第七話 もう、あなたを選びません
ルーカスからの手紙へ、返事を書く必要はなかった。
婚約はすでに解消されている。
彼がようやく私の気持ちに気づいたからといって、私にはその理解を確かめる義務も、後悔を慰める責任もない。
それでも私は、一度だけ会うことにした。
手紙には、こう書いた。
『明日の午後二時、フェルド伯爵邸の応接間でお待ちします。お話は三十分までとし、婚約を戻す意思が私にないことは、あらかじめ申し上げておきます』
期待を持たせる余地は残さなかった。
翌日、ルーカスは約束の時刻より十分早く現れた。
以前のように、自分の屋敷と同じ顔で応接間へ入ってくることはない。案内した使用人へ礼を言い、私が入室すると立ち上がった。
「時間を作ってくれて、ありがとう」
頬は少し痩せていた。
けれど、乱れた髪のまま婚約解消を撤回してほしいと押しかけてきたときよりは、ずっと落ち着いている。
卓上には茶器が二組ある。
扉は少し開けたままで、廊下の先には父の書斎があった。
「お手紙にあった、私が望んでいたものについてですが」
向かいに座り、私から話を始めた。
「答える前に、ルーカスが今、何を理解なさったのかを伺ってもよろしいですか」
「ああ」
ルーカスは膝の上で両手を握った。
「僕は、君がしてくれることを婚約者の義務だと思っていた。君が仕事を増やしても、それは侯爵夫人の地位を得たいからだと決めつけていた」
言葉を探しながら、ゆっくり続ける。
「実際には、誰からも頼まれていないことまでしていた。僕が困らないように、使用人や商人が困らないように、先に考えてくれていた。それを僕は、自分が命じなくても当然に用意されるものだと思っていた」
夜会のあと、引き継ぎ書をすべて読んだのだという。
契約の更新が遅れた借地人には自分で会いに行き、商会へは追加費用を支払って謝罪した。父侯爵の命令で、今は家令と一緒に毎日の報告を確認しているらしい。
「今でも、分からないことばかりだ」
ルーカスは自嘲するように笑った。
「君が簡単にこなしていたように見えたのは、簡単な仕事だったからじゃない。君が、簡単に見えるところまで準備していたからだった」
「そのとおりです」
あえて否定はしなかった。
「そして僕は、君が泣かなければ傷ついていないと思っていた。君は強いから、ミレーヌより少ないものを与えても我慢できると」
「はい」
「すまなかった」
初めて聞く、言い訳のない謝罪だった。
「君に恋人を認めさせようとしたことも、君が戻ると決めつけて仕事を止めたことも、すべて僕が間違っていた」
あの日、この言葉を聞けていたら。
まだ婚約を解消する前に、彼が本当に私の傷を理解してくれていたら。
私は泣いて、怒って、それでも一度だけやり直そうとしたかもしれない。
胸が痛んだ。
けれどその痛みは、彼のもとへ戻りたいからではない。
間に合わなかった八年間が、悲しかっただけだ。
「ミレーヌ様は、どうなさっていますか」
尋ねると、ルーカスは伏せていた目を上げた。
「彼女とは、もう会っていない」
「あなたが、お別れになったのですか」
「いや。ミレーヌから、しばらく会いたくないと言われた」
夜会の翌日、彼女は贈られた真珠の首飾りを返したという。
『エレナ様が納得していると聞いたから、あなたを愛しても誰も傷つけないのだと思っていた。けれど本当は、納得させられると思っていただけだったのでしょう』
そう書かれていたらしい。
「僕は、ミレーヌにも都合のよいことしか伝えていなかった。君は責任を理解している。感情的に婚約を捨てたりしない。そう言えば、彼女も安心したから」
ミレーヌに罪がないとは思わない。
婚約者のいる男性を愛し、その関係を私に受け入れさせようとしたのは、彼女自身の選択だ。
それでも一番大きな嘘をついていたのは、ルーカスだった。
私の気持ちを確かめてもいないのに、理解があると保証した。
「エレナ。あの日、君は僕に、何が欲しいのかと尋ねた」
「ええ」
「君は、何を望んでいたんだ?」
今度は、まっすぐ私を見て尋ねた。
「あなたです」
答えると、ルーカスが息を止めた。
「侯爵夫人の地位ではありません。屋敷でも、安定でもない。あなたに、私との人生を望んでほしかったのです」
大きな贈り物が欲しかったわけではない。
疲れているときに、私も疲れていないか尋ねてほしかった。
私が整えた書類を見て、一言、助かったと言ってほしかった。
夜会では義務として隣に立つだけでなく、一曲くらい、私と踊りたいと思ってほしかった。
「私が欲しかったのは、妻として便利な私ではなく、私自身を選ぶあなたでした」
「今なら、選べる」
ルーカスの声が震えた。
「今なら、君がしてくれていたことを当たり前だとは思わない。僕も仕事を覚える。君一人に背負わせない。もう一度だけ、僕に機会をくれないか」
予想していた言葉だった。
私は静かに首を振る。
「あなたが今、欲しいのは私でしょうか」
「そうだ」
「それとも、自分を愛し、支えてくれていた人でしょうか」
ルーカスの口が閉じた。
「同じことだ」とは、言わなかった。
少なくとも今は、その違いが分かるようになったのだろう。
「私はあなたを愛していました」
過去の言葉として告げる。
「だから、あなたが選んだ方との恋を認めながら、妻の役目だけを果たすことはできませんでした。あの日、あなたは私の愛情を知ろうとせず、なくならないものとして扱いました」
「分かっている」
「いいえ。まだ、一つお分かりではありません」
ルーカスの目を見る。
「失ったあとで大切さに気づいても、失う前には戻れないのです」
彼の顔から、わずかな期待が消えた。
「アーヴィン・ノース伯爵令息がいるからか」
社交界では、私たちが共同市場を運営していることが知られ始めている。
尋ねられることも予想していた。
「アーヴィン様は、関係ありません」
はっきり答えた。
「彼と出会っていなくても、私はあなたのもとへ戻りません。あなたがミレーヌ様と別れても、侯爵位を継げなくなっても、私に何を差し出しても同じです」
ルーカスがうつむく。
「私があなたを愛していた頃には、もう戻れません」
長い沈黙のあと、彼は小さくうなずいた。
「そうか」
それ以上、縋ることはなかった。
「謝罪を聞いてくれて、ありがとう」
「謝罪は受け取ります」
私は答えた。
「ですが、それを復縁の約束にはいたしません」
「分かっている」
立ち上がったルーカスは、一礼して応接間を出ていった。
扉が閉まった途端、張りつめていた力が抜けた。
涙が一滴だけ、膝の上へ落ちる。
彼を失ったからではない。
十五歳だった私が夢見た未来へ、ようやく別れを告げられたからだ。
しばらくして涙を拭い、机へ向かった。
新しい便箋を一枚取り出す。
『アーヴィン様。次の市場が終わったあと、もしお時間がございましたら、私とお茶を飲んでいただけませんか』
そこまで書き、少し考えてから一文を加えた。
『仕事の相談ではなく、私個人からのお願いです』
今度は、相手が望んでくれるのを待つだけにはしない。
私も、自分が望む人を選びたい。




