第八話 仕事ではないお茶の時間
アーヴィンからの返事は、翌々日の朝に届いた。
『喜んで、お招きをお受けします』
その一文の下には、次の共同市場が終わったあと、領境の館で待っていると記されている。
仕事の質問も、確認事項も、一つも添えられていなかった。
私が仕事ではないと書いたから、彼も仕事の話を混ぜなかったのだろう。
受け取った手紙を、思わず二度読んだ。
翌週、共同市場は大きな問題もなく終了した。
夕方、商人たちを見送ったあと、私は領境の館にある小さな居間へ向かった。
窓辺の卓上には、二人分の茶器と、三種類の焼き菓子が並んでいる。扉の外には双方の侍女が控えていた。
アーヴィンはすでに待っていたが、いつもの地図も帳面も持っていない。
「本当に、資料が一枚もありませんね」
向かいに座りながら言うと、彼はわずかに眉を上げた。
「仕事ではないと念を押されましたから」
「私も、何も持ってきておりません」
「では今日は、橋の通行量も、市場の使用料も話題にしないことにしましょう」
「何をお話しすればよいのでしょう」
思わず尋ねると、アーヴィンが吹き出した。
「すみません。私も同じことを考えていました」
つられて笑った。
仕事なら、確認すべき項目を先に書き出せる。話が逸れたら元へ戻し、決められなかったものは次回へ回せばいい。
けれど、互いを知るためのお茶に、議題も期限もない。
「まず、どの菓子を選ぶか伺っても?」
アーヴィンが皿を示した。
蜂蜜を塗った薄焼き菓子、木の実のタルト、砂糖をまぶした揚げ菓子。
「好きなものをご存じなかったので、三種類用意してもらいました」
「木の実のタルトが好きです」
答えてから、自分でも少し驚いた。
夜会では、客の好みを優先する。侯爵邸では、療養中の侯爵夫人が口にできるものを選んだ。自宅では、父が甘すぎる菓子を好まない。
自分のために選んでいいと示されるまで、私は手を伸ばさない癖がついていたらしい。
「覚えておきます」
アーヴィンはそれだけ言い、自分は薄焼き菓子を取った。
「アーヴィン様は、そちらがお好きなのですか」
「はい。ですが、食べると必ず指が汚れるので、正式な夜会には向いていません」
真面目な顔で言いながら、さっそく指先へ蜂蜜をつけている。
思っていたより、ずっと甘いものが好きらしい。
「一つ、お尋ねしてもよろしいですか」
茶を一口飲んでから、私は言った。
「どうして私と踊りたいと思ったのですか」
アーヴィンは茶器を置いた。
「最初に興味を持ったのは、あなたから届いた手紙です」
「あまり色気のあるきっかけではありませんね」
「私の反対意見を読んだあと、あなたは感情的に押し返すことも、すべてを譲ることもしなかった。問題のある箇所だけを直して、さらに良い案を送ってきた」
彼は少し考え、続けた。
「この人と直接話したら、どんな答えが返ってくるのだろうと思いました。実際に会ってからは、仕事以外のことも聞いてみたいと思うようになった。それだけです」
大げさな運命ではない。
誰より美しいと言われたわけでも、一目見て恋に落ちたと言われたわけでもない。
私が書いた言葉を読み、私と話し、少しずつ興味を持った。
その順序が、うれしかった。
「私も、アーヴィン様をもっと知りたいと思っています」
「だから、今日のお茶に?」
「はい」
自分から認めると、頬が熱くなった。
アーヴィンは目を逸らさず、けれど答えを急かすように身を乗り出すこともしない。
「それを聞けただけで、今日は来た意味がありました」
しばらく、互いの好きなものについて話した。
アーヴィンは、晴れた日の乗馬より、雨上がりに森を歩くほうが好きだという。子どもの頃から地図を集めていて、現在の地図より、道が増える前の古い地図を眺めるのが好きらしい。
私は朝の庭を歩くことと、誰にも見せない刺繍が好きだと話した。
「刺繍をなさるのですか」
「驚きました?」
「帳面とペン以外を持つ姿を、想像したことがありませんでした」
「では、失敗した刺繍をお見せします。私は鳥を刺したつもりなのですが、父には太った魚だと言われました」
アーヴィンが声を上げて笑った。
彼がこれほど大きく笑うのを、初めて見た。
私たちは、仕事の相手として知っている顔のほうが、互いにずっと少なかったのかもしれない。
茶が二杯目に入った頃、アーヴィンの表情が少し改まった。
「実は、今日お話しすべきことがあります」
「何でしょう」
「あなたが正式な後継者に決まったあと、父から、フェルド伯爵家へ婚約を申し入れてはどうかと言われました」
胸が跳ねた。
けれど次の言葉は、予想していたものとは違った。
「私は、今は申し入れないと答えました」
「私との婚約を、望んでいらっしゃらないのですか」
「逆です」
アーヴィンは、すぐに否定した。
「望んでいるからこそ、共同市場の契約と引き換えになる形で申し込みたくありませんでした」
彼は卓上に手を置く。
「両家の利益になる婚約として話が進めば、あなたが断りにくくなる。婚約を解消したばかりのあなたへ、別の家との責任を急いで背負わせることにもなる。それは、私が望む答えではありません」
「では、どのような答えを?」
「私だから受け入れたいと、あなたに思ってもらえるまで待ちたい」
真っすぐな言葉だった。
「ですから今日は、正式な求婚をするつもりはありません」
アーヴィンは一度息を吸った。
「その前に、仕事のない日に手紙を送り、二人で会い、互いを知る時間をいただけますか」
ルーカスとの婚約は、十五歳の私が互いをほとんど知らないまま始まった。
家同士が決めた相手を愛そうとし、実際に愛した。
今度は、順序が違う。
自分で知りたいと思った人を知り、その先に婚約を置くことができる。
「一つだけ、条件がございます」
「伺います」
「もし私たちが恋人になれなかったとしても、共同市場の契約は変えないでください」
「もちろんです。私からも一つよろしいですか」
「はい」
「嫌なことがあれば、物分かりのよいふりをせず、嫌だと言ってください。私にも、同じように言うことを許してほしい」
あの日、ルーカスは、私なら分かってくれると言った。
それは私の気持ちを尋ねないための言葉だった。
アーヴィンが求めているのは、その反対だ。
「約束します」
私は笑った。
「私も、アーヴィン様に遠慮なく反対いたします」
「市場の話では、すでに十分反対されていますが」
「仕事以外でも、という意味です」
「覚悟しておきます」
帰りの馬車まで歩く頃には、空が薄い橙色に染まっていた。
石段の前で、アーヴィンが私へ手を差し出す。
触れる前に、私の返事を待っている。
私は自分から、その手へ指を重ねた。
それから半年。
仕事の書状とは別に、私たちは何通もの手紙を交わした。
市場で会うたび、仕事が終わったあとに茶を飲んだ。私はノース領の森を案内してもらい、アーヴィンは我が家の朝の庭を歩いた。
意見が違えば話し合い、疲れていれば次の約束を延ばした。
どちらかが我慢し続けなければ成立しない関係ではなかった。
そして、共同市場の試行期間が終わる日。
常設を祝う夜会を翌日に控え、私たちは最後の報告書へ並んで署名した。
「明日の最初の一曲、覚えていらっしゃいますか」
アーヴィンが尋ねる。
「もちろんです。半年前のお約束ですから」
「そのあと、もう一つだけ、仕事ではないお願いをしても?」
どこかで聞いたような問いだった。
私は笑って答える。
「内容によります」




