第12話:お客様、その態度は持ち込み禁止です
「右。手すりの下、柱の向こうです」
俺が言うと、桐生さんは歩く方向を変えた。
聞き返さない。顔もこちらへ向けない。
ただ、俺が見ていた場所へ近づいていく。
夕方の歩道橋には、学校帰りの生徒と、駅へ向かう人がいた。階段を上がってきた女性が、肩からずり落ちた袋を持ち直す。
その袋の近くへ、薄いものが伸びていた。
「今、女性の右足に寄ってます」
桐生さんの足が止まる。
俺も、少し手前で止まった。
以前なら、その人へ声をかけようとしたかもしれない。
いまは、先に言う。
桐生さんは通り道を空け、女性が階段を上がりきるのを待った。
袋が離れたあと、柱の裏へ手を入れる。
短い動きだった。
俺の見ていた薄いものが裂け、手すりに沿って引き伸ばされる。
階段を降りる人は、誰も足を止めなかった。
「残り」
「柱の後ろ、少し。まとまってないです」
「じゃあ、確認して終わりだ」
桐生さんが一歩戻る。
俺はその足元を見てから、柱の上へ目を向けた。
薄い跡が、空気の中へほどけていく。
人の気配とは違う。
普通の風とも違う。
全部を言葉で説明できるわけではないけれど、いま見ているものがどう変わったかは、少し前より伝えられるようになっていた。
俺は胸元の小さな通信機へ、確認した内容を話した。
返事は神代さんから来た。
終わったら駅の南側へ。ひかりさん達もそちらへ向かっている。
桐生さんは手すりへ手を置き、階段を降り始めた。
「前より短くなったな」
「何がですか」
「報告」
それだけ言って、振り返らない。
俺は一段遅れて続いた。
褒められたのかもしれない。
ただ、前は長かったという文句かもしれない。
二か月一緒に動いても、桐生さんの短い言葉は、まだ全部が分かるわけではなかった。
***
階段の下へ出ると、風が襟の中へ入った。
朝は寒いと思って着た上着が、歩いている間には少し暑かった。日が傾くと、また欲しくなる。
学校の教室でも、窓を開ける人と閉める人が交代していた。
十月の終わりは、何を着れば正解なのか分かりにくい。
「その眼鏡、ずれるなら直しとけ」
桐生さんに言われて、俺は鼻のところを押した。
まだ使い慣れない、訓練用のものだった。
眼鏡を通した方が伝力を扱いやすいと知ってから、秋庭さんに使い方を見てもらっている。
掛ければ何でも見えるようになるわけではない。
かえってレンズの縁が気になることもあった。
「いま、ずれてました?」
「歩きながら触ってただろ」
「気になっただけです」
「仕事の途中で、気になるものを増やすなよ」
言い方はきつい。
ただ、そのあと俺の靴ひもへも目をやる。
最初は、粗探しされていると思っていた。
最近は、桐生さんがそういうところを先に見ているのだと分かってきた。
足が止まったら、見えていても動けない。
海の方から来たらしい風が、駅前の並木を揺らした。
葉の色は、まだ全部が変わっていない。
高い建物の窓に、夕日が細く映っている。バスの扉が開き、降りた人たちが歩道へ広がった。
この街を歩くこと自体は、昔から変わらない。
学校へ行き、買い物をして、家へ帰る。
変わったのは、その途中に見つけるものと、見つけたあとにすることだった。
「今日はもう終わりですか」
「あっちの確認が済んでればな」
桐生さんが駅の向こうを指した。
ひかりさんと神代さんは、別の場所の反応を確認している。
俺たちは先に終えた。
そのことが少し嬉しかった。
最初の頃なら、桐生さんに置いていかれないことだけで頭がいっぱいだった。
いまも急に強くなったわけではない。
でも、どこを見て、何を言えばいいか、少しだけ順番ができた。
「帰ったら、今日の分をまとめます」
「好きにしろ」
「桐生さんの確認も、あとでお願いします」
返事が遅れた。
桐生さんは歩道の信号を見ている。
「……神代にも言っとけ」
戦う話より、そちらの方が面倒らしい。
俺は小さく息を吐いた。
まだ、笑うと怒られるかもしれない。
***
男が立っていたのは、駅から少し離れた広場だった。
案内板の近く。人の流れの邪魔になるような場所ではないのに、目が向いた。
立ち方が、周囲と違った。
淡い色の髪。長いコート。胸元に、小さな金属の飾りがある。
横顔が、妙に整っていた。
広告の中から出てきた人、と言われたら信じそうだった。
けれど、俺が足を緩めたのは、顔のせいだけではない。
空気の感じが違う。
男の身体の近くに、細くまとまった伝力がある。
