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私の婚約は、恋の邪魔にならないそうです  作者: 九葉(くずは)


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9/10

第九話 最初の一曲のあとで

 共同市場を常設するための契約には、一つだけ、少し変わった条項が加えられた。


『両家の代表者が婚姻その他の私的な関係を結んだ場合も、市場における両領の権限は統合されない』


 つまり、アーヴィンと私がいつか結婚しても、市場がノース伯爵家だけのものになったり、フェルド伯爵家だけのものになったりはしない。


 重要な変更には、これまでどおり両家の同意が必要となる。


 契約の確認に訪れた王家の役人は、その一文を読み、不思議そうに私たちを見た。


「婚姻すれば、ご夫婦で一つの判断をなさるのでは?」


 尋ねられたのはアーヴィンだった。


 けれど彼は勝手に答えず、私へ視線を向ける。


「エレナ嬢からご説明いただいても?」

「はい」


 私は契約書の該当箇所を示した。


「夫婦になっても、フェルド領とノース領は別の領地です。利益が一致することもあれば、異なることもあります。私たち個人の関係が変わったために、どちらかの領民が意見を失う形にはしたくありません」


「将来、意見が割れた場合は?」

「今までどおり、互いが納得できる条件を探します」


 アーヴィンが続ける。


「見つからなければ、変更しません。片方の同意だけで進めるより、時間がかかる不便を選びます」


「ご結婚前から、意見が割れることを考えていらっしゃるとは」


 役人は少しあきれたように笑った。


「まだ、結婚すると決まったわけでもありません」


 私が答えると、隣でアーヴィンが小さく咳をした。


 契約書には、王家と両伯爵家、そして責任者である私たちの印が押された。


 これで共同市場は、半年間の試行ではなく、正式な市場となる。


 窓の外では開設を祝う鐘が鳴り、集まった商人や領民から歓声が上がった。


 この日を迎えられたのは、私一人の力ではない。


 道を整えた者、出店規則を守った商人、橋を誘導した護衛、毎回記録をつけた書記。


 そして、私に反対し、足りないものを補い、同じだけの責任を負ったアーヴィンがいたからだ。


 だから契約書の最後には、私たち二人の名前が並んでいる。


 その夜、領境の館では、常設を祝う夜会が開かれた。


 フェルド伯爵家とノース伯爵家の共同主催だ。


 半年前の試行開始時より、出席者はずっと増えていた。


 けれど私は、招待状も席次も料理も、一人ですべて確認してはいない。


 双方の家令が招待客をまとめ、料理長が市場で仕入れられる食材から献立を決め、私は判断が必要な三項目だけに答えた。


 任せることと、知らないことは違う。


 責任を持つことと、すべてを一人で背負うことも違う。


 それを学べたのも、この半年の成果だった。


「エレナ」


 客を迎え終えた頃、父が私の隣へ来た。


「顔が少し硬いな」

「緊張しているのです」

「今日の仕事は終わっただろう」

「これから、最初の一曲がございます」


 父は納得したように笑う。


「八年間も社交界へ出ていた娘が、今さら踊りで緊張するのか」


「踊ることではなく、どなたと踊るかが問題なのです」


「それなら、父親にはできることがないな」


 音楽が始まる直前、アーヴィンが歩み寄ってきた。


 濃紺の礼服には、ノース伯爵家の銀の飾り紐がかかっている。


 いつもより整った姿なのに、私を見る目は市場で話すときと変わらなかった。


「半年前のお約束を、果たしていただけますか」


 差し出された手を取る。


「喜んで」


 私たちが広間の中央へ進むと、楽団が最初の曲を奏で始めた。


 アーヴィンと踊るのは、これが初めてだった。


「もっと早く、練習しておくべきでした」


 彼が小声で言う。


「お上手ですよ」

「先ほど、あなたの裾を踏みかけました」

「踏まれておりませんから、失敗には数えません」

「その判定基準なら助かります」


 会話をしながら回るうち、緊張がほどけていく。


 ルーカスとは何度も踊った。


 けれど、それは婚約者として最初の一曲を務めるためだった。曲が終われば、彼は友人やミレーヌのもとへ行き、私は招待客への挨拶へ戻った。


 今、アーヴィンは次の相手を探していない。


 私も、曲の終わりを待ってはいなかった。


「今日のエレナ嬢は、とてもきれいです」


 不意に言われ、足を止めかけた。


「契約書ではなく、今おっしゃるのですね」

「仕事中に言えば、判断を褒めているのか、ドレスを褒めているのか分からなくなるでしょう」


「今日は、どちらですか」

「ドレスもですが、うれしそうに笑っているあなたが、です」


 頬が熱くなる。


 曲が終わり、広間から拍手が起きた。


 アーヴィンは私の手を取ったまま、尋ねる。


「少しだけ、外の空気を吸いませんか」


 館の露台へ出ると、昼間まで商人でにぎわっていた市場が見渡せた。


 店の明かりは消えているが、石橋の両端には新しく設置された街灯が並んでいる。


 広間の扉は開いたままで、中から私たちの姿が見える。けれど音楽と話し声は遠くなり、二人だけで話せる静けさがあった。


「これが、仕事ではないお願いですか」


「はい」


 アーヴィンは礼服の内側から、小さな箱を取り出した。


 予想していたはずなのに、胸が大きく鳴る。


「父に勧められたからでも、市場に都合がよいからでもありません」


 彼は箱を開く前に言った。


「私は、あなたが自分で考えたことを言葉にするところが好きです。間違いを認めて案を直せるところも、納得できなければ私に反対するところも」


 一度、彼の口元に笑みが浮かぶ。


「木の実のタルトを選ぶところも、鳥に見えない鳥を刺繍するところも、好きになりました」


「あれは、見る角度によっては鳥です」

「では、結婚後も時間をかけて検討します」


 笑ったあと、アーヴィンはまっすぐ私を見た。


「あなたの能力が、私の生活を便利にするからではありません。何かをしてくれるあなたではなく、あなたと一緒にいたい」


 その言葉を、私はずっと望んでいた。


 けれど、かつて望んだ人からではない。


 今、自分で選んだ人から受け取っている。


「エレナ・フェルド伯爵令嬢。私と結婚してください」


 箱の中には、淡い青色の石を飾った指輪があった。


「結婚後も、あなたはフェルド伯爵家の後継者です。あなたの仕事も名前も、私のものにはしません。私もノース伯爵家の責任を、あなたへ押しつけないと約束します」


「意見が割れたときは?」


 あえて尋ねる。


「話し合います。どうしても決まらなければ、明日へ持ち越します」


「私が嫌だと言ったときは?」


「理由を聞きます。ですが、理由に納得できなくても、嫌だという答えは尊重します」


 十分だった。


「はい」


 今度は、義務だからでも、家同士の利益になるからでもない。


「私も、あなたを愛しています。アーヴィン様」


 彼の顔に、ゆっくりと喜びが広がった。


 左手を差し出す。


 指輪がはめられる前に、アーヴィンがもう一度尋ねた。


「本当によろしいですか」


「何度も確認なさるのですね」


「大切なことですから」


 私は自分から、指輪へ指を通した。


「私が選びました」


 その答えを聞き、アーヴィンは私の手の甲へ口づけた。


 今度の婚約は、恋とは別の義務ではない。


 私たちが自分で選び、育ててきた恋の続きだった。


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