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私の婚約は、恋の邪魔にならないそうです  作者: 九葉(くずは)


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10/10

最終話 私の婚約は、恋の続きでした

 婚約が決まって最初にしたことは、結婚式の日取りを選ぶことではなかった。


 私たちは、婚姻契約を最初から書き直した。


「こちらが、一般的な伯爵家同士の契約書です」


 両家の書記が用意した原案には、結婚後、妻は夫の屋敷へ移り、夫の家の一員として社交と家政を担うと記されていた。


 私とアーヴィンは、その条文へそろって線を引いた。


「エレナはフェルド伯爵家の後継者です」


 アーヴィンが言う。


「ノース伯爵家の家政を負わせれば、自領の仕事を続けられません」


「では、アーヴィン様がフェルド伯爵家へ入られますか」


 書記に尋ねられ、今度は私が首を振った。


「アーヴィン様も、ノース伯爵家の後継者です。私の家の仕事を代わりに担っていただくつもりはありません」


 話し合った結果、私たちは領境の館を共同の住居とすることにした。


 フェルド伯爵邸にも、ノース伯爵邸にも、それぞれの部屋と執務室を残す。必要な日は自領で過ごし、共にいられる日は領境の館へ帰る。


 財産と領地の決定権は統合しない。


 共同生活の費用は、収入の差ではなく、実際に使った分を両家で分ける。


「ほかに加えたい条件はありますか」


 アーヴィンに尋ねられ、私は少し考えた。


「週に一度、夕食の時間には仕事の話をしない、というのはいかがでしょう」


「それは契約書へ書く必要がありますか」


「書いておかなければ、私たちは食事をしながら市場の報告書を開きます」


 両家の父たちが、同時にうなずいた。


 結局、その条文も正式に加えられた。


 どちらかの仕事を、もう一方へ押しつけない。


 助けが必要なときは、当然だと思わず、頼む。


 断られたことを、愛情がない証拠にはしない。


 それは恋物語の誓いというより、ずいぶん現実的な約束に見えた。


 けれど私は、永遠に間違えないという美しい言葉より、間違えたときに話し合うという約束のほうを信じられた。


 結婚式は、婚約から半年後に決まった。


 式を三日後に控えた朝、ヴァレル侯爵家から一通の手紙が届いた。


 差出人はルーカスだった。


 以前のように、読むかどうか迷うことはなかった。


『ご婚約、そしてご結婚をお祝いします。君が自分で選んだ未来が、末永く続くことを願っています。返事は必要ありません』


 それだけだった。


 父から聞いたところによれば、ルーカスは今も家督を継いでいない。


 侯爵の補佐として領地へ移り、借地人との契約や屋敷の支出を一つずつ学び直しているという。


 ミレーヌとは、あの夜会以来、会っていないらしい。


 彼がいつか侯爵となるのか、ミレーヌと再び恋人になるのか、それはもう私の物語ではなかった。


 謝罪を受け取り、復縁を断った日に、私たちの関係は終わっている。


 手紙を箱へしまい、机の上に広げていた結婚式の予定表へ戻った。


 返事は書かなかった。


 恨んでいるからではない。


 本当に、返すべき言葉がもうなかったからだ。


 結婚式の日は、よく晴れた。


 式はフェルド領とノース領のどちらか一方ではなく、共同市場を見下ろす領境の館で行われた。


 半年前には露店ばかりだった市場に、今では二十軒を超える常設の店が並んでいる。


 石橋を行き交う荷馬車も増え、両側の道は新しく敷き直されていた。


 けれどその日ばかりは、市場も昼までで店じまいとなった。


 商人や領民たちは、館まで続く道へ花を飾り、両家の紋章を並べた旗を掲げてくれた。


「緊張しているか?」


 控えの間で、父が尋ねる。


「少しだけ」


「逃げたくは?」


「まったく」


 答えると、父は安心したように笑った。


「八年前の婚約を決めたとき、私は君に、嫌ではないかと尋ねなかった」


 突然の言葉に、父を見る。


「侯爵家との婚約なら間違いないと、私も決めつけていた。今さらだが、すまなかった」


「お父様は、私が戻った日に尋ねてくださいました。私が、婚約を続けたいかと」


 あの問いがあったから、私は自分の答えを初めて口にできた。


「そして今は、自分で選びました」


「そうだな」


 父から差し出された腕を取る。


 扉が開くと、まっすぐ続く道の先に、アーヴィンが立っていた。


 彼は私を見ると、いつもの静かな目を柔らかく細めた。


 父と一緒に歩き、アーヴィンの前へ進む。


 今日、父は私を誰かの家へ渡すのではない。


 私が選んだ場所まで、隣を歩いてくれているだけだ。


「エレナ・フェルド伯爵令嬢」


 誓約を預かる役人が、私の名を呼んだ。


「あなたは、ご自分の意思により、アーヴィン・ノース伯爵令息を夫として選びますか」


 家のためでも、責任のためでもない。


 私自身の意思を尋ねられている。


「はい。私の意思で、彼を選びます」


 アーヴィンにも、同じ問いが向けられた。


「私の意思で、エレナを選びます」


 二人で婚姻契約へ署名する。


 並んだ名前を見ていると、初めて共同市場の契約を結んだ日のことを思い出した。


 あの日から私たちは、何かを決めるたび、互いの名を同じ場所へ記してきた。


 今日からは、その隣に人生まで並ぶ。


「これから、よろしくお願いします」


 小声で告げると、アーヴィンが笑った。


「こちらこそ。ですが、今夜は仕事の話をしない日です」


「まだ朝ですよ」


「では、今から一日中禁止にしましょう」


「その変更には、私の同意も必要です」


「同意していただけますか」


「今日だけは」


 皆の前で笑い合い、夫婦として最初の口づけを交わした。


 祝宴の菓子には、私の好きな木の実のタルトと、アーヴィンの好きな蜂蜜の薄焼き菓子が並んだ。


 どちらか一方の好みだけを選ぶ必要はない。


 その夜、領境の館にある新しい部屋へ入ると、暖炉の上に見覚えのある刺繍が飾られていた。


「アーヴィン様」


「はい」


「どうして、あの鳥が額に入っているのですか」


「やはり鳥だったのですね」


「半年も検討して、それが結論ですか」


「毎朝見れば、いつか確信できるかと思いまして」


 抗議しながらも、笑いが止まらなかった。


 ここには、私の机がある。


 アーヴィンの机もある。


 それぞれの仕事を持ち帰る棚と、二人で茶を飲むための卓がある。


 誰かの役目を果たすためだけの部屋ではない。


 私が自分で選び、帰ってきたいと思える場所だった。


 一年後。


 共同市場は二度目の春を迎え、私は父からフェルド領の日々の判断を任されるようになった。


 アーヴィンもノース領の仕事を増やし、忙しい日は別々の屋敷で過ごす。


 それでも週に一度は領境の館へ帰り、仕事を開かない夕食を守っていた。


「明日の会議ですが、私はあなたの案に反対です」


 食後、アーヴィンが言った。


「今夜は仕事の話をしないお約束では?」


「明日、反対すると予告しただけです」


「それを仕事の話と言うのです」


「では、明日まで持ち越します」


 素直に引き下がった彼が、私へ手を差し出す。


「代わりに、一曲いかがですか」


 音楽はない。


 けれど私は、その手を取った。


「喜んで」


 婚約をしていても、結婚していても、恋を当然のものにはしない。


 自分の望みを言葉にし、相手の答えを聞き、何度でも互いを選び直す。


 私の婚約は、恋の邪魔にはならなかった。


 私が選んだ婚約は、恋の続きだったから。


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