無意識に流れ出ている俺のものとは、違う動き方をしていた。
桐生さんも、そちらを見た。
すぐに、嫌そうな顔をする。
「……何だよ、今日は」
「知ってる人ですか」
「顔は知らねえ」
知っているのか、知らないのか。
聞き返す前に、男の方からこちらを向いた。
「お前たちは、この区域の調整機構の者か」
俺は止まった。
名前を呼ばれたわけでもないのに、返事をしないといけない感じがした。
桐生さんは、俺より半歩前へ出た。
「何の用だ」
「担当者へ取り次げ。捜索させたい者がいる」
男は迷いなく言った。
頼む、ではなかった。
最初から、俺たちがそうすることに決まっているような言い方だ。
「先に名乗れよ」
「外側から来た使節だ。それで足りるだろう」
外側。
言葉が頭へ入ってきてから、もう一度、男を見る。
髪の間から見える耳の形も、よく見ると少し違った。
街では何人もがそばを通っていく。
こちらへ目を向ける人はいても、誰も驚いていなかった。
男は案内板から離れた。
コートの裾が風に動く。
「このあたりへ逃げ込んだ者を探している。現地の者なら、土地には詳しいはずだ」
「それで、探せって?」
「そう言っている」
桐生さんの顎が、わずかに上がった。
俺はその横顔を見た。
現場で動く前の顔とは違う。
これ以上言うと、何かが変わりそうだった。
「俺たち、お前の部下じゃねえんだけど」
「部下なら、説明の手間も要らないのだがな」
男の口元が動いた。
笑ったのかもしれない。
少なくとも、桐生さんに向けた好意ではなかった。
俺も、苛立った。
事情を話しに来た人が、どうしてこんな言い方をするのか。
探してほしいなら、何を、どこで、どうしたのか教えてくれればいい。
「そんな言い方をしなくても」
口にすると、男の目が俺へ向いた。
「話を聞く者は一人でいい。お前が責任者か?」
「違いますけど」
「では、余計な口を挟むな」
桐生さんの肩が、前へ動いた。
***
俺が最初に感じたのは、桐生さんの腕へ伝力が集まったことだった。
相手の方も変わる。
胸元に細くまとまっていたものが、肩から手へ寄った。
周囲の音は、そのままだった。
バスが出る。信号が鳴る。誰かが電話で笑っている。
その中で、二人の間だけが狭くなった。
「言い直せ」
桐生さんが言った。
低い声だった。
「言葉の意味が分からなかったか」
男の手が、コートの内側へ動く。
薄い金属の端が見えた。
俺は息を止めた。
怒っているだけでは済まない。
「桐生さん」
呼ぶと、桐生さんは俺を見なかった。
相手も、視線を外さない。
俺がどちらへ動けばいいのか、分からなくなった。
前へ出れば、邪魔になる。
引けば、二人がぶつかる。
「そこまでにしてもらえるかな」
神代さんの声がした。
俺のすぐ後ろからだった。
桐生さんの肩の横へ、ひかりさんが入ってくる。
「何やってんの」
「こいつが」
「ここ、人がいる」
ひかりさんは最後まで聞かなかった。
桐生さんの前に立つのではなく、横から腕の近くへ手を置いた。
握り込んではいない。
ただ、桐生さんが動けば、すぐ分かる位置だった。
神代さんは男へ向き直った。
「この区域の窓口へご案内します。こちらでは、落ち着いてお話を聞く場所を用意していますので」
男の目が、神代さんの顔から胸元へ下がった。
神代さんが短く、身元を示すものを見せている。
俺からは文字が読めなかった。
「もっと早く出てくればいい」
男が言う。
神代さんの口元は変わらなかった。
「今、合流したところです」
風が吹いた。
俺は自分がずっと息を止めていたことに気づき、ゆっくり吐いた。
男の手がコートの外へ戻る。
桐生さんの腕の周りも、少し薄くなった。
「行くぞ」
桐生さんが俺へ言った。
ひかりさんは、その肩を一度だけ押した。
「あんたは、先に落ち着いて」
俺は二人を見て、神代さんを見る。
神代さんは、何事もなかったように歩き出していた。
何事もなかったわけではない。
でも、歩き出せるところまで戻したのだ。
建物へ向かう途中、神代さんは男と少し前を歩いた。
ひかりさんがその後ろを見ている。
俺と桐生さんは、最後になった。
「さっきは助かりました」
俺が言うと、桐生さんは眉を寄せた。
「何が」
「俺に、口を挟むなって言われたとき」
礼を言うところだったのか、自分でも分からない。
俺は腹を立てた。
桐生さんは、その前へ出た。
それが少し嬉しかったことまで、否定したくはなかった。
