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私の婚約は、恋の邪魔にならないそうです  作者: 九葉(くずは)


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第五話 彼女がいなくても、夜会くらい開ける

 エレナがいなくても、夜会くらい開ける。


 ルーカスは本気でそう考えていた。


 料理人も執事も、長年ヴァレル侯爵家に仕えている。招待状はすでに送られ、楽団も会場も用意されていた。


 食材が足りないのなら、金を出して別の商会から買えばいい。


 席次が決まっていないのなら、昨年のものを使えばいい。


 エレナは自分にしかできない仕事のように言っていたが、実際に手を動かすのは使用人たちだ。


 責任者である自分が命じれば、すべて予定どおりに進むはずだった。


「予算が、当初の三倍になります」


 夜会当日の朝、家令からそう報告されるまでは。


「三倍?」

「急な注文を引き受けられる商会が、王都の外に一軒しかございませんでした。運送費と、ほかの注文を延期する補償が必要とのことです」

「払えばいい。中止にするよりましだ」

「しかし、届くのは開宴の二時間前です。料理長は、予定していた献立をすべて用意するのは難しいと」

「ならば品数を減らせ。見栄えを整えれば、客はいちいち数えたりしない」


 家令は何か言いたそうな顔をしたが、頭を下げて退出した。


 ルーカスは机に置かれた三つの箱を見た。


 エレナが返してきた書類だ。


 受け取ってから一週間近くたつが、開いたのは最初の箱だけだった。一枚目に引き継ぎ項目が並び、その下に細かな説明が何十頁も続いているのを見て、読む気をなくしたのだ。


 いずれエレナが戻れば、本人から聞けば済む。


 そう思っていた。


 婚約が解消された今も、その考えを完全には捨てられずにいる。


 八年も自分を支えてきたエレナが、あれほどあっさり離れるはずがない。


 少し時間がたてば、家同士の約束も、自分と過ごした年月も思い出す。共同市場とやらに夢中になっているのも、傷ついた気持ちを紛らわせるためだろう。


 そのうち冷静になる。


 ルーカスは、何度も自分にそう言い聞かせていた。


「兄上。ご準備は順調ですか」


 開け放した扉から、ミレーヌが顔をのぞかせた。


 淡い水色のドレスをまとい、胸元にはルーカスが贈った真珠の首飾りが輝いている。


「ああ。少し予定が変わっただけだ」


 幼い頃からの癖で、二人きりのとき、ミレーヌは今もルーカスを兄と呼ぶ。


 その甘い呼び方を聞くと、張りつめていた気持ちが和らいだ。


「今夜は、僕のそばにいてほしい」

「でも、侯爵家の夜会なのでしょう? わたくしがずっとお隣にいたら、皆様に何を言われるか……」

「もうエレナとの婚約は終わった。君が遠慮する必要はない」

「エレナ様は、本当に納得なさっているのですか」


 ルーカスは答えず、ミレーヌの手を取った。


「今夜、僕たちが堂々としていれば、余計な噂も消える」


 自分でも、逆かもしれないとは思った。


 それでも、ミレーヌを隠せば、父やエレナの判断が正しかったと認めることになる。


 恋と婚約は別だと言った自分が、婚約を失った途端に恋まで隠すわけにはいかなかった。


 夜会は、開始前から予定どおりには進まなかった。


 直前に届いた食材は、半分が長旅で傷んでいた。料理長は献立を組み替えたが、温かな料理が出そろうまで何度も間が空いた。


 昨年の席次を使ったせいで、今春爵位を継いだ伯爵が、いまだ子爵家の嫡男として下座へ案内された。喪中で欠席する侯爵夫人の席も、空いたまま残されている。


 招待へ返事をしなかった十一名の席も、ルーカスの命令で用意されている。


 空席ばかりが、不自然に目立った。


「どうして確認しなかったの?」


 父の姉にあたる老婦人が、扇の陰からルーカスを厳しく見た。


 病床の母に代わって女主人役を頼んだのは、昨夜になってからだ。


「昨年と同じで問題ないと思いました」

「同じ客が、同じ立場のまま一年を過ごすとでも?」


 反論できなかった。


 エレナなら、招待客の家に婚姻や不幸があれば、その都度一覧を書き直していた。


