていた。


「服装は」


「逃げたときの服なら、もう替えているだろう」


「それでも、最後に確認された服をお願いします」


黒江班長が言った。

使節は、灰色の上着だと答えた。

俺は、灰色の上着、と書く。

駅で灰色の上着を着た人を、何人見ただろう。


次に、杯の図が出された。

輪郭と、おおよその大きさ。

古い傷の位置が、簡単に記されている。

神代さんは画像を手元へ残してから、運ぶ際の注意を尋ねた。


「壊さなければよい」


「持った人に、何か起こる可能性は」


「そんなことで困る品ではない」


「使われた際の記録を確認できますか」


使節の視線が、黒江班長へ移った。


「保管していた物の記録を、どこまで求めるつもりだ」


「危険性を判断するために必要な部分です。保管先の事情を全部調べたいのではありません」


それなら渡してくれればいい。

そう思った。

渡せない理由があるなら、その理由だけでも言えばいい。

俺のペンは、杯の輪郭の隣で止まっていた。


使節は、確認すると言った。

いつまでに、という話になると、こちらから期限を決めるものではないと返した。

ひかりさんの靴の先が、椅子の脚を軽く押す。

音は立たなかった。

俺はそれを見て、ペンを握り直した。


怒っているのは、俺だけではない。

それでも、誰も声を大きくしなかった。


***


休憩になったとき、俺は廊下の自販機へ向かった。

飲み物を買うほど喉は渇いていなかった。

座っているのに疲れたので、少し歩きたかった。

ボタンの前で迷っていると、神代さんが隣へ来た。


「今日は、聞くことが多いね」


「はい。探す話なのに、ぜんぜん探す話にならなくて」


言ってから、失礼だったかと思った。

神代さんは缶を一本取り、取り出し口の蓋を閉めた。


「探す前に必要な話でもあるんだ。全部揃うのを待てるとは限らないけれど、足りないことは知っておきたい」


「足りないのは、向こうも分かってますよね」


「分かっていて、出したくない場合もあるだろうね」


廊下の窓から、道路が見えた。

郵便の車が、建物の前へ止まる。

配達する人が大きな箱を抱え、普通に中へ入ってきた。

この建物にも、荷物の配達はある。

宛先も、中身も、少なくとも届く先は分かっている。


「前にも、そういうことがあったんですか」


神代さんは、缶を開ける手を止めた。

すぐに答えなかったので、聞かない方がよかったかと思う。


「情報が足りないまま対応して、数十人に被害が出た案件はある。一度だけではない」


俺は窓から目を戻した。


「亡くなったんですか」


「被害は、亡くなることだけを指すわけではないよ。今ここで、人数の内訳まで話すつもりはない。ただ、手順が増えたのには理由がある」


缶の蓋が開く。

小さな音が、廊下へ響いた。


「手続が面倒だから、危ない物かもしれないから、って言ってるんじゃないんですね」


「危ないと決めつけるためでもない。分かっていることを確認して、必要な対応を選ぶためだ」


俺は、昨日の杯の話を思い返した。

歴史的な価値がある。

壊さず戻せ。

そう言われていた物が、誰かの家へ届いているかもしれない。

荷物を開けた人が、ただの古い杯だと思って触るかもしれない。


自分が追いかける場面ばかり考えていた。

追いかける先にも、人がいる。


「じゃあ、情報がなくても探さないといけない」


「そうなる部分はある。ただ、何でも同じやり方で探していいわけじゃない。君に任せることも、今の情報に合わせて決める」


俺はようやく、買う物を決めた。

温かいお茶のボタンを押す。

缶を握ると、指の冷たさが分かった。

部屋でずっと、力を入れていたらしい。


***


その日の残りの時間は、街の地図を前にした説明へ使われた。

桐生さんも戻ってきた。

上着の肩に、外の冷たい空気を連れている。


「何か増えたか」


「杯の寸法と傷の位置。それから、外見を少し」


神代さんの答えに、桐生さんは紙を見る。

髪の色と背丈のところで、眉を寄せた。


「これで見つけろって?」


「これだけで確定しないために、ほかも確認している」


黒江班長が返した。

桐生さんは椅子へ座り、地図の端を指で押さえた。

その指には、小さな擦り傷があった。

今日も、別の現場へ行っていたのだろう。


俺たちが歩くのは、人の多い道を中心にした一部だった。

そこに必ずいるとは限らない。

一度に全部は見られないから、確認した場所と時間を残し、ほかの班員と重ねる。

通常の対応を、全部止めるわけにもいかない。


「俺が見つけたら、どうするんですか」


「まず俺に言え」


桐生さんの返事は早かった。


「似ている人がいただけなら、追い詰めない。伝力を感じても、それだけで今回の相手とは決めない」


神代さんが付け加える。

俺はうなずいた。

外側の人かもしれない。

犯人かもしれない。

その間にも、確かめることがある。


「品を見つけても、触らないこと。知らない人が持っていた場合も、その場で奪おうとしないでね」


秋庭さんが、杯の図を俺のノートへ挟んだ。

紙は普通の白い紙だった。

これを見ながら、街のどこかにある物を探す。

黒い影を見つけて報告する仕事より、簡単そうには思えなかった。


「分からないところは、そのまま伝えるんだぞ」


黒江班長が言った。

研修のときにも聞いた言葉だった。

俺だけに必要な言葉ではなかったらしい。


***


帰る前に、沙羅さんが俺の地図へ、細い線を二本足した。

広い区域の中に、いくつかの小さな道が区切られる。