「ああいうのに黙ってると、次も同じこと言ってくるぞ」
「でも、神代さんは止めましたよね」
「場所が悪かったんだろ」
「場所がよければ、いいんですか」
桐生さんは俺を見た。
俺は、さっきより少し背筋を伸ばした。
怒られるかもしれない。
桐生さんは舌打ちする代わりに、前へ視線を戻した。
「……よくはねえな」
小さな返事だった。
そのあと、神代さんと男の背中を見ている。
「ただ、何も言わねえのが癪に障るんだよ」
俺はうなずいた。
それは分かる。
分かるから、止める方の話を考えるのが難しい。
前を歩く神代さんが、角のところで男へ道を示した。
男は、初めてそこを少し避けた。
自転車が横から来ていた。
ここが俺たちの街であることを、あの人はどこまで考えているのだろう。
「さっきの続き、机の前で言ってもいいんじゃないですか」
俺が言うと、桐生さんは横目を向けた。
「お前が言え」
「俺じゃ、余計な口って言われます」
「じゃあ、余計でも言えばいい」
答えが雑だった。
それでも、黙っていろとは言われなかった。
俺は鞄のひもを直して、二人のあとへ続いた。
***
第11班の部屋へ戻ると、いつもより空気が固くなった。
電話は鳴っている。机には書類がある。
変わったのは、俺たちが連れてきた客だった。
黒江班長は神代さんから短く話を聞き、奥の打ち合わせ用の机を示した。
男は礼を言わずに座る。
桐生さんも椅子へ手をかけたが、黒江班長に目で止められた。
「お前は、ひと呼吸置け」
「もう置いた」
「もう一つ」
桐生さんは舌打ちしかけて、やめた。
俺はその隣に立ったまま、鞄を下ろした。
秋庭さんが水を持ってくる。
男の前へ置くと、静かに席を離れた。
「捜索の件と聞きました」
黒江班長が言った。
「こちらの区域へ逃げ込んだ者がいる。ウベリク・ティーヴェン。保管施設で警備をしていた男だ」
男が、薄い板のようなものを机へ置いた。
表面には幾つかの線と、細かい文字らしいものがある。
俺には読めない。
「品を持ち出し、認証具まで盗用した。最後の登録から、この南側の区域へ入ったと分かっている」
「持ち出した品は?」
「杯だ」
黒江班長は待った。
相手も、続きを待たれていると気づいたらしい。
わずかに眉を寄せる。
「歴史的な価値がある。こちらで処理させるものではない。犯人と品を確保し、引き渡せ」
杯。
俺は、自分の前に置かれたコップへ目を落としかけた。
いまの話とは、別のものだろう。
そう思って、顔を上げる。
「認証具の使用は、止められていますか」
黒江班長が聞いた。
「回収すれば止まる」
「回収前の確認が必要です。登録できる範囲と、既に使われた記録を」
「それを追うための手がかりは渡した」
男は、机の板へ指を置いた。
黒江班長はそれを見てから、神代さんへ目を向けた。
「第2班へ確認を」
「はい」
神代さんが席を離れる。
桐生さんが、俺の横で小さく息を吐いた。
「そっちを飛ばして来たってことかよ」
男の目がこちらへ向く。
黒江班長が先に言葉を継いだ。
「通常は、依頼を受けて第2班が調整します。現地対応はこちらでできますが、必要な情報は同じです」
「場所は分かっている。何を調整する」
「危険度と、人員と、対応の方法です」
黒江班長の声は変わらなかった。
俺なら、声に何かが出ていたと思う。
言われていることが、おかしい。
場所が分かっていると言いながら、渡された線は、街のどこかを広く示しているだけに見える。
男はコップへ手を伸ばした。
水を少し飲み、机へ戻す。
「現地を知る者に任せた方が早い。お前たちの仕事だろう」
俺は、さっきと同じように口を開きかけた。
ひかりさんが横から、俺の袖へ指を触れさせる。
見ると、小さく首を振っていた。
黙れ、ではない。
今、黒江班長が話している。
そういうことだと、少し遅れて分かった。
***
「杯には、どのような作用がありますか」
黒江班長が問いを変えた。
男は、面倒そうに机の板を寄せた。
「先ほど言った。歴史的な価値がある」
「価値ではなく、作用です。持った人間に何が起きるか。触れてよいものなのか。運ぶとき、何を避ける必要があるか」
俺は黒江班長の顔を見た。
さっきまで、犯人を見つける話だと思っていた。
盗まれた物を取り戻すなら、逃げた相手の居場所が分かればいい。
でも、追いかけるだけでは終わらない。
見つけた品を、誰かが持つ。
その前にも、誰かが触れているかもしれない。
「壊さずに持ち帰ればいい」
