第九話 最初の一曲のあとで
共同市場を常設するための契約には、一つだけ、少し変わった条項が加えられた。
『両家の代表者が婚姻その他の私的な関係を結んだ場合も、市場における両領の権限は統合されない』
つまり、アーヴィンと私がいつか結婚しても、市場がノース伯爵家だけのものになったり、フェルド伯爵家だけのものになったりはしない。
重要な変更には、これまでどおり両家の同意が必要となる。
契約の確認に訪れた王家の役人は、その一文を読み、不思議そうに私たちを見た。
「婚姻すれば、ご夫婦で一つの判断をなさるのでは?」
尋ねられたのはアーヴィンだった。
けれど彼は勝手に答えず、私へ視線を向ける。
「エレナ嬢からご説明いただいても?」
「はい」
私は契約書の該当箇所を示した。
「夫婦になっても、フェルド領とノース領は別の領地です。利益が一致することもあれば、異なることもあります。私たち個人の関係が変わったために、どちらかの領民が意見を失う形にはしたくありません」
「将来、意見が割れた場合は?」
「今までどおり、互いが納得できる条件を探します」
アーヴィンが続ける。
「見つからなければ、変更しません。片方の同意だけで進めるより、時間がかかる不便を選びます」
「ご結婚前から、意見が割れることを考えていらっしゃるとは」
役人は少しあきれたように笑った。
「まだ、結婚すると決まったわけでもありません」
私が答えると、隣でアーヴィンが小さく咳をした。
契約書には、王家と両伯爵家、そして責任者である私たちの印が押された。
これで共同市場は、半年間の試行ではなく、正式な市場となる。
窓の外では開設を祝う鐘が鳴り、集まった商人や領民から歓声が上がった。
この日を迎えられたのは、私一人の力ではない。
道を整えた者、出店規則を守った商人、橋を誘導した護衛、毎回記録をつけた書記。
そして、私に反対し、足りないものを補い、同じだけの責任を負ったアーヴィンがいたからだ。
だから契約書の最後には、私たち二人の名前が並んでいる。
その夜、領境の館では、常設を祝う夜会が開かれた。
フェルド伯爵家とノース伯爵家の共同主催だ。
半年前の試行開始時より、出席者はずっと増えていた。
けれど私は、招待状も席次も料理も、一人ですべて確認してはいない。
双方の家令が招待客をまとめ、料理長が市場で仕入れられる食材から献立を決め、私は判断が必要な三項目だけに答えた。
任せることと、知らないことは違う。
責任を持つことと、すべてを一人で背負うことも違う。
それを学べたのも、この半年の成果だった。
「エレナ」
客を迎え終えた頃、父が私の隣へ来た。
「顔が少し硬いな」
「緊張しているのです」
「今日の仕事は終わっただろう」
「これから、最初の一曲がございます」
父は納得したように笑う。
「八年間も社交界へ出ていた娘が、今さら踊りで緊張するのか」
「踊ることではなく、どなたと踊るかが問題なのです」
「それなら、父親にはできることがないな」
音楽が始まる直前、アーヴィンが歩み寄ってきた。
濃紺の礼服には、ノース伯爵家の銀の飾り紐がかかっている。
いつもより整った姿なのに、私を見る目は市場で話すときと変わらなかった。
「半年前のお約束を、果たしていただけますか」
差し出された手を取る。
「喜んで」
私たちが広間の中央へ進むと、楽団が最初の曲を奏で始めた。
アーヴィンと踊るのは、これが初めてだった。
「もっと早く、練習しておくべきでした」
彼が小声で言う。
「お上手ですよ」
「先ほど、あなたの裾を踏みかけました」
「踏まれておりませんから、失敗には数えません」
「その判定基準なら助かります」
会話をしながら回るうち、緊張がほどけていく。
ルーカスとは何度も踊った。
けれど、それは婚約者として最初の一曲を務めるためだった。曲が終われば、彼は友人やミレーヌのもとへ行き、私は招待客への挨拶へ戻った。
今、アーヴィンは次の相手を探していない。
私も、曲の終わりを待ってはいなかった。
「今日のエレナ嬢は、とてもきれいです」
不意に言われ、足を止めかけた。
「契約書ではなく、今おっしゃるのですね」
「仕事中に言えば、判断を褒めているのか、ドレスを褒めているのか分からなくなるでしょう」
「今日は、どちらですか」
「ドレスもですが、うれしそうに笑っているあなたが、です」
頬が熱くなる。
曲が終わり、広間から拍手が起きた。
アーヴィンは私の手を取ったまま、尋ねる。
「少しだけ、外の空気を吸いませんか」
館の露台へ出ると、昼間まで商人でにぎわっていた市場が見渡せた。
店の明かりは消えているが、石橋の両端には新しく設置された街灯が並んでいる。
広間の扉は開いたままで、中から私たちの姿が見える。けれど音楽と話し声は遠くなり、二人だけで話せる静けさがあった。
「これが、仕事ではないお願いですか」
「はい」
アーヴィンは礼服の内側から、小さな箱を取り出した。
予想していたはずなのに、胸が大きく鳴る。
「父に勧められたからでも、市場に都合がよいからでもありません」
彼は箱を開く前に言った。
「私は、あなたが自分で考えたことを言葉にするところが好きです。間違いを認めて案を直せるところも、納得できなければ私に反対するところも」
一度、彼の口元に笑みが浮かぶ。
「木の実のタルトを選ぶところも、鳥に見えない鳥を刺繍するところも、好きになりました」
「あれは、見る角度によっては鳥です」
「では、結婚後も時間をかけて検討します」
笑ったあと、アーヴィンはまっすぐ私を見た。
「あなたの能力が、私の生活を便利にするからではありません。何かをしてくれるあなたではなく、あなたと一緒にいたい」
その言葉を、私はずっと望んでいた。
けれど、かつて望んだ人からではない。
今、自分で選んだ人から受け取っている。
「エレナ・フェルド伯爵令嬢。私と結婚してください」
箱の中には、淡い青色の石を飾った指輪があった。
「結婚後も、あなたはフェルド伯爵家の後継者です。あなたの仕事も名前も、私のものにはしません。私もノース伯爵家の責任を、あなたへ押しつけないと約束します」
「意見が割れたときは?」
あえて尋ねる。
「話し合います。どうしても決まらなければ、明日へ持ち越します」
「私が嫌だと言ったときは?」
「理由を聞きます。ですが、理由に納得できなくても、嫌だという答えは尊重します」
十分だった。
「はい」
今度は、義務だからでも、家同士の利益になるからでもない。
「私も、あなたを愛しています。アーヴィン様」
彼の顔に、ゆっくりと喜びが広がった。
左手を差し出す。
指輪がはめられる前に、アーヴィンがもう一度尋ねた。
「本当によろしいですか」
「何度も確認なさるのですね」
「大切なことですから」
私は自分から、指輪へ指を通した。
「私が選びました」
その答えを聞き、アーヴィンは私の手の甲へ口づけた。
今度の婚約は、恋とは別の義務ではない。
私たちが自分で選び、育ててきた恋の続きだった。




