最終話 私の婚約は、恋の続きでした
婚約が決まって最初にしたことは、結婚式の日取りを選ぶことではなかった。
私たちは、婚姻契約を最初から書き直した。
「こちらが、一般的な伯爵家同士の契約書です」
両家の書記が用意した原案には、結婚後、妻は夫の屋敷へ移り、夫の家の一員として社交と家政を担うと記されていた。
私とアーヴィンは、その条文へそろって線を引いた。
「エレナはフェルド伯爵家の後継者です」
アーヴィンが言う。
「ノース伯爵家の家政を負わせれば、自領の仕事を続けられません」
「では、アーヴィン様がフェルド伯爵家へ入られますか」
書記に尋ねられ、今度は私が首を振った。
「アーヴィン様も、ノース伯爵家の後継者です。私の家の仕事を代わりに担っていただくつもりはありません」
話し合った結果、私たちは領境の館を共同の住居とすることにした。
フェルド伯爵邸にも、ノース伯爵邸にも、それぞれの部屋と執務室を残す。必要な日は自領で過ごし、共にいられる日は領境の館へ帰る。
財産と領地の決定権は統合しない。
共同生活の費用は、収入の差ではなく、実際に使った分を両家で分ける。
「ほかに加えたい条件はありますか」
アーヴィンに尋ねられ、私は少し考えた。
「週に一度、夕食の時間には仕事の話をしない、というのはいかがでしょう」
「それは契約書へ書く必要がありますか」
「書いておかなければ、私たちは食事をしながら市場の報告書を開きます」
両家の父たちが、同時にうなずいた。
結局、その条文も正式に加えられた。
どちらかの仕事を、もう一方へ押しつけない。
助けが必要なときは、当然だと思わず、頼む。
断られたことを、愛情がない証拠にはしない。
それは恋物語の誓いというより、ずいぶん現実的な約束に見えた。
けれど私は、永遠に間違えないという美しい言葉より、間違えたときに話し合うという約束のほうを信じられた。
結婚式は、婚約から半年後に決まった。
式を三日後に控えた朝、ヴァレル侯爵家から一通の手紙が届いた。
差出人はルーカスだった。
以前のように、読むかどうか迷うことはなかった。
『ご婚約、そしてご結婚をお祝いします。君が自分で選んだ未来が、末永く続くことを願っています。返事は必要ありません』
それだけだった。
父から聞いたところによれば、ルーカスは今も家督を継いでいない。
侯爵の補佐として領地へ移り、借地人との契約や屋敷の支出を一つずつ学び直しているという。
ミレーヌとは、あの夜会以来、会っていないらしい。
彼がいつか侯爵となるのか、ミレーヌと再び恋人になるのか、それはもう私の物語ではなかった。
謝罪を受け取り、復縁を断った日に、私たちの関係は終わっている。
手紙を箱へしまい、机の上に広げていた結婚式の予定表へ戻った。
返事は書かなかった。
恨んでいるからではない。
本当に、返すべき言葉がもうなかったからだ。
結婚式の日は、よく晴れた。
式はフェルド領とノース領のどちらか一方ではなく、共同市場を見下ろす領境の館で行われた。
半年前には露店ばかりだった市場に、今では二十軒を超える常設の店が並んでいる。
石橋を行き交う荷馬車も増え、両側の道は新しく敷き直されていた。
けれどその日ばかりは、市場も昼までで店じまいとなった。
商人や領民たちは、館まで続く道へ花を飾り、両家の紋章を並べた旗を掲げてくれた。
「緊張しているか?」
控えの間で、父が尋ねる。
「少しだけ」
「逃げたくは?」
「まったく」
答えると、父は安心したように笑った。
「八年前の婚約を決めたとき、私は君に、嫌ではないかと尋ねなかった」
突然の言葉に、父を見る。
「侯爵家との婚約なら間違いないと、私も決めつけていた。今さらだが、すまなかった」
「お父様は、私が戻った日に尋ねてくださいました。私が、婚約を続けたいかと」
あの問いがあったから、私は自分の答えを初めて口にできた。
「そして今は、自分で選びました」
「そうだな」
父から差し出された腕を取る。
扉が開くと、まっすぐ続く道の先に、アーヴィンが立っていた。
彼は私を見ると、いつもの静かな目を柔らかく細めた。
父と一緒に歩き、アーヴィンの前へ進む。
今日、父は私を誰かの家へ渡すのではない。
私が選んだ場所まで、隣を歩いてくれているだけだ。
「エレナ・フェルド伯爵令嬢」
誓約を預かる役人が、私の名を呼んだ。
「あなたは、ご自分の意思により、アーヴィン・ノース伯爵令息を夫として選びますか」
家のためでも、責任のためでもない。
私自身の意思を尋ねられている。
「はい。私の意思で、彼を選びます」
アーヴィンにも、同じ問いが向けられた。
「私の意思で、エレナを選びます」
二人で婚姻契約へ署名する。
並んだ名前を見ていると、初めて共同市場の契約を結んだ日のことを思い出した。
あの日から私たちは、何かを決めるたび、互いの名を同じ場所へ記してきた。
今日からは、その隣に人生まで並ぶ。
「これから、よろしくお願いします」
小声で告げると、アーヴィンが笑った。
「こちらこそ。ですが、今夜は仕事の話をしない日です」
「まだ朝ですよ」
「では、今から一日中禁止にしましょう」
「その変更には、私の同意も必要です」
「同意していただけますか」
「今日だけは」
皆の前で笑い合い、夫婦として最初の口づけを交わした。
祝宴の菓子には、私の好きな木の実のタルトと、アーヴィンの好きな蜂蜜の薄焼き菓子が並んだ。
どちらか一方の好みだけを選ぶ必要はない。
その夜、領境の館にある新しい部屋へ入ると、暖炉の上に見覚えのある刺繍が飾られていた。
「アーヴィン様」
「はい」
「どうして、あの鳥が額に入っているのですか」
「やはり鳥だったのですね」
「半年も検討して、それが結論ですか」
「毎朝見れば、いつか確信できるかと思いまして」
抗議しながらも、笑いが止まらなかった。
ここには、私の机がある。
アーヴィンの机もある。
それぞれの仕事を持ち帰る棚と、二人で茶を飲むための卓がある。
誰かの役目を果たすためだけの部屋ではない。
私が自分で選び、帰ってきたいと思える場所だった。
一年後。
共同市場は二度目の春を迎え、私は父からフェルド領の日々の判断を任されるようになった。
アーヴィンもノース領の仕事を増やし、忙しい日は別々の屋敷で過ごす。
それでも週に一度は領境の館へ帰り、仕事を開かない夕食を守っていた。
「明日の会議ですが、私はあなたの案に反対です」
食後、アーヴィンが言った。
「今夜は仕事の話をしないお約束では?」
「明日、反対すると予告しただけです」
「それを仕事の話と言うのです」
「では、明日まで持ち越します」
素直に引き下がった彼が、私へ手を差し出す。
「代わりに、一曲いかがですか」
音楽はない。
けれど私は、その手を取った。
「喜んで」
婚約をしていても、結婚していても、恋を当然のものにはしない。
自分の望みを言葉にし、相手の答えを聞き、何度でも互いを選び直す。
私の婚約は、恋の邪魔にはならなかった。
私が選んだ婚約は、恋の続きだったから。