「こっちは、まだ見てない。こっちは、見たけど通った時間が早い」


「一回見たら、終わりじゃないんですか」


「相手も歩くからね」


言われてみれば、その通りだった。

相手は、箱の中で待っているわけではない。

研修のときは、一度確かめれば答えが出た。見えた物と、実際に置いてある物を、あとから比べられた。

街では、確かめたあとに人が増える。

いなかった場所へ、誰かが来る。


「俺が通ったときにいなかった、しか言えない」


「うん。それは、それで大事」


沙羅さんは俺のノートを指した。


「どの道を、何時に、どっち向きに歩いたか。あとから合わせるなら、そこが要る」


地図へ目を落とす。

俺には、知らない道が多い。

普段通る場所は、学校と駅と家をつなぐ細い線だった。その周りに街があることは知っていても、街全部を歩いたことはない。

そこへ、ほかの班員の線が重なる。

遠くにいる人の感知と、店に来た客の話と、目で確認した記録が、同じ地図へ集まってくる。


「沙羅さんなら、遠くの人も分かるんですか」


「分かることは増やせるけど、今回の人を知らないまま、名前まで聞こえるわけじゃないよ」


沙羅さんは少し笑った。


「そこまでできたら、電話帳いらない」


俺も笑いかけてから、自分のノートを見た。

名前が分かる力。

今までは、そんな都合のいいものを、無意識に期待していたのかもしれない。


「見え方の癖は、人によって違う。誰かが見つけたら、それをほかの人へ渡せる形にする。今回はその方が早いと思う」


「俺が見てるものも、役に立つんですか」


「見たあと、ちゃんと伝えてくれれば」


机の端に置いてあった通信機へ、沙羅さんが目を向けた。

俺はそれを鞄へ戻した。

力の使い方だけではなく、言葉の使い方も、まだ習っている途中だった。


その晩、家では母が鍋の蓋をずらしていた。

湯気の中へ、しょうがの匂いが混じる。

俺が玄関で靴を脱ぐと、姉が台所から顔を出した。


「今日は歩いたの?」


「まだ、話を聞いた方が多い」


「じゃあ明日は歩くの」


「たぶん」


姉は俺の鞄を見て、口を曲げた。


「その前に課題やった方がいいよ。出すときだけ、たぶんじゃ済まないから」


知っている。

知っていることほど、人に言われると少し腹が立つ。

俺は返事を短くして、鞄を部屋へ運んだ。


机へ開いたノートは、いつもの学校のものだった。

外国から逃げてきた人の名前は、どこにもない。

問三を解き、答えを見直す。

分からないところを空欄にしたら、点は入らない。

今日聞いた、分からないまま残すという話とは、少し違う。


廊下で母が俺を呼んだ。

夕食ができたらしい。

ノートを閉じる前に、明日の帰宅時間を伝えるメッセージを送った。

画面には、無理しないでね、という短い返事が来た。

具体的にどこから無理になるのか、まだよく分からない。

ただ、課題まで終わったことにしてはいけないのは、分かった。


食卓へ戻ると、姉が俺の箸を並べていた。

文句を言うくせに、座る場所は空けてある。

父は仕事の電話を終え、椅子へ腰を下ろした。明日は朝が早いからと、母に言っている。

俺がどこかで道を歩いている間にも、家では普段通りの予定が進む。

熱い汁を飲み、口の中を少し火傷した。

そんな失敗なら、見える力があっても防げないらしかった。


***


三日目の夕方、地図を持って外へ出た。

駅前には焼き栗を売る小さな屋台が出ていた。紙袋を抱えた親子が、蒸気の立つ鍋をのぞいている。

桐生さんはその横を通り、一本奥の道へ入った。


「歩きながら全部見ようとするなよ」


「見ないと、見つからないです」


「足元まで見落としたら、先にお前が転ぶ」


言われた直後、歩道の継ぎ目へつま先が触れた。

転ばなかった。

桐生さんがこちらを見なかったのは、見なかったことにしてくれたのだと思いたい。


角の電柱の下へ、薄い干衝霧が寄っていた。

買い物袋を持った人が通るたび、細い先が動く。

俺はその位置を言った。

桐生さんが、捜索の道から少し外れる。

人を通してから、手を伸ばした。

霧は、短くほどけた。


「こういうのも、あるんですね」


「こっちが探し物してる間、待ってはくれねえよ」


俺は、今回の捜索とは別の記録へ位置を残した。

ウベリクだけを見つめて歩けば、いつも見つけるものを見落とす。

仕事が増えると、見なくてはいけない場所まで増えた。

桐生さんは、手を上着で拭いたりしなかった。

普通に歩く姿へ戻り、道の角を見た。

俺も、普通に歩く。

通った人は、こちらを振り返らなかった。


俺は立ち止まって、通りの先を見た。

店の看板。バスを待つ人。自転車を押して歩く人。

誰にも、名前は書いていない。

いつもなら、見えるものがひとつ多いだけで、その場所を伝えられた。

今日は、見えていても分からない。


「いまのところ、変わった感じはないです」


「じゃあ、次」


桐生さんは地図を見ず、角を曲がった。

俺はそのあとへ続いた。

曲がった先にも、別の道があった。

当たり前なのに、今日は少しうんざりした。


駅の放送が、背中の方で流れる。

帰る人を乗せた電車が、一つ出ていった。

俺たちは、まだ名前しか知らない相手を探している。


その名前を書いたノートを、俺は上着のポケットへ入れた。

見つける前から冷えた指を、缶のお茶の残りへ押し当てる。

どうやら今回は、強い力があれば早く終わる仕事でもなさそうだった。


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