 だが、そんなことは誰でも知っていて、誰かが知らせてくれるものだと思っていた。


 その誰かが、エレナだった。


「エレナ嬢はいらしていないの?」


 客たちは悪気もなく尋ねた。


 婚約解消がまだ広く知られていない者には、エレナが女主人役を務めると思われていたのだ。


「先日、婚約を解消しました」


 ルーカスが答えるたび、相手の視線は、隣に立つミレーヌへ向かった。


 そして、何も聞かなかったような顔で離れていく。


 その沈黙が、露骨な非難よりも重かった。


「ルーカス、少し休みたいわ」


 一時間もしないうちに、ミレーヌが青ざめた顔で囁いた。


「もう少しだけ、僕のそばにいてくれ」

「皆様がわたくしを見ているの」

「気にする必要はない。いずれ理解される」

「何を理解するの? わたくしがあなたを愛していること? それとも、エレナ様との婚約が終わった日に、わたくしが代わりにここへ立ったこと?」


「君は代わりじゃない」


 否定したが、給仕が困った顔で近づいてきた。


「恐れ入ります。次のお料理まで時間がかかるため、楽団の演奏を延ばしてもよろしいでしょうか。女主人役のご判断をいただきたいのですが」


 給仕の目は、ミレーヌへ向いていた。


 彼女は一歩、後ずさった。


「わたくしには分かりません」

「では、楽団へ追加の演奏を命じてくれ」

「料金や曲目は? 次の料理がいつ出るかも知らないのに、わたくしが決めるの?」

「エレナなら、すぐに――」


 言いかけて、ルーカスは口を閉じた。


 ミレーヌの目に、はっきりと傷ついた色が浮かんでいた。


「やはり、わたくしをエレナ様の代わりにしたいのね」

「違う。君は何もしなくていい。ただ、僕のそばにいてくれれば」

「皆様の前に立たせておいて、何もしなくていいはずがないでしょう」


 その言葉は、エレナが言ったこととよく似ていた。


 役目には、責任が伴う。


 けれどルーカスは、それを誰かに渡せば済むものだと思っていた。


「わたくしは、あなたと恋がしたかったの」


 ミレーヌは首飾りへ触れながら、小さく言った。


「侯爵夫人の代わりになりたいなんて、一度も申し上げていないわ」


 彼女は体調不良を理由に、夜会の途中で帰ってしまった。


 ほどなく、食事を終えた客も次々と退出し始めた。


 本来なら真夜中まで続くはずの音楽は、十時を過ぎた頃には止まっていた。


 最後の馬車を見送ったあと、父はルーカスを執務室へ呼んだ。


 机の上には、緊急で仕入れた食材の請求書と、客から届いた三通の苦情が置かれている。


「お前は、この夜会を延期できた」


 父は怒鳴らなかった。


「規模を縮めることもできた。引き継ぎを読み、早い段階で私か家令に相談することもできた。そのすべてをせず、失敗すればエレナ嬢に戻ってもらえると思ったのか?」


「そんなつもりでは……」

「では、何を考えていた?」


 答えが出なかった。


「家督の譲渡は延期する。お前がこの家で何が行われているか、自分の言葉で説明できるようになるまでだ」


 父が出ていったあと、ルーカスは三つの箱の前へ座った。


 初めて、引き継ぎ書を最初から読む。


 三頁には、食材を注文する期限。


 四頁には、規模を縮小する場合の献立。


 六頁には、母が出席できない場合、父の姉へ女主人役を依頼する期限まで記されていた。


 すべて、間に合ううちに渡されていた。


 エレナは侯爵家を困らせるために去ったのではない。


 最後まで、困らないようにしてから去ったのだ。


『あなたを支えたかったから、していたのです』


 昼間に聞いた言葉が、今になって胸へ落ちてくる。


 ルーカスは、彼女の働きを妻の義務だと思っていた。


 だが婚約者の義務なら、なぜ頼まれてもいないことまで調べ、誰にも知られないまま八年も続けたのだろう。


 それが愛情だったのだとしたら。


 自分は、エレナから何を受け取っていたのだろう。


 そして、その代わりに何を返したのだろう。


 引き継ぎ書のどの頁を探しても、その答えだけは書かれていなかった。

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