第六話 私の名前で結ぶ契約
ヴァレル侯爵家の夜会が失敗したという噂は、翌日の午後にはフェルド伯爵邸まで届いた。
予定の三倍もの費用を使ったこと。
席次を間違え、何人もの客を怒らせたこと。
ルーカスの家督継承が延期されたらしいこと。
手紙で教えてくれる親切な方もいたが、私はどれにも返事をしなかった。
以前なら、侯爵家の評判を守るために訂正できる噂を探し、失礼があった相手へ詫び状を書いただろう。
今はもう、何が事実なのかを確かめる権限もない。
何より、あの家の失敗を自分の役目へ戻すつもりはなかった。
私が開いたのは、アーヴィンから届いた封筒だけだった。
中には、共同市場の試行契約書が二通入っている。
一番上には、責任者として私の名が記されていた。
それから一か月後。
フェルド領とノース領を結ぶ石橋のたもとで、共同市場の試行日を迎えた。
古い検問所の周囲へ、木造の露店が並んでいる。フェルド領からは小麦や果実、染め布。ノース領からは木工品、塩漬け肉、薬草が運び込まれた。
半年間、月に二度だけ市場を開く。
問題がなければ常設するという契約だ。
開始を告げる鐘が鳴る前から、橋の両側には何台もの荷馬車が列を作っていた。
「予想の倍はいますね」
隣に立つアーヴィンが、うれしそうに目を細めた。
「出店を申し込んだ商人は六十組だったはずですが」
「様子を見るだけのつもりだった者も、荷を積んできたようです」
私たちが商人の列へ近づくと、見覚えのある恰幅のよい男性が帽子を取った。
王都のヴァレル侯爵邸へ、長く食材を納めていた商会の主人だった。
「フェルド伯爵令嬢。このたびはお招きいただき、ありがとうございます」
「来てくださったのですね。王都からでは、遠かったでしょう」
「なに。期日を守る方がお決めになった市場なら、こちらも予定を立てられます。それに、無理な注文を断ったからと取引を打ち切るような方ではありませんからな」
先日の夜会で、急な注文を断った商会の一つなのだと気づいた。
「あの件で、不利益はございませんでしたか」
「ございません。侯爵閣下からも、息子の判断と商会との契約は別だと、正式な書状をいただきました」
少しだけ安心した。
ルーカスの父は、少なくとも失敗の責任を商人へ押しつけなかったらしい。
「本日も、契約にない無理をお願いするつもりはありません。何か問題があれば、遠慮なく管理所へお知らせください」
「そう言っていただけると思ったから、参ったのですよ」
商会の主人は笑い、自分の荷馬車へ戻っていった。
アーヴィンが、その背中と私を交互に見る。
「あなたを信頼して来たのですね」
「以前のお付き合いがあっただけです」
「付き合いが長ければ、信頼されるとは限りません。約束を守った回数が多いから、また約束してもらえるのでしょう」
能力があるとも、有能だとも言われなかった。
私がしてきた一つ一つの選択を、見てくれている言葉だった。
開始の鐘が鳴る。
最初の一時間は、何の問題もなかった。
ところが、予定になかった荷馬車まで市場へ入ろうとしたため、昼前には橋の中央まで列が伸びてしまった。
橋は、対向する二台の馬車がぎりぎりすれ違える広さしかない。
両側から荷馬車を入れ続ければ、身動きが取れなくなる。
「いったん、ノース領側の進入を止めます」
アーヴィンが即座に言った。
「今、市場へ入っているのはフェルド領の馬車が多い。次はそちらを優先すべきです」
「それでは、ノース領の方だけを待たせたと受け取られます」
「ですが、このままでは橋が塞がる」
どちらも間違ってはいない。
私は橋の両端と、管理所の前に置かれた木札を見る。
「進入を交互にしましょう」
「交互に?」
「両側で十台ずつ、番号札を渡します。片側の十台が橋を渡り終えたら、反対側の十台を通す。荷を下ろした馬車は、川沿いの別の道から出せば、橋へ戻らずに済みます」
アーヴィンは地図を広げた。
「川沿いの道は、ノース領側の出口が狭い」
「そちらの護衛を二人、誘導へ回していただけますか。フェルド領からは番号札を配る者を出します」
「分かりました。それで試しましょう」
彼はすぐに護衛へ指示を出した。
私の案だからと、失敗の責任を私一人へ負わせることはない。
自分にできる部分を引き受け、足りない部分があればその場で告げる。
私も、彼が反対したことを自分への否定とは感じなかった。
番号札を使い始めて半刻ほどで、橋の列は目に見えて短くなった。
「うまくいきましたね」
管理所へ戻ると、アーヴィンが水の入った杯を差し出してくれた。
「私一人では、ノース領の護衛へ命じられませんでした」
「私一人なら、片側を止めたまま反発を招いていたでしょう」
互いに杯を掲げ、ささやかに乾杯する。
「片方だけで完成する計画ではなかったということですね」
私が言うと、アーヴィンは笑った。
「だから共同市場なのでしょう」
当たり前の答えだった。
その当たり前が、心地よかった。
夕方、最後の荷馬車を見送ったあと、私たちは試行契約書へ署名した。
アーヴィン・ノース。
その隣へ、エレナ・フェルドと記す。
誰かの妻として添えられた名前ではない。
父の代理として責任を負い、私自身の判断で結んだ契約だった。
「一つ、仕事とは関係のないお願いをしてもよろしいですか」
書類を閉じたアーヴィンが言った。
「内容によります」
「もっともです」
彼は少し笑い、それからいつになく慎重な表情になった。
「半年後、試行期間が終われば、両家で市場の開設を祝う予定です。その夜会で、最初の一曲を私と踊っていただけませんか」
「代表者同士として、でしょうか」
「最初は、そのつもりでした」
アーヴィンはごまかさなかった。
「ですが今は、私があなたと踊りたいと思っています」
胸が、わずかに速く鳴った。
「婚約を解消したばかりのあなたに、急いで答えてほしいわけではありません。半年後でも、嫌なら断ってください」
断る理由を探そうとして、やめた。
彼は自分の望みを伝えたうえで、私の答えを待っている。
役目だから受け入れるのだと、決めつけてはいない。
「半年も考える必要はありません」
私は答えた。
「喜んで、ご一緒します」
アーヴィンが浮かべた笑顔を見て、胸の鼓動がもう一度大きくなった。
屋敷へ帰ると、父が二通の書状を待っていた。
一通には王家の紋章がある。
「おめでとう、エレナ。後継者としての申請が認められた」
震える指で書状を開く。
そこには確かに、私をフェルド伯爵家の正式な継承者として認めると記されていた。
地位を得るために婚約を続けていたのだと、ルーカスは言った。
けれど私が初めて自分のために選んだ地位は、誰かの妻になることで与えられたものではなかった。
「もう一通は?」
見覚えのある筆跡に気づき、尋ねる。
「ルーカス殿からだ。読むかどうかは、君に任せる」
迷った末、封を切った。
書かれていたのは、たった二行だった。
『ようやく、君が僕を愛してくれていたのだと分かった。
会って、今度こそ君が望んでいたものを聞かせてほしい』
あの日、私が欲しいものを尋ねたとき、ルーカスは答えられなかった。
今になって、ようやく私へ尋ねるつもりになったらしい。
あまりにも遅い問いだった。