男が答えた。
「壊さないためにも、資料が必要です」
黒江班長は、同じ調子で返す。
男の指が、板の端を一度たたいた。
「保管の記録を何でも見せろという話ではない」
「こちらも、必要な部分を確認したいと言っています」
机の上には、水の入ったコップと、読めない板がある。
どちらも、まだ動いていない。
黒江班長の手元では、ペンだけが少しずつ進んでいた。
分からないことを、分からないまま書いているのだろうか。
俺には、その紙を見たいと思った。
神代さんが戻ってきた。
「受理の確認をお願いしました。照合できる情報を、こちらから送ってほしいとのことです」
黒江班長はうなずき、板の写しを取れるか相手へ尋ねた。
男は少し考えてから、指を引いた。
渡していいことと、渡したくないことがあるらしい。
俺には、その違いがまだ分からない。
「人物の外見もお願いします」
黒江班長が言う。
「目立つ男ではない。警備の服を着せれば、ほかと見分けがつかない程度だ」
桐生さんの口元が、少しだけ曲がった。
俺はそれを見た。
聞き返そうとしたが、黒江班長が先に具体的な質問をする。
髪の色。背丈。使う言葉。持っていた服。
返事は、少しずつしか増えなかった。
外側から来た人の話を聞いている。
それは、もっとすごいことだと思っていた。
見たことのない景色や、知らない仕組みや、そういう話が聞けるのだと。
いま聞いているのは、探せ、という要求と、探すために足りない情報だった。
***
話が区切れたあと、男は別室で待つことになった。
神代さんが案内する。
扉が閉じると、桐生さんがようやく大きく息を吐いた。
「相変わらずだな」
黒江班長が、その顔を見る。
「お前もな。街中で始めるところじゃなかった」
「あんな言い方されて、聞いてられるか」
「聞くのと、認めるのは違う」
黒江班長は短く返し、机の紙へ目を戻した。
桐生さんは何か言いかけて、やめた。
ひかりさんが、椅子の背へ上着をかける。
「また面倒なのが来たわね」
秋庭さんが、空いたコップを片づけながら答えた。
「だからこそ、先に分かることを整理しましょう。分からないところも、そのまま残してね」
その声に、俺は少し驚いた。
誰も、さっきの要求を初めて聞いた顔をしていない。
桐生さんは怒っている。
でも、ひかりさんも秋庭さんも、困った客が来た日のように動き始めていた。
「こういうの、よくあるんですか」
俺が聞くと、ひかりさんは少し考えた。
「毎日じゃない」
「でも、初めてじゃない」
「年に何件か。まともに窓口へ来る人のは難しいけどやりがいがある。でもこうやって直接来る奴のは大体面倒ごとになる」
俺は、相手が座っていた椅子を見る。
自分が腹を立てている間に、仕事が始まっていた。
腹を立てない人たちなのではない。
腹を立てたあと、何をするか知っている人たちなのかもしれない。
神代さんが戻り、桐生さんへ声をかけた。
「今日は、向こうへ話を通すところまでだ。明日から動くにしても、先に情報を揃える」
「あの調子で揃うかね」
「揃わないでしょうね。でも添えないことには話が進みませんので、こちらで確認するしかないでしょうね」
神代さんの返事は、少し疲れて聞こえた。
俺は鞄へ手を伸ばした。
その中には、学校の課題も、今日の記録もある。
何もかも同時に始まるわけではない。
でも、終わったと思った仕事のあとへ、別の仕事が来る。
「遼悟、今日は何時まで大丈夫?」
神代さんに聞かれ、俺はスマホの時計を見た。
家へ伝えていた時間を答える。
「じゃあ、先に今日の現場だけまとめて帰ろう。今回の件は、明日改めて説明するよ」
俺はうなずいた。
机へ座り、歩道橋の位置を書く。
柱の右。手すりの下。人の足へ寄っていた。
分かったことなら、書ける。
隣の机では、秋庭さんが新しいファイルを開いていた。
黒江班長の紙には、南側の広い区域が描かれている。
俺が今日歩いたところより、ずっと広い。
『ウベリク・ティーヴェン』
『杯』
『認証具』
まだ見ていないものばかりだった。
その名前だけが、夕方の第11班に増えた。
窓の外では、車のライトが坂道を上っていく。
この街のどこかに、逃げてきた人がいる。
探すのは俺たちで、探させる人は、ここで水を飲んで待っている。
俺は、さっき出しかけた言葉を飲み込み、ペンを持ち直した。
明日は、もう少し詳しく聞けるだろうか。
そう思ったが、隣で閉じられたファイルの音は、あまり明るく聞こえなかった。




